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こんばんは

今日も質問させていただきたいことがあります
それは、キリスト教に向けられる批判にはどんなものがありますか?
ということです

魔女狩り
宗教戦争 etc...

ほかにもあげられるかもしれません、どんなものがありましょうか?
そして、それに対して、クリスチャンの方はどのような見解を持っておられますか?

いま、私の一番の疑いは、
キリスト教は、政治の道具であったのではないか? というものです
(争いの多くは、キリスト教や神が悪いのではなく、
国・政治などの統治(人間側)の問題だと、思ってはいるのですが)

私は漠然とですが神を信じているし、
信仰の確信を得たいと思っています
人生には人間が自分で判断を下すことができぬ諸問題があると感ずるゆえです
(だから教えの疑いを拭い去りたい)

旧約聖書から読んでいくと、そこではいわゆる キリスト教における愛
というものにそぐわないような行為の記述が見られ、
かつ神もそれを受け入れているところがあるように思われ(創世記の エサウ ヤコブ リベカ の件など)、
そのような思想の持ち主の神は、キリスト教における神と、
お互いに相容れないところがあるんじゃないのか
などと馬鹿な愚かな頭で考えている最中です
(つまり、キリスト教は旧約聖書を聖典としながら、
実際にはそれとは乖離する思想をも含んでいる?とうたぐっているというわけです)

支離滅裂な文章で申し訳ないです
自分で見返しても見苦しい

ですが、どうかご意見をお待ちしております
すみませんが、よろしくお願いいたします

A 回答 (10件)

私もカトリックですが、魔女狩り、宗教戦争については、


宗教的問題ではなく、政治問題と一部の聖職者の堕落
のせいだと思っています。人間は神ではないので仕方ない
のでは無いでしょうか。

その証拠に、日本でも、バテレン狩り、キリシタン弾圧
さらにさかのぼれば一向一揆などもありました。

日本の仏教も同じような問題を起こしているのです。
キリスト教が一方的に悪いとは言えません。

神道(国家神道)も天皇は神だと主張し
中国やアメリカに宗教戦争を仕掛けました。
(私は、これは神への冒涜だと思うのですが)

現在でも、ローマ教皇は、カトリック信者に対しては
絶対的権力を持っていますが、信者以外には
その権力は使えません。

現在のカトリック教会は中世暗黒時代とは違うのです。

>旧約聖書から読んでいくと、そこではいわゆる キリスト教における愛
というものにそぐわないような行為の記述が見られ、

旧約聖書と新約聖書で違うことが書かれていると思ったら
新約聖書を信じてください。

もともと、旧約時代の律法を完全に守ることは
日本人には不可能です。

宗教ではなく、法律の話になってしまいますが、
古い契約を結んだ人が同じ人と新しい有効な契約を
結んだら新しい契約に従うのが当然です。

新約、旧約とは、神との新しい契約、古い契約
という意味です。
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この回答へのお礼

返信が遅れてすみません
回答をありがとうございます

お礼日時:2011/04/08 05:30

カトリックのクリスチャンのものです。



パッと思い浮かぶのは、ガリレオ裁判や14、15世紀モリスコ(イベリア半島のイスラム教徒)の迫害などがありますね。あと、詳細は把握していないのですが、回勅(回勅とは、ローマ教皇から全教会に発せられる信仰や司牧に関する文書)『フマネ・ヴィテ』に見られる人工的な避妊に関して倫理的点から問題提起したことなどが挙げられます。また、つい最近でもローマ教皇がコンドームの使用について、倫理的観点から否定的な発言をしたとして話題になりました。

前提として押さえておかなければならないことは、これら事象には政治的あるいは学術的に非常に複雑な背景が絡み合っており、正しく理解をするためには高度な学問的知識を要求されます。私も専門家ではないので、いくつかのトピックスについて一個人としての見解をお伝えしようと思います。

(1)魔女狩りについて
魔女狩り=キリスト教というイメージが強いようですが、そうではないようです。ごく一部ですが概要がウィキペディアに載っています。当時の社会不安や欧州特有の民衆文化とも密接に関わった問題のようです。

(2)科学と宗教の対立について
科学的な事実に対して宗教が否定する、という問題があります。過去も現在でもそうですが、キリスト教内外の一部ファンダメンタリストが聖書の世界観を科学的事実としても捉え、そして多くのクリスチャンではない方々に対して、あたかもそうした聖書理解がキリスト教そのものであるかのような印象を与えてしまう悲しい現状があります。
聖書はその時代時代の文学的手法を駆使しながら作られた創作物であり、科学書ではありません。

科学の役割は「世界はどのように存在しているか?」という世界のメカニズムを無矛盾に捉えることです。それに対して、聖書は「世界はなぜ存在しているか?」を神と人間の関係から捉えるものです。世界の存在メカニズムの解明は科学の役割でありますが、世界の存在理由の説明は宗教の役割であります。双方の領域を正しく認識するなら、科学と宗教は対立するものでないことが分かります。

よく生命科学の領域で科学的成果や研究手法、開発された技術等に対して、異議を唱えることがあります。これは、人間の尊厳を守る立場から警鐘を鳴らすことであり、科学的事実を否定するものではありません。
最近では最終的には破棄されるヒト受精胚の研究利用に関するパブリックコメント(文部科学省)に対して、カトリック教会の立場で明確に反対を表明する出来事がありました。受精した段階から命は存在するのか、それとも受精段階では命とは言わないのか、、、その倫理的判断が問題になっていることです。こちらのURLにパブリックコメントが載っており、その倫理的価値がせめぎ合う最前線を見ることができます。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/080710. …

(3)他宗教、他者の迫害について
これについては思うことが多々ありますが、以下の福音書が示す価値が正しい道を示していると思います。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)

病気の人、飢えている人、家がない人等々・・・etc、もっとも小さな人にしたことが私(つまり神様)にしたこと、と福音書では教えています。困っている人に手を差し伸べて愛を与え合う事が、私たちにできる最高の勤めだと思います。どの宗教に属しているかに関係なく、この勤めを果たす者に神のご加護があるはず、多くのクリスチャンはそのように信じていると思います。文面の都合で略しましたが、30節~40節までの文章、とてもよいことが書いてありますのでぜひお読みになってみてください。

まだまだ書きたいことはたくさんありますが、ぜひご参考になればと思います。
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この回答へのお礼

返信が遅れてすみません
ご意見とても参考になります

質問してよかったと思っています
ありがとうございました

お礼日時:2011/04/01 11:24

お礼をありがとうございました。



どんな事象にも二面性がありまして、例えばカソリックが権威主義的であったために、いまだに一枚岩であり、新教のようにたくさんの派閥に分かれてゆくことはありませんでした。カソリックの政治力の勝利でしょう。

その強引なやり方を21世紀に住む我々が批難するのは、簡単なことですが、その当時の常識、風俗、習慣に従ってみれば、最良の選択を取り続けたといえるかもしれません。その権力は今でも衰えていないのですから。

No1さんの回答にあるように、聖書の成り立ちの歴史は徐々に解明されつつあるようで、アメリカでもたくさんの聖書学者たちが生涯をかけて、研究をしています。私の知っている(本やニュースで読んだ)ものには、創世記の書き手は二人いて、時には矛盾する記述をしている。創世記のアブラハム以前の記述には、メソポタミアの伝説であるギルガメシュの影響が見られる。人類はエチオピアで発見された一人の女性から枝分かれして現在に到る。全て、20世紀の考古学的発見で証明されている説です。

現在でもイラクとトルコの境界地域をドイツの考古学者が発掘していますし、アフリカのグレート・リフト・ヴァリーが大規模な地割れを起こしていて、古い層の人骨が発見される可能性が大きいです。ですから、また新説がでる可能性もあります。

質問者さんの仰る自然科学に反するというのは、創世記の一章から十一章の記述だと拝察します。私個人としては、”聖書ではこう記述されているけれど、現在の自然科学ではこう説明されている。そこにはギャップがあり、我々の聖書の読み方に間違いがあるのかもしれないし、自然科学の仮説には向上の余地があるかもしれない。決定的になるまで、新たな物理的・考古学的発見を待ってみよう。”というのが一番近いと思います。

余談ですが、私の周りには頑固なキリスト教原理主義者がたくさんいて、聖書の一字一句を全て事実として真剣に受け止めています。聖書の勉強会で、いつも議論になってしまってしんどいので、お休み中です。進化論を否定するんですが、キリスト教徒は全て、死んだらすぐに天国に行くのだと、言い張ります。そんなことどこにも書いてないんですけど。。。結局、原理主義者といえども、自分の気持ちが安らかになるようなお説を受け入れているのではないか、と思うに到りました。

最後にジェファーソンは異端と呼ばれるユニタリアンでありまして、キリストを神と認めずに、モラルの先生と見ていたことをお伝えしておきます。質問者さんのお説の通り、カソリック的信仰心は薄かったでしょう。

正直な話、私も他の方に回答を書けるほど達観しているわけではないのです。日々、迷ったり、躓いたりしています。聖書のお勉強+それに基づいた行動+感謝のお祈り=成長に繫がるらしいんですが、バランスをとるのは難しいです。

ご健闘をお祈りします。
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この回答へのお礼

返信が遅れてすみません
参考になります

長く付き合ってくださり、ありがとうございました

お礼日時:2011/04/01 11:21

ノルウエイの森は、一晩で読んだ程度で、内容はうっすsらとしか覚えていませんが、先輩?の彼女の心がわかり、心が痛かった記憶が。



確か、先輩?とつきあっていたが、先輩?が自由に生きることを妨げないでいたわけですよね。
彼の生き方を妨げず、自由にやりたいようにやらせることが、彼女の彼に対する愛。

だけど、嫌われたくなくて彼の自由を許し、それを愛だとしていた。
だけど、なんといいかしょうか、所有が無いことが、、、、、

彼が風俗で遊ぼうと、「いいのよぉ あなたがやりたいようにしてね」ってしたもんで、彼からしてみれば「できた女」だが、はたからみたら「都合のいい女」でしかない。

彼女なりの精一杯の愛ゆえに、彼が自由に生きること許した というか 妨げないでいた。

だけど、その愛が彼女の心を孤独にして、所有の無さが彼女を不安にさせ、不確かさが彼女の生きる活力を殺いだと思えました。

記憶があいまいですけど、彼女が本当に心底愛していたのは、彼だけど、彼女は彼が束縛されるのを嫌っているのを知っていたので、彼が結婚を望まないので、自分は別の男と結婚したんだったような。
しかし、心は彼だけを愛しており、結局 結婚生活がむなしいものになり、生きることが空しく思えて自殺したと、私は受け取りました。

馬鹿な女 って思いましたが、彼女の心は十分理解できたつもりです。

「そうね 死ぬしか この苦しみから逃れる手段は無いよね」って思った。

そうなると束縛というものは、時には必要なものなんだ って思えてきて、CMかなのかで流れていた「君の心へ続く 長い一本道を」って曲を聴いたとき、ノルウエイの森を思い出しました。

「自分の大きな夢を追うことが 今までの僕の仕事だったけど、君を幸せにする それこそが これからの僕の生きるしるしぃ」

先輩はそれに気づかなかった。
彼女が自殺してはじめて彼女の苦しみがわかったと思いました。
遅過ぎた。

「さよならいつか」とはまた違うラブストーリー。
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この回答へのお礼

返信が遅れてすみません

そういうことでしたか、同感です

浮気/不倫といった問題は、
妻や配偶者への背信が大きな悪であると私は考えるのですが、
この話みたいに、彼女がそれを容認する場合、
善悪の判断はまた難しい問題ですね

勝新太郎も石原裕次郎も三浦知良も、
半ば公然と他に女がいた訳ですが、
彼らのケースでは、彼らが本気で妻を愛してて、
他の女達とは、いわゆる遊びの関係だということが、
妻たちにも判っていたんでしょう

賢い、強い妻だと思いますね

ハツミは彼を愛するゆえに遊びを容認したとはいえ、寂しかった

個人的には、彼は他の女にうつつを抜かしつつも、
も少し自制するべきだったし、
なによりハツミをもっと大事にしてやるべきだった と思う

自由が彼女を殺したんですね

お礼日時:2011/04/01 11:45

 こんにちは。



 次のように組織宗教というものを咎めて質問をしたことがあります。
 【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html
 
 そこでの趣旨説明です:
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~
 (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?
 
 (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?

 (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?

 (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?

 (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?

 *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか? 

 *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ その質疑応答を参考にしてくださってもよいと思いますし ご自分でさらにお考えになるのもよいかと思います。いかがでしょう?

 聖書・殊に旧約聖書における問題点については 次の投稿を参照していただければ幸いです。横着なお答えの仕方になりますが。

 【Q:クリスチャンとは、聖書をベースに知的パズルを楽しむグループですか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3992297.html
  回答No.11&19
 
 【Q:神様についての疑問】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4551515.html
  回答No.9
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この回答へのお礼

返信が遅れてすみません

ありがとうございます
参考にさせてもらいます

お礼日時:2011/04/01 11:19

無心論者(成人の人間を作った特定の者がいるというのを信じない者)です。



まず、イエスの生誕および滅びの経緯はエジプトのオシリスやホルスの内容と一緒であるという指摘があります。
イエス以外にディオニソス、ミトラなどの物語も同じですので、何千年に一回程度で物語の主人公名が変えられながら、古代エジプトの神話が伝えられたってことですね。
結局は太陽のことで、太陽は生命にとって必要不可欠な存在ですから、どの時代になっても太陽を崇め奉ってきたわけです。

で、律法はハンムラビ法典を同じような内容がいくつもあり、いきなり神からこの民族に伝えられたというより、今までの法律を整理して明文化したってわけですね。
神から与えられたとして、自分たちが明文化したものに権威と信用を与えたと思えます。

で、旧約聖書を見ると、憲法と同じような役割を担っており、民族が判断をするときの柱として利用してきたようです。

聖職者向け、政治家向け、などどういう振る舞いをするか基準が制定されており、それを基準にして今の振る舞いを決定してきたと思えます。
もともとは聖職者と政治家は同じ人が担当していたのですが、国を作りその国の政治的リーダーの必要性が叫ばれ、サウルだったかが政治的なリーダーとなった。

この物語の全体に流れるものは、主人とそれに使えるものとの関係が永遠に描かれているように思います。
例えで説明されていると思います。

放蕩息子の帰還などでも説明されている。
財産を使い尽くして戻ってきた長男を、父親は手放しで喜び愛し、長男が家を出て遊びほうけている間、次男が父親の仕事を手伝って家を守ってきたのに、父親は遊びほうけていたが、財産を使い尽くして、父親の使えるからどうか家においてくださいとわびてきた長男を手放しで喜んだ というもの。

成長して自分の行いを反省して戻ってきた長男を、父親は放蕩息子が真人間になったと喜んだという場面。
もともと真人間な次男は変わらないわけで、変わった長男の変化を父親は喜んだってわけです。

新約のほうでも、すでに清いものには関心が無く、そうではないものに対して布教せよ みたいな内容になっている。
変化する必要性が無いものに、変化を求めることは無いですからね。

そうやって自分たちの民族が憲法の沿って過ちを犯さないようにしてきたわけで、これは今の日本が日本国憲法を掲げて、判断に迷ったら憲法に照らして判断を下しているのと一緒。


長男に長子権があったのですが、長男であると認める物があって、それを持っていないと長子権があると認められなかった。
口だけじゃだめだって言うのが、エサウとヤコブの例。
エサウを騙して長子の証を手に入れたヤコブは父親が目が悪いことをいいことに、父親に自分に権力を譲るって宣誓させたわけですよね。
長子の証を持っているものに祝福を与えるという儀式なので、条件があっているので、「今の儀式は間違いです やりなおします」って言えない。
それほど証明書って重要だってことですね。

例えばキャッシュカードと暗証番号で銀行から引き出せるが、盗まれた人が脅されて教えて他人が引き出しても、銀行は「本人が引き出したのではないのならお金を戻します」と戻さなくてもいいですよね?

りべカの件は、その後のダビデが罪に気づいたことで罪が消えたという内容を語っている。
気づかず罪を犯して、その後に自分は罪を犯したと自覚し認めたら、預言者に宣誓によって罪が消えるってこと。
逆に罪だと思っても反省しない場合は、律法(法律)に沿って裁くってわけです。


旧約聖書では同じ民族同士で許しあうことをたとえ話で説明されている。
過失に関しては相手に損害を与えたことを認め謝罪してきたら許しなさいとなっており、聖書でも罪を求め許しを講てきたものは、何度でも許すことと書かれている。
なんでもかんでも許せとは書かれていない、知恵をもって相手が本当に口だけではなく悪かったと認めた場合は許しなさい。そうすれば裁判を起こされ律法により罰を与えられることは未然に防げ、ご近所さん同士今後も仲良く暮らしていける って教えなわけです。

それを勘違いして、殺人を犯して反省の色がまったく無いものまで許すべきだと聖書は言っているなど嘘を信者に教えると、信者は到底許すことに納得できないまま「神はなんでかんでも許せと命令しているから、私は許しますと言います」と苦痛を感じるわけです。

そのように律法を捻じ曲げた悪用してきた歴史がキリスト教にはある。
神を騙って自分の都合のいいように聖書を利用してきた経緯がキリスト教にはある。
もし本当に神がいたら、聖職者全員 もっとも罪が重いとなり、永遠の地獄送りとなりますね。

この回答への補足

あ、あとすみません

まったく関係ない話なんですが、
いつかkigurumiさんが村上春樹の小説『ノルウェイの森』に出て来る
ハツミさんについて言及されてるのをたまたま読んだんですね

自由が彼女を殺した

とたしか、仰っていたと思うのですが、
あの件、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか?
例え話みたいな形で

補足日時:2011/03/29 10:35
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この回答へのお礼

ありがとうございます

じつは、kigurumiさんのご意見は、
聖書などからの引用に基づくものが多いので、
何時も参考にさせていただいてます

お礼日時:2011/03/29 10:26

聖書の記述は、決してそれを鵜呑みにして、自然科学で証明されうる事柄について、”聖書の名において”否定するべき性質のものではないと思います。



理想的には、キリスト教徒は、謙虚に、いかなる時代・場合においても、自身が無知な範疇の問いには、正直に”判りません、間違っていました、知りませんでした、仰るとおりです”と膝を屈すればいいのです。

けれども、現実的に歴史を振り返ってみると、教会の権威を持って、真理を追究する人たちおよび進化してゆく自然科学を否定し続けてきました。その体質そのものが批判の対象になってしかるべきだと思われます。

いわく、時代錯誤、偽善者、権威主義者のそしりを受けるのも、まず、理由のないことではないのでしょう。

さらに、異端派閥への容赦ない弾圧、スペインの異端諮問、宗教改革後のカソリックと新教徒の戦い、など、私一人ごときが毎日祈っても、一万年かかっても祈り終わらないような、殺伐とした歴史があります。キリスト教徒が敬虔であれば敬虔であるほど、他宗教徒への弾圧が激しかったという事実もあります。

ただ、その暗黒の過去を理由に、キリスト教憎むべしと言うならば、第二次世界大戦に到るまでキリスト教徒を弾圧し続けた日本政府など、キリスト教徒から憎まれても仕方がないのですが、そんなことはお互い様ということで、現在とそして将来に視点を移してゆくのが、正しい選択なのだ、と私は考えるのです。

質問者さんが旧約聖書の神の裁きの厳しさに違和感を感じるのなら、四福音書の中のイエスの言葉だけに焦点を当ててご覧になったらいかがでしょう。アメリカの第三代大統領、トーマス・ジェファーソンは新約聖書を切り貼りして、奇跡や不合理な叙述を廃した、自分だけの聖書を創っています。

旧約聖書の中で特に私が愛するのは、ルース、エスター、ジョブ、ジョナー(Ruth,Esther,Job,Jonah)の四書です。これらの本は、イスラエル陥落後、世界中を放浪したユダヤ人のための書のように思われ、旅人暮らしの私の、多いなる心の慰めになります。

イエス自身は、”神と人の契約を覆すためでなく、完成するためにやってきた”と自分の役割を規定しています。それを心の支えに、祈り続ければよいのだと思うのです。

あ、あと、アメリカ人の原理主義者についてですが、50代は進化論に首をひねりますが、20代はもっと合理的になってきています。希望はあるわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

>理想的には、キリスト教徒は、謙虚に、いかなる時代・場合においても、自身が無知な範疇の問いには、正直に”判りません、間違っていました、知りませんでした、仰るとおりです”と膝を屈すればいいのです。

現在の、クリスチャンの方が取るべき、正しい選択なのでしょうね

ただですね、やっぱり私は気になってしまうのですが、
そうした所謂、科学的に誤った記述から(あまり教えの上で重要でないにせよ)、
やっぱりこれは人間の作り出したものなのかな?
誰かが自分の都合の良いように書いたのかな?
と、疑ってしまうのです
でも、それよりずっと多くの、すばらしい言葉の数々があることも知っています

ジェファーソンの取った態度が、やはり究極的には正解に近い(私も倣うかもしれない)
のかもしれませんが、
そうなるとやはり全幅の信頼というのにはならないのかな と

もう少々、その点について教えてくださいませんか?
よろしくお願い致します

お礼日時:2011/03/29 09:58

クリスチャンにキリスト教の問題点を聞いてもなかなか答えは返ってこないと思います。

クリスチャンに限らず、何かを信じている人というのは、その信じているものの都合の悪い面を見ようとはしませんから。
キリスト教への批判点として、真っ先に「科学との相違」が挙げられると思います。そしてそれに関連して、「科学を弾圧してきた歴史」です。
例えば、聖書には人間は神が作ったのであり、原始的な生物から進化したとは説明されていません。登場人物の寿命を創世記から足していっても、地球の歴史は6千年ほどにしかなりません。寿命が長い人は千年近くいきています。これらは科学的成果と相容れません。
また、キリスト教が学問を迫害した例としては、ガリレオの例が有名ですね。地球が世界の中心であることを疑わないローマ法王はガリレオを宗教裁判にかけて、自説を覆させました。カトリックがその誤りを認めたのはつい最近(1992年)のことです。
ちなみに、原理主義者の多いにアメリカ合衆国では地球が平らであることを流布したり、進化論を拒否し続けている人たちのグループがあります。アメリカの大学を歩いていると、たまに声をかけられますよ(笑)
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この回答へのお礼

ありがとうございます
確かに、仰るような問題点を抱える要素は持っているでしょうね

個人的には、それは人間(俗)の手に落ちたからだと考えるのですが、
でも、誰の為の教えかといえば、その俗なる人間の為なんですね

お礼日時:2011/03/29 09:44

意見をというので個人的意見を答えます。



聖書は愛を語っているのではありません。愛とは何かを考えるべき歴史が語られているのです。

キリスト教は当時のユダヤ教とローマの癒着、利権、政治力などに反抗して生まれた教えでもあります。
しかし、権威を得るものは常に、その権威に溺れ、利権を求め、支配し、怠惰になり、堕落するという人の弱さに負け、結局ユダヤ教と同じ道を歩んで行きました。

旧約聖書はキリスト教の聖典というよりユダヤやイスラムなど兄弟の共通の歴史です。(一部相違点はあるものの基本的に共通するというのが一般的解釈です)
キリスト教徒他の会派の違いは、キリスト生誕後、新約の部分です。

人は過ちを繰り返しながら、半歩ずつ天国を目指していく存在です。
過去の過ちは明日の自分の過ちでもあります。だからそれを許し、また先にある自らの過ちを最小限に止めるべく努力する必要があります。

イスラムでは悪魔は神に対峙するものではないとしています。なぜなら対峙とは同等という意味になり、神に同等の位置にあるものは存在しないからです。
では悪魔はどこに居るのかというと、これは自分の中に居るのです。ジハードとは本来自分の中の悪魔との戦いを言います、(これはあくまでも穏健派の一部考えですが)
これに対し、イスラムとユダヤとキリスト教が勢力争いを始めた頃になって、その自分の中の悪魔が外に出たのです。つまり自分の教え以外は悪魔の誘いだとしたのです。
その結果神に対峙する悪魔が出来てしまったのです。

結局人間はドコまで言っても半歩進めるかどうかと言うのが真実で、それを自覚しない限り大きな一歩は無いんでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

>人は過ちを繰り返しながら、半歩ずつ天国を目指していく存在です。
過去の過ちは明日の自分の過ちでもあります。だからそれを許し、また先にある自らの過ちを最小限に止めるべく努力する必要があります。

本当に、まさにその通りだと感じます

また、多くのクリスチャンもキリスト教がひとつの政治の手段として
成立したということは了承済みで、それでもかつそれを信じているんだろうな
と思いました

もし政治利用であっても、明らかにおかしな事が盛り込まれてはないし、
なにより、教えの実践(または実践しようとの心掛け)で心が穏やかになる
という特性があるからでしょうね

その点(心が穏やかになること)は、私も体感してます
回答ありがとうございました

お礼日時:2011/03/29 09:40

すいません。


私自身は神道であることを先に断わっておきます。

趣味で調べた範囲内でお答え出来そうなことがあったので、記述します。

当時のキリストの思想は、現在の振興宗教に相当するため、
その言葉に説得力を持たせるために後にキリストの弟子か孫弟子かが
旧約聖書をその後ろに貼り付けて土台にしたという背景があるようです。
キリストは生前、1ユダヤ教徒であり、死後しばらくはユダヤ教の1思想として
捉えられていました。(←本、「比較宗教学への招待」)
振興思想であるため、旧約聖書ができた時代とは、時代・思想背景が大きく異なるため、
異なるところは生じてしまうでしょう。

 そして、その教えの広がりに目をつけたある時の王(名前は忘れました)が、
当時の僧たちと相談しあい、現在の新約聖書をまとめたそうです。
その際、当時無数にある福音書の中から、団体が組織として運営しやすいようになるような福音書を
選りすぐってまとめたらしいので、(←ケーブルテレビのディスカバリーチャンネルのある番組から)
現在までに伝えられる「キリスト教」というものができた時点で、
政治に利用されていると言えるでしょう。

ただ、そのため、国家として破綻しないように道徳的な面にも配慮して福音書が選抜されたため、
政治には存分に利用されているようですが、十分信じるに足る思想ではあると思います。

実際、ほぼ全ての宗教で、内輪でのルールはかなり道徳的であると思います。
しかし、同時に、ほぼ全ての宗教で、差別感情が働くとエグイことになるように思います。
差別感情が克服できたら、「宗教」のヤバいイメージが全部ぬぐい去れそうですね~。

なので、
>「私は漠然とですが神を信じているし、
信仰の確信を得たいと思っています
人生には人間が自分で判断を下すことができぬ諸問題があると感ずるゆえです
(だから教えの疑いを拭い去りたい)」
↑でしたら、キリスト教の思想を土台にして、「お経」や「論語」や「コーラン」なんかも
読んでみてもいろいろ学べることがあると思います。

私は日本近辺の思想を土台に、いずれはユダヤ系宗教に行こうと、
現在、老子や論語や仏教ものをいろいろ読みつつありますが、けっこう面白いですよw
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この回答へのお礼

ありがとうございます
とても興味深く読ませて頂きました

なるほどなぁ と感心しました

>ただ、そのため、国家として破綻しないように道徳的な面にも配慮して福音書が選抜されたため、
政治には存分に利用されているようですが、十分信じるに足る思想ではあると思います。

仰るとおりかもしれません
現実はそのレベルにあるのかもしれませんね

ありがとうございます

お礼日時:2011/03/29 09:32

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