私はアメリカに住んでいますが、今朝のアメリカのニュースで聞いていたら、アメリカ人だったかイギリス人だったかのジャーナリストが、日本人が決定的な災害なり出来事に会った時の尊厳さは特筆に値する世界でも稀な振る舞いである、と言っておりました。殆ど同じことを、神戸地震でも聞いており、神戸地震直後の日本の災害者達の静かさは異様だったと言っていたことを記憶しております。

一見日本人に取っては当たり前に行動しているようですが、異国人から見ると驚嘆に値する振る舞いのようです。勿論、どの国にもこのような悲惨な目にあっても尊厳を保てる方は居りますが、それはその国民の例外中の例外に属しているようです。その証拠に、異国の人とは反対に、例外を除いて日本人の殆どの人が尊厳を保っていることに他国の人達は驚嘆しているのですから。どうもこの尊厳さに対して、日本人はその異国のその他大勢ではないようです。

そこで質問です。何がこれほどまでに日本人を他の国民とは違った存在にしているのでしょうか。私には、人間なら共通して持っている喜怒哀楽や隣人愛や尊厳がどうのこうのと言うようなレベルの話しではないような気がします。別な言い方をすると、何故異国の方達は私たちの当たり前の振る舞いを感心するのでしょうか。日本人は、世界共通な地球人ではないのでしょうか。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

体 意味」に関するQ&A: 身体障害者になってしまい、こんな体になっても行きている意味なんかあるのでしょうか?あるとするならどん

A 回答 (88件中1~10件)

絶対神の下での平等を前提に据えて、御互いに主張し合うのではなく、


今でも多くの日本人達が地元の集団の「御縁」を尊びやすいからだろう、
という認識は誤解なのでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

自動車会社さん、投稿有り難う御座います。

これは誤解かどうかの問題ではなく、その「御縁」という言葉が日本人の行動様式や平等意識を理解するためのキーワードになっているかどうかと言う問題だと思います。それはそれで興味ある提案なので、それを説得力ある形に如何に実証的に肉付けして示して行けるかが面白い問題だと思います。

実はここの管理人から、もう四週間も質問を出しっぱなしだから何とかせい、との連絡を受け取りました。そこで、ここの欄を御借りして皆様にお礼を申し上げます。自動車会社さんばかりでなく多くの方々からも、日本人の行動様式を考える上で興味ある視点を頂きました。それをこれからゆっくり咀嚼して行こうと思っております。どの回答も、それぞれ考えさせられる側面を見せて下さいましたので、今回は全員満点と言うことにして、何方か一人だけに最高点を付けないことにします。また機会がありましたら雑談に参加して下さい。

お礼日時:2011/04/14 08:28

私は一応、武士道の起源を疑った研究書の類は読んでみたのです。

最初は文献学的に武士道が論証できないという意見を紹介しようかと思いました。「士道」という言葉はあるが、武士道と命名したのは新渡戸であり、彼の議論を追っていくと、新渡戸の想像も多分に含まれているという説です。これが他の質問欄なら、縷々と説明したかもしれません。とはいえ、猪突先生は、おそらく先刻承知なのでしょう。そして私は文献学の限度もよくわかっています。だから私も、もうひと思案しました。

私は武士道の原型が薩摩にあるならそれを認めることにやぶさかではありません。ただし私の疑問点を絞ると、「武士道が幻想」というのは、「侍の矜持が幻想」とは意味が違うのです。「~~道」ということは、精神性を一般論として示すということでしょう。そして新渡戸的な議論を極端にいえば、西洋人には隅々にまでキリスト教が行きわたっているがごとく、日本人には隅々にまで武士道が行きわたっているということになります。
しかし「武士道」とは、もともとは士族の職業倫理や個々の侍の武勇伝であったはずのものです。これが士族全体に、適応されるのはまだ良しとします。しかしさらに、日本人全体に適応されるという点に、疑問を感じるのです。適応範囲に対して、私は「幻想」と言ったのです。

そして被災者の多くが農民や漁民なのに、なぜわざわざ士族の話を借りてこないとならないのか。これに、はっきり言えば、反対なのです。そして「武士道」が出てくるなら、なぜ『百姓道』とか『農民道』という言葉や、思想書が出てこないままなのか。武士に対する憧れという指摘が猪突先生からありましたが、私は同意するところです。そして士族を説明しただけで、日本の説明として十分と考える発想を私は好まないのです。

ところで、猪突先生に言われて、大和魂をウィキペディアでひいてみました。もともとは『源氏物語』が初出、漢才との対比語であるそうです。貴族から武士まで、日本人の心を表現するのに適した言葉だと言えそうです。しかし、これもまた、漢才や洋才に対比させて日本を説明しようとする対外的な言葉ではあります。そこから考えれば、大和魂とは海外に出て行く機会の多い者ら、たとえば外交官とか商社マンのための言葉なのかなと思ったりもします。かくして農民の発想を農民の視点から理解するためには、別のアプローチが必要になりそうです。柳田などの民俗学ということになるでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

サイコロさん回答有り難うございました。

私が大和心を持ち出したのは、漢学の批判としての大和学ばかりでなく、江戸時代以前に書かれた古典的な史書を紐解くと一様に武家の歴史を天皇家の護持の立場から捉えられていたものばかりだったからです。私が読んだ物はさほど多くはありませんが、前に触れた『日本外史』しかり、『読史余論』しかり、『神皇正統記』然り、また『愚管抄』然りでした。ですから、私にとって、大和心は本居宣長や平田篤胤のように、いきなり神道に結び付けて考えるよりも、武家の心として考えた方が考え易すそうだと思ったのです。しかし、東大の和辻哲郎の弟子の所で学位を取り、私は和辻哲郎の孫弟子だと誇らしげに語ってくれたアメリカ人の方から、こちらアメリカで武士の心と神道の関係に就いていろいろ個人的に解説を聞いたことがありますので、勿論、宣長や篤胤の見方と武士が重なる所は一杯有ると思います。

柳田の民俗学も神道について克明に分析して居りすので、武士と農民にも共通項が在ったかもしれません。ただし今私は、柳田の実証的な言質を思い出せずに取り留めも無くこのことを語っていますので、自分でも説得力がないな、なんて考えながらこの文章を書いています。

実は、ここの管理人から、もう四週間もこの質問の出しっ放しだから何とかせよと言う連絡を貰ったところです。私が出した設問は当然話しが発散してしまうことも有り得ましたので、この辺りでこの設問を閉めようと思います。サイコロさんとはまた別の機会に雑談致しましょう。

お礼日時:2011/04/14 08:16

丁寧にお礼いただいたのに、そのままにしてしまいました。

審美の方は閉じ、総じて店じまいモードですが、もう少し、お得意様に挨拶してから去ろうと思います。あ、どうぞよければ、べらんめい調でお願いします。

>殊に日本人では人が笑ひ自分が笑はれる不幸を痛感する人が多かった。三百年前の借銀の証文に、万が一返済滞るに於いては「人中にて御笑ひ下さるべく候」と 書いた物があったといふことは、有名な話しになって居るが、これは或二三の最も律儀なる者だけでは無く、実際この笑はれまいとする努力が、今日の道義律を 打立て、又多くの窮屈なる習慣法を作って居るのである。

笑いの話は、全く同意してしまいました。日本人は、周囲の目をかなり気にします。西洋人は個人が神の目を内面に有して自己制御しているが、日本人は衆人環視によって他律的に自己管理している――とは、柳田の説を踏まえて、母が子供の頃に私にしてくれた説明です。こういうわけで、柳田の説はすっかり私に馴染んでいます。一般的に議論するにあたって、完全に賛成と完全に反対は、頷くしかないわけで、後の議論の展開が難しいです。
それにしても、ワラワがワラハヤミと同語源というのは、非常に勉強になりました。実際、子供は日本において神の形象とみなされることがしばしばあります。コケシなどがそのよい例ですね。

さて侍の話題が人気らしいですね。私個人は、武士道の存在は幻想もあるなと思ってしまいます。(1)そもそも侍のパーセンテージが全人口の数パーセントしかないのだから、その精神が古来より日本に浸透しているとは思えない。(2)また武士道なる概念が現れたのが新渡戸以降であることを考えると、武士道の存在それ自体が対外向けの説明として見出された概念であると思えてしまう(『葉隠』は当時からして流布してはおらず、後で見出されたもの)。(3)最後に、自分の祖先が侍ならともかく、農家なのに武士道精神を称揚する考え方が、私にはピンとこない――というところです。

しかし侍とは少しずれますが、太平洋戦争において、日本の兵隊が死を恐れない超人的な存在だと畏れられていたということはあったと聞きます。実際、日本では軍人の教育に、新渡戸らの武士道精神を応用したのかもしれません。軍国主義を通じて、侍スピリッツが浸透したという可能性はありえます。しかし、より蓋然性の高い考えは、太平洋戦争を通じて海外で出来た日本人に対するステレオタイプの影響です。震災後の神妙さは、日本兵=超人の枠組みの延長で捉えられたと考えるのも一つの可能性かと思います。こう考えると、海外メディアが口では称賛していながらも、レッテル貼りの差別的なニュアンスを漂わせている理由が、私には納得いくのです。

この回答への補足

お礼を書いた後で思い立ったことを書きます。

新渡戸稲造が外国人に取っては有名だったかもしれませんが、これが武士道の走りだとは私には納得がいきませんね。

『保元物語』や『平治物語』などの物語も、『神皇正統記』や『読史余論』の漢文訳とからかわれているあの美しい文体の『日本外史』や、それに『藩翰譜』などの史書も武士道のオンパレードの印象を受けます。また、アーネスト・サトウが生麦事件で体験した薩摩武士の切腹の場面の荘厳さはどうなんでしょうか。

 敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花

これは新渡戸稲造なんかよりもずっと前に詠まれてる武士道の心髄を表した歌だと私は思っておりますが。武士道の裏には大和心があることをお忘れなく。

補足日時:2011/04/13 10:26
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私の得意な連想ゲームでサイコロさんの文章で私の針に引っ掛かった部分を脈絡無く敷衍してみます。

>私個人は、武士道の存在は幻想もあるなと思ってしまいます。

プルタークの英雄伝のアレキサンダー篇のだったと思いますが、彼の祝宴を訪れたある演説の名人と言われる人に、並み居る将軍達の前で演説を乞うたそうです。その演説家はマケドニアの偉大さを滔々と讃え、将軍達に大喝采を浴びた時でした。アレキサンダーはその演説家に、「マケドニア人にマケドニア人がどれだけ偉大だと演説しても、そんなもん誰だって悦ぶんだから、それでお前の演説の巧さが解るわけないだろう。だから、今からマケドニア人はどれだけ取るに足らない国民か演説せよ」と命じました。そしたら、彼は完璧にそれをやってのけ、それを聞いていた将軍達に祝宴から叩き出されたそうです。

アレキサンダーに言わせると、日本人が自分たちの先祖の武士道を讃えても余り意味がないと言うことでしょうね。


>そもそも侍のパーセンテージが全人口の数パーセントしかないのだから、その精神が古来より日本に浸透しているとは思えない。

明治の四民平等で士が無くなったのではなく、残りの農工商の連中は皆、今日から士になったと思ったとのことです。皆さん、士に憧れていたんですね。



>太平洋戦争において、日本の兵隊が死を恐れない超人的な存在だと畏れられていた

私の聞き齧ったところによるの、西洋の軍隊では兵隊の約三分の一が戦死するとその軍隊は降伏したそうです。ところが日本では九割死ななくては降伏しなかったとか。と言うことは、日本の兵隊の数は、西洋のそれと比べて見掛けと比べて実質は三倍居たことになりますね。それじゃあ日本の軍隊が恐がられる筈ですね。


世界の連中を見ていると、世界の注目を浴びるいざと言うときに国民が一丸となって纏まる国と、その注目を好機として殊更自己を主張して、国民がバラバラに争い始める国が在るようです。纏まる国の例としては、あれだけ罵り合っていた与野党がまるで嘘のように纏まった東京オリンピックの時の日本とか、最近では同時多発テロの時のアメリカなんかが直ぐに思い浮かびます。 纏まる国には底力を感じます。

だから日本人=超人はこんな緊急時には本当らしいと私には思えますね。

お礼日時:2011/04/13 09:39

仲間の死については解りません。

また勉強してみます。
さて武士道とは「見返りを期待せず死ぬ覚悟」
士道とは「死ぬ覚悟を内々に秘め己に恥じない生き方をする覚悟」
このような説明をすると死という言葉が一人歩きして暴力的なイメージが付き纏います。死生感が問題となるのは戦の究極の状況での話です。今は平和な時代ですので「見返りを期待せず死ねる覚悟」も「見返りを期待せず相手に尽くせるか」と言い換えてもいいでしょう。それはその価値があるか計算するのではなく「無償の愛」の追求ですかね。つまり「これだけ与えたらこれだけ与えられる権利」があるという下心が少しでもあれば「愛する」ではなく「利用する」と言わなくては自分自身に嘘をつく事になります。
れはユダヤ人にビザを発給した杉原千畝氏の生き様を見て頂けたら解ると思います。死ぬ覚悟までいかなくても出世を諦める覚悟が必要です。彼はユダヤ人の命を救っただけでなく自分自身の人間としての尊厳も守ったと思います。
さて武士道を日本人全てが解している訳ではない事は当然ですが今回の地震では日本人の行動が世界から称賛されています。心理的には他国の方と大差のない普通の人間です。だから秩序を守るため感情を押し殺してきた分、早くプライベートを確保してあげたいです。阪神大震災の時、私は西宮にいたのですが、ある男性が空腹感や寒さは我慢できるが大声で泣ける空間がないと気が変になると言っていました。この方は娘を亡くしたにも関わらず生きている人の救出にあたり落ち着いた時、自分の事を考えるのが怖くなったそうです。だから今回の地震でも感情を爆発させて涙枯れるまで生き残った家族だけで泣ける空間や一人で誰にも迷惑をかけず取り乱せる場所が必要です。人前で感情を表に出さない事を良い面と捉えたのが海外の報道期間ですがこれは単なる文化の違いと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有り難うございます。

>「見返りを期待せず相手に尽くせるか」と言い換えてもいいでしょう。それはその価値があるか計算するのではなく「無償の愛」の追求ですかね。

実は、人間てこの行為の他には幸福感を味わえることは出来ませんので、これは武士道云々と言うよりも、人間なら誰にでも成れる境地なんだと思います。ただし、無償の愛といっても、償いが皆無ではやはり幸せを味わうことは出来ないようです。自分が尽くし切った相手から、そのことを認めてもらって、「貴方が居てくれて有り難う」と言われたときに天国に昇る気持ちになれる。

世の中には運の悪い人もいますから、折角尽くしたのに認めてもらえないことも有り得ます。そんなときに人は不幸を感じるのだと思います。しかし、そんな場合には私は不幸だったんじゃなくて、不運だったんだと思える人間になりたいです。

お礼日時:2011/04/13 10:01

zakky74でございます。



お礼欄による文章を観た時、cyototuさんは僕がお伝えするサムライのイメージではなく、cyototuさんご自身が思い描くサムライのイメージなんじゃないかな?という事を直感しました。

もし、そうであれば、補足説明が必要となります。

>宮本武蔵もそのじいさんも弛まない訓練の賜物ですね。西洋人はマニュアルが読めるようになっとき解ったと言いますが、日本人はマニュアルを無視出来るようになったときに解ったと言う。一兵卒としてのサムライの極致のご紹介だと理解しました。多分サムライには、団体戦の時の心得と言うのもある筈ですが、その辺はどうなんでしょうか。その辺も突っ込んで頂けると有り難いです。

この文章を観る限りでは、少なくとも僕がお伝えするサムライのイメージとは少し違います。前回のNo83の投稿、或いは前々回での投稿を、cyototuさん流に解釈された印象を受けました(実は、前々回の投稿時に薄っすらとは感じておりました故に、前回の投稿はそれ程、先に進まず、深める話に切り替えました)。

次いで、補足欄を読みまして、やはりcyototuさんにはサムライのイメージが伝達仕切れていないのでは、との思いが深まりました。

>#84さんのところでzakky74さんのご意見について触れてあります。私が気になったのは、人間て自分の生き死にを考えることは、自分以外の人の生き死にを考えるよりも簡単でるのではないのかという、人間の複雑さです。とくに、その人の生き死にが自分のやり方次第で決まってしまうような場合がそうです。一対一での対決で自分の死をどう考えるかは深刻なことに違いがありませんが、部下を統率する武士として、自分の判断で部下が死なせなくてはならないことがある。その場合の武士道に関して、zakky74さんのご意見をお聞きしたいです。

そこで、それが僕の思い込みなのか、或いは本当にそうなのか、確認したいと思います。それで質問させて下さい。

cyototuさんにお尋ね致します。

・サムライが、1:1での対決で自分の死をどう考えるか・・・についてですが、これは僕のイメージ体系から出た表現でしょうか?それともcyototuさんのイメージ体系から出た表現でしょうか?或いは、No84さんのイメージ体系から出た表現でしょうか?

・僕の説明体系は、サムライの自己の死について力点の置いたものだという判断は、何をどの様に認識されたからだったのでしょうか?

・死とは何でしょうか?cyototuさんの判断基準では、死をどの様に規定していらっしゃるのでしょうか?


いつも、疑問点を率直に仰ってくれてありがとうございます。

物足りなく思っているcyototuさんとの疎通・交流に変化が起きる予感が致しますし、また僕はそうありたいと思っておりますので、とても楽しみにしております。宜しくお願い致します。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

zakky74さん回答有り難うございます。

人間それぞれ違った歴史と生き様がある。生まれたての赤ん坊を除いて白紙の人間なんて居りませんね。だから、どのような情報や言い回しを読んだり聞いたとしても、その人の既に作り上げられた世界観という色眼鏡に影響されて何かを理解することは言うまでもないことです。だから、同じ文章を読んでも人は皆違ったように理解してしまうことは大いにあり得る。私はあそこでああ言った、いやこう言ったと言うことは、それを尊重しつつも適度に留めておかないと情報の伝達すら不可能になっしいまいます。記号論理学や数学という超極端に単純な物事を対象にする特殊な学問の言語を除いて、それ以外のあらゆる複雑な事象に関しては、所謂ソクラテスの産婆術で、前もって聞き手にそれなりの認識がないものをその聞き手に納得させることは出来ない筈ですね。

私がサムライと聞くと始めに思い浮かぶことは、瀧山市右衛門の有名な言葉、「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」です。ですから、貴方がどのように表現しようとも、私が武士について思い描いたことは私のイメージがその主要な部分を占めていることは当然だと思います。私にとってzakky74さんの意見が貴重なのは、私自身が描いていた武士に対する認識に対して、もしかしたらzakky74さんが今まで私が見ていなかった側面を見せてくれる可能性があるからです。言わずもがなだとは思いますが、私はzakky74さんの意見を私の色眼鏡のフィルターに掛けながら、この部分は新鮮な驚きを味わっただの、この部分は私には余り重要なことだとは思わないだのという、独断と偏見に基づいた取捨選択をして居ります。どうぞ御気軽に反応して下さい。

お礼日時:2011/04/12 02:08

サムライについての解答が多いみたいですね。


私もサムライには憧れます。さて世界で初めて惑星間往復を成功させた小惑星探査機「はやぶさ」を運用するエンジニア、また米国以外で唯一、弾道ミサイルの迎撃試験を成功させた海自の隊員、または前人未踏の記録を打ち立てるマリナーズのイチローのようにどうも外国の方はstoicに物事に取り組み結果を残した者をサムライと比喩します。昔のサムライ=武士と言えば職業を指しますが現代におけるサムライと言えばは必ずしも戦闘を前提にしたものではありません。
ひと口で言うと武道と武士道と士道の精神を合わせ持つ者です。
武士道とは「見返りを期待せず死ねる覚悟」
士道とは「死ぬ覚悟を内々に秘め己に恥じない生き方をする覚悟」
生きる覚悟と死ぬ覚悟、そこには「守るべき大切なものを守る」が大前提になります。それが何かは人それぞれですが(ひとつでなくてもいい)自己愛を基本にするものであってはいけません。
サムライを語るとき武士道というより一個の人間として己の強さを追求する武道精神を考察さる方も多いと思います。しかし武道精神も肉体的な強さばかりとは限りません。
例をあげたら震災で東北の製造業が被災し、その影響で日本中で色々な生活用品が不足して皆が困っていますね。そんな時一人でコンビニの棚に並んだ乾電池を全部買い占める者がいる事を耳にしますが言語道断です。買い占めをやる方はレジの貼紙に「ペットボトルは一人二本まで」とか書いてあるのを見て恥ずかしいと思って欲しいです。節度と礼節を重んじる日本古来の武道精神は日常生活でも節度ある行動で初めて活きてきます。これは綺麗事ではありません。まず己自身が強くなくては実践に移せないですね。武道、武士道、士道は切り離して考えたらサムライとは何かを理解できません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有り難うございます。

日本人を語るとき、さらに日本人の尊厳を語るときに武士道の話しになることは予想していませんでしたが、言われてみれば頷けますね。waka0798さんの武士道に対する視点の中には、節度と礼節と言うときに、恥という、どうも日本独特のキーワードが入っているようですね。zakky74さんには申し訳ありませんが、#83での自己の生死に関する力点を置いた説明に物足りなさを感じていたのですが、waka0798さんの説明では、他者に対する思いやりが出ていて安心しました。武士道とは、自己の死ばかりではなく、仲間の死をも思いやる心だと理解して宜しいでしょうか。

お礼日時:2011/04/11 20:33

zakky74でございます。



サムライについて、少しまとめてみたいと思います。

ただ、剣を持ったり、ちょんまげをしていたり、或いはその職業であったとしても、僕のサムライの意味としては選から漏れてしまいます。そしてサムライそのものも、時代を追って進化発展するものです。

途中、武器が入れ替わりしたり、戦いの形態が変わる中で、サムライの追求は寧ろ洗練されていきます。たった、剣を三回降っただけでサムライになれない様に、たった100年経ってみたところでサムライではありませんし、洗練課程では常にサムライです。

時を経てまでも、まるで蓄積されて成長しているかの様な、それがサムライです。戦国時代のサムライもありましょう。江戸のサムライもありましょう。その時代、時代でのサムライですが、まるで集団知性体・集団知能であるかの様にして日々、年々、進化発展しているのがサムライです。

常に常に洗練されながら、次世代へと託されても尚、洗練されていくもの。そして、侍がサムライであったり、農民であってもサムライであったり、商人であってもサムライであったりします。

戦いの中だけにお邪魔しているのがサムライではなく、どんな出会いをすれば良いのだろう?という追求があるところにはサムライがおりました。お茶会の世界もそうです。わびわび美学など。

勿論、戦いの中で洗練されていった世界が最もサムライっぽいですしイメージはしやすいのでしょうが。

サムライは、時代を追って進化発展する精神体そのものの様なものです。そんなサムライは、やがて戦いの究極の世界に到達します。それが、宮本武蔵の無刀の心です。

cyototuさんは、物語などを通じて世界の軍人の美学を紹介してくれましたが、僕はその一つひとつを詳しくは知りません。ですので、サムライについて、更に掘り下げながら例を幾つか紹介しますので、そんな世界観が描かれている物語、或いは歴史的な実話でしたら、そこにもサムライは存在しています。

その判断は、cyototuさんがされて下さい。

戦いは、相手の剣を見ては遅いです。剣よりは相手の手を見ます。手を見ても遅い、手よりは足を見ます。目で見る、耳で聞く五感覚の世界は簡単に騙されます。あ、こっちだ、と思えば次の瞬間は・・・と全く化けて出てくるからです。

それよりは呼吸を見ます。
次はどこを見ると思いますか?


心を見ます。
心を見る、と書きましたが、五感覚で見れますか?

サムライの感覚には、五感覚とは開きがある為に少し埋め合わせますね。

サムライは、自分の皮膚の延長が空気です。
空気は、自分の皮膚の延長なんです。

そんな細やかなセンスによって、自分の皮膚と空気の差を取ります。空気の延長が10cm、20cm、1m・・・どこまでも伸びていきます。その延長に相手の皮膚があります。その皮膚も自分の皮膚の延長です。

そうして、自分の動きは相手の動き、相手の動きは自分の動きとして密着感があります。それは五感覚ではありません。言うなれば氣感覚です。氣を感じて、氣を通じて動きます。

そうして、自分と相手の体は一体となります。

ですが、更に行くと体を動かしているのは心ですね。その心と体の差も取れてきます。すると、体の感覚も空気の感覚も相手の体の感覚も全てが一つとして動いている状態になります。この状態こそ、囚われない心であり留まらない心です。この状態では、心は体を超えて、回りの空気・光・風・・・全てが自分の心である事が明確に分かっている状態で、相手もその状態です。というか、既に相手ではありませんね。

それが心の差が取れている状態です。
そんな世界に、剣は何の意味がありましょうか?
剣は、切る為の道具ですが、一体何を切るのでしょうか?
サムライ同士は、それが分かります。

ですから、宮本武蔵が剣を捨てて坐禅を組んだ時に、塩田は打ち込めば勝ちなのに打ち込めずに逆に参りました・・・。これは、塩田の思い込みによって武蔵はスゴイ・・・ではなくて、氣感覚によって、明確に観た世界から来るものです。己(宮本武蔵)を観たし、己だからです。

五感覚では曖昧の世界ですが、氣感覚では明確です。

次に、じいさんの話。

狙撃の名手を見て、近くにいる人があの人は的を外しませんよと言いました。じいさんは、あんなものはわしには当たらんと言い放ち、本当にそうかを確認する為に、じいさんを狙撃しました。的を外さない狙撃主でしたが、じいさんには当たりません。

他日、別の狙撃主を紹介します。
何度やっても同じだ、とじいさん。

いざ構えると、まて、お前のは当たる、参った。と降参します。じいさん曰く、その狙撃主は構えた時に打つ氣が無かったそうで、狙撃が観えない。それを分かってしまったから当たる、と。

字数が。

この回答への補足

#84さんのところでzakky74さんのご意見について触れてあります。私が気になったのは、人間て自分の生き死にを考えることは、自分以外の人の生き死にを考えるよりも簡単でるのではないのかという、人間の複雑さです。とくに、その人の生き死にが自分のやり方次第で決まってしまうような場合がそうです。一対一での対決で自分の死をどう考えるかは深刻なことに違いがありませんが、部下を統率する武士として、自分の判断で部下が死なせなくてはならないことがある。その場合の武士道に関して、zakky74さんのご意見をお聞きしたいです。

補足日時:2011/04/11 20:41
    • good
    • 0
この回答へのお礼

zakky74さん、有り難うございます。

宮本武蔵もそのじいさんも弛まない訓練の賜物ですね。西洋人はマニュアルが読めるようになっとき解ったと言いますが、日本人はマニュアルを無視出来るようになったときに解ったと言う。一兵卒としてのサムライの極致のご紹介だと理解しました。多分サムライには、団体戦の時の心得と言うのもある筈ですが、その辺はどうなんでしょうか。その辺も突っ込んで頂けると有り難いです。

お礼日時:2011/04/10 22:45

横レス失礼します。



下のザッキィさんが示されているサムライは、藤原岩市さんのような方だと思います。
http://dogma.at.webry.info/200612/article_7.html

ガンジーがノーベル平和賞を頑に辞退し続け
暗殺されて倒れる前に額に手をあてて「許します、神よ」としたのは
インドのために「貴様と俺とは同期の桜、咲いた花なら散るのは覚悟」という
サムライを日本から呼びイギリスと戦わせたという。


猪突師匠☆こちらこそ難しいことはさっぱりなのですが、
一連のお礼文を読んでいても長文もすらすら読ませるところ流石です。
私は悪文ばかりしてしまうので、要点を短くして伝ないといけないのです。
短歌や和歌は私も素敵だと思います。
表現を削りながらも質を落とさない、すごい文化ですよね。

短いといいこともあって、
奇特な方?は行間に深い啓示が画されているとわかるのですね。
不思議と導いて解説してくれる人が現れて、ようやく書いた私もわかってくるという(汗笑)
逆説の極み!です。

自由についても今まで沢山の学説から参考にさせて頂いてたからなので改めて感謝状。
私の趣味は弟子入りすることのようです。和泉式部師匠?の本も読んでみます。
女を諦めちゃだめですね(?)

今桜が満開です。
満開ですが、もう直に散ってしまうのもう今から覚悟して
見るのも切ないです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私は昨年の春に家内と30年ぶりに日本の桜を見て来ました。桜と錨は日本帝国海軍の艦内帽の帽章でしたね。軍人が花を頭に飾る。何か恐ろしさを感じさせますね。ライオンや鷲じゃない。花を飾る。大分昔読んだヘロドトスだったと思いますが、テルモピュライの戦いでレオニダス率いる300人程のスパルタ軍が20万といわれるクセルクセス率いるペルシャ軍と戦ったときに、死を覚悟したスパルタの軍人達は、頭に花飾りをして戦ったとか。それを見たペルシャ軍の外国人コンサルタントのギリシャ人が、こりゃ大変な戦いになる。あいつらがとうとう死を覚悟しちまったんだから、とクセルクセスに言ったそうです。

2千5百年以上はなれてスパルタと日本で奇しくも軍人の美学が花開いていたのですね。

お礼日時:2011/04/10 12:36

zakky74でございます。



>会話を進める為に、言葉の使い方を確認しておきます。

cyototuさんの仰る通りではないかと思います。
僕の伝達不足でした。補います。

「体と剣の差を取り」という表現ですが、サムライが意識する体、サムライが意識する剣、その意識内での格差を無くすという意味です。意識内での差を取る事で、結果的に「体と剣が一体化する」んですね。

「矛を止める」という表現ですが、まさに自分の体を突いてくる相手の矛を剣で止めるという意味に始まっています。次に、達人にもなると、自分の動き一つが相手を動かしますし、相手の動き一つが自分を動かします。

達人を更に超えますと、やがて自分は絶対に相手を突けない事を分かってしまいますので、突く事の意味を喪失してしまいます。相手は自分よりも必ず速く動き、自分の心を完全に掌握している事までを気付いてしまうからです。

サムライ同士の戦いは意識空間での戦いがそのまま現実空間に現れてきます。達人を超える領域にまで来ますと、ですから戦う為の道具が要らなくなるんですね。宮本武蔵の無刀の心はそこです。

結果的に、真のサムライは相手の「矛を使うことを止める」様になり、平和だという意味でした。合気道創始者の植芝盛平を引用して「自分を倒しに来た相手と仲良くなる事じゃ」という心に通じます。

>さて、サムライにもいろいろな多面的な側面がありますので、

仰る通りです。

実は心の内を明かしますと、僕がお伝えしているサムライとは、普通の日常会話で出てくる侍という意味合いとは少し違う観点から出発しています。

大雑把に言えば、侍という職業・仕事・役割が通常の侍の理解だとしますと、僕が取り上げているサムライは、サムライの心、サムライの精神です。前者は、ちょんまげをして剣を持っていたら侍という存在となりますが、後者はそうではありません。職業が侍であっても、心・精神が備わっていない場合はサムライではないという事です。

わき道かもしれませんが。

職業として政治家であっても、心・精神が備わっていない場合は政治家ではない・・・と観ている事と似ています。時代劇などで、幾ら姿格好を整えても、心・精神が備わっていない場合は、それは織田信長ではなく反町隆史だ・・・という様なものです。

繰り返しますが、サムライの心、サムライの精神について特に取り上げているものでございまして、そこに対してはcyototuさんも十分に読み取って頂いていると感じています。

そこでcyototuさんの疑問としては、戦国時代・技術革命の際にはサムライの心、サムライの精神はどうであったのか、というのが残ります。これに対してお応えします。

前回までの投稿では、真のサムライは、あらゆる差を取る事とお伝えしております。その例として、体と剣、体と体以外、自分と相手、という戦いの中では直面せざるを得ない格差を取り上げています。ですが、あらゆる差を取るものですから、必ずしも体と剣だけの差を取るという事ではありません。

戦国時代では、犬猿の仲の様に映る上杉謙信と武田信玄の戦いにも観て取れます。

ご存知だとは思いますが、念のために触れておきますと、とにかく両者はお互いにぶつかるんですね。戦いは何度も繰り返し、決戦というほどの熾烈な戦いでも勝負がつかず拮抗の状態にありました。いかほどの緊張状態でしょうか?

そんな中、武田勢に生命の存在を脅かす災害に飲み込まれます。
塩がないんですね。

戦いが、ただ相手を殺傷し、自らの存在を見せつけ、国力を増強するものの為に存在し、サムライはその戦いに身を投じるという事もあっても良かった時代です。そもそも戦いとはそういうものです。

ですが、日本には美学があります。

上杉謙信は、「塩を送れ」と言います。

人の命が失われていく事は痛くて哀しい事です。
それは民も、相手の軍勢も変わりません。

まず元気な姿で、出会いましょう。
生命として、出会いましょう。
存在感を持った状態で、出会いましょう。

それが上杉謙信の「塩を送れ」です。
差を取っている事が観えますでしょうか?

また、お茶会などもそうですね。

戦いだけに身を投じ、国を治める事のみに集中すれば良い様なものではないですか?そんな中で、お茶会が流行るのはどういう事でしょうか?

真に戦いを行うのであれば、一体どんな心でそれと出会うのかはサムライの関心ごとです。すみません文字制限が迫っているので、わびさび美学についてはサラリと済ませますが。究極の緊張状態の中でも、どんな条件・状況・環境の中にあっても冷静な対応、秩序を守れる姿勢、それが起こせるのは、心が柔らかいからであり、健康な心だから可能です。

サムライにとって、お茶会も戦いも同じです。差を取っています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有り難うございます。

案の定、私は誤解していましたね。「矛を止める」を私は「矛をとめる」とは読まずに「矛をやめる」と読んでいました。その結果、「矛を使うことをやめる」と読み違いをしていたのです。#76の始めの所にも書いてありますが、論文なんか書いていて、そんな一寸した読み手の誤解で、論文の審査員なんかからケチが付けられると言う経験を何度もして来ています。だから、文章は難しいとも言えるし、だから文章の質を磨く楽しみもあるってものですね。

zakky74さんの言いたい事がやっと判り始めました、サムライに関するその側面なら、戦争の形態がどう変わろうが頷ける主張でした。

議論を延々と続ける気はないのですが、ただ、まだ私が説得され切っていないのは、そのサムライの態度は日本独特のものかどうかと言う所です。プルタークの比較英雄伝やヘロドトスの歴史や司馬遷の史記などを読んでいると、そのような天晴れな態度はギリシャにもローマにも中国にも在ったようです。また、戦史の中で、珍しく一兵卒が書いた物でも古典として生き残ったフランソワ ヴィゴ・ルションの『ナポレオン戦線従軍記』 (中公文庫) なんかを読んだときに、究極の状態での強靭さを示したこんな国の兵隊さんとは戦いたくないな、と言う気がしました。

あるいは、どこの国でも軍人の理想像は同じようなものだが、どういうわけか日本人はその理想像を一般民衆が実現しているところが日本独特なのだとでも言いたいのでしょうか。

お礼日時:2011/04/10 02:35

脈絡のない駄文失礼いたしました。


ご指摘されるようにその通りだと思ってはいましたが、
一回書き込んだものを訂正するほど几帳面でもないし、
大雑把なもので、だいたいのニュアンスが伝われば、
いいかと思っていました。
もしまったく伝わっていないなら書き直すこともやぶさか
ではありませんのでそのように言って下さい。
お願いいたします。

私は土着民族なので根なし草の気持ちは分かりかねますが、
最近特に歴史に学ぶはずのただの手前味噌や自画自賛を、
心の拠り所にしているのか、保身なのか、ただの内弁慶
なのかと懐疑的に感じているところです。こういう言い方
でまた語弊がありそうですが、最近の風潮をそのように
感じているまでなのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有り難うございます。どのような反応が返って来るか不安でしたが、杞憂でしたね。heartmaindさんの仰りたいことは、大局的にはこちらに伝わっていると思いますのでご心配無く。今後とも宜しく。

お礼日時:2011/04/09 21:03

このQ&Aに関連する人気のQ&A

1  2  3  4  5  6  7  8  9 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qなぜ人間にはこれほどの感性差が!

一例として、ある人間が、凄く感動し感銘したものを、ある人間は退屈で嫌悪感を感じる(これはもちろん立場が逆転する場合もある)とまでいう感性差はどうにかならないのでしょうか?同じ「種」なのに、あんまりではありませんか?こんなことだから、戦争もなくならないし格差もなくならないし相互理解も共同意識も持てない。いいことないではないでしょうか?

Aベストアンサー

一卵性双生児は別として、顔がみんな違うように、感性も違って当然じゃないでしょうか。

太古の昔、生命体は自己分裂していたんですね。
アメーバーみたいなものですが、そうなると強いウイルスによりその種は絶滅しますよね。
で、あるとき異種を作り出し、異性交配することで、どんどん異なる種類を作り出していったんですね。
一つのグループがやられても、それに打ち勝つ種が生き残ることで、全滅を避けられる。

で、人間は異種交配することで、増えていくわけですが、人間は弱いので、集団化して生きているわけです。

その集団の中でも個性があることで、ケンカになっても、「まあまあ」と仲裁する人を所有していれば、そのグループがバトルロワイヤルで絶滅することを防げる。

グロい映画は嫌悪感を多くの人が感じます。
グロいことに嫌悪を感じない社会だと、毎日が殺戮のショーを楽しむ集団になってしまい、ちっとも増えません。

グロいことを好む集団は絶滅する運命を辿ったわけで、今ある集団はグロいことを気持ち悪いと思う人たちが圧倒的に多いことになる。

確かにそうです。
でも、グロい映画は結構廃れることなく、隠れファンにより視聴されているので、販売されている。

ということはどういうことか?

グロい映画を10人に視聴させたところ、5分くらいで、顔をしかめだす人がゾクゾクでてきて10分後、一人 二人 と耐え切れず席を立ちだした。
でも、中に愉快な顔をして笑みを浮かべてみている人がいる。

学者が言うには、自己防衛本能がその人を守るからだとか。
グロい映画は恐怖心を生み出しますよね。
それに順応するため、脳が快楽物質を放出するのだそうです。
すると、グロい映画を観ると、快楽物質を放出することで、精神崩壊を免れ、楽しいとして食い入るように見て快楽として楽しむようになる。

ただし、普通の人の脳はそれをやらないので、グロい映画に嘔吐しそうになり、耐えられず席を立つ人が多い。

でも、中にはそういう快楽物質を放出する脳を持っているので、その人たちは、グロい映画を好んで見るわけです。

ところが、殺戮などは、社会的に不快とされているので、裏ビデオとしてコソコソ見るようになるわけです。

で、ある日 切り刻んだ死体が見つかって、犯人が見つかって家を調べたら、沢山のスプラッター映画のビデオが出てきた。
自宅で楽しんでいたわけです。

で、その人はそういうものに対して、脳が活発に活動し、興奮するわけですが、それ以外のこととなると、関心指数の針がふれない。
だから、事情聴取をして「どう思ったか」と聞かれても「人形みたいに思った」と殺したことにたいして、平然と答えてしまうわけです。

嘘発見器でも、殺戮の場面だと針が振り切れんばりだが、ポルノ映像には針が触れない。
つまり、この人の脳はスプラッターものしか刺激として感知しないわけです。

で、この種類の人からすれば、どうして世の中の人はこういう楽しいものを公にして、国民で快楽に浸らないのか?と不思議に思うわけです。
自分の感覚だと、楽しいのだから、他人も楽しいはずだと思うが、世の中は「不快」とか「ひどい」「残酷」など意味不明のことを言う。
なんでこんなに楽しいことが、残酷だとされるのか理解できない。
が、人を殺したり傷つけたりすることはどうやらいけないらしい とわかり、ほとんどの人は、こっそり自宅でビデオを観て、快楽にふけるに留まる。


ミルグラム実験だったと思いますが、あの場合は違う。
何故家に同じ年頃の子供を持つ良きパパたちが、ユダヤ人の子供達を残忍な方法で殺せたのか?
普通は、途中で耐えられず、やめざるを得ないはずなのに、どうして出来たのか?
ミルグラム実験で服従の心理について報告されています。

オウムが人を殺して焼いたわけですが、調査すると、まるで催眠にかかったかのように、罪悪感もなく、たんたんと切り刻んで死体を切断していたことがわかったそうです。
これもミルグラム実験と同じ理由により、引き起こったのではないかと思えます。


感性の差はどうにかならないのでしょうか というものは、ある意味危険をはらんでいます。
何故なら、全員が同じ感性だった場合、その集団がおかしなことをやっていても、気づきようがないからです。
例えば、ユダヤ人は生きる価値が無いという風潮になったため、殺されたわけですよね?
おかしいと思う人が多ければ、こういうことにはならなかったはずだし、精神障害者は生きる価値などない という風潮に対して、それはおかしいということに気づく人がいなかったことで、殺されていったわけですよね。

逆にいうと、なにか理由をつけてあなたは生きるに値しないと誰が思った場合、全員が思うことになってしまう危険もあるわけです。

戦争は集団がA国は悪者だと全員というか多数者が思うことで、実行されるわけですよね。
他からしてみれば、宣戦布告したB国の方がおかしいと思うが、戦争をしかけた集団全員は価値の統一がされ、自分達が間違えているということを微塵も思えないわけで、それで戦争が引き起こってしまうわけです。

強いリーダーの洗脳により、国民の思考はリーダーの思考と一致するようになる。
そしてリーダーは国民から支持され、戦争を起こし、国民の協力のもと、他国の人を正義の名の下に殺していくわけです。

で、回避するには話し合いが必要なわけですが、アメリカの場合、話アがどういう結果であろうと、イラクに対し戦争を開始することはもう決まっていたそうです。
つまり、言葉が通じない鬼畜と同じ。

国連が否決をしても、アメリカはそれに従わなかったでしょう。
何故ならアメリカからすれば、自分達が地球で最高の地位を得ていると思っているから。
彼らは自分達を神だと思っており、地球をどうにでもできると思っているから。

逆らうやつは皆殺しにするぞ なわけです。

この強いウイルスに打ち勝つには、他の国じゃ駄目で、アメリカ国民が政府に対して、「やめろ!」と政府に従わない意志を表明することです。
「不正な殺しはやめろ 我々は人間だ 鬼畜じゃあない 騙されないぞ」と反戦活動を展開するしかない。

でも、宗教がからんだため、宗教=洗脳ですから、多くの人が洗脳により殺人を悦びとしたわけで、多数者が快楽殺人を好んだので、殺戮はストップできなかった。

でもジャーナリストたちは奮戦しました。
悪の政府の陰謀を暴いて、国民たちに訴えたわけですが、洗脳された国民の脳に届かなかったみたいです。


というわけで、全員の感性を統一するということは、とてもとても危険な思想なわけです。


古代ギリシャ哲学では、正義について考えています。
正義は存在するのか ということで、絶対的な権力を持っているリーダーがいたら、不正が正義の座に鎮座していても、どうにもならない。
ですので、ギリシャは民主主義を生み出した。
国民全員が間違えた価値観を持つなんてことはありえない としたわけです。
ですが、じゃあ 正義とは一体なんなんだ どうすればそれが正義だとわかるのだ と考えた。

人から正義だと認められている人から一切の正義を取り除いても、その人が正義でありつづけたら、その人は正義だったことになる と考えた。
じゃないと、正義の人だという評価が欲しくて、正義とされるものをやっているだけの人かもしれないから。

で、その人の家族、権力、服まで奪い裸にし、人の前で鞭打って笑いものにして屈辱を与え、十字架刑にして槍で刺しても、その人が屈しなければ、その人は正義だったことになる という説を出して、正義の存在の証明をしようとしたんですね。

何百年か後に、この正義の証明の理論がパクられてキリスト教の神話に作りかえられちゃいました。

ですが、これも同じで、自分達だけが正しいとして、自分達の中に悪があることを知ることはなく、この集団が自分達を正義だと思って、大量殺人・侵略・破壊活動をやってしまった。

ああ、、、
感性・価値観の統一はこのように絶滅の危機もはらむほど危険思想なんです。

一卵性双生児は別として、顔がみんな違うように、感性も違って当然じゃないでしょうか。

太古の昔、生命体は自己分裂していたんですね。
アメーバーみたいなものですが、そうなると強いウイルスによりその種は絶滅しますよね。
で、あるとき異種を作り出し、異性交配することで、どんどん異なる種類を作り出していったんですね。
一つのグループがやられても、それに打ち勝つ種が生き残ることで、全滅を避けられる。

で、人間は異種交配することで、増えていくわけですが、人間は弱いので、集団化して生...続きを読む

Q【沈黙】見て キリスト教布教が悪い訳でもないけど やはり 異国の仏教に立ち入る側も 悪い訳で。 そも

【沈黙】見て キリスト教布教が悪い訳でもないけど やはり 異国の仏教に立ち入る側も 悪い訳で。 そもそも キリスト教 仏教 イスラム教 て 何も悪い訳でなく 何が違いますか??

Aベストアンサー

まさしく、どんな宗教も、宗教それ自体が悪いわけではない、と監督は言いたかったそうです。おそらくは原作者の遠藤周作もそれは同じでしょう。

ただ、昔は情報がありませんでしたから、キリスト教国で育った若き宣教師らは、キリスト教こそが人々を救う絶対のものだと信じていたでしょうし、一方で、異国に行ったことがない仏僧は、仏教こそが絶対だと信じていたのだと思います。

それが実は違っているのかもしれないと気づいたときの心の揺れこそが、どんな拷問にも増して身震いするほどのものだったのではないでしょうか。

Q仏法と生命の尊厳について

仏法と生命ですが、仏法は生命について何かを説いているのでしょうか。
もし、そうならば、生命は仏法の中で、どのように説かれているのでしょうか。
具体的に、仏法の中で生命が、どのように説かれているのか、ご存知の方、ご教示をおねがいします。

Aベストアンサー

ちょっと長くなりますが、仏法(法華経)ではまず、生命は永遠と説きます。
 そして、仏法におけるその生命の定義ですが、我々の思いというか、その思いを生じさせる心こそが生命そのものとしています。心を精神と言い換えてもよく、つまり、肉体と精神、これを仏法では『色心(しきしん)』と言い、色は色形あるもの(それゆえ、いずれ朽ち果てる無常のもの)と心は色形なきもの(それゆえ、朽ち果てるという終わりがなく永遠なるもの)の二つに分けますが、この世界で活動している我々はその色心で成り立っています。 
 一見すると、目で捕らえられる肉体が主体で、捕らえられない心の方が客体のように思われがちですが、仏法では逆で心というか精神こそが主体、本質となり、肉体はその心の座するところで、いわばガンダムのモビルスーツとそれを操るパイロットのような関係と捉えられればよいかと思われます。ですから、肉体というものは自分の所有物ではあっても、決して自分自身ではないということです。
 たとえば、自分という思いは物心ついた頃から、それこそ死に到る時まで決して変わることはありませんが、その肉体においては子供の頃、成人の頃、壮年、老年とどんどん変化して、傍から見ればまるで別物のような存在かと思われます。まさに仏法の説く色心そのものかと思われます。
 確かに、有形で変化して様変わりするものが本質であるはずもなく、無形で不変なるものを本質、その実体と捉えることの方が合理的です。そしてこの点を踏まえて、かのデカルトは『我思う、ゆえに我あり』という言葉を残したのです。つまり、私という思いがあってこそ自分自身があるのであって、肉体があるから自分があるのではない、と結論付けたのです。彼は仏法を知らなかったとは思いますが「絶対確実なるものは心だ」という、仏法に相通ずる考えを持っていたのでしょう。 
 ともかく、(心=生命)こそが真の自分自身で、それは決して朽ちることも果てることもない永遠の存在であるということです。
 そして、ついでに宿命についても触れておきますが、その自己そのものである永遠の生命に、その生命が為した善悪の行為が、いわゆる業として刻まれて、過去、現在、未来へと苦楽の報い(因果応報)を受けていくことが宿命になるのですが、そのことを一般的には運命などといいますが、結局、自己の生命が永遠の存在であるがゆえに、色心として存在している時に為した全ての行為が、善悪にわたり連綿と引き継がれて、結果として全部自分に返ってくるということで、よく聞く話で、「自分は別に何も悪いことをしていないのに、なぜ自分は、このようなひどい目に遭うのか」というのがありますが、それは現在だけしか見ていない話で、過去世に自分が積んだ悪業を知らないだけのことなのです。もちろん、真逆のパターンもありますが、いずれにせよ本来、自分そのものは永遠の存在であるということを知らないがための短絡的な考えといってよいでしょう。これをたとえれば、ある車で交通違反を犯してから、車を何台乗り替えてもその罪が消えることはなく、それを償うまで、そのドライバーに付いて回るようなものです。 
仏法の言葉に『過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ』というのがありますが、まさにこのことを言っているかと思われます。
 ともかく、自分が永遠の存在であると知り、その為す善悪の報いが全て自分に戻ってくることが分かれば、誰も世間を騒がせるような悪しき行為はしなくなるかと思われます。なぜなら、誰だって未来の自分を悲惨な目に遭わせたくないはずだからです。先ほどの仏法の言葉の続きに『未来の果を知らんと欲せば、現在の因を見よ』というのがありますが、今後の自分の運命をどうするかも、すべては自分次第だということです。
 以上ですが、仏法の説く生命の永遠性については、もっと勉強されればいろいろと人生に役立つかと思われます。
     
                            
                 

ちょっと長くなりますが、仏法(法華経)ではまず、生命は永遠と説きます。
 そして、仏法におけるその生命の定義ですが、我々の思いというか、その思いを生じさせる心こそが生命そのものとしています。心を精神と言い換えてもよく、つまり、肉体と精神、これを仏法では『色心(しきしん)』と言い、色は色形あるもの(それゆえ、いずれ朽ち果てる無常のもの)と心は色形なきもの(それゆえ、朽ち果てるという終わりがなく永遠なるもの)の二つに分けますが、この世界で活動している我々はその色心で成り立っていま...続きを読む

Q「民生のために」尊厳死について

人間の死は
1/長寿からの老衰
2/病死
3/事故死
4/自殺

文学部卒で文筆業の友人が、文学的に得心できたので
賃仕事で延命はしたくないから、断食から死にました。
看取りはしませんでしたが、指定された日時に訪ね、法的な
後始末を果たしました。

辞書的な尊厳死の方が、
意味違ってませんか?
私は友人の死に方が尊厳死に該当すると思いますが。

Aベストアンサー

そのケースは、人生全体を概観した上での自覚的な尊厳死です。
自覚的ではなくとも、医療技術の発達による、医療費の高騰は
家族に迷惑をかけ、生き甲斐の伴わない存命を長引かせる事
に対する嫌悪=「人生全体の概観」でなく局所的な選択としての
死も、それが他人に迷惑をかけないもの(それどころか迷惑を
かけないためのもの)である場合は、社会的にプラスであり尊厳
死と呼ぶ。
(逆に「自覚的な尊厳死」には社会にプラスにならない場合が
あり、尊厳死と呼ばれない場合がある)

Q黒人と白人の命や尊厳に違いはあるのか?

ない と答えたいところですが

例えば日本でも 韓国人と日本人では評価が違うように思います

だからあの様なヘイトスピーチが出てくるのでしょう。

政府も国民も外国では、まず日本人の命を最優先します

この現状でも貧しい、或いは先頭地域では人死が多数出ていますが

日本人はアメリカに守られ、日本国に守られ、警察に守られ、福祉に守られています

もしソマリアの人と日本人に同じ命の尊厳があるのなら世界的に力を合わせて

助けに行かなければならないと思います。

しかし現実は違います。エボラ熱のある地域の人は隔離されアメリカ人や日本人程

丁重には扱われません。 天賦人権説とは言いませんが 人間が皆人権を持つのだと

いう了解は 平和憲法と共に消えてしまいそうな気がします。

果たして黒人と白人と黄色人種と褐色人種と他マイノリティの人達の人権は同じと言えるでしょうか

違うでしょうか?

ナショナリズムで鬼畜米英と言ってた日本人です、その辺の認識は必要なのではないでしょうか?

当方病人のため、長文が苦手なので、要点をお願いしますm(_ _)m
 

Aベストアンサー

人類発祥の地、アフリカを勝ち取ったのは黒人である。
白人は、その暮らし良いアフリカを追われ、寒い北方に
追いやられて、そこで生き抜くために道具~機械文明を
発達させて、逆上陸しているだけに過ぎない。
当初の「発祥の地を勝ち取った優位」は、オリンピックに
おいて(特に単純なフィジカルが要求される競技において)
証明されている通りだ。

彼らが貧しく、虐げられているって?
確かに工業化=経済発展は遅れ、治安が悪く内戦も多い。
だが、どちらにも暮した人間として、ある意味、日本人ほど
「虐げられている」人たちはいないと言える。
こう言うと、「日本ほど平和で豊かな所はない」と反論され
るが、その事自体が“表層的な観点による思い込み”、
いや“思い込まされている”洗脳に過ぎない。
精神において日本人ほど不自由で苦しい生活を過ごして
いる人たちはいない。
「平和で豊か」でありながら、世界でもトップクラスの自殺率
な事が示している(それも西欧の「トップクラス」は老い先
短い老人の自殺なのに、日本は若者~働き盛りの自殺)。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報