旧東ドイツにおける言論、音楽などの表現の規制がどのようにあったのか? 職業選択の自由があったのか?(例えば路上で靴磨きなどで稼げたのかなど)教えて頂きたいと思います。 宜しくお願い致します。

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A 回答 (2件)

あなたの疑問に答える本が出ていますよ



『ニセドイツ1』『ニセドイツ2』 伸井太一著 社会評論社

建前では御法度ですが
西ベルリンという西側のショーウインドーが国内にある東ドイツは
西側の文化的攻勢に必死に抵抗すべく?

生地が悪いジーンズを生産し
ヌード雑誌も発行され
皮肉なことにあらゆる公刊雑誌を差し置いて東ドイツでは最高の売上

ロックバンドもどきもありました
ただ上記の本を見る限りファッションやヘアスタイルは同時代の西側バンドを必死に真似たようですね

結局あらゆることを西側の真似ようとしたが、何れも中途半端
勿論反体制的な表現はできないし消費財は粗悪
それでも探偵小説、冒険小説、SF小説など娯楽小説や西側のパクリTVゲームなどありました

市場経済導入後のハンガリーを除けば
東ドイツは他の東側諸国に比べれば文化的自由度は高かったでしょう

一度上記で紹介しました本をご覧になってください
堅苦しい北朝鮮と全く違い滑稽と思えるほど東ドイツは面白い国と思えますよ
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この回答へのお礼

書籍のご紹介ありがとうございます!

読んでみます!
ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/13 10:14

旧東ドイツ(DDR)において、社会主義ですので、勿論、言論の自由などありませんでした。

音楽も反政府を歌ったロックやフォークソングなども歌えませんでした。 東ベルリンは西ベルリンを囲んでいたので、西ドイツの夜の8時のニュースだけは見ることが出来ましたが、その他のTVは見られませんでした。西からの書籍物は一切読めませんでした。
当時は隣人も友人であっても、密告が当たり前だったようで、例えば、西からの親戚がたびたび訪ねて来るような家は、隣人からの妬みから党に密告されるようなことがあったようです。 西ベルリンに親戚が居る人は、コーヒー、チョコレート、ニベア、バナナ、オレンジなどの土産を西から持ってきてもらうのが普通のようでした。当時高級品だった、デジタル時計やカメラは税関を通るのが難しかったようです。

職業の自由はありません。但し、フィギュアースケートのカタリーナ・ヴィットの様に、オリンピックでメダルをいくつも取ってくるような選手はホーネッカーと肩を並べてDDRのプロパガンダとして大いにもてはやされ、若くても一軒家を与えられたりしましたので、オリンピック候補になりそうな他種目の子供達はドーピング漬けの日々でした。 

大学への進学も党に入らないと進学できないとかあったようです。

路上での靴磨きはドイツの習慣として、西も東にもありません。
小遣いを稼ぎたいときは、畑仕事などを手伝うとかの簡単な手伝いしかなかったのではないでしょうか。または、楽器の演奏の家庭教師なども考えられます。
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この回答へのお礼

一つ一つ御丁寧にありがとうございます。

参考になりました!

お礼日時:2011/04/14 23:08

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Qベルリンの壁以外の国境線 東ドイツからの脱出ルート

西ベルリンは東ドイツの中にあって壁で守られていたので東ドイツ国民はベルリンに入ることが出来なかったのは理解できます。しかし、ベルリンを除く西ドイツと東ドイツは国境線も長く海も山もあるので脱出や移動が可能な気がしますが(壁で無く鉄条網か?)警備が厳重で脱出出来なかったのでしょうか?1980年代後半はハンガリーから脱出してベルリンの壁崩壊に向かうようですがそもそも国民が大挙して万人単位で国境線破れば取り締まれないような気がします。

Aベストアンサー

東ドイツ側は通行出来る場所ではベルリンの壁と同程度の警戒をしていましたし、通行できない場所は鉄条網が張られ地雷がたっぷりと埋まっていて自動で銃撃する装置が設置されていました。

以下の写真が当時の国境の写真ですが、東側が設置した鉄条網が張られ、自動発砲装置が設置され、東西を挟む立入禁止部分には地雷が埋まっています。
http://www.be21.ne.jp/pepisode189D22-281.jpg

自動発砲装置とは、地雷が埋まった無人地帯に何かが入り込むと自動的に銃撃する無人の装置です。

>そもそも国民が大挙して万人単位で国境線破れば取り締まれないような気がします。

確かに、自動発砲装置の弾が尽きて、全部の地雷が爆発し切れば、そのあとは、1万人の民衆が雪崩れ込むのを防げません。

ですが、1万人の集団の先頭に立つって事は、自動発砲装置と地雷の餌食になると言う事なので「100%の死」を意味します。

なので、だれも先頭に立とうとしなかったのです。100%死ぬと判って先頭に立つ馬鹿は居ませんからね。誰だって命は惜しいのです。

Q旧東ドイツの自動車

社会主義経済の停滞性を示す例として、ドイツが統一されて東側の内情が明らかになったときに、東ドイツではドイツ分裂時そのままの、まったく改良されていない自動車が走っていたという話を聞いたことがあります。
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Aベストアンサー

↓ザクセンリング社のトラヴィ(トラヴァント)?

苦肉の策で紙に樹脂を染み込ませて作った伝説(?)の車です。

参考URL:http://www.nomusan.com/~tabi/berlin/travi.html

Q西ドイツ・東ドイツはどこで分かれていたのですか?

こんにちは。
旧東ドイツと旧西ドイツがどこで分かれていたのか知りたいのですが、私の手元には現在のドイツの地図しかなく調べる事が出来ませんでした。
どなたか、西ドイツと東ドイツに分かれていた頃の地図の載っているホームページをご存知ではありませんでしょうか?

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

西Berlinは東ドイツの中にぽっかり浮かぶ、西ドイツの飛び地として存在していました。
従ってkingyonohireさんのおっしゃる「東と西の分かれ目」と「ベルリンの壁」は別の場所です。でも「ベルリンの壁」が飛び地を仕切る厳然たる国境でもあったこともまた事実です。

さてご質問ですが、手許にドイツの地図があるのであればそう難しい相談ではありません。
その地図には州の区分は書いてありますか? 昔の東ドイツ地域に属する州はMecklenburg-Vorpommern、Sachsen-Anhalt、Brandenburg、Sachsen、Thueringenの5州とBerlin特別市(の東の領域)です。
旧国境はThueringen森を西に走り、Wuerzburgの北100kmくらいのところで北に向きを変え、Harz山のすぐ西を通り、Elbe川に沿ってHamburg方向に伸び、Luebeckの東でバルト海に達していました。

とりあえず、参考になりそうなページを付けておきます[1]。州ごとの特徴を日本語で説明したページですが、一番上に「地図」と書かれたリンクがあり、これを押すと地図[2]に飛びます。地図はドイツ語で書かれていますが、州の区分を見るだけなら特に困ることもないと思います。

[1] http://www.flc.u-tokai.ac.jp/german/land.htm
[2] http://userpage.chemie.fu-berlin.de/adressen/bl/bundeslaender.html

2年ほど前にドイツを訪ねた折に旧国境付近の5万分の1の地図を買ったのですが、旧国境を境に旧西地域と旧東地域で地図の記号や表記が微妙に違っていたのを興味深く感じたことがあります。(余談でした)

参考URL:http://www.flc.u-tokai.ac.jp/german/land.htm, http://userpage.chemie.fu-berlin.de/adressen/bl/bundeslaender.html

西Berlinは東ドイツの中にぽっかり浮かぶ、西ドイツの飛び地として存在していました。
従ってkingyonohireさんのおっしゃる「東と西の分かれ目」と「ベルリンの壁」は別の場所です。でも「ベルリンの壁」が飛び地を仕切る厳然たる国境でもあったこともまた事実です。

さてご質問ですが、手許にドイツの地図があるのであればそう難しい相談ではありません。
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ロシア(ソ連)が中国東北部に敷設した北満鉄路(旧東清鉄路)の満鉄への譲渡に携わったとされる満洲国外交官の北川四郎氏のことを調べています。
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 こんばんは。
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 「ノモンハン:元満洲国外交官の証言 戦争と人間の記録」
  現代史出版社 1979

 「ボーダー・レスとは?:東郷外交から北方領土へ」
  日本図書刊行会 1993

 「『まさか』の歴史:万物は流転し、意識は変化する」
  谷沢書房 1989

 「司馬史観:軍部が日本を占領した」
  垂井日之出印刷所 2000

 「司馬遼太郎は何故ノモンハンを書かなかった?」
  垂井日之出印刷所 2000

 調べてもらった大学の図書司書の子が言うには(いつも助けてもらっている子で、とても有能な子です)、現在北川四郎という名前で入手できる資料はこれが全てではないでしょうかということでした。
 

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Aベストアンサー

東ドイツについて

西ドイツのTVで見れたのは8時のニュースのみです。
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Q兵庫県の旧飾東郡にあった「三田村」、「長柄村」とは現在のどの辺りになる

兵庫県の旧飾東郡にあった「三田村」、「長柄村」とは現在のどの辺りになるのでしょうか。
ご存知の方おられましたらご教示下さい。

出展は
【三田村】 明治十二年七月十三日の「西京新聞」
【長柄村】 明治十八年四月十一日の「伊勢新聞」
です。

Aベストアンサー

先に結論を申せば、明治14年から現在に至る間…特に明治14年~18年時点…には
「姫路市」を含め「飾東郡」の中では
村単位としての「三田村」「長柄村」はともに「不存在」と推定されます。

根拠資料は、下記URLのとおりでございます。
既読でしたらm(_"_)mですが、未読でしたら是非一度御確認下さい。
(1)(2)(4)は当時の公的文書のようです。
http://kindai.ndl.go.jp/index.html

(1)『明治十四年 兵庫縣統計概表/兵庫縣庶務課編纂/兵庫縣藏版
明治18年7月31日出版届 明治18年8月16日刻成 不販賣』
「播磨國/飾東郡/60組/町110村65」(…実際に町・村を数えると174で1不足?)
64~66コマ目/209
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807351/64

(2)『地名索引 内務省地理局編纂 明治十八年四月/内務省地理局藏版
明治17年11月4日版権届 明治18年4月23日出版』
51~55コマ目/406「三」
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992096/51
208~212コマ目/406「長」
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992096/208

(3)『内務省版権免許 府縣管轄区域郡區町村名集覧/樋口文治郎編/明治廿一年四月出版
明治20年10月13日版権免許 同21年3月25日印刷竣功 同4月13日発行』
「飾東郡姫路龍野町&飾東郡」
44コマ目/237
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762902/44

(4)『新旧対照市町村一覧 いろは順市町村索引/
東京和泉橋警察署著/明治廿二年十一月十五日
明治22年10月29日印刷 明治22年11月13日出版届』
(明治29年3月31日迄の「飾東郡&飾西郡」と
明治29年4月1日からの「飾磨郡」とが混在?)
40~41コマ目/263「姫路市」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761995/40
74~75コマ目/263「姫路市」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932790/74
46~47コマ目/263「飾磨國飾東郡」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761995/46
「飾磨國飾磨郡」
77~78コマ目/263
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932790/77

(5)『市町村一覧ほか/中村芳松編
明治28年5月30日訂正増補再版』
110コマ目/375「姫路市」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761998/110
116コマ目/375「播磨國飾東郡」

(6)つかんぼやと>市町村変遷パラパラ地図>兵庫県
明治22年4月1日以降分
http://tamotchi.skr.jp/geo/hensen28/index.html

残念ながら以上のとおりでございます。

なお、明治22年4月1日以前の「村」単位の規模に関しましては
当時の郡町村人口を町村数で割ると<あくまでも私見ですが>
いわゆる「大字」単位の規模を超えるものでもなさそうです。

あと、全国の「小字」を見るのに一番簡便なのは『角川日本地名大辞典』巻末所収のものですが、
残念ながらこの辞典シリーズでは編集方針にズレがあったのか、
「北海道・大阪府・兵庫県・奈良県・福岡県・愛知県・沖縄県等」は「小字」一覧未収録であったり、
「鳥取県・島根県・大分県等」は小字一覧であっても「大字」に相当するものが収録されていて、
小字が全て収録されているとは思われない場合もある様子です。

なので、兵庫県の「小字」を調べる場合には、
兵庫県地名研究会による『兵庫県小字名集』が1991(平成3)年以降、
順次国別に全5巻(東播磨・西播磨・但馬・丹波・淡路)が刊行されていますので
コチラに当たられるのも宜しいかもしれません。

また、明治時代の地名を調べるもう一つの方法は、
ふつう大字単位の地番順で編集されている土地台帳やその附属地図(地籍図・字切図などとも言います)に記載された
「字(字名・小字)」が役立つ場合もあります。今回の事案に照らせば「神戸地方法務局姫路支局」が所管庁です。
台帳&附属地図は(法令上は既に廃止された制度なので)何れも無料で閲覧が可能なはずです。

ただ、両記事ともに現代版○スポの匂いも漂いますがね^^

先に結論を申せば、明治14年から現在に至る間…特に明治14年~18年時点…には
「姫路市」を含め「飾東郡」の中では
村単位としての「三田村」「長柄村」はともに「不存在」と推定されます。

根拠資料は、下記URLのとおりでございます。
既読でしたらm(_"_)mですが、未読でしたら是非一度御確認下さい。
(1)(2)(4)は当時の公的文書のようです。
http://kindai.ndl.go.jp/index.html

(1)『明治十四年 兵庫縣統計概表/兵庫縣庶務課編纂/兵庫縣藏版
明治18年7月31日出版届 明治18年8月16日刻成 不販賣...続きを読む

Q東ドイツと西ドイツでの価値観・国民性の違いについて

あまり歴史には詳しくないのですが、

東ドイツ=社会主義
西ドイツ=資本主義

といったイメージを持っています。

ドイツが分断されていた年月は、歴史全体から見れば僅かですが、当然、両国での教育や国民性は異なっているかと思います。

それぞれの国の教育による価値観や、国民性は、それぞれどういったものであったのでしょうか。

また、東ドイツが西ドイツに吸収されて今のドイツができたようですが、西ドイツと今のドイツの価値観と国民性には、根本的な違いはないのでしょうか。

Aベストアンサー

東ドイツ=DDR=Deutsche Demokratische Republik=ドイツ民主共和国=共産主義
西ドイツ=BRD=Bundesrepublik Deutschland=ドイツ連邦共和国=民主主義

東ドイツの教育は普通の授業と平行して、職業訓練も重要視されていました。
例えば、秋になると、農家の収穫を手伝うとか、Lehring, Geselle, Meisterと言った職人の見習い制度も重視されていました。

西ドイツでは保育園、幼稚園が不足していましたが、東では、保育園、幼稚園が充実していたようで、働きたいが、子供を預けられないといった心配はほとんど無かったようです。

西ドイツでは学校で初めて習う外国語がラテン語か英語ですが、東ドイツでは、ロシア語か英語、ラテン語でした。ですから、東出身の人はロシア語が分かる人がけっこういます。

また、東ドイツでは、SED=Sozialistische Einheitspartei Deutschelands=ドイツ社会主義統一党だけが、政党で、この政党党員の子供と、農民の子供が大学に行け、そこの党員でない人の子供は優秀でも大学に行けませんでした。

また、Abi(Gymnasiumの卒業試験)で彼らは、SEDをたたえる論文を書かなければ、大学に行けなかったそうです。

そして、例えば、農民の子が無事大学を卒業して、エンジニアになったとして、その人がSEDの党員でなければ、いくらその子供が優秀でも大学には入れてもらえない仕組みになっていたそうです。
もし、党に入っていない人の娘が優秀で、大学に行きたいのに行けないとかになると、身近な西ヨーロッパから来ている外国人とその娘が、偽装結婚して、彼の本国から西ドイツに渡って西ドイツの大学へ行くなどと言うこともあったようです。
教育自体は、西ドイツよりも東の方が良かったようです。

嘗て、東ドイツはオリンピックでメダルを多く稼いでいましたが、彼たちはSEDの格好のプロパガンダで、子供のころから、ドーピング漬けにされていた人達がほとんどで、ドイツ再統一後は大きなスキャンダルになっていました。
フィギュアースケートのカタリーナ・ヴィットはよくホーネッカーと雑誌などの写真に写っていて、プロパガンダの代表だったとも言える人です。

国民性の違いといって、バイエルン人と東プロイセン人との違いは無いと思います。ただ、地理的な関係で東プロイセンの人の引揚者が、東ドイツには多かったと思います。

東ドイツの時代は、友達や隣人がお互い見張っていて、スパイさながらの写真を撮って密告するなど、日常茶飯事、平気でやっていたようです。ですから、人を信じない人が多かったのではないでしょうか。

東ドイツでも東ベルリンでは、夜8時のARD(西ドイツの1チャンネル)のニュースが見る事が出来ました。西からの新聞、雑誌、出版物は禁止で、バナナ、オレンジ、チョコレート、コーヒーは市場にありませんでした。当時の東ベルリンのアレキサンダープラッツの喫茶店ではインスタントコーヒーで、その広場のスーパーでは、脂身の多いサラミーソーセージとラベルの貼っていない缶詰ばかりが目立っていました。缶詰は買って帰って、どうやって中身を判断するのか不思議に思ったものです。チェックポイント・チャーリーの国境を越えた東側は廃墟のビルしか見えず、人の気配が全くしない感じの所でした。

また、壁が崩壊する前、ハンガリーがオーストリア国境を開けると言った時に自分達の子供を置き去りにして、逃げた親が多くいて、壁の崩壊直後、当時のコール首相夫人が自らバスを運転して、その子供達を救いに行ったのは有名な話しです。

現在、嘗てDDRだった地方は、西よりも、目だった産業も無く、若者の失業率も高く、ザクセン州などはネオナチなどに走る若者がけっこういます。最近は親子3代ネオナチなんていうのもあるようです。

ベルリンの現在の国会議事堂内に国境線がありました。
そして、その脇に川が流れていて、鉄格子で仕切られている横に、十字架がいくつもあって、見れば、その前の年に撃たれた人のものもありました。30年前の話です。皆自由に行き来できる、いい時代になりました。

東ドイツ=DDR=Deutsche Demokratische Republik=ドイツ民主共和国=共産主義
西ドイツ=BRD=Bundesrepublik Deutschland=ドイツ連邦共和国=民主主義

東ドイツの教育は普通の授業と平行して、職業訓練も重要視されていました。
例えば、秋になると、農家の収穫を手伝うとか、Lehring, Geselle, Meisterと言った職人の見習い制度も重視されていました。

西ドイツでは保育園、幼稚園が不足していましたが、東では、保育園、幼稚園が充実していたようで、働きたいが、子供を預けられないといった心配は...続きを読む

Q東ドイツの秘密諜報組織について

東ドイツ崩壊後、この国において諜報組織が広範に広がっていたことが判明。膨大な諜報活動書類と組織の実態が暴露されたと聞きました。

ある説では、国民の大半が諜報活動に携わっていたか、強制させられていたようです。

ただ、これらは犯罪だと思いますが、国家が崩壊し、西ドイツに吸収されたことでこれらの犯罪は罪を免除されたのでしょうか。それとも関係者は法の下で裁かれたのでしょうか。それともまだ調査中でこれからのことなのでしょうか。

それらしい情報がみつかりません。詳しい方教えてください。

Aベストアンサー

諜報活動の全てが非合法ではありません。外国の新聞記事やTV報道などの合法的に頒布された情報を分析して、複数の情報を総合評価するなどして裏に隠された情報を察知するのもスパイ活動ですし、諜報活動の大半はこのような合法的活動です。実際のスパイ活動で非合法な活動はほんの一部に過ぎません。

>ある説では、国民の大半が諜報活動に携わっていたか、強制させられていたようです。

これは密告制度の事だと思いますが、共産党独裁体制の国ではよくある事で、大量虐殺に繋がった等の特殊な件でもない限り、一々全部を犯罪として立件出来る類の事ではないでしょう。国民全員が潜在的密告者なのですから正確な検証はほぼ無理です。

シュタージについては、No1の方の指摘通りです。

Qプロイセンが生まれ変わって東ドイツ…?

プロイセンが生まれ変わって東ドイツ…?

つい最近、ネット上で『旧東ドイツはプロイセン公国の生まれ変わりで、ドイツ連邦共和国は神聖ローマ帝国が成長した姿』と主張される方々をちらほら見かけるようになったのですが、何が起きているのでしょうか?
私は世界史が苦手で、日本史ばかり勉強していたのであまり知識が深くないのですが、高校のときに使っていた世界史用の地図帳を改めて見ると何だか位置がずれているような気がしてモヤモヤしてしまいます…。

Aベストアンサー

 東ドイツとプロイセン公国に直接の関係はありません。
 
 中世以来、領邦国家の連合体であった神聖ローマ帝国ではハプスブルグ家を中心とした大ドイツ主義による統一がナポレオン戦争によって破綻した後、プロイセン公国から発展したブランデンブルグ・プロシア王国を中心とした小ドイツ主義が有力となり、最終的に普仏戦争でナポレオン3世に勝利したプロシア王国は占領下のパリでドイツ帝国の成立を宣言しました。要するに統一ドイツ帝国の母体となったのがプロシア王国です。
 このドイツ帝国は第一次世界大戦の敗戦で崩壊し、ワイマール共和国が成立しましたが、敗戦国ドイツはポーランドに領土を割譲する形で西に追いやられました。この時、旧プロイセン公国のあった場所は縮小された上に、いわゆるポーランド回廊によって分割されてしまいました。
 さて、敗戦により過酷な賠償を課せられたドイツのワイマール共和国では戦後のベルサイユ体制に対する不満が高まり、それに乗じてヒトラーが政権を取り、第三帝国が始まりました。しかし、やけくそに世界戦争を始めたドイツは結局はまたしても敗戦の憂き目に会い、今度も東方領土を大きく削られ西に追いやられました。
 プロイセン公国発祥の地はソ連に割譲され、今なおロシア共和国の飛び地として存在しています。そして、独ソによる第2次ポーランド分割でソ連が割譲した分だけポーランドが西に追いやられたので、その分だけドイツの領土が削られています。よってドイツ統一前のプロイセンの領土の多くは現在のロシア領とポーランド領にあることになります。
 東ドイツは、西に追いやられて残ったドイツ領のうち、英米仏ソの四カ国で分割占領したうちのソ連の占領地域が独立したものです。ちなみに首都ベルリンも四カ国に分割占領されていたので、周囲を東ドイツ領に囲まれる西ベルリンは冷戦下では陸の孤島でした。もっとも、ベルリンは冷戦下では占領を解かれていないので、ずっと四カ国の占領下のまま(東ベルリンは違うかもしれないけど)で、それが解かれたのは東西ドイツが統一してからです。

 ちなみに、ドイツでは戦争はナチスが勝手にやったことになっているので、反省もしていないし、連合国との講和もしていません。ナチスの国家が崩壊したところを連合国が占領して、そこから新たなドイツ国家が独立したというのが建前なので。


>『旧東ドイツはプロイセン公国の生まれ変わりで、ドイツ連邦共和国は神聖ローマ帝国が成長した姿』
 
 以上のように、東ドイツとプロイセン公国には何のつながりもありませんし、西ドイツにしたって敗戦に継ぐ敗戦で旧神聖ローマ帝国の版図のごく片隅に追いやられてるだけの姿を見て、どこが成長しているのかわかりません。

 

 東ドイツとプロイセン公国に直接の関係はありません。
 
 中世以来、領邦国家の連合体であった神聖ローマ帝国ではハプスブルグ家を中心とした大ドイツ主義による統一がナポレオン戦争によって破綻した後、プロイセン公国から発展したブランデンブルグ・プロシア王国を中心とした小ドイツ主義が有力となり、最終的に普仏戦争でナポレオン3世に勝利したプロシア王国は占領下のパリでドイツ帝国の成立を宣言しました。要するに統一ドイツ帝国の母体となったのがプロシア王国です。
 このドイツ帝国は第一次世界...続きを読む

Qなぜソ連は西ベルリンを東ドイツの領地としなかったのですか?

質問はタイトルのとおりですが、
普通に考えるとおかしいですよね?
西ドイツから空輸で物資を運んだり、
壁のお金も結構かかったでしょうに…
なぜでしょう?
素人なので分かりやすく説明して下さい。

Aベストアンサー

私もタダの検索結果だけですが,#1 の方のお書きの通りの様です。

 下記サイトの記載によると,『戦後ドイツの処理をめぐって結ばれたベルリン協定で,戦後ドイツは四カ国によって分割占領される事。首都ベルリンも同様に分割占領する事。』が決められていた様です。

 ・http://www.maedafamily.com/kanren/berrin.htm
   ベルリン危機

参考URL:http://www.maedafamily.com/kanren/berrin.htm


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