沖縄戦では様々な酷い事が行なわれましたが、悲惨という面だけが強調され、それらの経緯が省略されがちです。

実は○○で・・・
というように何も考えずにいたずらに悲惨さだけを強調する人たちを黙れせるネタを教えてください。

例えば沖縄戦ではありませんが
「普天間が危険だと言っているが実は初めに基地があって街はその後できた」というようなものです

A 回答 (4件)

本州への疎開で疎開船・対馬丸が撃沈されて多数の犠牲者が出た。

これは事実だが、のべ600隻以上が動員されて行われた本州への疎開作戦で失われた疎開船は対馬丸だけであった。
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黙らせるネタ 


ではありませんが侵略して来る米軍の酷い話は勿論ですが意外と聞くのが日本兵の話ですね 沖縄の人に捕虜になるくらいなら自決しろと手榴弾を渡したとか崖に追い詰められた日本兵が先に沖縄の人達から飛ばせたとか 防空壕に隠れていて赤ん坊が泣き止まないので殺してしまったとか   死ぬ時天皇陛下万歳と言えと強要したとか 勿論戦争に付き物のレイプ等々 勿論優しい日本兵や米兵の話も沢山聞きますが 悲惨じゃない戦争って有るんですかね?
因みに普天間基地の近くの大学に米軍のヘリが墜落した時 日本の警察や消防は米軍に締め出されただ眺めていました。
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黙らせると言うのは悲惨でなかったとの根拠と言う事でしょうか。



実際には、ちょっといい話的なものは展示館にも書かれています。

ひめゆりにある生き残った女学生の手記で、若い兵隊さんが「我々は自決するが、戦争は負けで米国人は無闇に虐待する訳では無いから生きてくれ」と言われたとの記述がありますよ。

戦闘についていえば、制海権・制空権を完全にとられ、劣悪な設備の上で5倍の戦力に対し戦死者数が8倍で済んだと言うのは良く戦ったと言えるでしょう。

慶良間島は殆ど戦闘無く占領されましたが、それより本島に遠い島では戦闘は殆ど行なわれていません。


また、有名なのは旧海軍司令部壕資料館展示に、大田司令官が打電した「(沖縄)県民に対し後世格別のご配慮を」と言う文があるのも、良い話と言えば良い話です。

但し、女学生の手記は生き残ったからそう書けたと言えばそうですし、陸軍が逃げた後の海軍が陸戦下と言うのも「黙らせる」と言うには程遠い例かも知れません。

今回の東日本大震災の死者・不明者が約3万人ですが、沖縄戦での死者・不明者は18万人、内民間人は9万人と言うのは厳然たる事実ですから、一寸いい話があっても黙らせるのは無理でしょう。
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どこだったか忘れましたが、南部の攻防戦で、米軍の戦車部隊が歩兵を伴わずに単独突入して半分くらいやられて攻撃に失敗したことがありました。



日本軍はM4戦車に手も足も出なかったみたいな話が多くありますが、実際は歩兵の「警護」なしには進撃できなかったようです。米軍兵士の回想記でも「日本軍の対戦車砲はよく隠匿されていて、味方の戦車がやられて初めて対戦車砲に気づくものだった」と書いてあります。
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Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q「すいません」と「すみません」どちらが正しい?

 タイトルにあるとおり、素朴な疑問になりますが、「すいません」と「すみません」ではどちらが日本語として正しいのでしょうか。分かる方ぜひ教えてください。

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などがあります。これも、話す時にはどちらでもいいです。「しじつ」「せんたっき」と書いてはいけませんが。

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戦時中に最前線に投下されて、生き残った兵士っていますよね。突撃ー!と隊長が言って、突撃しますよね?突撃しなかったら、身内に刺されて死にますよね。どうやって、突撃ー!と言われて、確実に死ぬであろう敵からの集中砲火の鉄砲玉を奇跡的に除けて、周りがバタバタ死んで行く中で、敵陣まで生きて辿り付き、そして全勝出来たのでしょう。

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Aベストアンサー

 父の友人で、フィリピン戦線で戦った人の話を記載します。

 アメリカ軍の陣地に対して、夜間攻撃を行って占領するという命令を受け、その人の所属する小隊(50名程度であったそうです。)も、夜の闇にまぎれて匍匐前進して200メートル位まで忍び寄り(それ以上はサーチライトが照らしていて、見つからずに接近できそうもなかったそうです。)、夜明け前に「突撃ー!」となったそうですが、とたんに米軍陣地から猛烈な機銃掃射が始まり、照明弾も打ち上げられて、地面の窪みに這いつくばったまま、前進も後退も出来ない状態になってしまったそうです。

 明るくなる前に、点呼があり、這いつくばったまま17人が返事をして、「結構生き残っているな。」と思ったそうです。

 それから明るくなり、熱帯の直射日光の下で、死体に混じって動かないようにしていたそうです。
 日中、太陽の下で、何か動きがあると感じられた場所には、米軍陣地から機銃掃射が何度も容赦なく行われるので、ずっと地面の上に転がっていたそうです。
 そして、日が沈み、夜になってから少しずつ後退して、日本側の塹壕まで戻ったそうです。
 無事に塹壕まで戻ってきたのは、結局8人だったそうです。

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