戦国時代と言うと、決まった公の法というものが
無いように思われるのですが、
その頃の庶民、特に農民は、
領主の厳しすぎる税の取り立てに対して、
一揆とかではなく、「直訴」という形での対応はできたのでしょうか?

それが例え小規模な村々であったとしても・・・

知ってる方いらっしゃったら是非教えて下さい。

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A 回答 (4件)

戦国時代の農民と江戸時代の農民を混同してはいけません。


戦国時代の農民と江戸時代の農民は全然違います。

戦国時代は、
・領地が固定化されていない
・農民は『強い』
です。

江戸時代は、A藩の年貢の取立てが厳しいからと言って、A藩から離脱して隣のB藩に編入してもらうなんて事は出来ません。
でも、戦国時代はそういうことが容易に出来ました。
領主が厳しかったら、村ごとその領主の支配から勝手に離脱して隣の領主の支配に編入してもらえば良いだけです。

そして、何よりも戦国時代の農民は強いのです。
戦国時代の農民は農業専従者ではありません。
戦国時代の戦の時の兵士(足軽)のほとんどは農民のアルバイトです。
農作業が閑になる夏や冬は、兵士に早代わりしたのです。
武装農民、半士半農なのですよ。
兵士ですから各家庭には刀や槍などの武器がありました。
そして、当然、武士を相手に戦えたのです。
戦国時代の農村は、見方を変えると、れっきとした武装集団の村なのですよ。
戦国時代の農民はヘタをすると、武器を手にして領主に武力で反撃して来るのです。

戦国時代の領主は農民に対してあまり強く出れなかったのです。
だからこそ、豊臣秀吉は『刀狩』をして農民の武装を解除したのです。

ですから「直訴」自体がほとんど無かったというか、する必要が無かったと思われます。

まあ、全ての農民がこれに当てはまるという訳では有りませんがね。
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一言で戦国時代といっても案外に長いもんでございまして、応仁の乱あたりと大阪の陣あたりじゃ世の中まったく変わっています。



で、一般的にイメージする戦国時代は織田信長が活躍するくらいの時代つまり永禄から天正年間あたりだと思いますのでそのあたり近辺をイメージしますと、当時は今思っているよりよっぽど「自由」だったようです。世の中秩序が乱れているということは、逆にいえば自由な時代だったということです。だからこそ「かぶき者」みたいのが大手を振って歩いていられたわけです。

重要なのは、秩序が整っていた江戸時代にはいくら重税だからといって領主を取り替えることはできませんでしたが、戦国時代は主君のお取替えが簡単にできたということです。他の方も回答していますが、気に入らなければ一揆を起こすこともできるし、その村や庄を支配する支配層も賛同するならその地域ごと近隣の敵対する勢力に寝返ってしまえばいいわけです。おそらく日常的にそういった調略は行われていたと思います。
「嫌なら逃げる」というのが、江戸時代に比べれば簡単にできたってことです。ただ、人間には「生まれ育った場所に住みたい」という本能があるので(あれほどひどいめにあっている東関東大震災の被災者も関西など遠く離れた場所への疎開や引越しは拒否しているほどです)、そう簡単に逃げられはしなかったでしょうけどね。
実際問題、戦国時代初期の梟雄として有名な北条早雲は伊豆を自分の勢力下においたときに大胆な減税政策をして民心をつかむと共に周辺諸国から多くの民が移住してきたそうです。当時は人口が多いことは単純に生産能力も高くまた兵数を集めるのも容易になることを意味するので、人口を増やす政策は重要だったと思います。

また農民たちの自治能力も非常に高く、多くの地域では半農半兵だったわけですからいざとなればいくらでも武装蜂起できたわけです。北陸では一向門徒が蜂起して領主を追い出し、「農民自治区」ともいうべきある種の民主主義社会が作られていたほどです。現代でも北陸地方は進学率も持ち家率も高い「しっかり者」の県民性を持っていますね。

実際のところ隣り合えばほとんど確実に争っていた時代では、「いかにして味方を増やすか」が大名にとっても非常に重要なことだったわけです。そうであれば、農民からギチギチに絞り上げる君主なんかはすぐ謀反か何かを起こされて簡単に打倒されてしまっていたでしょう。
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http://wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei2/semi/zemiro …(PDF)/(%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%8D%9A%E4%B8%88)%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E4%BB%AE%E5%90%8D%E7%9B%AE%E9%8C%B2.pdf

このへんを読むと、領主(知行主)が年貢をたくさん取れるように大名としてサポートしているという感じですね。
また、百姓と領主の間に直接介入しようとしているようです。
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室町時代は後の桃山・江戸時代にあるような中央集権の体制はありませんでした。



地方の経営を天子・将軍から任されたのは、守護(大名)であり、彼らが後に戦国大名となっていきます。
農民がそうした守護に一揆以外の穏便な方法で訴訟を行った例を調べたのですが、赤松家・富樫家などであった内紛を公方(室町期は地方にも公方と呼ばれる貴種がいました)に訴えた例があったくらいです。

ですからあったにしても、更に穏便なルート、例えば寺の住職を通すとか、主だったものが直接交渉をするくらいであったでしょう。交渉が決裂したなら、当時はまだ江戸期と違い住民管理制度などありませんから、年貢の緩い他国へ逃散したり、長島の一向一揆のような事態にエスカレートしたものと思われます。
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