自殺とは、何ですか?
自分の生命を自ら絶つその行為の意味は、一体何なのでしょう?

自殺について、思うところがあれば何でも回答を下さい。
どのような立場の人でも構いません、あなたの考える「自殺」とは何か、
聞いてみたいのです。

ちなみに私は、学問としての哲学の素養が無い素人なので、専門的な用語などは
殆どわかりません。できれば私のような人間にも了解しうるやりかたで、回答を
お願いします。

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A 回答 (15件中1~10件)

お返事をいただき、ありがとうございました。

衝撃とほんとうの悲しみが背景にあったのですね。(jmkeynseさんの優しさの理由が少しわかったような気がします。)
感性に頼るばかりの私の思考は参考にならないのでは、と思いますが、そして感想文のような、作文のようなものしか書けませんが、お礼を読んでの「私の思うところ」を書かせていただきます。「私の思うところ」、それから「様々なケースがあるでしょうが」と強調するのも、その実、他人のことは、他人の世界のことは、私にはわからないからです。(自分のこともわからなくて途方に暮れてしまうような人間ですし。) たとえば、よくわかっているつもりの恋人が自殺しても、その理由や状態を理解できる自信はありません。
でも、なにか通ずるものがすこしでもあれば…という期待の元に。

本当の意味での自殺志願者は、そういないのではと想像します。それは最初の回答の中に書いたように、人間は「生きようとする本能」を持った生き物だと思うからです。自殺を考えた私も、本当に志願しているのは“自殺”ではなく、“生きること”でしょうね。(突拍子もないことを書いてしまうと、“髪結いの亭主”という映画に出てくる女性のような自殺が理想だと感じてしまうところもありますが…。)

>何をしていても、一定の虚無感が付きまとってくるのです。
>死ぬための確たる理由が、今の自分には無いように思えるからです。
「深さ」と「重さ」ではないかと思います。飽和状態を越えた、といった感じかもしれません。時間的なものや感受性、観念などが関係して、そのような状態を作り出します。“生への欲求”や“自己への執着”も絡みついているかもしれません。そして、自分や生きることや世の中との不調和を強く感じ、「それしかない」という感覚に陥ります。「それ」は、深くみつめると、突き詰めるとみえてきたものであり、孤独のなかで知ったものです。私がみた、暗闇のなかのたったひとつの光は、希望、安らぎ、証明、そんな感じのものでしょうか。
私は「確かたる理由」を感じたことがありません。たとえば「失恋した」というような理由で、死が近づいてきたことはありません。(起因する要素にはなるかもしれませんが。) いつも観念的で、ある意味漠然としています。そして、とても孤独です。私にとって「自殺」は、否定も肯定もない、生と死の狭間に見え隠れする孤独な現象といった感じでしょうか。(特に“否定”はありませんね。)

たとえば両親が、たとえば会社の同僚が、たとえばある友人が、私がこんなことを考えている、感じている人間だと知ったら、至極驚くでしょう。あらゆる意味で「自己を隠すこと」、子供の頃から懸命にしてきたことです。表層的なものに縛られて。恐怖心に脅かされて。(歪んだ自分を作った直接的な原因の概要と考えています。)

矛盾した話かもしれませんが、「死にたい人は……」と思う一方で、自殺を考えている人をみると、胸が痛みます。死の恐怖心をも忘れるほどの状態、その裏にある苦悩を想像すると、たまらない気持ちになります。(“希望”のような強い光でなくとも、暗闇が薄明かりになるような、理想をいえば“ろうそく”のようなあたたかい光が灯れば、などと…。) そして自分を含め、人が非力であること、融合されない孤独があることを、再確認します。
「精神的に病んでいるケース」ということを書きましたが、確かに「病気」だとしても、なんの解決にも救いにもならないかもしれません。でも相手が頼りない精神科医であろうとも、訴えることは、吐き出すことは、重たくなったものをすこし軽くできる可能性があるかもしれないと。一時であっても、孤独の世界から、思い詰めた気持ちから離れられることは、重要だと思います。とは言え、「それしかない」と追い詰められた人間に、そのような余裕や発想を持つことは難しいと思いますが。
「自殺=悪いこと」「前向きでないこと=駄目なこと」などという考え方が主流であるかのようなこの社会で、病んでしまった人の心の解放は、救済は、あるのかないのか、わかりませんね。

この質問を初め見た時、正直答える気持ちにはなりませんでした。(jmkeynseさんが遊び心などで質問したとは感じませんでしたが。念のため。)どんな理由・動機で質問しても、それは自由だと思いますが、私は自殺に関して、孤独の域にあるものについて他人にあまり話したくないという気持ちがあります。理解されなくても構わないのですが、伝えられないのでは、なにも通じないのでは、と思ってしまうからです。でも、jmkeynseさんが書かれた他の方へのお礼を見て、答えてみたいという気持ちになりました。(そして結果、三度も書いていた訳ですが。) 自分自身、理解できていない部分も多く、曖昧な表現しかできない未熟さもありますが、こうして書かせてもらえたことに、感謝しています。(もっといろいろお話ししてみたい気持ちもありますが…。)

私にはわかりたいこと、触れたいものがまだあるようなので、とりあえず今は生きてみようかなと思っています。価値や意味はなくてもいいと、そう思っています。
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この回答へのお礼

こんにちは、kageriさん。こうして三度にわたって、答えにくいことをお答え頂いて、感謝に絶えません。本当に有難うございます。

>jmkeynseさんが書かれた他の方へのお礼を見て、答えてみたいという気持ちになりました
有難うございます。実は最近、高熱を患ってしまい(もう治りましたが)、もっと答えたいところ、もっと言葉を選ぶべきところがあったのですが、ついつい回答者の方々に対する甘えが出てしまって、足りないなぁ、と思う部分が結構あったのです。ですからkageriさんが良いように取ってくださって、正直、ほっとしています。私のお礼の仕方がもっと良ければ、対話が一層素晴らしいものになったかな、と思う次第です。

>感性に頼るばかりの私の思考は参考にならないのでは
とんでもありません。何も、kageriさん自身のやり方を否定することは無いと思います。というのは、「感性」というのは「考察」に不可欠のものではないか、と思うからです(無論、私個人の他愛ない意見ですが)。更に言えば、質問にも書いたように、私自身、学問としての哲学の素養が無いに等しい人間ですので、難解な専門用語で語られても、私にはちんぷんかんぷんです。だから、思ったことを素直に書いてくださった方が、却って良かったのです。その意味では、ここに回答してくださったみんさんのやり方は、私にとって最良のものでした。感性の感じるまま、思考の行き届くところをそのまま書いてくださって、非常に良かったです。

>私にとって「自殺」は、否定も肯定もない、生と死の狭間に見え隠れする孤独な現象といった感じでしょうか
>自殺を考えている人をみると、胸が痛みます
この二つの文章、共感できますし、私の勝手な判断ですが、意味がつながるものだと思います(どっちもkageriさんが書いたものなんだから当たり前かな)。他人の力ではどうにも解決できない、"孤独"が自殺者の心理にはある。絶対的な孤独、とでも言うべきでしょうか。一旦、自分がその絶対的な孤独にさらされていることに気づいてしまうと、その孤独を自ら受け入れるしかない。しかし、その孤独はいろいろな形でその人にプレッシャーを与えていくのでは、と私は勝手に思っています。この世には楽しいはずのことはいくらでもある。それなのに、孤独な人たちは、それを楽しいとは感じられないでしょう。第三者が、楽しめ、と言ってもそれは無理です。甘いものを辛いと感じろと言ってるようなものです。そして抗えない流れに沿って、孤独を感じた人は追い込まれていく。このことは、第三者をして、胸を痛めさせるでしょう。kageriさんが、その"孤独"を感じ取る程に感性の豊かな方だからこそ、その両者の気持ちがわかり、「矛盾した話」が生まれてくるのではないでしょうか。私は、kageriさんは矛盾などしていないのでは、と思います。

>「自殺=悪いこと」「前向きでないこと=駄目なこと」などという考え方が主流であるかのようなこの社会で、病んでしまった人の心の解放は、救済は、あるのかないのか、わかりませんね。
同感です。何故、そのような方程式が安易に成り立ってしまうのか、わかるような気もしますが、わかりたくはありません。私事ですが、こんなことがありました。ある時、何人かの人と世間話をしていた時のことです。そのうちの一人がこんなことを口にしたのです。「実家のほうの同級生で、大学受験に失敗して、自殺した子が居るんだけど、馬鹿だよねー」と。それを聞いて、私もつい頭に血が上ってしまいました。その人とは初対面でしたし、私は初対面の人には極端に引っ込み思案になってしまうのですが―表情が怒りを十分表していたのでしょう、私が「本当に馬鹿だと思うのか」と聞くと、向こうは、えっ、という表情を浮かべながら「う…、うん」と答えました。私も冷静ではなくなっていたので、続けて「あなたはその人の気持ちがわかっているのか?たかが受験、というけれど、その人にとっては重いものだったんだろう。その人は、その重いものを背負うことで追い込まれ、苦しみ続け、最後に悲しい選択をしなければならなくなったんだろう。それなのに馬鹿だ、というのか?」と問い―もう殆ど問いではなかったですが―ました。それまでは非常に和気藹々と喋っていたのが、一気に静まり返って、その後も重いムードになったのは言うまでもないですよね(汗)。言い過ぎたかな、と今となっては思いますが、憤りを感じたのは事実です。実際、大方の人間がこのように考えていると思うと、すこし悲しくもなってしまいます。それでは苦しみから救われる人も、救われないのではないか、と思えてしまって…。

非常に長くなってしまいましたね。すいません。この板上ではどうしても会話の量が限られてしまうし、私ももっとお話をしたいですね。うん、ぜひとも!
最後、"価値や意味はなくてもいいと…"について私の考えを書かせてもらいます。この世の、そして自分の、そしてあらゆることの価値や意味は、自分が決めることなのかもしれません。絶対的な価値・意味の公準など存在しないのではないでしょうか。その意味で、kageriさんが、ご自身にとっての価値・意味を見出すことができれば、素晴らしいと思います。

お礼日時:2001/04/27 05:39

丁寧なお礼をいただき、どうもありがとうございます。

「私の思うところ」を、もうすこし書かせていただきます。前回同様、様々なケースがあるでしょうが…というのを前置きとして。

私は試みて失敗した経験があります。その時身辺整理をしたり、非常に冷静な部分もありましたが、自殺を「選択する」というより、「吸い込まれる」という表現の方が相応しく思います。「生」と「死」を比べて、意思を持って「死を選ぶ」というより、「それしかない」という感覚に陥ります。kierkeさんが書かれていた「唯一の希望」というのは、的確な表現だと共感します。暗闇にみえるたったひとつの光…のような感じでしょうか。自殺を考えたことがない人には、わかりにくい感覚だと思いますが、私のように「自殺」が、そして「死」の存在が、長い時間内包され続けている人間にとっては、「吸い込まれる」のも「逝きたくなる」のも、ある意味不思議のない、不自然でない感覚なのです。そしてやはり、吸い込まれるように自殺してしまう人は、精神的な病気を患っているケースが多いのではと憶測します。(診断されているいないに関わらず。) 

自分は観念的に性格的に歪んでいる人間だと、長い時間自責してきましたが、ある日「軽うつ」と診断されて少しホッとしました。おかしな話ですが。そしてある精神科医の「死にたくなるのは病気だからだ」という言葉に、慰められた気がしました。病気の要素よりも性格的な要素の強い私にとっては、それらはやはり慰めでしかありませんけどね。私の直接的な「原因」については、思うところが長過ぎて、深過ぎて、ここには書ききれません。(Web上なので勇気も足りませんね。)すみません。
選択する感覚で自殺する人も多くいると思いますが、それとはすこし違った感覚での自殺もあるだろうことを書かせていただきました。しかしながら、jmkeynseさんのお礼の中にあった「生きることに葛藤し苦しんで」という部分は非常に共感します。

jmkeynseさんの質問文の中にある「その行為の意味」について考えていたのですが、回答が思いつきませんでした。差し支えなければ、jmkeynseさんが「自殺」に関心をお持ちになった理由をお聞きしてみたいです。更なる回答はできないかもしれませんが…。 長々と失礼しました。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
>jmkeynseさんが「自殺」に関心をお持ちになった理由をお聞きしてみたいです
という質問に、答えさせていただきます。長くなりそうなので、それだけで終わってしまうかもしれませんが…。
 私が自殺について考えるようになったのは、(というより他のことも含めて物事を考えるようになったのは)数年前の冬の、ある出来事からです。私の非常に身近な、尊敬すべき一人の人が自殺をしたのです。私は当然、非常に大きな衝撃を受けました。これ以上の衝撃はこれから先、受けることは無いだろう、と言い切ることができます。そのときの悲しみについては、ここで語ってもしようが無いので、語りません。その人の死から1年程が経った頃からか、私はその人の死について考えてみました。そして色々考えているうちに、"死"について考えることが、ものすごく大事なことのように思えてきました。"死"が私の中で非常に大きなものとなっていったのです。その人の死から数年しかたっていませんが、私の世界観―死生観を始めとして―は、自分で言うのは可笑しいですが、劇的な転回を遂げました。人生にたらればは通用しませんが、もしその人が自殺していなければ、皮肉なことですが、私は死ぬまで"死"について考えなかったでしょう。私は自殺志願者ではありませんが、かといって生きることに揺るぎない価値を見出してもいない。何をしていても、一定の虚無感が付きまとってくるのです。これは、何かがつらい、とかそういうものではありません。だから、それを乗り越えて生きていこう、という反発力も持ちようがありません。だけど、今死のうとは考えていません。死ぬための確たる理由が、今の自分には無いように思えるからです。というわけで、のうのうと生きているわけですが、生きるからには、考えながら生きていこう、と思っているのです。"考える"というのは、誰にでもできる簡単な行為のような響きがありますが、それが簡単ではない。他人の意見―知らず知らずのうちに身についていた価値観・倫理観も含めて―ではない、ある考え方を、自ら導き出す、というのが"考える"ことだと思うからです。その結果が、他の人の意見と似ることがあっても構わないのです。大事なのは、自ら導き出す、ということですから。しかし、今の自分と照らし合わせて、自分は考えていないかもしれない、と思うことが多分にある。ですから、考えようという努力をしながら生きていこう、という方が適切かもしれませんね。と、まぁ、そのような生き方をしようとすれば、以前から、これは大問題だ、と思っていた"死"そしてその一つの手段である"自殺"について、ますます考えようとするようになったのです。そうして、一人で悶々と考えるよりは、誰かの意見を聞き、参考にさせてもらうのも良いかもしれない、と思い、ここに質問させていただいたのです。決して、遊び心や、回答してくださるみなさんを試そうとしたのではありません。(一応念のため)
 長くなって本当にすいません。また、よろしければ返事を下さると嬉しいです。読んでくださったなら、有難うございます。

お礼日時:2001/04/25 03:04

再再度ですが,忘れていたことを思いだしました。

またかとお思い読むのは嫌でしょうが、私の仕事仲間が借金で,多分自殺したと思います。自殺とは確定でないのは,身体障害者手帳(4級)がある地方の駅で見つかったのですが,本人が,行方不明なのです。家族も捜したのでが,見つかったという話の連絡はこれまで,ありません。原因は恐らく暴力団に借りた競艇の金約300万円ではないかと思います。会社に良く取立ての電話がかかっていたようです。この人は月給をすべて小遣いにしていたのてす。奥さんの給料で生活をしていたので,
暴力団に脅された挙句,切羽詰ってか,それとも,殺されたのか,不明ですが,,手帳を置いているので,多分自殺ではないかと思うのです。お金であれば,競艇を止めて,返せば,300万は返せますよね。暴力団でも人を殺すと,つかまって,刑務所にはいると,その家族の面倒,弁護士費用と大変お金がかかります。貸した金の300万以上かかるので,頭のある暴力団はやたらに,脅しはしますが、殺しはしないでしょう,-これは私が暴力団の人と病室で同じだったときに,私が質問して,答えていたえてもらいましたのでそういえるのです。命を失うくらいの覚悟があるならば,暴力団に素直に誤って返済方法をいえば,なにも拒否しないでしょうね。暴力団も返してもらう方がいいのですから, 自殺は自己のわがままではないかと今思いました。
それとと思っています。それとNo.7の dotite さんの
「誰かを助けるためなら自殺をするかも」は例のでJRの人を助けるためになくなられたことをいわれていると思います。他人には自殺行為に見えます。
 日本は死を終りと、欧米は次にいきる始まりと考えていると聞いています。卒業という言葉も。日本は業を卒えると,欧米は始まりという意味から,なっているときいています。世の中には,世の中の「せい」にして生活する人,どんなに苦しくても世の中の「せい」に生きている人は,あらゆる困難を乗り越えていく努力をされていると思います。自殺は一回きりの苦しみですよね。しかし,生きることでの苦しみは一回きりではないので,もっと苦しいと思いませんか。1つの苦しみを乗り越えても,また違う苦しみ辛さが生じないでしょうか。死刑が確定した死刑因が死刑まで,いきる間は苦しいでしょう。いつ死刑がされるか不安ではないでしょうか,そのような話を新聞で読んだことがありますが,またそれで刑務省内で自殺した人もいたと聞いていますが。 「生きる価値があると」ご指摘がありましたので,「生きる価値を見つけて,その価値を知る」と訂正します。ありがとうございます。価値観の違いですが,身近なことがあったことを忘れていましたので。
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この回答へのお礼

何度も熱心にお答えいただいて、有難うございます。
searchingboyさんの出された自殺のケース、まぁ、それが自殺であったと
したなら、世間的には身勝手と言われても仕方ないかもしれませんね。しかし、
なかなか意識しにくいことですが、生きるも死ぬも、個人の選択に任されている
と考えれば、私のような第三者がその方の死についてどうこういう資格は
ないですから、言葉を控えるしかないですが…。
しかし、ともすれば、誰でも忘れてしまうこと、自殺にも多様なケースがある
ということをさらに強く意識していただければ、必ずしも上述のケースの
ような結果からのみ、自殺とは何かという問いに対する答えを導きださなくて
よいかもしれないですね。

お礼日時:2001/04/25 01:52

自殺には様々なケースがあると思うのですが、私の思うところを。


詳しくはわかりませんが、人間は「生きようとする」本能を持った生き物ではないかと思うので、自殺は、ある意味本能から逸脱した行為ではないかと思います。逸脱してしまった原因は人それぞれでしょうが、精神的に病んでいる場合が多いのではと憶測します。そして病んでしまった原因も、いろいろだと思います。

かくいう私も何度か自殺を考えたことがありますし、それとは別に「死にたくなる気持ち」に駆られたことが幾度となくあります。その時の心情・状態は様々です。
・自分自身と自分の人生への絶望感、虚無感に溢れて
・生に対する実感の欠如と曖昧さへの苛立ち
・有形から無形への憧れ
・苦しみからの逃避
こんな感じでしょうか。私は自己への執着が強いのでは、と思っています。今は自殺は考えていませんが、「死にたくなる気持ち」はたまに起こりますね。それは先に書いたように、病的だと解釈しています。そして本当は「死にたくなる気持ち」は、「生きたい気持ち」と繋がっているのでは、とも思っています。

不適当な回答でしたら、ごめんなさい。
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この回答へのお礼

不適当な回答なんて、とんでもありません。ありがとうございます。

kageriさんの思うところをそのまま書いてくださったような文面で、
非常に嬉しく思います。私が気になった、というか印象的だと思った
部分は
>そして本当は「死にたくなる気持ち」は、「生きたい気持ち」と繋がっている
 のでは、とも思っています
というところです。同感です。というより、私自身の意見としては、自殺という
行為の裏には、如何に生きるか、という自問自答・葛藤がある場合もあるのでは
ないか、という感じでしょうか。無論、いじめなどが原因で自殺に走ってしまわ
れる悲しいケースもありますし、そのような自殺は、また私の言ったところとは
少し異なるものでしょう。ストイックな考えをもちながら、その考えと現実の自
分とのギャップに苦しむ、あるいは自分の考えに、少しの妥協も出来ない、とい
う時に、自殺が一つの選択肢として出てくるのかもしれない。それを他人が、あ
るいは後日の自分が見たときには、病的だ、という印象を受ける。なにが果たし
て病的なのか、ということについては、健常・病気はそもそも相対的なものだか
らということによって答えを得られぬままになるでしょうから、明快なコメント
はできないですが。

それはさておき、少し、長くなってしまいましたね。ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/24 03:16

NO.5でご返答頂きありがとうございます。

「自殺者は何故自殺しようとするのか、ということを 考えられたでしょうか」とのことですが、わたしは自殺をしょうとは思いませんが,自殺についてはなぜするのかと考え、自殺をしても、もし仮に生きかえっても,また,苦しみにあうと,また,自殺か,それでは,永遠に自殺ではないでしょうか。なんの解決にもならない結果が,この私の答えです。病気で苦しみ,この苦痛から,逃れたい気持ちになる気も分かりまかが,世の中には、その苦しみしている人それ以上に耐えている人もいるのではないでしょうか。それを聞くとやはり,ガンバろとなるのではないでしょうか。作家の自殺で、,自殺の原因は書くことがいきずまったからと,という記事があります。新聞だけで判断してはいけないけれど、なぜ,という気持ちになります。辛いから,死を選ぶ、しかし,やはり,世の中にはそのような方はいると思います。生を選ぶ人もいますね。同じ辛さ-といっても全く同じではないでしょうけれど,似たものはありますでしょう-の者同士があつまり、共に乗り越えていく方々もいます。そのような悩みの会もありますでしょう。そのような方の話を聞くと私は素晴らしいと感動します,そして,自分,。もやれるのだと、信じます。前向きに考えます。あすがあるから、この世は素晴らしいと,心も持ち方でいきられます 。このいのちを大事にしょうよ。
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この回答へのお礼

再度の書き込み、どうもありがとうございます。
searchingboyのさんの自殺に対する意見、よくわかったつもりです。
自殺はせずに、今の自分の命を大切にして、頑張って生きていくべきだ、
ということですね。これはsearchingboyのさんの生き方というか、価値観の
問題なので、私のような他人が、ああだこうだと言って変わるものでもないので、
私も意見のいいようがないですね。ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/24 03:01

補足ありがとうございます。

あくまで私の意見ですので怒らないで下さい。
「辞職」。責任をとって辞職。満足したので辞職。いづらかったので辞職。3番目を責める人はいても1と2については少ないと思います。生き方として、職であれ生であれ同じだと思います。
償う方法がそれしかなかった人
ホントは生きて償うべきであっても、その方法が無い程の事をした。そんな時、死も選択の一つでしょう。
私は私の子が他人を殺したりしたら、多分償う方法を
しらない。逆だったら相手を殺したいと思うし、死ん
でくれと思うから。
満足したひとについて
医療の尊厳死などありますが、言ってみれば自殺です。
また私自身、得たいと思うものを得る事ができたなら
尊厳死という自殺もよいかと思っています。病気であ
れ、健康であれ尊厳は等しくあると思います。
悲しみの内のひとについて。
自殺は勧めません。生あるうちにはきっといいことも
あるだろうから。死の先にいいことが一つも無かった
ら、生きているうちにそれを謳歌すべきと思うからです。

では、本題ですが私の考える自殺とは
一種の希望です。今から逃れたい、先にはもっといい
ことがあるかも、もう十分だ。理由はいろいろあるけ
れど。
また、仮に”絶望”と言うものの中にいる人が見つけ
る唯一の希望です。絶望の末期症状へいく人は少ない
とは思いますが、彼等にとっては希望です。
ただ、その先にさらなる絶望の永遠性を知っている人
こそ本当の絶望者でしょう。
ですから、その唯一の希望にすがらないで、目をこら
して、幽かな生を見つけてほしいと自殺したいと思う
人には訴えたいです。

少しややこしい話でごめんなさい。
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この回答へのお礼

丁寧な回答を有難うございます。
「本題」の方を特に興味深く読ませて頂きました。
kierkeさんの言われる絶望、正鵠を射ていると思います。また、自殺とは
一種の希望である、という部分。生の過酷から逃れると言うのでは必ずしもなく、
相対的に優位にたつ選択肢としての死、と考えてよいのでしょうね(なんか
言い方が変になってしまってすいません)。自殺者は生きるよりも、死を選ぶ。
確かにそうです。単純な話ですが、とても重要なことです。それを再確認しま
した。

お礼日時:2001/04/23 01:13

自殺を考えたことは何度もあります。


未遂も一度だけあります。
友人も何人も自殺しています。
そんな環境で暮らしてきました。

そんなとき友人におまじないの言葉をもらいました。
「それは死にたいんじゃなくて死にたいぐらい辛いんだ」
一瞬で納得しました。自分のことも、周りのことも。

自分自身で生を完成させるために死を選ぶ人もいるかもしれません。でも、圧倒的に多いのは死にたいほど辛い、ことと死にたい、ことの区別が出来なかった人ではないかと思います。

私のように的確な助けがあれば彼らは生きていたのかもしれません。自殺しようとしたことも忘れているかもしれません。
私にとってはこれは非常に生々しい問題なので、観念的でなく書かせていただきました。
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございます。

私も、話があまりに観念的になりすぎると、ついていけなくなるで、このような
形で書いていただいて、非常に嬉しいです。と、こんな書き方はあまりよくない
のかもしれませんが…。

「それは死にたいんじゃなくて死にたいぐらい辛いんだ」
という言葉、私には個人的な体験のバックグラウンドがないので、すぐには
納得ですが、基本的には、本当に死を望む人はいないのではないか、という
ことでしょうか(生を完成させる手段としての自殺というケースを除いて)。
それなら私にも少しは解る気がします。勿論、全く解る、というわけでは
ありませんけど(そこまで書くのはおこがましいですしね)。

お礼日時:2001/04/23 01:04

Res about ANo.#1補足



>歓迎される行為でないことは確かですね。しかし、そのことが
>全ての自殺者に通じるならば、自殺など無かったはずです。
>自殺者だって、残された者のことを少しは案じ得る。しかし、
>それを通り越しても、自らの命を絶ちたいと考えるはずです。

 その辺りは、個人の道徳観念に左右されてしまうかも知れませんね。自分の身が滅びようとも悲しませたくない人がいれば、その人は絶対に自殺なんてしないだろうし、自殺することで悲しみを生むかも知れないが、ある人のためを想ってのことかも知れません。
 また、例え「ある人のためだ」と思って自殺しても、それはその人のいいわけかも知れませんし、弱い心のせいであるとも言えます。強い心の人は自殺に行き着く割合は当然弱い人より低いでしょうから、遺された者を案じるということ自体が弱い人の自慰でしかない場合だって大いにあると思います。その辺は結局、答えのないシュレディンガーの猫ではないでしょうか。

>第一、どんなやり方、どんな経緯であろうとも、自殺という死の方法からは、
>残された人々は一定以上の悲しみを得ずにはいられないはずです。
>残された人々が納得できる自殺など、果たして存在するのでしょうか。

 あると思います。自殺という一般的な意味合いから完全に目を離せば、自ら死ぬことにも意義すら見出せるはずです。
 悲しみが残るのは仕方がないでしょう。人が死ぬんですから。納得し満足した上での死は最高の死ですが、それはあくまで死の中での基準です。「死」自体にはやはり純粋な悲しみというものはつきまとうと思いますから。
 そう考えれば、納得できる「自殺」というものはある、と言えるのではないでしょうか。悲しみは別として。
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この回答へのお礼

再度の回答、有難うございます。

Yuya_Tachibanaさんの言われる「答えのない」というのは、確かにその通り
かもしれないな、と思います。このような問題と言うのは、数学のように
答えが一意的に定まるものではないでしょうからね。私もそれを承知して
いますし、その上で皆さんの「意見」が聞きたかったので、Yuya_Tachibana
さんのようにご自分の意見をはっきり言っていただくのは本当に嬉しいです。

確かに、自殺という形をとるとはいえ、そこには様々な事象の可能性が存在する。
問題が手におえないくらい大きくなっても、その可能性を否定するわけには
いかないですよね。私ももう少し、方法論から考え直す必要があるかも
知れないですね…。

お礼日時:2001/04/23 00:56

こんちはー! 僕は超~素人なので軽く聞いてください・・・(^^;


たぶん僕にとっての「自殺」とはみんなが思ってるのと違う気がします・・・
普通(?)は現実から逃れるために自殺するとか言いますよね????
僕にとっての自殺のするときは、誰かを助けるためなら自殺をするかもって感じです・・・まぁ普通そんな場面にならないでしょうが・・・(笑) 以上 ぼくにとっての「自殺」でした・・・(^^;
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございます。

dotiteさんの考える自殺、私にはすこしわかりにくいですね…。
誰かを助けるための自殺…と言ってもなかなか思い浮かばないです…。
すいません。

お礼日時:2001/04/23 00:40

過去にこんな質問があったのでお知らせしておきますね.結構,おもしろい話でした.参考になると思います.(参考URL)



参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=35688
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この回答へのお礼

アドバイス、有難うございます。
こんな板があったとは知らなかったです…。

お礼日時:2001/04/23 00:36

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Q学問の頂点に位置する哲学の役割

私は大学の物理学の教授から
『学問の頂点に立つのは哲学だ。哲学の発展なくして自然科学、物理学は現在に存在し得ない。』
と教わってきました。

私もアリストテレスの時代のエーテルや4元素説から、ロックの経験主義、ルソーの啓蒙思想などを経て、哲学の発展と共に自然科学が発展していたものと思っています。
もちろん時代を間違えた有能な科学者が日の目を見ることなく没することも多々ありましたが…
常に時代や科学の指針付けを行ってきたのが哲学だと考えています。

そして現在、自然科学では生命倫理、特許権争い、捏造、従来の定義での問題性(例えば心理学は科学か否か)など様々な問題が起きています。

今一度、哲学が自然科学の指針を導く重要な転機だと思います。

そこで
現代における哲学の自然科学における役割とはなんですか?
また現代科学の問題点にメスを入れるようなことは現在していますか?

Aベストアンサー

哲学無き科学は人を幸せにしないのだと思います。
経済学も国民が豊かになるように、と研究される場合人を幸せにしますが、いかに儲けるかを追求すると弱者から効率よく集金するシステムの考案につながります。医学も然り(人を幸せにする目的があるならどうして研究結果を捏造などできるでしょうか?多くの薬害や公害事件も忘れてはいけません)
アポロ計画やヒトゲノムの解読だって人を幸せにしなければ膨大な費用の割には何も残らないでしょう。

ですから
>現代における哲学の自然科学における役割
とは研究結果ではなく、研究目的に対して語られるべきだと思います。(研究者がその研究を始めるきっかけでも良いでしょう)
また既存の技術に対する活用指針ではないでしょうか。(遺伝子組み換えやヒトクローンは「できるか否か」のみならず「やるべきか否か」も考えねば人を幸せにできないと思います)

正しい哲学は科学に対する足かせではなく、科学の羅針盤となる事ができるのです。
どんなに科学が進歩しても研究/活用するのは人間だから、そして人間がどのように生きるかを考える学問が哲学だからです。

役割が終わったのは哲学ではなくイデオロギーでしょう。イデオロギーは科学を混乱させ研究結果を捻じ曲げるからです。(イデオロギーが絡んだ歴史学・考古学の珍妙さは説明するまでもありません)

>現代科学の問題点にメスを入れる
社会科学においてはあるでしょう。(貧富の差を生み拡大させる現在の経済学に対する批判とか)でも多くの哲学者は文系のせいか(?)あまり自然科学の分野においては発言していないかも知れません。

この神なき国にこそ、哲学が必要ではありませんか?
え?日本は神の国だって?昔はね。でも今はお天道様なんて知らないで、カネが全てという人ばかりですからね。

P.S.
その物理学の教授は謙虚な方ですね。普通はご自分の学問を持ち上げるものですが、その教授の発言が今ネットで別のディベートを生んだ、こういった智の連鎖は喜ぶべき事だと思います。

哲学無き科学は人を幸せにしないのだと思います。
経済学も国民が豊かになるように、と研究される場合人を幸せにしますが、いかに儲けるかを追求すると弱者から効率よく集金するシステムの考案につながります。医学も然り(人を幸せにする目的があるならどうして研究結果を捏造などできるでしょうか?多くの薬害や公害事件も忘れてはいけません)
アポロ計画やヒトゲノムの解読だって人を幸せにしなければ膨大な費用の割には何も残らないでしょう。

ですから
>現代における哲学の自然科学における役割
とは...続きを読む

Q「役に立つ学問」「役に立たない学問」とは?

学問の存立する根拠は、「役に立つこと」のみに存しないのはいまさら言うまでもないと思います。しかし一方で「役に立つこと」が学問の契機になることもあります。古代エジプト人は、東方起源の学問を発達させながら、それを例えば測量術や建築術のような実用と決して離さなかったといわれます。しかし古代ギリシア人は、幾何学や哲学、その他の諸学を日常の実用から切り離して、日暮し天空を眺めてすごすような、純粋な精神的境地を開き、そうした境地が人生にとって「役に立つ」つまり意義深いと考えていたようです。
僕は大学で建築を学んでおり、大学院では建築論という建築の哲学みたいなことを研究します。なぜ建築するのか?などについてアリストテレスやウィトルウィウスの本を読み研究しています。こんな役に立たない学問を研究して意味があるのか?と言われるときがあります。大学は役に立たないといわれている学問を研究する場ではないのかと自分では思っています。学問の在り方について教えていただけませんか?

Aベストアンサー

役に立つということは「お金を儲ける手段」や
「直接生活と直結している」としての学問か否か
ということですか?
それ以外に意味のあることが世の中たくさんあると
思うのですがどうでしょう?

それになぜ建築するのかがわかっていないと建築に
関する法律や公共性などについて方向性が曖昧になる
と思うのですが、役に立つの?と言う人の
考えがわかりませんが、素人意見ですみません。

私は長い間美術に関する学問を学んでいましたが
建築よりずっと役に立たないと言われ続けていました。
若い頃には色々考え悩みましたが今では同じことを
人からいわれても「そうだね役に立たないね
だからほっといてくれよ。」と言おうと思っています。

役に立つの?と言った人に役に立たなかったとしても
自分に意味があればいいのじゃないかな?
その意味を他人にわかってもらうもよし放っておくもよし
学問に対する姿勢はひとそれぞれですよ。

Q【学問って以外に数は少ないですが】慧学(えいがく)?とはどういう学問なのですか? 智慧の慧学。

【学問って以外に数は少ないですが】慧学(えいがく)?とはどういう学問なのですか?

智慧の慧学。

慧学とは智慧。

ちえ。

智慧と知恵の違いって何ですか?

ちえの学問ってピンと来ません。

Aベストアンサー

仏教を修行するに際して必ず学ぶべき最も基本の修行法の事です。
学問では無く修行です。

慧学は戒学(かいがく),定学(じようがく),慧学(えがく)の3つ。

戒は戒律のことで、「戒禁」(かいごん)ともいい、身口意(しんくい)の三悪(さんまく)を止め善を修すること。
定は心の動きを静め,精神を統一すること,
慧は理性により道理をありのままに悟ること。


身口意(しんくい)の三悪
○身における3つの行為
・殺生(せっしょう):人間や生物の生命を奪うこと
・偸盗(ちゅうとう):盗むこと
・邪淫(じゃいん)--:邪悪な性行為
○口における4つの行為
・妄語(もうご)----:ウソをつくこと
・綺語(きご)------:不当に飾りたてたことばを用いること
・悪口(あっく)----:悪口を言うこと
・両舌(りょうぜつ):二枚舌を使うこと
○意における3つの行為
・貪欲(とんよく)--:むさぼり欲しがること
・瞋恚(しんに)----:怒り憤ること
・愚癡(ぐち)------:真理に暗くおろかであること

Q価値の哲学 価値考量(カント哲学の関係で)

いつもお世話になります。
カントの哲学を理解しているわけでは有りませんし、カントは「価値・所有・交換」といった概念には関心が無いようですが、私なりに考えてみると、非常に困った問題が有ることに気がつきました。

価値考量 価値を量的に考える事ですが、

私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

それとも、例の難解な「形式」は、経験に関わらずに普遍的に全ての人間が持っているものでしょうか?

Aベストアンサー

ご質問はこの間から気になっていました。

>私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

という部分がよくわかりません。
まず、「価値」というのは「関係」の概念ですよね。
Aに価値がある、というのは、絶対的な概念としてはありえません。
つねにBにとって、あるいは、Cに対して、という、関係としての概念として立ち現れてくるもの、と考えることができると思います。
となると、こうしたことは経験的認識の範疇である、と考えられるのではないでしょうか。
カントの扱う「先天的総合判断」の範疇にはないような気がします。

それに対して前半の「量」「質」「関係」「様相」というのは、「カテゴリー」のことを、「時間」(そして「空間」)は、人間の感性に与えられた「直観」のことを言っておられるのだと思いますが、こうしたことによって下される判断、というのは、先天的総合判断と呼ばれるものです。
先天的、というのは、字義通り、生まれる前から、経験とは無関係に、人間に普遍的に与えられている能力のことです。経験から得られるものではありません。

いまひとつ質問者さんがどういった意味で価値、あるいは比較考量ということばを使っておられるのか、おそらく経済学との関係があるのではないか、と想像するのですが、私にはわかりません。
上で「価値」について考えることは経験的認識ではないか、と書きましたが、質問者さんの問題意識とはずれているような気がします。
ということで、「先天的総合判断」についてのごく一般的な回答となってしまいます。質問者さんの問題意識とはかみ合っていないと思うのですが、どうかご容赦ください。

カントは、経験論者ヒュームのあとを受けて、あらゆる認識は経験と共に始まる、とします。
けれども私たちの認識がすべて経験的なものであったら、決して普遍的・必然的認識(誰がいつどこでどのように考えたとしてもかならずたどり着ける真理)には到達できないだろう、と考えます。
経験によって知ることができるものを積み重ねただけでは、その外にあるものが正しいかどうか知ることはできないからです(だからその部分に関して、ヒュームは「考えないこと」にします)。

経験したことのないことがらについて、判断できるのはなぜか。
あるいはまた数学の命題、たとえば「直線は2点間の最短距離である」が真である、といえるのはなぜか。
それは、私たちのうちに先天的な認識形式が存在するからだ。

それでは、なぜこの認識形式が客観性を持っている、といえるのでしょうか。
ここでカントは、認識の対象に目を向けます。

対象というものは、私たちから独立した存在ではない。
対象は、私たちの主観の先天的形式が構成したものである。

それまで認識というものは、あくまでも対象が中心でした。
対象は、私たちとは独立に、客観的に存在していることが前提だったわけです。
カントはそれをひっくり返して見せた。
私たちが「対象」として認識できるのは、私たちの主観が、そのものを対象として取り上げ、意識の俎上にのぼらせているからだ、と。

私たちの認識は感性によって、対象の直観が与えられる。
それを悟性が思惟することによって、認識が成り立つ、とカントは考えます。
こうした判断は「先天的総合判断」であって、単に「わたし」のみが主観的に下した判断ではなく、普遍的・必然的な判断であり、あらゆる学問の基礎となるべきものである。
と、これがカントのいう「先天的総合判断」です。

>例の難解な「形式」は、経験に関わらずに普遍的に全ての人間が持っているものでしょうか?
そういうことです。

ただ、今日から考えると、煩雑でいささか無理のある先験的判断のプロセスを理解する必要はないと思います。
むしろ大切なのは、「対象」というのは、私たちの主観が取り上げたものである、というカントのコペルニクス的転回ではないのでしょうか。

ご質問はこの間から気になっていました。

>私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

という部分がよくわかりません。
まず、「価値」というのは「関係」の概念ですよね。
Aに価値がある、というのは、絶対的な概念としてはありえません。
つねにBにとって、あるいは、Cに対して、という、関係としての概念として立ち現れて...続きを読む

Qキリスト教とギリシア哲学の関係性を教えてください。 国教化される以前からギリシア哲学(ローマの知恵?

キリスト教とギリシア哲学の関係性を教えてください。
国教化される以前からギリシア哲学(ローマの知恵?他)を取り込み広まって言ったとネットで読みました。
ギリシア哲学との関係は教義を統一しようとした時からだと思いこんでいたので正しい知識が知りたいです。お願いします。

Aベストアンサー

ギリシア哲学の字句が念頭にあるのならば「西洋哲学を学ぶためにはキリスト教の理解が必須だと聞きました。理由をできるだけ詳しく教えてください。」の質問はしないだろう。お前、馬鹿じゃないの。

教えてやろう。イエス先生は愛というものを人間に疑問を持たせるために訪れたのである。
それ以前は愛は人間に無かったのだ。


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