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あらかじめお断りしておきますが、この質問により誰かの思想を変えようとかの意図はありませんので、誤解のないようにお願いします。

日本には「神にすがる」といった習慣がありません。
正しい表現ではないのかも知れませんが、日本は「神様」ではなく「仏様」しかいないように思います。

神と言えば「宗教」となるわけですが、日本人は基本的に「無宗教」です。
無宗教と言うと反論として出てくるのが、葬式の時の宗派ぐらいですから、ほとんどの人が普段は宗教を意識していないことになります。
また創価学会など、いわゆる葬式の時の宗派から乗り換えた人もいますが、創価学会とて「日蓮宗」のようなものですから、「仏様」と言えるでしょう。
(ここまでの説明は質問の趣旨から見て重要ではありませんので、反論はご遠慮ください)

日本は悲惨な事件・事故があると、何かに「すがる文化」ではなく、何かを「恨む文化」だと思います。
悲惨なことがあると特効薬のように言われるのが「悲惨さを語り継ぐ」です。(しばらく経ってですが)
戦争しかり、脱線事故しかり、無差別殺人事件しかりです。

しかし、悲惨さを語り継ぐためには、まず自分たちが被害者でなければいけません。
それは、100%の被害者であるほうが語り継ぐには都合がいいでしょう。
ですから、第二次世界大戦でも日本の悲惨な終戦時の状況しか語り継がれることはありません。
そしてなるべく悲惨に伝えるには「憎しみを込めて」伝えた方がより効果的です。

百歩譲って、具体的な「恨む相手」がある場合はいいと思うのですが、今回のような天災の場合、地球を恨んだところで何の気休めにもなりません。
結果的に、国家であったり、政府であったり、県であったりを恨むしか、自分を慰める手段がなくなってしまいます。

自分が幸せになるためには、誰かその分不幸になって貰わないと困る文化、そうならないためには外国のキリスト教のような「神にすがる文化」が必要だと思うのですが、みなさんはいかがお思いでしょうか。

皆さんの率直な意見を伺いたいと思います。

(こちらの質問には正解はないので、しばらくの間は締め切らないようにしたいと思います)

A 回答 (10件)

日本では、10月のことを神無月と言います。


俗説とは言え、10月には神様が出雲大社に集まるので、
出雲は神在月、他は神無月というわけです。
俗説とは言え、月にこのような言葉があるのは、日本ぐらいでは?

春祭りとは、五穀豊穣を願って、神に奉納する祭りです。
つまり、神にすがっている。
秋祭りとは、五穀豊穣を神に感謝して奉納する祭りです。

今でも、スーパーの花屋に行けば、神棚に飾る榊(さかき)を
売っています。

葬式は仏式でも、結婚は今でも神前結婚が多いのでは?

受験などがあると神社にお参りして、お札やお守りを買う……
つまり、神頼み、神にすがっているのです。

つまり、日本は、実は、神と密接な民族なのです。

また、恨む文化ということにも、同意できません。
そもそも、日本は、他国の民族に支配されたという歴史がありません。
第二次世界大戦後の米国の占領でも、
天皇制が保たれるなど、支配されたとは言えません。
なので、根本的な、理性では抑えられない強烈な「恨み」の感情とは
無縁な文化なのです。
だから、日本人には、イスラム教対キリスト教、
カトリック対プロテスタント、シーア派対スンニー派、
などという宗教対立を頭では理解しても、
感情の問題としては理解できません。

つまり、日本には、恨む文化はもともとなく、
元々から、神々にすがる民族なのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

東北人の場合「疑う・勘ぐる」は当たり前、疑われる人・勘ぐられる人が悪いからです。
ですから、基本的に自分しか信じられません。
表面上、信じているようでも、心の中では常に疑っていて、隙あらば「ほらね」とさも自分が暴いたかのように振る舞えば、まさにヒーローにもなれます。

ですから、このような場所では「恨み・ねたみ・ひがみ」がうごめいています。
私はたぶんこれから東北のまさに生き霊の地獄絵図が繰り広げられると思います。
(決して望んでいるのでは、ありません)

お礼日時:2011/03/27 09:52

キリスト教の神は、神ではなく創造主です。

創造主、つまり主人だから額づきすがるのです。マリアは母ですし。ところが日本の神は創造主ではありません。私達がいる世界そのものです。
私達が宇宙を含めて、選択の余地なく、その中に生きなければなりません。それは「すがる」対象ではなく、“委ねる”しかない存在です。逃れる事は出来ません。

創造主にすがるのは対極に「すがるべきでない」存在が居るからです。ところが「ゆだねる」神には対極がありません。「すがるべきでない」邪神とか悪とか言うのは「すがる」神の対極なのです。
委ねる神における「邪」は人間の中にあります。人は人間の中にある邪を祓いながら神に委ねていくのです。
また日本などの神には一つの神の中に「和」と「荒」があります。この「荒」部分が後に「邪」や「悪」と同一視されてきました。

恨みからは何も建設的なものは生まれません。そこにあるのは破壊だけです。すがるのも対極にすがるべきでないものがある限り、それを排除するしかなく、そこには再生も改革もありません。またすがっているだけでは自立がありません。

「委ねる」とは「任し切る」とはちょっと違います。「人事を尽くして天命を待つ」とは「委ねる」事の基本です。出来る限りの努力をして、任せるということです。
人事を尽くすことに建設があります。発見があります。
問題は、私達が委ねている自然・世界。私達は本当に委ねる為の努力をしているでしょうか?
委ねて良い範囲での建設をしているでしょうか?
今回、男鹿半島付近では5Mの移動があったと言いますが、東京で5Mずれたらどうなりますでしょう。
古代人は智恵によって、肥沃な川べりで農耕を始め、高台に住んで災害から実を守りました。
ところが、人々は便利な低地にばかり都市を形成しています。

委ねる神の存在を、もう一度認識し、委ねるための努力をする。委ねられる世界を構築することが大切ではないのでしょうか。

私は考えます。今回の問題は、原発に「委ねた」結果でしょうか?それとも「すがった」結果でしょうか?

私の出発はカトリックです。しかし今の考えは神道に近いです。

ちなみに、日本は長く仏教の影響下にあり、神道の考えの多くも仏教から始まっています。元々神道には教理がないので、説明をする為に派仏教の教義を用いるしかなかったし、仏教に対抗する為にモ仏教の表現を用いなければならなかった。それに神仏習合で神社の多くも寺の管理下にありました。なので、『日本には仏しかない』と感じられるのだと思います。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
正直、もう締め切ろうと思っていたところでした。
これからは、最終書き込み日から3日以上を締め切り日とさせていただきます。

ところでいろいろと考えたのですが、申し訳ありませんが私の考えは締め切るまで控えさせていただこうと思います。
それは、これには正解がないこと、逆に言えば1つ1つの意見がその人の正解でもあるのです。
勝手な想像ですが、さらに突っ込んだことをお礼に書けば、たぶんもっと書き込みが増えるのかも知れません。
しかし、私は「反論」が欲しいわけでもなく、すでに書いた質問文を読んでどう思ったかだけで充分なのです。

また、多くのご意見を伺えただけで大変に感謝しております。
その関係上、私は個人個人の考えを尊重したいと思いますので、個別の事柄に対するお礼は差し控え、むしろ皆さまの意見から自分がさらに考えたことを「お礼」とさせていただきます。

またベストアンサーは(今回は)機械的に1番最初にご回答いただいた方を選ばせていただくことにしました。
(他の方は運が悪かったと思って諦めてください)
これ以降、書いていただいてもベストアンサーに選ばれることはまずないでしょうから、そのような方は、ご回答をしていただかなくとも結構です。

誠に勝手ではございますが、よろしくお願いします。

補足日時:2011/03/22 08:24
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
正直、もう誰もここを読まないでしょうし、また愚痴ぐらいしか書くことがなくなったので、お礼はこれで終わりにさせていただこうと思います。

ところで、結論としては私は(私が考える)「無宗教」なので、やはりどんなに考えても宗教と今の日本の現実とを結びつけて考えることは無理なのだと実感しました。(私がです)

でも、そう思えるようになったのも、皆さんのご意見があったからこそなので、非常に感謝しております。

以前、コンピューターの「2000年問題」があった時に「それ(2000年問題)に対処しても、プラスとしてのメリットが無いため、誰も積極的になれない」。
つまり「負の改修」と言われました。

今回の震災も、1度壊れたものは元には戻らない。
復興支援とは「負の改修」と似たようなものだと思います。

しかし、なるべく元に戻すことは日本や世界の多くの人にとっても幸せになることです。
まだ、復興支援を口にするのさえ、早いのかも知れませんが、なるべく早くみんなが心から幸せを感じられるようになって欲しいと思います。

どうも、ありがとうございました。

お礼日時:2011/03/31 08:34

神に限らず人々に君臨する大きな力を持つと考えられる主体は無いより有った方が良いと思います。


たとえ平和で異民族、異文化摩擦の殆ど存在しない日本に於いてもさえです。

神の大きな役割、それはシェンロンのようにガラガラポンと人々の夢を叶えるのではなくむしろ恐れの対象であり様々な価値観を持つ大衆をまとめる事だと思います。
唯一絶対神の場合は特に分かりやすいですが全ての人々に君臨する絶対の力を持つ何か。
この何かを恐れる事で大衆がまとまる、我々は対等な立場である、お互いみな兄弟であると。
兄弟ですから多少の喧嘩はするけれども激しい殺し合いはしない、する事は許されない。
結果この社会はうまくまとまる・・・と。
 日本やギリシャの多くの神々も目的や効果は同じ。

初詣に神社に行けば“同じ日本人”が数え切れないほど居ますがこれは何より民族としての安心感を抱かせます。神話もその効果は同じで同じ文化を持つ民族に共通の記憶を与える事。
批判を承知で書きますが神、仏、お祭り、花火大会、運動会、社員旅行、相撲のちゃんこ鍋も目的は同じ、帰属意識の醸成。
父親の存在感が薄い家庭では子供特に男の子がぐれる事が多く、怖い先生が居ない学級は崩壊しやすい。

神とはそのような存在で有ると思います。
ですから「私は無神論者です」などと言う事は決して自慢にはならずむしろ正体不明な野蛮人と思われるかもしれません。
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この回答へのお礼

どうも、ありがとうございました。

お礼日時:2011/03/31 08:35

全くの真逆意見ですね。



日本は無宗教?
日本は確実に仏教の流れが強いです。(現在は薄れてますが・・・)

日本は男尊女卑の時代が昔から強くあった事は歴史を勉強すれば一目瞭然ですが
その思考は仏教の教えから来ている(影響を受けている)思想です。
少なくともアメリカの影響を受ける戦後までは仏教の思考が強く影響されていましたし
男女平等などのアメリカ・キリストの影響を受けるまでは
日本はどっぷり仏教漬けになっており、そこには神も仏もありました。

また、日本は「恨む文化」だと言っていますが
それも逆で「感謝する文化」だと思います。
毎年、五穀豊穣を祈り、作物が採れればそれを感謝し
災いごとがあれば神に祈る、願いが叶えば神に感謝する。
お祭りごとや行事にはその様な「感謝の気持ち」からなる物が非常に多くあります。

「日本には神にすがる文化が無い」という意見がどうして出てくるのか不思議です。
昔から何かあれば、「神様仏様・・・」と神に祈る文化がありますし
「お守り」を代表とするように神に見守ってもらおう、「神にすがりたい」
という文化が確実にあります。

仏教=仏
キリスト=神
という基本的な解釈にも誤りがある為に生じた誤解、と言わざるおえません。
仏教も神と仏から成り立っているので、神にすがる文化もちゃんとあります。
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この回答へのお礼

どうも、ありがとうございました。

お礼日時:2011/03/31 08:36

>日本は悲惨な事件・事故があると、何かに「すがる文化」ではなく、何かを「恨む文化」だと思います。



この前提はあまり正しい認識とは思われません。
仏教的思想はまさに「仏様の教えにすがる」以外の何物でもありませんので、貴方の求められる神と同一のカテゴリーに入るでしょう。「仏様」とは本来先祖の霊ではなく、そういうものです。

言葉に拘るようですが、日本における「神」は皆さんが仰るようにキリスト教的な絶対神ではなく、天津神・禍津神・土地神・付喪神などが習合したもので、総称して八百万の神と呼ばれます。

このうち禍津神(まがつかみ)は「祟り神」でもあり、洪水・旱魃をもたらす水神・竜神などもこれに入ります。また崇徳上皇や菅原道真・平将門のような不幸な最期を遂げた方を祀った有名神社、靖国神社などもこの類といえるでしょう。恨みを残さず、荒魂の霊を慰めるために神として祀り、残されたものは災害(祟り)を神の所業として諦めて、彼らを記憶に留めるためにこれらは造られたのです。
決して「恨む文化」の産物ではありません。
原爆慰霊塔に向かい、米国への復讐を誓う日本人がいるでしょうか? 皆、死者の安らかな安息を願っているのではありませんか?

ただし、戦争や事故はまだ諦められますが、無差別殺人は狂気の産物であり、許すべき所業ではありません。加害者への厳罰をもって慰めとするしかないでしょう。

宗教はけっして全てへの救いではないし、万能の神などは存在しません。神は常に敬われるものであり、畏怖されるものです。私見ですが、畏れる気持ちを忘れないことが大事であり、それに依存してしまうべきではないと思います。
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この回答へのお礼

どうも、ありがとうございました。

お礼日時:2011/03/31 08:35

近年になってすっかり忘れられてしまいましたが


日本にも神を崇める習慣がありまたよ。

それはイスラムやキリスト教のような唯一神ではなく
この世に存在するもの全てに神が宿るという考え方で
例えば、今回のような東日本大災害は勿論のこと
戦争をも自然現象の一つとして受け容れてしまう文化です。

外国人が、先ほどの神戸地震や今回の大災害を前にして
冷静に行動する日本人に驚いているようですが
それは我々日本人の根底に、自然信仰のDNAが流れているからだと思います。

どんな宗教がその土地に根付くかは
それぞれの風土や自然、民族性に拠るものではないでしょうか?
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この回答へのお礼

東北では「本当・詭弁・嘘」の区別がつきません。
ですから、とりあえず相手に言ってみて、相手が納得すればそれが「本当」でもあり「詭弁」でもあるのです。
(「詭弁」は相手を納得させ、自分の目的をかなえるための手段として当然のように用いられています)

早くもその現象が現れています。
もはや「がんばれ」は被災地では"禁句"となってしまいました。
その理由が今でも、がんばっている人にがんばれは失礼なのだそうです。

そもそも「がんばれ」と"言われたから/言われなかったから"で、何か影響を受けなければならない方が、そもそも問題なのです。
また「がんばれ」は、普通の人であれば「今も大変だけど、これからもがんばってください」との意味と捉えるのですが、「これからは(まだ足りないから)もっとがんばれ」と捉えてしまっているのです。
もちろん、そう解釈した方が「自分に都合がいい」からに他なりません。

そして、それ以前の問題として「心ある人間」ならば相手の言葉を真摯に聞いていれば、相手の真意が伝わるはずです。
まさに話をしていても相手の気持ちが伝わらない、判断できない、そんな人が多いので詐欺に騙される人が多いのです。(東北は貧しい人が多いので被害数としては少ないですが)

お礼日時:2011/03/28 08:46

日本は古代から神の国です。




仏教は聖徳太子が後から輸入した思想にしか過ぎません。


八百万の神々といいますが、本来の日本は一神教です。


イザナギとイザナミが日本を産んだ国造りの神々とされていますが、

イザナギとイザナミに命じた神がいます
それが日本の本当の神でしょう。

あとはイザナギとイザナミが産んだ神々です。さらに、言えば、イザナギとイザナミが産んだ神々を全て封印して、イザナギの男神から生まれてきたのが天照大御神とスサノオでしょう。


日本の神はすがるのではなくて感謝する事によってより豊(金銭的ではなく精神的)にしてくれる神様です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

たぶん、日本は震災需要により逆に経済が潤うと思います。
それは日本がこれだけ経済成長したのは結局公共事業に寄るところが大きかったからで、しばらくは大手を振って国がお金を使える訳ですから、よくなると思います。

しかし、数百億円など金額が大きくなるほど地元では直接処理しきれず、結局首都圏を経由しないと何もできないでしょう。
結果的に、震災地は良くて元に戻るだけで、良くなるのは首都圏だけとの地域格差がより広まる可能性が高いと思います。
そして、それが震災地の人たちの「ねたみ」となるのは、間違いないと思います。

お礼日時:2011/03/27 10:01

アメリカみたいなキリスト教国家も有事には日本よりも国や政府、具体的な相手を探してもっとバッシングすると思う;


宗教心は関係ないでしょ。
はんがんびいき、みたいにより可哀想なほうの味方って情緒が関係するのかも。
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この回答へのお礼

どうも、回答ありがとうございました。

私がこのような質問をしたことは、今回の震災に関して危惧することとして質問したわけなのですが、やはりまだ心配です。

よく言われていますが、今はまだ命が助かっただけで幸せと思えるからまだいいのですが、次第に避難所生活が長く続くにつれて、不満が多くなってしまうのは当然のことです。

特に東北人は「違い=間違い」と考える傾向が強く、結果として「違い=不平等」と捉えます。しかも些細な違いさえ、自分が損をするのなら絶対に許さない気風なので、それこそすべての避難所が同じ食事でないと納得できないなどの問題が噴出するでしょう。

また、たとえばみすぼらしい家に住んでいたから貯金がないとは限らず、それまで立派な家に住んでいた人でさえ、貯金がなくお金を稼げる保証がない限り、みすぼらしい家に住まなければならない可能性も高く、場合により貧富の逆転現象が生じるでしょう。

この前まで、優越感に浸っていた自分の家よりも、隣の家の方が立派になることさえ、当然起こりえるのですが、このような「不平等」を絶対に許さないのが東北の怖さなのです。

たぶん、阪神淡路大震災の時とは違う問題が噴出すると思いますが、それはそれで仕方がないでしょうし、良い意味でも悪い意味でも東北人気質を知らしめる、いい機会なのだと思います。

お礼日時:2011/03/25 10:42

神頼み、という言葉がありますし


#1様もおっしゃってますが八百万の神という考え方があります。
目に見えないもの、を崇める
人力ではどうにもならないものを畏れる、
そういう文化は日本に根付いています。

仏教もさまざまな宗派に分かれましたが
疫病や天災などどうしようもない状況を
「なんとかして」ということで
政治的にも根付きやすい状況がありました。
それは時代が変わってもそうです。
そこには「恨む」というより「すがる」という感情が
大きいように思います。

ですから悲惨さを語り継ぐ云々と宗教の話は
ちょっとズレていると感じます。
ストレスを与えられて、それをどう発散するか
という話なので
「神にすがる文化」があればそれで解決するのかというと
別に他の宗教を信じているところに
トラブルがないかっていうとそうでもなく
むしろ多いですね。

自分が幸せになるためには、
誰かその分不幸になって貰わないと困る文化、
なのであれば
被災地はもっと荒れていると思います。

神は信じたい人は信じればいいし
そうでなければそれでもいいと思います。
信じたほうが生きやすいのであれば
信じたほうがいいのでしょうが
そうでもなければ
別に必要のないものだと思います。

私は学問としての仏教は興味深いと思いますが
信じてすがるという感覚はありません。
手を合わせることは
すがるというよりも
生かしてくれてありがとうという感じです。

この回答への補足

補足で失礼します。
多くの方の書き込み、感謝いたします。

みんな一緒くたにして、総評のように申し上げるのは好きではありませんが、どうも多くの方の意見を「ディベート」として考えると確かに立派な意見のように感じます。

しかし、やはり自分の都合のいいところだけピックアップして意見を述べているように感じてしまいます。
過去がなければ現在が無いので、過去のことを振り返るのもいいと思います。
しかし「現実論」はどうなのでしょうか?

もちろん、すべて主観なのでどれが正しくてどれが間違っているという問題ではないのは、理解できているのですが「現実的にどうなの?」と考えてみると、理想論や建前論のように思えます。

たとえば、祭りであったり神事、祭事などは参加することが目的であって何らかの思想があって参加している人など、限りなく少ないでしょう。
要は「イベントに参加すること」や「イベントを代々引き継ぐこと」が目的でしかないのです。
その意味で、別にキリスト教でなくともいいですが「思想」に踏み込んだ宗教があってもいいと思います。

補足日時:2011/03/18 21:13
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

不覚にも補足欄で「ディベート」と書いてしまいましたが、実際のディベートは意味が違います。
本来、自分の主義・主張があって、その上で相手の言い分を考え「自問自答」することで、自己矛盾がないかを考えたり、またお互いがお互いの言い分を予想することで深く掘り下げた議論をしやすくするのが、本来の「ディベート」の目的のはずです。

しかし、残念ながら日本ではそもそも「議論」の習慣がないため、自分がどちらについた方が得をするかの「損得勘定」の判断手法であったり、相手を「言い負かす」ための手段として「ディベート」が用いられているのが現状と思われます。

そして、このように書くとたぶん私よりも「理論」においては数枚上手の人がいて、まさに日本流の「ディベート」で言い負かされてしまうのもよくあることです。

つまり「知識」として詳しい人は多くいて、しかしそれはあくまでも知識でしかなく、実践としてそのメリットが生かされていない場合が多々あります。
今回の質問も、趣旨を変えずに質問の仕方を変えれば、たぶんまたそれは違った回答が多く寄せられたのではないでしょうか。
それは、必ずしも発言に一貫性がないと言っているのではなく、質問の仕方を変えれば別の人が書き込むのではないか、という意味で、結局はみんなが「言い負かしやすい」方の意見を述べている感じがします。

最近では学校でも「ディベート」での議論をやっていると聞きます。
たぶん、先生方であれば私よりも「ディベート」の理論、メリット・デメリットなどは詳しいのでしょう。
しかし(たぶんですが)「まだ子供にそんな難しいことを言ってもわからないから」「勝ち負けで考えた方がわかりやすいから」「みんなその方(勝ち負け)が楽しそうにやるから」などとたぶん、結局「言い負かす」ことが目的になっていると私は思います。

国内では、これで均衡がとれているのでいいのでしょうが、外国ではまさに言い負かすことを目的とする「信用できない人」となってしまいます。日本の外交下手(だから「駆け引き」が重要な手法として用いられる)も、このあたりに原因があるのではないでしょうか。

お礼日時:2011/03/28 08:25

> 日本は「神様」ではなく「仏様」しかいないように思います。


いえいえ日本ほど多くの神様がいらっしゃる民族はありません。
多くの西洋の宗教は唯一絶対の神しかいませんが、日本の場合八百万の神々がおわします。
    
日本の場合「神にすがる」ではなく「心の拠り所」としての神様だと思います。
これでいいのではないかと思いますよ。

この回答への補足

回答ありがとうございます。補足にて失礼します。

No.1さんに対してでは無いですが、
(私の質問より)>~反論はご遠慮ください
「神の存在」とか書きながら「前半部には反論するな」は無いですね。
無視してください。

でも後半部「悲惨さを語り継ぐ」ことについて触れた回答もお寄せいただければ幸いです。
また、お礼については多くの皆さんのご意見をよく考えてから、あらためてお礼をさせていただこうと思います。

どうも回答ありがとうございました。

補足日時:2011/03/18 19:19
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この回答へのお礼

回答どうもありがとうございました。
当初、No.1さんをBAに選ばせていただこうと思っていましたが「参考になった」の多い方を選ぶのが理にかなっているかと思い、No.4さんをBAに選ばせていただきました。
優柔不断な私を許してください。

でも、私としては(今回の場合)一番、理にかなったものだと思います。
「参考になった」を押すことは何ら利害関係がなく、一番客観的判断と思われるためです。
また、それを告知しようかとも思ったのですが、不正に繋がる恐れがあるため、あえて控えさせていただきました。

どうぞ、これからもよろしくお願いします。

お礼日時:2011/03/25 10:27

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