痔になりやすい生活習慣とは?

私はアメリカに住んでいますが、今朝のアメリカのニュースで聞いていたら、アメリカ人だったかイギリス人だったかのジャーナリストが、日本人が決定的な災害なり出来事に会った時の尊厳さは特筆に値する世界でも稀な振る舞いである、と言っておりました。殆ど同じことを、神戸地震でも聞いており、神戸地震直後の日本の災害者達の静かさは異様だったと言っていたことを記憶しております。

一見日本人に取っては当たり前に行動しているようですが、異国人から見ると驚嘆に値する振る舞いのようです。勿論、どの国にもこのような悲惨な目にあっても尊厳を保てる方は居りますが、それはその国民の例外中の例外に属しているようです。その証拠に、異国の人とは反対に、例外を除いて日本人の殆どの人が尊厳を保っていることに他国の人達は驚嘆しているのですから。どうもこの尊厳さに対して、日本人はその異国のその他大勢ではないようです。

そこで質問です。何がこれほどまでに日本人を他の国民とは違った存在にしているのでしょうか。私には、人間なら共通して持っている喜怒哀楽や隣人愛や尊厳がどうのこうのと言うようなレベルの話しではないような気がします。別な言い方をすると、何故異国の方達は私たちの当たり前の振る舞いを感心するのでしょうか。日本人は、世界共通な地球人ではないのでしょうか。

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A 回答 (88件中1~10件)

絶対神の下での平等を前提に据えて、御互いに主張し合うのではなく、


今でも多くの日本人達が地元の集団の「御縁」を尊びやすいからだろう、
という認識は誤解なのでしょうか?
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この回答へのお礼

自動車会社さん、投稿有り難う御座います。

これは誤解かどうかの問題ではなく、その「御縁」という言葉が日本人の行動様式や平等意識を理解するためのキーワードになっているかどうかと言う問題だと思います。それはそれで興味ある提案なので、それを説得力ある形に如何に実証的に肉付けして示して行けるかが面白い問題だと思います。

実はここの管理人から、もう四週間も質問を出しっぱなしだから何とかせい、との連絡を受け取りました。そこで、ここの欄を御借りして皆様にお礼を申し上げます。自動車会社さんばかりでなく多くの方々からも、日本人の行動様式を考える上で興味ある視点を頂きました。それをこれからゆっくり咀嚼して行こうと思っております。どの回答も、それぞれ考えさせられる側面を見せて下さいましたので、今回は全員満点と言うことにして、何方か一人だけに最高点を付けないことにします。また機会がありましたら雑談に参加して下さい。

お礼日時:2011/04/14 08:28

私は一応、武士道の起源を疑った研究書の類は読んでみたのです。

最初は文献学的に武士道が論証できないという意見を紹介しようかと思いました。「士道」という言葉はあるが、武士道と命名したのは新渡戸であり、彼の議論を追っていくと、新渡戸の想像も多分に含まれているという説です。これが他の質問欄なら、縷々と説明したかもしれません。とはいえ、猪突先生は、おそらく先刻承知なのでしょう。そして私は文献学の限度もよくわかっています。だから私も、もうひと思案しました。

私は武士道の原型が薩摩にあるならそれを認めることにやぶさかではありません。ただし私の疑問点を絞ると、「武士道が幻想」というのは、「侍の矜持が幻想」とは意味が違うのです。「~~道」ということは、精神性を一般論として示すということでしょう。そして新渡戸的な議論を極端にいえば、西洋人には隅々にまでキリスト教が行きわたっているがごとく、日本人には隅々にまで武士道が行きわたっているということになります。
しかし「武士道」とは、もともとは士族の職業倫理や個々の侍の武勇伝であったはずのものです。これが士族全体に、適応されるのはまだ良しとします。しかしさらに、日本人全体に適応されるという点に、疑問を感じるのです。適応範囲に対して、私は「幻想」と言ったのです。

そして被災者の多くが農民や漁民なのに、なぜわざわざ士族の話を借りてこないとならないのか。これに、はっきり言えば、反対なのです。そして「武士道」が出てくるなら、なぜ『百姓道』とか『農民道』という言葉や、思想書が出てこないままなのか。武士に対する憧れという指摘が猪突先生からありましたが、私は同意するところです。そして士族を説明しただけで、日本の説明として十分と考える発想を私は好まないのです。

ところで、猪突先生に言われて、大和魂をウィキペディアでひいてみました。もともとは『源氏物語』が初出、漢才との対比語であるそうです。貴族から武士まで、日本人の心を表現するのに適した言葉だと言えそうです。しかし、これもまた、漢才や洋才に対比させて日本を説明しようとする対外的な言葉ではあります。そこから考えれば、大和魂とは海外に出て行く機会の多い者ら、たとえば外交官とか商社マンのための言葉なのかなと思ったりもします。かくして農民の発想を農民の視点から理解するためには、別のアプローチが必要になりそうです。柳田などの民俗学ということになるでしょうか。
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この回答へのお礼

サイコロさん回答有り難うございました。

私が大和心を持ち出したのは、漢学の批判としての大和学ばかりでなく、江戸時代以前に書かれた古典的な史書を紐解くと一様に武家の歴史を天皇家の護持の立場から捉えられていたものばかりだったからです。私が読んだ物はさほど多くはありませんが、前に触れた『日本外史』しかり、『読史余論』しかり、『神皇正統記』然り、また『愚管抄』然りでした。ですから、私にとって、大和心は本居宣長や平田篤胤のように、いきなり神道に結び付けて考えるよりも、武家の心として考えた方が考え易すそうだと思ったのです。しかし、東大の和辻哲郎の弟子の所で学位を取り、私は和辻哲郎の孫弟子だと誇らしげに語ってくれたアメリカ人の方から、こちらアメリカで武士の心と神道の関係に就いていろいろ個人的に解説を聞いたことがありますので、勿論、宣長や篤胤の見方と武士が重なる所は一杯有ると思います。

柳田の民俗学も神道について克明に分析して居りすので、武士と農民にも共通項が在ったかもしれません。ただし今私は、柳田の実証的な言質を思い出せずに取り留めも無くこのことを語っていますので、自分でも説得力がないな、なんて考えながらこの文章を書いています。

実は、ここの管理人から、もう四週間もこの質問の出しっ放しだから何とかせよと言う連絡を貰ったところです。私が出した設問は当然話しが発散してしまうことも有り得ましたので、この辺りでこの設問を閉めようと思います。サイコロさんとはまた別の機会に雑談致しましょう。

お礼日時:2011/04/14 08:16

丁寧にお礼いただいたのに、そのままにしてしまいました。

審美の方は閉じ、総じて店じまいモードですが、もう少し、お得意様に挨拶してから去ろうと思います。あ、どうぞよければ、べらんめい調でお願いします。

>殊に日本人では人が笑ひ自分が笑はれる不幸を痛感する人が多かった。三百年前の借銀の証文に、万が一返済滞るに於いては「人中にて御笑ひ下さるべく候」と 書いた物があったといふことは、有名な話しになって居るが、これは或二三の最も律儀なる者だけでは無く、実際この笑はれまいとする努力が、今日の道義律を 打立て、又多くの窮屈なる習慣法を作って居るのである。

笑いの話は、全く同意してしまいました。日本人は、周囲の目をかなり気にします。西洋人は個人が神の目を内面に有して自己制御しているが、日本人は衆人環視によって他律的に自己管理している――とは、柳田の説を踏まえて、母が子供の頃に私にしてくれた説明です。こういうわけで、柳田の説はすっかり私に馴染んでいます。一般的に議論するにあたって、完全に賛成と完全に反対は、頷くしかないわけで、後の議論の展開が難しいです。
それにしても、ワラワがワラハヤミと同語源というのは、非常に勉強になりました。実際、子供は日本において神の形象とみなされることがしばしばあります。コケシなどがそのよい例ですね。

さて侍の話題が人気らしいですね。私個人は、武士道の存在は幻想もあるなと思ってしまいます。(1)そもそも侍のパーセンテージが全人口の数パーセントしかないのだから、その精神が古来より日本に浸透しているとは思えない。(2)また武士道なる概念が現れたのが新渡戸以降であることを考えると、武士道の存在それ自体が対外向けの説明として見出された概念であると思えてしまう(『葉隠』は当時からして流布してはおらず、後で見出されたもの)。(3)最後に、自分の祖先が侍ならともかく、農家なのに武士道精神を称揚する考え方が、私にはピンとこない――というところです。

しかし侍とは少しずれますが、太平洋戦争において、日本の兵隊が死を恐れない超人的な存在だと畏れられていたということはあったと聞きます。実際、日本では軍人の教育に、新渡戸らの武士道精神を応用したのかもしれません。軍国主義を通じて、侍スピリッツが浸透したという可能性はありえます。しかし、より蓋然性の高い考えは、太平洋戦争を通じて海外で出来た日本人に対するステレオタイプの影響です。震災後の神妙さは、日本兵=超人の枠組みの延長で捉えられたと考えるのも一つの可能性かと思います。こう考えると、海外メディアが口では称賛していながらも、レッテル貼りの差別的なニュアンスを漂わせている理由が、私には納得いくのです。

この回答への補足

お礼を書いた後で思い立ったことを書きます。

新渡戸稲造が外国人に取っては有名だったかもしれませんが、これが武士道の走りだとは私には納得がいきませんね。

『保元物語』や『平治物語』などの物語も、『神皇正統記』や『読史余論』の漢文訳とからかわれているあの美しい文体の『日本外史』や、それに『藩翰譜』などの史書も武士道のオンパレードの印象を受けます。また、アーネスト・サトウが生麦事件で体験した薩摩武士の切腹の場面の荘厳さはどうなんでしょうか。

 敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花

これは新渡戸稲造なんかよりもずっと前に詠まれてる武士道の心髄を表した歌だと私は思っておりますが。武士道の裏には大和心があることをお忘れなく。

補足日時:2011/04/13 10:26
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この回答へのお礼

私の得意な連想ゲームでサイコロさんの文章で私の針に引っ掛かった部分を脈絡無く敷衍してみます。

>私個人は、武士道の存在は幻想もあるなと思ってしまいます。

プルタークの英雄伝のアレキサンダー篇のだったと思いますが、彼の祝宴を訪れたある演説の名人と言われる人に、並み居る将軍達の前で演説を乞うたそうです。その演説家はマケドニアの偉大さを滔々と讃え、将軍達に大喝采を浴びた時でした。アレキサンダーはその演説家に、「マケドニア人にマケドニア人がどれだけ偉大だと演説しても、そんなもん誰だって悦ぶんだから、それでお前の演説の巧さが解るわけないだろう。だから、今からマケドニア人はどれだけ取るに足らない国民か演説せよ」と命じました。そしたら、彼は完璧にそれをやってのけ、それを聞いていた将軍達に祝宴から叩き出されたそうです。

アレキサンダーに言わせると、日本人が自分たちの先祖の武士道を讃えても余り意味がないと言うことでしょうね。


>そもそも侍のパーセンテージが全人口の数パーセントしかないのだから、その精神が古来より日本に浸透しているとは思えない。

明治の四民平等で士が無くなったのではなく、残りの農工商の連中は皆、今日から士になったと思ったとのことです。皆さん、士に憧れていたんですね。



>太平洋戦争において、日本の兵隊が死を恐れない超人的な存在だと畏れられていた

私の聞き齧ったところによるの、西洋の軍隊では兵隊の約三分の一が戦死するとその軍隊は降伏したそうです。ところが日本では九割死ななくては降伏しなかったとか。と言うことは、日本の兵隊の数は、西洋のそれと比べて見掛けと比べて実質は三倍居たことになりますね。それじゃあ日本の軍隊が恐がられる筈ですね。


世界の連中を見ていると、世界の注目を浴びるいざと言うときに国民が一丸となって纏まる国と、その注目を好機として殊更自己を主張して、国民がバラバラに争い始める国が在るようです。纏まる国の例としては、あれだけ罵り合っていた与野党がまるで嘘のように纏まった東京オリンピックの時の日本とか、最近では同時多発テロの時のアメリカなんかが直ぐに思い浮かびます。 纏まる国には底力を感じます。

だから日本人=超人はこんな緊急時には本当らしいと私には思えますね。

お礼日時:2011/04/13 09:39

仲間の死については解りません。

また勉強してみます。
さて武士道とは「見返りを期待せず死ぬ覚悟」
士道とは「死ぬ覚悟を内々に秘め己に恥じない生き方をする覚悟」
このような説明をすると死という言葉が一人歩きして暴力的なイメージが付き纏います。死生感が問題となるのは戦の究極の状況での話です。今は平和な時代ですので「見返りを期待せず死ねる覚悟」も「見返りを期待せず相手に尽くせるか」と言い換えてもいいでしょう。それはその価値があるか計算するのではなく「無償の愛」の追求ですかね。つまり「これだけ与えたらこれだけ与えられる権利」があるという下心が少しでもあれば「愛する」ではなく「利用する」と言わなくては自分自身に嘘をつく事になります。
れはユダヤ人にビザを発給した杉原千畝氏の生き様を見て頂けたら解ると思います。死ぬ覚悟までいかなくても出世を諦める覚悟が必要です。彼はユダヤ人の命を救っただけでなく自分自身の人間としての尊厳も守ったと思います。
さて武士道を日本人全てが解している訳ではない事は当然ですが今回の地震では日本人の行動が世界から称賛されています。心理的には他国の方と大差のない普通の人間です。だから秩序を守るため感情を押し殺してきた分、早くプライベートを確保してあげたいです。阪神大震災の時、私は西宮にいたのですが、ある男性が空腹感や寒さは我慢できるが大声で泣ける空間がないと気が変になると言っていました。この方は娘を亡くしたにも関わらず生きている人の救出にあたり落ち着いた時、自分の事を考えるのが怖くなったそうです。だから今回の地震でも感情を爆発させて涙枯れるまで生き残った家族だけで泣ける空間や一人で誰にも迷惑をかけず取り乱せる場所が必要です。人前で感情を表に出さない事を良い面と捉えたのが海外の報道期間ですがこれは単なる文化の違いと思います。
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この回答へのお礼

回答有り難うございます。

>「見返りを期待せず相手に尽くせるか」と言い換えてもいいでしょう。それはその価値があるか計算するのではなく「無償の愛」の追求ですかね。

実は、人間てこの行為の他には幸福感を味わえることは出来ませんので、これは武士道云々と言うよりも、人間なら誰にでも成れる境地なんだと思います。ただし、無償の愛といっても、償いが皆無ではやはり幸せを味わうことは出来ないようです。自分が尽くし切った相手から、そのことを認めてもらって、「貴方が居てくれて有り難う」と言われたときに天国に昇る気持ちになれる。

世の中には運の悪い人もいますから、折角尽くしたのに認めてもらえないことも有り得ます。そんなときに人は不幸を感じるのだと思います。しかし、そんな場合には私は不幸だったんじゃなくて、不運だったんだと思える人間になりたいです。

お礼日時:2011/04/13 10:01

zakky74でございます。



お礼欄による文章を観た時、cyototuさんは僕がお伝えするサムライのイメージではなく、cyototuさんご自身が思い描くサムライのイメージなんじゃないかな?という事を直感しました。

もし、そうであれば、補足説明が必要となります。

>宮本武蔵もそのじいさんも弛まない訓練の賜物ですね。西洋人はマニュアルが読めるようになっとき解ったと言いますが、日本人はマニュアルを無視出来るようになったときに解ったと言う。一兵卒としてのサムライの極致のご紹介だと理解しました。多分サムライには、団体戦の時の心得と言うのもある筈ですが、その辺はどうなんでしょうか。その辺も突っ込んで頂けると有り難いです。

この文章を観る限りでは、少なくとも僕がお伝えするサムライのイメージとは少し違います。前回のNo83の投稿、或いは前々回での投稿を、cyototuさん流に解釈された印象を受けました(実は、前々回の投稿時に薄っすらとは感じておりました故に、前回の投稿はそれ程、先に進まず、深める話に切り替えました)。

次いで、補足欄を読みまして、やはりcyototuさんにはサムライのイメージが伝達仕切れていないのでは、との思いが深まりました。

>#84さんのところでzakky74さんのご意見について触れてあります。私が気になったのは、人間て自分の生き死にを考えることは、自分以外の人の生き死にを考えるよりも簡単でるのではないのかという、人間の複雑さです。とくに、その人の生き死にが自分のやり方次第で決まってしまうような場合がそうです。一対一での対決で自分の死をどう考えるかは深刻なことに違いがありませんが、部下を統率する武士として、自分の判断で部下が死なせなくてはならないことがある。その場合の武士道に関して、zakky74さんのご意見をお聞きしたいです。

そこで、それが僕の思い込みなのか、或いは本当にそうなのか、確認したいと思います。それで質問させて下さい。

cyototuさんにお尋ね致します。

・サムライが、1:1での対決で自分の死をどう考えるか・・・についてですが、これは僕のイメージ体系から出た表現でしょうか?それともcyototuさんのイメージ体系から出た表現でしょうか?或いは、No84さんのイメージ体系から出た表現でしょうか?

・僕の説明体系は、サムライの自己の死について力点の置いたものだという判断は、何をどの様に認識されたからだったのでしょうか?

・死とは何でしょうか?cyototuさんの判断基準では、死をどの様に規定していらっしゃるのでしょうか?


いつも、疑問点を率直に仰ってくれてありがとうございます。

物足りなく思っているcyototuさんとの疎通・交流に変化が起きる予感が致しますし、また僕はそうありたいと思っておりますので、とても楽しみにしております。宜しくお願い致します。
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この回答へのお礼

zakky74さん回答有り難うございます。

人間それぞれ違った歴史と生き様がある。生まれたての赤ん坊を除いて白紙の人間なんて居りませんね。だから、どのような情報や言い回しを読んだり聞いたとしても、その人の既に作り上げられた世界観という色眼鏡に影響されて何かを理解することは言うまでもないことです。だから、同じ文章を読んでも人は皆違ったように理解してしまうことは大いにあり得る。私はあそこでああ言った、いやこう言ったと言うことは、それを尊重しつつも適度に留めておかないと情報の伝達すら不可能になっしいまいます。記号論理学や数学という超極端に単純な物事を対象にする特殊な学問の言語を除いて、それ以外のあらゆる複雑な事象に関しては、所謂ソクラテスの産婆術で、前もって聞き手にそれなりの認識がないものをその聞き手に納得させることは出来ない筈ですね。

私がサムライと聞くと始めに思い浮かぶことは、瀧山市右衛門の有名な言葉、「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」です。ですから、貴方がどのように表現しようとも、私が武士について思い描いたことは私のイメージがその主要な部分を占めていることは当然だと思います。私にとってzakky74さんの意見が貴重なのは、私自身が描いていた武士に対する認識に対して、もしかしたらzakky74さんが今まで私が見ていなかった側面を見せてくれる可能性があるからです。言わずもがなだとは思いますが、私はzakky74さんの意見を私の色眼鏡のフィルターに掛けながら、この部分は新鮮な驚きを味わっただの、この部分は私には余り重要なことだとは思わないだのという、独断と偏見に基づいた取捨選択をして居ります。どうぞ御気軽に反応して下さい。

お礼日時:2011/04/12 02:08

サムライについての解答が多いみたいですね。


私もサムライには憧れます。さて世界で初めて惑星間往復を成功させた小惑星探査機「はやぶさ」を運用するエンジニア、また米国以外で唯一、弾道ミサイルの迎撃試験を成功させた海自の隊員、または前人未踏の記録を打ち立てるマリナーズのイチローのようにどうも外国の方はstoicに物事に取り組み結果を残した者をサムライと比喩します。昔のサムライ=武士と言えば職業を指しますが現代におけるサムライと言えばは必ずしも戦闘を前提にしたものではありません。
ひと口で言うと武道と武士道と士道の精神を合わせ持つ者です。
武士道とは「見返りを期待せず死ねる覚悟」
士道とは「死ぬ覚悟を内々に秘め己に恥じない生き方をする覚悟」
生きる覚悟と死ぬ覚悟、そこには「守るべき大切なものを守る」が大前提になります。それが何かは人それぞれですが(ひとつでなくてもいい)自己愛を基本にするものであってはいけません。
サムライを語るとき武士道というより一個の人間として己の強さを追求する武道精神を考察さる方も多いと思います。しかし武道精神も肉体的な強さばかりとは限りません。
例をあげたら震災で東北の製造業が被災し、その影響で日本中で色々な生活用品が不足して皆が困っていますね。そんな時一人でコンビニの棚に並んだ乾電池を全部買い占める者がいる事を耳にしますが言語道断です。買い占めをやる方はレジの貼紙に「ペットボトルは一人二本まで」とか書いてあるのを見て恥ずかしいと思って欲しいです。節度と礼節を重んじる日本古来の武道精神は日常生活でも節度ある行動で初めて活きてきます。これは綺麗事ではありません。まず己自身が強くなくては実践に移せないですね。武道、武士道、士道は切り離して考えたらサムライとは何かを理解できません。
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この回答へのお礼

回答有り難うございます。

日本人を語るとき、さらに日本人の尊厳を語るときに武士道の話しになることは予想していませんでしたが、言われてみれば頷けますね。waka0798さんの武士道に対する視点の中には、節度と礼節と言うときに、恥という、どうも日本独特のキーワードが入っているようですね。zakky74さんには申し訳ありませんが、#83での自己の生死に関する力点を置いた説明に物足りなさを感じていたのですが、waka0798さんの説明では、他者に対する思いやりが出ていて安心しました。武士道とは、自己の死ばかりではなく、仲間の死をも思いやる心だと理解して宜しいでしょうか。

お礼日時:2011/04/11 20:33

zakky74でございます。



サムライについて、少しまとめてみたいと思います。

ただ、剣を持ったり、ちょんまげをしていたり、或いはその職業であったとしても、僕のサムライの意味としては選から漏れてしまいます。そしてサムライそのものも、時代を追って進化発展するものです。

途中、武器が入れ替わりしたり、戦いの形態が変わる中で、サムライの追求は寧ろ洗練されていきます。たった、剣を三回降っただけでサムライになれない様に、たった100年経ってみたところでサムライではありませんし、洗練課程では常にサムライです。

時を経てまでも、まるで蓄積されて成長しているかの様な、それがサムライです。戦国時代のサムライもありましょう。江戸のサムライもありましょう。その時代、時代でのサムライですが、まるで集団知性体・集団知能であるかの様にして日々、年々、進化発展しているのがサムライです。

常に常に洗練されながら、次世代へと託されても尚、洗練されていくもの。そして、侍がサムライであったり、農民であってもサムライであったり、商人であってもサムライであったりします。

戦いの中だけにお邪魔しているのがサムライではなく、どんな出会いをすれば良いのだろう?という追求があるところにはサムライがおりました。お茶会の世界もそうです。わびわび美学など。

勿論、戦いの中で洗練されていった世界が最もサムライっぽいですしイメージはしやすいのでしょうが。

サムライは、時代を追って進化発展する精神体そのものの様なものです。そんなサムライは、やがて戦いの究極の世界に到達します。それが、宮本武蔵の無刀の心です。

cyototuさんは、物語などを通じて世界の軍人の美学を紹介してくれましたが、僕はその一つひとつを詳しくは知りません。ですので、サムライについて、更に掘り下げながら例を幾つか紹介しますので、そんな世界観が描かれている物語、或いは歴史的な実話でしたら、そこにもサムライは存在しています。

その判断は、cyototuさんがされて下さい。

戦いは、相手の剣を見ては遅いです。剣よりは相手の手を見ます。手を見ても遅い、手よりは足を見ます。目で見る、耳で聞く五感覚の世界は簡単に騙されます。あ、こっちだ、と思えば次の瞬間は・・・と全く化けて出てくるからです。

それよりは呼吸を見ます。
次はどこを見ると思いますか?


心を見ます。
心を見る、と書きましたが、五感覚で見れますか?

サムライの感覚には、五感覚とは開きがある為に少し埋め合わせますね。

サムライは、自分の皮膚の延長が空気です。
空気は、自分の皮膚の延長なんです。

そんな細やかなセンスによって、自分の皮膚と空気の差を取ります。空気の延長が10cm、20cm、1m・・・どこまでも伸びていきます。その延長に相手の皮膚があります。その皮膚も自分の皮膚の延長です。

そうして、自分の動きは相手の動き、相手の動きは自分の動きとして密着感があります。それは五感覚ではありません。言うなれば氣感覚です。氣を感じて、氣を通じて動きます。

そうして、自分と相手の体は一体となります。

ですが、更に行くと体を動かしているのは心ですね。その心と体の差も取れてきます。すると、体の感覚も空気の感覚も相手の体の感覚も全てが一つとして動いている状態になります。この状態こそ、囚われない心であり留まらない心です。この状態では、心は体を超えて、回りの空気・光・風・・・全てが自分の心である事が明確に分かっている状態で、相手もその状態です。というか、既に相手ではありませんね。

それが心の差が取れている状態です。
そんな世界に、剣は何の意味がありましょうか?
剣は、切る為の道具ですが、一体何を切るのでしょうか?
サムライ同士は、それが分かります。

ですから、宮本武蔵が剣を捨てて坐禅を組んだ時に、塩田は打ち込めば勝ちなのに打ち込めずに逆に参りました・・・。これは、塩田の思い込みによって武蔵はスゴイ・・・ではなくて、氣感覚によって、明確に観た世界から来るものです。己(宮本武蔵)を観たし、己だからです。

五感覚では曖昧の世界ですが、氣感覚では明確です。

次に、じいさんの話。

狙撃の名手を見て、近くにいる人があの人は的を外しませんよと言いました。じいさんは、あんなものはわしには当たらんと言い放ち、本当にそうかを確認する為に、じいさんを狙撃しました。的を外さない狙撃主でしたが、じいさんには当たりません。

他日、別の狙撃主を紹介します。
何度やっても同じだ、とじいさん。

いざ構えると、まて、お前のは当たる、参った。と降参します。じいさん曰く、その狙撃主は構えた時に打つ氣が無かったそうで、狙撃が観えない。それを分かってしまったから当たる、と。

字数が。

この回答への補足

#84さんのところでzakky74さんのご意見について触れてあります。私が気になったのは、人間て自分の生き死にを考えることは、自分以外の人の生き死にを考えるよりも簡単でるのではないのかという、人間の複雑さです。とくに、その人の生き死にが自分のやり方次第で決まってしまうような場合がそうです。一対一での対決で自分の死をどう考えるかは深刻なことに違いがありませんが、部下を統率する武士として、自分の判断で部下が死なせなくてはならないことがある。その場合の武士道に関して、zakky74さんのご意見をお聞きしたいです。

補足日時:2011/04/11 20:41
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この回答へのお礼

zakky74さん、有り難うございます。

宮本武蔵もそのじいさんも弛まない訓練の賜物ですね。西洋人はマニュアルが読めるようになっとき解ったと言いますが、日本人はマニュアルを無視出来るようになったときに解ったと言う。一兵卒としてのサムライの極致のご紹介だと理解しました。多分サムライには、団体戦の時の心得と言うのもある筈ですが、その辺はどうなんでしょうか。その辺も突っ込んで頂けると有り難いです。

お礼日時:2011/04/10 22:45

横レス失礼します。



下のザッキィさんが示されているサムライは、藤原岩市さんのような方だと思います。
http://dogma.at.webry.info/200612/article_7.html

ガンジーがノーベル平和賞を頑に辞退し続け
暗殺されて倒れる前に額に手をあてて「許します、神よ」としたのは
インドのために「貴様と俺とは同期の桜、咲いた花なら散るのは覚悟」という
サムライを日本から呼びイギリスと戦わせたという。


猪突師匠☆こちらこそ難しいことはさっぱりなのですが、
一連のお礼文を読んでいても長文もすらすら読ませるところ流石です。
私は悪文ばかりしてしまうので、要点を短くして伝ないといけないのです。
短歌や和歌は私も素敵だと思います。
表現を削りながらも質を落とさない、すごい文化ですよね。

短いといいこともあって、
奇特な方?は行間に深い啓示が画されているとわかるのですね。
不思議と導いて解説してくれる人が現れて、ようやく書いた私もわかってくるという(汗笑)
逆説の極み!です。

自由についても今まで沢山の学説から参考にさせて頂いてたからなので改めて感謝状。
私の趣味は弟子入りすることのようです。和泉式部師匠?の本も読んでみます。
女を諦めちゃだめですね(?)

今桜が満開です。
満開ですが、もう直に散ってしまうのもう今から覚悟して
見るのも切ないです。
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この回答へのお礼

私は昨年の春に家内と30年ぶりに日本の桜を見て来ました。桜と錨は日本帝国海軍の艦内帽の帽章でしたね。軍人が花を頭に飾る。何か恐ろしさを感じさせますね。ライオンや鷲じゃない。花を飾る。大分昔読んだヘロドトスだったと思いますが、テルモピュライの戦いでレオニダス率いる300人程のスパルタ軍が20万といわれるクセルクセス率いるペルシャ軍と戦ったときに、死を覚悟したスパルタの軍人達は、頭に花飾りをして戦ったとか。それを見たペルシャ軍の外国人コンサルタントのギリシャ人が、こりゃ大変な戦いになる。あいつらがとうとう死を覚悟しちまったんだから、とクセルクセスに言ったそうです。

2千5百年以上はなれてスパルタと日本で奇しくも軍人の美学が花開いていたのですね。

お礼日時:2011/04/10 12:36

zakky74でございます。



>会話を進める為に、言葉の使い方を確認しておきます。

cyototuさんの仰る通りではないかと思います。
僕の伝達不足でした。補います。

「体と剣の差を取り」という表現ですが、サムライが意識する体、サムライが意識する剣、その意識内での格差を無くすという意味です。意識内での差を取る事で、結果的に「体と剣が一体化する」んですね。

「矛を止める」という表現ですが、まさに自分の体を突いてくる相手の矛を剣で止めるという意味に始まっています。次に、達人にもなると、自分の動き一つが相手を動かしますし、相手の動き一つが自分を動かします。

達人を更に超えますと、やがて自分は絶対に相手を突けない事を分かってしまいますので、突く事の意味を喪失してしまいます。相手は自分よりも必ず速く動き、自分の心を完全に掌握している事までを気付いてしまうからです。

サムライ同士の戦いは意識空間での戦いがそのまま現実空間に現れてきます。達人を超える領域にまで来ますと、ですから戦う為の道具が要らなくなるんですね。宮本武蔵の無刀の心はそこです。

結果的に、真のサムライは相手の「矛を使うことを止める」様になり、平和だという意味でした。合気道創始者の植芝盛平を引用して「自分を倒しに来た相手と仲良くなる事じゃ」という心に通じます。

>さて、サムライにもいろいろな多面的な側面がありますので、

仰る通りです。

実は心の内を明かしますと、僕がお伝えしているサムライとは、普通の日常会話で出てくる侍という意味合いとは少し違う観点から出発しています。

大雑把に言えば、侍という職業・仕事・役割が通常の侍の理解だとしますと、僕が取り上げているサムライは、サムライの心、サムライの精神です。前者は、ちょんまげをして剣を持っていたら侍という存在となりますが、後者はそうではありません。職業が侍であっても、心・精神が備わっていない場合はサムライではないという事です。

わき道かもしれませんが。

職業として政治家であっても、心・精神が備わっていない場合は政治家ではない・・・と観ている事と似ています。時代劇などで、幾ら姿格好を整えても、心・精神が備わっていない場合は、それは織田信長ではなく反町隆史だ・・・という様なものです。

繰り返しますが、サムライの心、サムライの精神について特に取り上げているものでございまして、そこに対してはcyototuさんも十分に読み取って頂いていると感じています。

そこでcyototuさんの疑問としては、戦国時代・技術革命の際にはサムライの心、サムライの精神はどうであったのか、というのが残ります。これに対してお応えします。

前回までの投稿では、真のサムライは、あらゆる差を取る事とお伝えしております。その例として、体と剣、体と体以外、自分と相手、という戦いの中では直面せざるを得ない格差を取り上げています。ですが、あらゆる差を取るものですから、必ずしも体と剣だけの差を取るという事ではありません。

戦国時代では、犬猿の仲の様に映る上杉謙信と武田信玄の戦いにも観て取れます。

ご存知だとは思いますが、念のために触れておきますと、とにかく両者はお互いにぶつかるんですね。戦いは何度も繰り返し、決戦というほどの熾烈な戦いでも勝負がつかず拮抗の状態にありました。いかほどの緊張状態でしょうか?

そんな中、武田勢に生命の存在を脅かす災害に飲み込まれます。
塩がないんですね。

戦いが、ただ相手を殺傷し、自らの存在を見せつけ、国力を増強するものの為に存在し、サムライはその戦いに身を投じるという事もあっても良かった時代です。そもそも戦いとはそういうものです。

ですが、日本には美学があります。

上杉謙信は、「塩を送れ」と言います。

人の命が失われていく事は痛くて哀しい事です。
それは民も、相手の軍勢も変わりません。

まず元気な姿で、出会いましょう。
生命として、出会いましょう。
存在感を持った状態で、出会いましょう。

それが上杉謙信の「塩を送れ」です。
差を取っている事が観えますでしょうか?

また、お茶会などもそうですね。

戦いだけに身を投じ、国を治める事のみに集中すれば良い様なものではないですか?そんな中で、お茶会が流行るのはどういう事でしょうか?

真に戦いを行うのであれば、一体どんな心でそれと出会うのかはサムライの関心ごとです。すみません文字制限が迫っているので、わびさび美学についてはサラリと済ませますが。究極の緊張状態の中でも、どんな条件・状況・環境の中にあっても冷静な対応、秩序を守れる姿勢、それが起こせるのは、心が柔らかいからであり、健康な心だから可能です。

サムライにとって、お茶会も戦いも同じです。差を取っています。
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この回答へのお礼

回答有り難うございます。

案の定、私は誤解していましたね。「矛を止める」を私は「矛をとめる」とは読まずに「矛をやめる」と読んでいました。その結果、「矛を使うことをやめる」と読み違いをしていたのです。#76の始めの所にも書いてありますが、論文なんか書いていて、そんな一寸した読み手の誤解で、論文の審査員なんかからケチが付けられると言う経験を何度もして来ています。だから、文章は難しいとも言えるし、だから文章の質を磨く楽しみもあるってものですね。

zakky74さんの言いたい事がやっと判り始めました、サムライに関するその側面なら、戦争の形態がどう変わろうが頷ける主張でした。

議論を延々と続ける気はないのですが、ただ、まだ私が説得され切っていないのは、そのサムライの態度は日本独特のものかどうかと言う所です。プルタークの比較英雄伝やヘロドトスの歴史や司馬遷の史記などを読んでいると、そのような天晴れな態度はギリシャにもローマにも中国にも在ったようです。また、戦史の中で、珍しく一兵卒が書いた物でも古典として生き残ったフランソワ ヴィゴ・ルションの『ナポレオン戦線従軍記』 (中公文庫) なんかを読んだときに、究極の状態での強靭さを示したこんな国の兵隊さんとは戦いたくないな、と言う気がしました。

あるいは、どこの国でも軍人の理想像は同じようなものだが、どういうわけか日本人はその理想像を一般民衆が実現しているところが日本独特なのだとでも言いたいのでしょうか。

お礼日時:2011/04/10 02:35

脈絡のない駄文失礼いたしました。


ご指摘されるようにその通りだと思ってはいましたが、
一回書き込んだものを訂正するほど几帳面でもないし、
大雑把なもので、だいたいのニュアンスが伝われば、
いいかと思っていました。
もしまったく伝わっていないなら書き直すこともやぶさか
ではありませんのでそのように言って下さい。
お願いいたします。

私は土着民族なので根なし草の気持ちは分かりかねますが、
最近特に歴史に学ぶはずのただの手前味噌や自画自賛を、
心の拠り所にしているのか、保身なのか、ただの内弁慶
なのかと懐疑的に感じているところです。こういう言い方
でまた語弊がありそうですが、最近の風潮をそのように
感じているまでなのです。
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この回答へのお礼

回答有り難うございます。どのような反応が返って来るか不安でしたが、杞憂でしたね。heartmaindさんの仰りたいことは、大局的にはこちらに伝わっていると思いますのでご心配無く。今後とも宜しく。

お礼日時:2011/04/09 21:03

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Q無から有が生まれるのか、生まれないのか?(生命の起源)

永遠のテーマといいますか、忘れ去られつつあるテーマと言ってよいかと思いますが、
これを何故問うかといいますと、知りたいからであり、それは仮に私がこれを知った時
には人生において何の変化もないとは思わず、この根本的問題をベースにしてあらゆる
ものを一歩深く知り感じ、とても豊かな知的生活がひょっとしたらできるのではないか
と期待するからであります。

科学的にはおそらくこれを確かめるすべはないと思いますが、どのように迫っているのか?
また、哲学ではどうなのか?それ以外ではどうなのか?

1.科学的見解をお願いします。

2.哲学的見解をお願いします

3.非科学的見解をお願いします。

4.個人的見解をお願いします。

Aベストアンサー

>とすると、人間も動植物も、地球も、太陽も、星雲も、同様の「抽象化」ということにな
るだろうと。

そうです。他の人から見ればこいつらに何言ってんだ?となるような発言ですが、今話題にしてるのはそういう事です。抽象化ってなんやねんと。

>そもそもこの「抽象化」という行為は、人間の脳の中で行なわれているように思えますが、
仏教の考え方では脳という「仮」の面で行なわれているということは、「空」の面でも同じ
ことが行なわれているということになると思います。
その原動力は「中」ということになるのでしょう。

でた、中。空の面でも同じことが起きているのではないか、となるとそれは考えられ得るでしょう。で、”中”の抽象化における働きですが、これが、先ほど疑問を持っていただいた”飛躍”の話ともつながって来るようです。

私どもは概念によって思考する訳ですが、今話題にしてるのは概念よりもずっと広大な世界についてです。概念はどうやってそんなことができるのかという事を説明するのが”飛躍”です。概念の本質に”中”があるというのは前に少し話題に上りました。私が思ったのは、あらゆる世界の階層の境界に、”中”が存在していて、一度この”中”を知ると、どの境界にも一瞬に思考を飛躍させることができるのではないか?という事です。概念を極めてその本質である”中”を知った時に、同時に”中”を介して他の世界、例えば生命とか、時間とか、混沌とか、あるいは一なる存在とか、言葉について知ることができる、と。

>「無限の非存在」「存在でも非存在でもないもの」「あらゆる可能性」…
存在に非ざるもの、存在・非存在に非ざるもの、あらゆる可能性、観念でない理解をしよう
と努力しましたが、どうも発想が出ないですね。

いや、これは発想が出なくていいんです。もし混沌について具体的な何かが発想できたならその人はどこかぶっ飛んでることになります。

>キサラギさんとしては「あらゆるもの、すべてのもの、全きもの」というものを想定してい
る、ということに意味があるという風に私は理解していますので、まずはこれでよいかなと。

あらゆるもの=混沌ですが、すべてのもの、全きものというのは、一なる存在のことです。
にゃんぽこさんのおっしゃる空に、ある意味で混沌は似ています。その内実は知りようがないという点が、似ているのです。

さて、抽象化に話は戻りますが、抽象化とは純化の一種ではないかとも思えます。そのものがそのものであることの根拠を満たしている、そのようにすることが抽象化ではないのかと。易しい言葉で言えば、形(すがた)を与えるということです。だからこれは、”中”の働きという事になってくるのではないか。

>とすると、人間も動植物も、地球も、太陽も、星雲も、同様の「抽象化」ということにな
るだろうと。

そうです。他の人から見ればこいつらに何言ってんだ?となるような発言ですが、今話題にしてるのはそういう事です。抽象化ってなんやねんと。

>そもそもこの「抽象化」という行為は、人間の脳の中で行なわれているように思えますが、
仏教の考え方では脳という「仮」の面で行なわれているということは、「空」の面でも同じ
ことが行なわれているということになると思います。
その原動力は「中」ということ...続きを読む

Q何の為に生きてるのですか?それとも分からないまま死を迎えるのですか?

あなたは何の為に生きているのですか?

子供の為とか奥さんの為とかそういう気持ちで生きているのですか?

或いは生きて何かしたい事が在るのですか?

それとももう悟りきって不動の心で生きていますか?

悟ったと思うは悟らないなり 悟らぬと思うは悟れるなり?

人生観のヒントになる事があれば教えて下さい。

Aベストアンサー

命がある限り、もー限界、お迎えが来るまで頑張ります。自分の為です、人の為に働いていても、身体は自分のものです

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q定義と定理について

中学2年生の子供から、定義と定理ってどう違うの?
と、聞かれあちこちひっくり返して探し説明しようとしましたが、うまく説明できず、わかってもらえませんでした。
どなたか解りやすく教えてください。

Aベストアンサー

「定義」が、単なる言い替えや、都合の良い言葉、という風に解釈されてしまうとまずいかな、と思いまして、補足します。
「定義」というのは「自然現象の発見」に近いものです。
 ある特定の性質に気が付いて、それに名前を付けてやる(つまり定義を与える)。そして他の性質との関係を調べていく。いつもその性質が成り立つのか、どんな条件ならそういう性質が成り立つのか、どんな例外があるのか、などを調べていきます。これは数学という研究活動の最も本質的なところであり、そして一番面白いところでもあります。
 ヒルベルトの形式主義はあくまでも、間違いを一切排除するための正式な書法ということであって、実際の数学者の頭のなかでは遙かにダイナミックな、自由な活動が行われている(多くの数学者の自伝等から分かります)。

Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Q名言・格言は面白い。

名言・格言、“癒しツアー”から。

オランダにはこんなことわざがあります。
「くよくよしてもしかたがない。どのみち予想どうりにはならないのだから」
本当にそう思うわ。(オードリー・ヘップバーン)

僕もそう思うな。
でも、
くよくよするんだよね。

あなたは?

Aベストアンサー

欠点を裏返すと 
それがその人の一番の長所であったりする。
羽生善治

簡単に割り切らない粘り強さ、とも言えます。
大いに、くよくよしましょう。

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Qあなたが人生を生きる意味を教えて下さい。 あなたが人生を生きる必要を教えて下さい お願いします。。

あなたが人生を生きる意味を教えて下さい。
あなたが人生を生きる必要を教えて下さい
お願いします。。

Aベストアンサー

美味しいものを食べて、
綺麗な音楽を聴いて、
美しいものを見るためかな。

Q偶然の誕生

私は、たまたま大阪で生まれました。
何故、10万年前に生まれなかったのですか ?
何故、10万年後に生まれなかったのですか ?
何故、虫や猿ではなく人だったのですか ?
何故、日本人としてですか ?
まだまだあります。
宇宙の誕生、地球の誕生、水や空気
そのように考えると、全てが偶然です。
偶然でないものはありますか ?

Aベストアンサー

#4です。

>「神と呼んでも構わないが、それのみが必然。」と言うことで、「なるようになった」と考えていいですか ?

この文に対するわたしの解釈が間違ってなければ、そうです。
少し切り口を変えて表現してみます。
たとえば、『宇宙の誕生』自体は偶然だと私も思う。
しかし、
宇宙はなぜ偶然誕生したのか?
と考えた場合、それは宇宙が偶然誕生するようになっていたから、と言うしかないと思うわけです。
で、「宇宙が偶然誕生するように」させていたものがあるわけで、その存在自体は必然と呼ぶしかないだろう、ということ。
それが何かは、むろん不可知ですが。
仮にわかったとしても、じゃあ、そのわかったものはどのようにして生まれたのか、という無限の問いを続けざるを得なくなるため、それが何かわかるような何かであっては意味がないわけです。それゆえ神という言葉で象徴可能かと申し上げた次第。


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