戦国時代と言うと、決まった公の法というものが
無いように思われるのですが、
その頃の庶民、特に農民は、
領主の厳しすぎる税の取り立てに対して、
一揆とかではなく、「直訴」という形での対応はできたのでしょうか?

それが例え小規模な村々であったとしても・・・

知ってる方いらっしゃったら是非教えて下さい。

お願いします!

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A 回答 (4件)

戦国時代の農民と江戸時代の農民を混同してはいけません。


戦国時代の農民と江戸時代の農民は全然違います。

戦国時代は、
・領地が固定化されていない
・農民は『強い』
です。

江戸時代は、A藩の年貢の取立てが厳しいからと言って、A藩から離脱して隣のB藩に編入してもらうなんて事は出来ません。
でも、戦国時代はそういうことが容易に出来ました。
領主が厳しかったら、村ごとその領主の支配から勝手に離脱して隣の領主の支配に編入してもらえば良いだけです。

そして、何よりも戦国時代の農民は強いのです。
戦国時代の農民は農業専従者ではありません。
戦国時代の戦の時の兵士(足軽)のほとんどは農民のアルバイトです。
農作業が閑になる夏や冬は、兵士に早代わりしたのです。
武装農民、半士半農なのですよ。
兵士ですから各家庭には刀や槍などの武器がありました。
そして、当然、武士を相手に戦えたのです。
戦国時代の農村は、見方を変えると、れっきとした武装集団の村なのですよ。
戦国時代の農民はヘタをすると、武器を手にして領主に武力で反撃して来るのです。

戦国時代の領主は農民に対してあまり強く出れなかったのです。
だからこそ、豊臣秀吉は『刀狩』をして農民の武装を解除したのです。

ですから「直訴」自体がほとんど無かったというか、する必要が無かったと思われます。

まあ、全ての農民がこれに当てはまるという訳では有りませんがね。
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一言で戦国時代といっても案外に長いもんでございまして、応仁の乱あたりと大阪の陣あたりじゃ世の中まったく変わっています。



で、一般的にイメージする戦国時代は織田信長が活躍するくらいの時代つまり永禄から天正年間あたりだと思いますのでそのあたり近辺をイメージしますと、当時は今思っているよりよっぽど「自由」だったようです。世の中秩序が乱れているということは、逆にいえば自由な時代だったということです。だからこそ「かぶき者」みたいのが大手を振って歩いていられたわけです。

重要なのは、秩序が整っていた江戸時代にはいくら重税だからといって領主を取り替えることはできませんでしたが、戦国時代は主君のお取替えが簡単にできたということです。他の方も回答していますが、気に入らなければ一揆を起こすこともできるし、その村や庄を支配する支配層も賛同するならその地域ごと近隣の敵対する勢力に寝返ってしまえばいいわけです。おそらく日常的にそういった調略は行われていたと思います。
「嫌なら逃げる」というのが、江戸時代に比べれば簡単にできたってことです。ただ、人間には「生まれ育った場所に住みたい」という本能があるので(あれほどひどいめにあっている東関東大震災の被災者も関西など遠く離れた場所への疎開や引越しは拒否しているほどです)、そう簡単に逃げられはしなかったでしょうけどね。
実際問題、戦国時代初期の梟雄として有名な北条早雲は伊豆を自分の勢力下においたときに大胆な減税政策をして民心をつかむと共に周辺諸国から多くの民が移住してきたそうです。当時は人口が多いことは単純に生産能力も高くまた兵数を集めるのも容易になることを意味するので、人口を増やす政策は重要だったと思います。

また農民たちの自治能力も非常に高く、多くの地域では半農半兵だったわけですからいざとなればいくらでも武装蜂起できたわけです。北陸では一向門徒が蜂起して領主を追い出し、「農民自治区」ともいうべきある種の民主主義社会が作られていたほどです。現代でも北陸地方は進学率も持ち家率も高い「しっかり者」の県民性を持っていますね。

実際のところ隣り合えばほとんど確実に争っていた時代では、「いかにして味方を増やすか」が大名にとっても非常に重要なことだったわけです。そうであれば、農民からギチギチに絞り上げる君主なんかはすぐ謀反か何かを起こされて簡単に打倒されてしまっていたでしょう。
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http://wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei2/semi/zemiro …(PDF)/(%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%8D%9A%E4%B8%88)%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E4%BB%AE%E5%90%8D%E7%9B%AE%E9%8C%B2.pdf

このへんを読むと、領主(知行主)が年貢をたくさん取れるように大名としてサポートしているという感じですね。
また、百姓と領主の間に直接介入しようとしているようです。
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室町時代は後の桃山・江戸時代にあるような中央集権の体制はありませんでした。



地方の経営を天子・将軍から任されたのは、守護(大名)であり、彼らが後に戦国大名となっていきます。
農民がそうした守護に一揆以外の穏便な方法で訴訟を行った例を調べたのですが、赤松家・富樫家などであった内紛を公方(室町期は地方にも公方と呼ばれる貴種がいました)に訴えた例があったくらいです。

ですからあったにしても、更に穏便なルート、例えば寺の住職を通すとか、主だったものが直接交渉をするくらいであったでしょう。交渉が決裂したなら、当時はまだ江戸期と違い住民管理制度などありませんから、年貢の緩い他国へ逃散したり、長島の一向一揆のような事態にエスカレートしたものと思われます。
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Qなぜ、戦国大名の間で茶の湯がもてはやされた?

なぜ、戦国大名の間で茶の湯がもてはやされた?

戦国大名というと、茶の湯や茶道具好きのイメージがありますが、
戦国大名の間で茶の湯がもてはやされた理由というのはあるのでしょうか。

また、戦国大名にとって、茶の湯、茶道具とはどういった存在だったのでしょうか。

Aベストアンサー

人間は価値観によって上下関係を持とうとする動物である。
新しい価値観を創るのは難しい。
価値観を伝達共有するには目に見える具体的な「ブツ」があると分かりやすい。

前代の価値観を手直しするのが一番簡単です。
室町期の価値観でいうと「椀飯」というものがありました。現在の大盤振る舞いの語源になっておりますが、室町将軍家が部下の家にお呼ばれして、食事をすると言うもの。これによって、将軍家と有力大名とは位置関係を確認しておりました。また、支配層の共通文化として連歌もありました。連歌で平安時代からの文化を背景にして詠い込むことが支配層同志の相互確認となります。
ところが、椀飯にしても連歌にしてもハードウェアとソフトウェアと分けて考えるとソフトウェアの部分が大きい。そしてソフトウェアを取得するには修練の期間が必要です。勉強時間が必要なのです。
それに対して、茶の湯はハードウェアの部分が他のものより大きい。「あの人、あんなの持っている」と見せやすいし、修練も必要ですが、名物を買ったり、奪ったりするのは、一層簡単です。

ということで、茶の湯はいろいろな室町文化の中でもっとも「成り上がり」がしやすい、ハードウェアな文化であった。これがもてはやされた理由。
そして、支配層が相互に認識しあうためのシンボルが茶の湯、茶道具だった。

人間は価値観によって上下関係を持とうとする動物である。
新しい価値観を創るのは難しい。
価値観を伝達共有するには目に見える具体的な「ブツ」があると分かりやすい。

前代の価値観を手直しするのが一番簡単です。
室町期の価値観でいうと「椀飯」というものがありました。現在の大盤振る舞いの語源になっておりますが、室町将軍家が部下の家にお呼ばれして、食事をすると言うもの。これによって、将軍家と有力大名とは位置関係を確認しておりました。また、支配層の共通文化として連歌もありました。連...続きを読む

Q【歴史・戦国時代の日本人口の矛盾】戦国時代の歴史教科書の総人口がおかしいことに気付いた。 戦国時代の

【歴史・戦国時代の日本人口の矛盾】戦国時代の歴史教科書の総人口がおかしいことに気付いた。

戦国時代の日本人口は1000万人くらい。

少なく見積もっても800万人。

で、大名に万石という土地を分け与えて国を管理していた。

そのときに3番目に多くの土地を貰っていたのは九州の大名で86万石。

天皇の朝廷
その時の天下人
でこの3番目の九州の大名

3番目の九州の大名で86万石。

日本で3番目に多くの領地を貰っている大名で最大で86万人しか食べられない。

ということは最低でも800万人国民いたとしたら、大名の数が当時の数と合わない。

本当はもっと総人口は少なかったのでは?

天下人と天皇の朝廷は大名に年貢を納めさせたので大名の万石から譲り受けたわけだからノーカウントとして、残り714万石。

あとの大名は10万石とかですよね。

当時の大名ってそんな数いませんよね?

おかしくないですか?

Aベストアンサー

士農工商のうち、武士以外が米を食っていたとでも?

Q戦国大名の国力(石高)について

江戸時代の大名については、例えば加賀百万石というふうに石高(表高・実高)によって国力の目安がわかりますよね。ですが、これが太閤検地以前の戦国大名のとなると、全然わかりません。
戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイトをご存知の方がおりましたら、どうかお教え下さい。m(_ _)m

Aベストアンサー

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家のやり方で検地が行われ、そのデータがそのまま豊臣政権に受容されていることに気をつけてください。よって、実際より少なく申告されているはずです。

「戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイト」
とすれば、太閤検地のデータが掲載されている
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
か、その元になった本を見るしかありません。

なお、戦国大名の財力を見る場合に、

「越後の上杉家は、当時の主力繊維である越後青苧の利益、佐渡を抑えたことによる産金の利益を得ていた。その反面、越後でまともに米が取れる地域は今よりかなり狭く、春日山城がある上越地域が中心で、今の新潟市のあたりは氾濫原でしかなかった」

「甲斐と駿河は当時の日本では金がたくさん出る所であり、これらを領した武田家と今川家はその利益を得ていた。北条家が箱根を越えてしょっちゅう駿河に兵を出していたこと、甲斐の南部の金山地帯を領する武田一族の穴山氏の勢力が大きかったのは、産金の影響があると思われる」

「商業が盛んな琵琶湖周辺と淀川流域、京と堺を手中に収めた織田信長は、他の大名とは段違いの経済力を手に入れたはず。尾張の小大名であった時から、商業の盛んな津島を勢力下に置いていた」

「毛利家は、石見銀山を支配下に置いていた。この存在はかなり大きかったらしく、『毛利は日本一の銀持ち』と外人が評した言葉がある」

「九州等で行われた南蛮貿易の輸出品は、主に奴隷が用いられたらしい。人狩りで集めた男女(特に女)の奴隷を輸出して南蛮の高価な品物を輸入すれば、それだけで商売になる」

など、戦国大名の資金源がコメ(農作物)だけではなかったことはさまざまな事実があります。

また、
「研の『図説・戦国地図帳 歴史群像シリーズ』に確か戦国大名の石高がついていました。第1位は陸奥国167万石 第2位武蔵国67万石 第3位尾張国 57万石などでした」
などと言うのは、上記の雑多なデータを寄せ集めただけの可能性が高いですから、眉にツバをつけて読むことです。「江戸時代より前の日本の経済状態は深い霧の中」、これが事実です。

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家...続きを読む

Q春秋戦国時代について小説を書きたいと思っているのですが春秋戦国時代につ

春秋戦国時代について小説を書きたいと思っているのですが春秋戦国時代について小説が書けるほど詳しく説明してる本はありませんか 歴史書とか史記の翻訳とかでもいいです

Aベストアンサー

春秋戦国時代について書かれた本は、それほど多くないのですが、次の本はお勧めできますね。

司馬遷(著)/小竹文夫、小竹武夫(共訳)『 史記 』(ちくま学芸文庫)全8巻

参考URL:http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%B2%E8%A8%98%E3%80%881%E3%80%89%E6%9C%AC%E7%B4%80-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%

Q人格の優れた戦国大名

人格の優れた戦国大名

(1)領地、領民をしっかりと守った。
(2)親族、配下をみだりに殺さなかった。
(3)明らかに敗北している敵方を大量虐殺しなかった。

以上の条件を満たすような、
戦国大名はいるでしょうか。

Aベストアンサー

北条氏康
毛利元就
徳川家康

あたりが挙げられるのではないでしょうか。

Q平安時代はなにも無い浜辺の千代田区に将門公の首塚?

東京千代田区にある平将門公の首塚の話が最近またテレビなどで取り上げられました。

平安中期になっても、京都王朝に屈しない関東王権の気概が残っており、
将門の死の後も、関東の民衆はそれを支持していた。
それが将門の首が京都より関東に飛んで帰ったという伝説となったなどと考えました。

しかし、よりによってなんで東京の千代田区なのでしょうか?
よく考えたら、そこが不思議。

平安時代は、江戸城なんてそもそも無かったし、東京湾の埋め立ても全然されていなかったから、
あそこら辺は浜辺の近くじゃないですか? ひょっとしたら海の中、浅瀬?

たぶん全く意味の無い土地だったのではないでしょうか?

なぜ、そんなところに飛んできたという伝説ができたのでしょうか?

ひょっとして後世の作り話、つまり江戸時代の初期に江戸を権威付けるために
そんな話を作った?

それとも太田道潅が江戸城を作る前も、実はあの地には何かしら古代の城らしきものが残っていた? (関東王権の城?)  つまり、東京って平安時代も特別な場所だった? 
などと妄想がわきあがります。 どうなんでしょうか?

東京千代田区にある平将門公の首塚の話が最近またテレビなどで取り上げられました。

平安中期になっても、京都王朝に屈しない関東王権の気概が残っており、
将門の死の後も、関東の民衆はそれを支持していた。
それが将門の首が京都より関東に飛んで帰ったという伝説となったなどと考えました。

しかし、よりによってなんで東京の千代田区なのでしょうか?
よく考えたら、そこが不思議。

平安時代は、江戸城なんてそもそも無かったし、東京湾の埋め立ても全然されていなかったから、
あそこら辺は浜辺の近くじ...続きを読む

Aベストアンサー

将門とは直接関係が無い場所と言えば言えます。
ご指摘のように日比谷入江の海岸地帯でした。
現在首塚がある場所は武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれる寒村でした。
ここに天慶3年(940年)に将門の首を祀った津久戸明神として創建されたのが始まりです。
この地には古くから神田明神がありました。津久戸明神はこの神田明神の敷地内に建てられました。
神田というのは元々は伊勢神宮の荘園で伊勢神宮の田すなわち神田からきた地名です。
津久戸明神の神社は、太田道灌によって移転さぜられその後転々として第二次世界大戦後に現在地の地下鉄九段下駅近くに移り、現在に至っています。(現築土神社)
神田明神も江戸城拡張にともない現在の場所に移されてしまいました。
首塚の場所は幕府の重臣だった酒井家の屋敷の中に取り込まれ、江戸の町民とは余り縁がありませんでした。
江戸っ子と将門さんとのつながりは神田明神で充分でした。
つまり、江戸幕府の権威づけとは無関係です。

首塚が現在のような姿になった切っ掛けは関東大震災です。
関東大震災の後で、ここに大蔵省の建物を建てようとした際に事故が多発して将門怨霊伝説が復活しました。
第二次世界大戦後にGHQが区画整理をしようとして事故が多発して伝説を補強しました
鎌倉時代にこの地域の飢饉が将門の怨霊によるものとされて供養されたことから怨霊伝説が始まりました。
このときに板碑を建てたのが塚の始まりです。
この板碑は関東大震災で破損してしまいました。
現在のはその後に作られたものです。

この都市伝説がいまでも引き継がれています。
将門の首が戻ってきたことに因んで、左遷サラリーマンがお詣りしてカエルの置物を奉納すると無事に東京へ戻ってこれるという伝説もあり、今でもカエルの置物が沢山置いてあります。
飛んだ首が戻ってくるということですかネ。
直ぐ近くを本行とする三菱東京UFJ銀行には平将門という名義の口座があります。
ボランティアによる首塚の保存維持費用が入金されています。

首塚にお詣りしたら、成田山新勝寺へお参りしてはいけないことになっています。
成田山新勝寺は将門調伏を祈願したお寺です。

神田明神も元々の祭神は平将門でした。
明治になって朝廷に逆らった人物を祭神とするのは拙いということで、大黒様やえびす様をまつりました。
現在は主祭神として元に戻していますが、商売繁盛のえびす様もあることから営業成績の向上を願うサラリーマンのお詣りが盛んです。
松下幸之助が関東への進出に当たり奉納した神楽殿が今でもあります。

そもそも津久戸明神が建てられたときに祀ったとされる首は誰がどこから持ってきたのか、ということです。
なんせ、神社自称の故事来歴ですからその真偽は定かではありません。
将門伝説は関東の各地にありますが、皇居前の首塚もよってたかって権威づけられたようですね。
将門さんもなんのコッチャイと思っているかも知れません。

将門とは直接関係が無い場所と言えば言えます。
ご指摘のように日比谷入江の海岸地帯でした。
現在首塚がある場所は武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれる寒村でした。
ここに天慶3年(940年)に将門の首を祀った津久戸明神として創建されたのが始まりです。
この地には古くから神田明神がありました。津久戸明神はこの神田明神の敷地内に建てられました。
神田というのは元々は伊勢神宮の荘園で伊勢神宮の田すなわち神田からきた地名です。
津久戸明神の神社は、太田道灌によって移転さぜられその後転々として第二次...続きを読む

Q戦国大名と守護大名って何が違うのでしょうか?

戦国大名と守護大名って何が違うのでしょうか?
どちらも武将ではないのですか?

Aベストアンサー

「守護」とは室町幕府の役職で「守護職」と言います
幕府からその土地の守護を任された大名が名乗ります
「守護」の下には「守護代」があります

たとえば 武田信玄は「甲斐守護」の役職でした
一方 長尾景虎(上杉謙信)は「越後守護代」です
「守護代」は守護大名の変わりに国を治める事を任されています

守護の上には「探題」という役職もあります
これは広域の支配者という意味です
例えば伊達家は「奥州探題」を名乗っていました

これらはみな「守護大名」です。


一方戦国大名とは
幕府から守護や守護代には任じられていない大名で
主君を倒してのし上がってきたりした大名です

徳川家康は守護ではありませんね
守護大名だった今川義元の家来でした

織田信長も守護代の家来の一族です

幕府の力が弱まると
守護大名という肩書きは何の意味も無くなります

Q歴史ゲームは「戦国時代」「三国志」以外めったに無いのはなぜ?

歴史ゲームは「戦国時代」「三国志」以外めったに無いのはなぜ?

歴史シミュレーションゲームと言えば、日本の戦国時代を題材と
した「信長の野望」、そして「三国志」が定番です。
歴史ゲームはほとんどがこの2つで、他の時代を題材としたゲームは
あまりにも少ないのではないでしょうか?

「この時代以外はマイナーで、あまり馴染みがない」という意見も
ありそうですが、そもそも「三国志」はコーエーがゲーム化する
以前はたいしてメジャーでもなかったはずです。
コーエーはマイナーな物でもメジャーにする力をもったゲーム会社だと
私は思っています。

「太平記」のような南北朝動乱とか、あるいは源平争乱の時代とか、
ゲーム的に面白くできそうな時代も他にある気もします。
幕末のゲームもありそうで、意外に少ない。
歴史ゲームは、時代のバリエーションをもっと豊かにしてほしく願う私です。

・歴史ゲームは戦国と三国志に偏りすぎると感じませんか?
・もし上記以外でゲームにすると面白そうな時代はありますか?
皆さん、いかが思いますか?

Aベストアンサー

 極めて乱暴にいえば、戦国時代・三国志はエンターテイメント化しやすい背景があったからでしょう。
 あまり認識されていないようですが、三国志などは半分以上は史実無視の”三国志演義”という娯楽性の強い文学によって形成されていますから、面白みがある。
 同じことは戦国時代にも通じるものがあって、史実・中立的歴史観から逸脱しやすかったことが娯楽性に繋がったとも考えられます。
(戦国時代に関する文学の「中部地方至上主義」は露骨すぎる。)

 要は、楽しめるように歴史改竄が進んでいるからこそ、ゲームでも面白く思えるだけでしょう。
仮に、三国志演戯ではなく、三国志の(魏)『正史』(陳寿)でゲーム化すれば、興覚めする可能性は高いでしょう。

 三国志はゲーム化する前から文学としてはメジャーですし、戦国時代は、講壇などの大衆芸能で知名度が高いです。戦中でも三国志に関する演劇は敵性と看做されないほどです。

 マイナーな歴史でもメジャーに出来るとは到底思えません。
史実を無視しないとゲーム化できない歴史も多く、史実に忠実にするとゲームにならない歴史が多い。
 私から言わせれば、コーエーの歴史ゲームは、”歴史文学世界のゲーム”であって、歴史史実についての配慮が希薄なゲームだと思います。
 史実モードなどが設けられている場合もあるが、形骸化している節が強い。
 
 なお、時代のバリエーションを増やすといっても、ゲーム化できる時代などは短い。
 ある程度のカオスがゲームの前提ですが、歴史は案外、平和ではないにしても秩序が働く傾向にありま。
 
 太田道灌が活躍する<プレ織豊時代>のシナリオの不人気ぶりなどはやはり、娯楽性のない・刺激の少ない時代であったことが原因でしょう。

 未だに、戦国時代のゲームで、信長元服以前のシナリオが充実していないのは、歴史文学偏重による歪んだ史実性のない歴史観でゲームを楽しんでるから・・だと思います。

 個人的には、ナポレオンの時代などをお勧めできますが、歴史史実に配慮した展開なので、作業化しますw
 時代背景・登場人物の捏造話などの付加価値がないと盛り上がらないのが現実だと思います。

 極めて乱暴にいえば、戦国時代・三国志はエンターテイメント化しやすい背景があったからでしょう。
 あまり認識されていないようですが、三国志などは半分以上は史実無視の”三国志演義”という娯楽性の強い文学によって形成されていますから、面白みがある。
 同じことは戦国時代にも通じるものがあって、史実・中立的歴史観から逸脱しやすかったことが娯楽性に繋がったとも考えられます。
(戦国時代に関する文学の「中部地方至上主義」は露骨すぎる。)

 要は、楽しめるように歴史改竄が進んでいるからこそ...続きを読む

Q戦国大名などが達筆なこと

質問はタイトルの通りです。
お宝拝見!などの番組や、博物館・資料館などの展示を見ると、
戦国大名など歴史上の人物は、皆さん非常に達筆なように見えます。
そして、私が書道の心得が全くないからかもしれませんが、
とてもじゃないけど、何書いてあるのかさっぱり読めません!
なんか流れるような綺麗な文字、っていうのはわかるんですが。

こういった手紙などの類は、
本当にその戦国大名なりが書いていたのでしょうか?
戦国大名はあれを読めていたのでしょうか?

私が想像するに、
読み書き専門の秘書のような侍従がいて、
その戦国大名のそばで、手紙を読み上げたり、言われたことを書いていたのでは?
と思うのですが。
武士の子ですから、幼い頃から武芸は仕込まれていたでしょうけど、
中には非常に悪筆でろくに相手に送れないような字のかたもいたのでは?

歴史にお詳しいかた、
私の想像が「そうかもしれない」のか「そんなことはない」のか、
ご教授いただければと思います。

Aベストアンサー

祐筆という専門職がいました。
平安・鎌倉の時代から武士の事務処理を補佐する目的でそのような人が使えていたようです。
最終的なサインは本人がするのですが、足利尊氏は全て祐筆任せでやっていたそうです。

戦国大名でもそうですが、毛利元就が祐筆を公募したとき、敵方のスパイが祐筆に応募してきて採用したそうです。
偽の情報を流すために敵方の祐筆を利用したそうです。

Q戦国時代と鎌倉時代の

北条氏について。

なんですが、歴史読本や街道などの雑誌で戦国時代の北条氏を
”後北条氏”ないし”小田原北条氏”、”北條氏”って
記載し鎌倉のは、ただの”北条氏””鎌倉北条氏”って記載
あります。

どっちが定説なんでしょうか?

トリビアですが、お願いします。

また”ほうじょうし”の表記って北条氏と北條氏のどっちですかね。

2点目は、なぜゆえに小田原を本拠地にしたんでしょうか?
関東を牛耳るんでしたら武蔵の国が、ほぼ中央で利便性が高いような
気がするんですが。

2点をお願いします。

Aベストアンサー

基本的にはオリジナルのほうが「北条氏」と呼ばれます。つまり鎌倉幕府のほうです。普通冠詞はつけません。鎌倉北条氏というのは、一種不適切な呼び方ですが、意図的に「分けよう」としている本の場合、十分ありえますが・・・

後北条、つまり戦国時代の北条は、伊勢宗瑞が祖であり、二代目の氏綱の代に執権であった北条氏、つまり鎌倉時代の北条氏の子孫を「自称」して北条氏と名前を変えました(多くの方が勘違いされていますが、早雲本人は北条を名乗ったことは一度もありません。そのため、彼をどう呼んでいるかで回答の正確さが出るかなと考えていますが・・・)。
なぜ小田原か・・・というのは、後北条氏の版図の拡大が分かっていればはっきりするのですが・・
宗瑞は韮山城とよばれる、伊豆の城を根拠地にしていました。彼の代ではまだ保有領地は伊豆と相模のみです。武蔵は敵対している勢力の領地です。
で、二代の氏綱が、小田原を本拠に変えたのですが、この時点でまだ武蔵は平定されていません。
氏綱の代、北条氏は敵対する扇谷上杉氏の城である江戸城(現皇居ですね)を、太田氏を寝返らせることによって奪います。そして、敵対する里見や足利を打ち破り、武蔵の南側を平らげます。

つまり、氏綱が本拠を小田原に移したとき、武蔵の大半は敵領土だったのです。
江戸城は氏康の代に国府台合戦で大勝利し、里見を房総半島に完全に押し返すまでは前線基地でして、とても本拠が置ける土地ではありませんでした。

また、武蔵でも要所である川越にはいまだ扇谷上杉氏が居座っており、これを排除するのは結局、三代目である北条氏康の代になります。名高い川越夜戦で上杉氏勢力を完全排除、ついで足利氏を排除しました。この時点でようやく1551年。
しかし、まだ武蔵は安定した土地ではなく、やっかいな国人(成田氏など)が居座っていたりでした。
問題は、彼らが表向き従属していても、何かあるとすぐ寝返る程度の関係であったことです。成田氏なんかは上杉氏が1561年には大挙して相模の小田原を包囲したときにあっさり寝返っていたり(ただし、恥をかかされたとかですぐに戻っています)と、辛い情勢でした。これが1561年。
そして、里見も上総から武蔵に攻め入ります。しかし、1564年の国府台合戦でこれを打ち破り、武蔵における地位は少し安定します。そして、氏康の晩年になってようやく武蔵は安定したのです。安定していない土地に拠点をおくのは・・・よろしくないのは分かるかと。

また、当時の武蔵は、後の江戸とは程遠く、河川の氾濫も結構ある湿地帯で(水を支配したのは四代である氏政の代)、しかも平野のため堅城が作れなかったという問題もあります。
北条氏が上杉、武田を退けることができたのは、天下の堅城とよばれた小田原城の力も大きく、やはり籠城にもっとも適した城では、小田原の右に出る城はありませんでした。

なお、氏政は江戸城を隠居先としています。つまり、氏政の代なのですね。江戸を本拠として機能できるようになったのは(といっても氏政は小田原にいるほうが多かったようなのですが)。そして、この江戸の発展は、徳川の時代にも引き継がれ、徳川によって世界最大とも言われる都市へと発展していくのです。
以上が、江戸、ひいては武蔵が本拠地に成りえなかった理由です。基本的には、伊豆から東へ領地を拡大していった勢力ですから、武蔵は常に前線だったわけです。

基本的にはオリジナルのほうが「北条氏」と呼ばれます。つまり鎌倉幕府のほうです。普通冠詞はつけません。鎌倉北条氏というのは、一種不適切な呼び方ですが、意図的に「分けよう」としている本の場合、十分ありえますが・・・

後北条、つまり戦国時代の北条は、伊勢宗瑞が祖であり、二代目の氏綱の代に執権であった北条氏、つまり鎌倉時代の北条氏の子孫を「自称」して北条氏と名前を変えました(多くの方が勘違いされていますが、早雲本人は北条を名乗ったことは一度もありません。そのため、彼をどう呼んで...続きを読む


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