ウィキペディアの情報では、初期のモンゴル帝国には「莫大な遺産があった。」と記述されています。

(例)トルイ
トルイの莫大な遺産はケレイト部族出身の妃ソルカクタニ・ベキを経て、両人の息子モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケの4子に継承され、のちの大元、イルハン朝の基盤となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB% …

(例)シリギ
モンケ兄弟の末弟で末子相続制により父トルイの莫大な遺産の大部分を継承しているアリクブケを後継ハーンに推し
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AA% …

------

これはどういうことなのでしょうか。

遊牧民族と莫大な遺産は、ちょっと連想できません。

それで質問です。

質問1. 莫大な遺産とは何のことでしょうか。政治的な支配権力、広大な領土、貴金属・鉱山など、現金・紙幣、商取引における金融資産、・・・・・などが考えられます。どれを指しているのでしょうか。

質問2. 遊牧民族にこれらの資産はイメージが合いません。しかも、モンゴルの遊牧民族が突然このような財力を蓄えたことは、何か歴史的必然とか、新技術とか、商取引の変化とか、重要な変化があったと思います。何があったのでしょうか。

関連のコメントもありましたらお願いします。回答は一部でもかまいません。

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A 回答 (2件)

ウィキの人名を中心に検索されているようですが、ご質問の内容については、元王朝についての記述で説明されています。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)

最初の歴史の記述は飛ばして、政治の項目の民政制度からみていってください。元王朝の特異性がわかってきます。

もともと遊牧民族である彼らは、経営の能力を持っていません。そのため、王朝及びモンゴル人は権力のみを握り、実務を行う人材を外部に求め、各人の特性や能力に応じた職務を分担させました。

財政部門:          財務に優れた色目人(ムスリム:ペルシャ人)
文化・宗教関係部門:     チベット人やインド、ネパール、カシミール地方の出身者
科学・学術・情報・技術関係: ヨーロッパを含むあらゆる地域出身者

従来の前例に囚われない支配は、流通と貿易を振興し、紙幣を貨幣として流通させるなど、経済・商業政策における先進性を生んでいきます。モンゴル人の支配の元で、科挙によらない実力主義の人材登用がそれを可能にしました。

その経済は、緩やかな統一がもたらした国際交易の振興、すなわち、塩の国家専売による莫大な収入と、経済センターとして計画設計された都、大都に集中する国際的な規模の物流からあがる商税(従来の中国商文化には無かった)で国庫を支える、というものでした。

塩との交換で保障された交鈔・塩引を銀に等しい通貨として流通させることによって、銀の絶対量の不足を補いつつ、塩引の代金と商税を銀単位で徴収したことにより、元の中央政府、ひいては皇帝の手元には、中国全土から多量の銀が集められました。こうして蓄えられた銀は広大な領土を維持、発展させるための莫大な軍事費として使われるほか、少なくない部分が皇帝から家臣であるモンゴル貴族たちに対する下賜という形で使われていきます。

そして、皇室・王族・貴族はこうして得た銀をオルトクに投資し、国際交易に流れた銀は中国への物流となって大都に還流し、そこからあがる利益の一部が商税となって再び皇帝の手元に戻る仕組みとなっていました。このようにして莫大な資産が皇帝・貴族の懐に入っていったわけです。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB% …
遺産というのはこのことかと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%96% …
このへんの影響で、モンゴル高原における人口が増加したとか前に聞いたような。
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Qモンゴル帝国と元について教えて下さい

鎌倉時代について勉強しています。
そこで元冦についてあったのですが、モンゴル帝国と元が意味分かりません。
日本史の教科書しかないので教えてください。

1.モンゴル帝国をいくつかにわけて、それぞれを孫が支配した。その一つが元である。
2.1271年に元ができたのに対し、日本に服属を要求したのは68年だから、モンゴル帝国の頃に服属を要求してきた。
3.なので、モンゴル帝国の頃に服属を要求→王朝にわかれて元ができる→元冦がおこる

この3つはあっていますか?

Aベストアンサー

1→正しいとは言えません。
 チンギス=ハーンによって創始された帝国(モンゴル帝国)は,もともと遊牧民の国なので土地を分け与えるという感覚はあまりなく,チンギス=ハーンの一族や配下には,土地というより「何千戸」といった単位で人間が割り振られた,というのが実情に近いところです。
 それら一族のすべてを束ねる「大ハーン」の地位は,チンギス=ハーンの死後,2代オゴタイ(チンギスの三男),3代グユクの順に継承されましたが,3代グユクの即位には一族からの反対が強く,結局グユクは暗殺され,代わってトゥルイ(チンギスの四男)の長男モンケが4代の大ハーンに即位し,このときオゴタイの一族は大半が粛清されました。
 そして4代モンケの死後,その弟であるフビライとアリク=ブカが大ハーンの地位をめぐって争い(アリク=ブカの乱),この争いは結局フビライが勝つのですが,オゴタイ一族の生き残りであるハイドゥがフビライに反旗を翻し(ハイドゥの乱),この反乱は数十年にわたって続いたことから,この間にモンゴル帝国の分裂は決定的になってしまったのです。
 したがって,モンゴル帝国はチンギス=ハーンがその孫達に分けたということではなく,チンギス=ハーンの死後に一族間の争いが起こり,いつの間にか分裂してしまったということです。

2→時系列的には正しいですが,モンゴル帝国と元が別の国という訳ではありません。
 1271年,フビライは自らの帝国に「大元」という国号を定めましたが,これは「大モンゴル帝国」(モンゴル語では「イェケ・モンゴル・ウルス」)という国名を「大元大モンゴル帝国」(ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス)に改めただけのことであり,全く別の国に変わったというわけではありません。
 フビライの実質的な支配領域は,主に現在の中国を中心とする帝国の東方地域に限られていましたが,例えばフビライの弟・フラグが建国したイル=ハン国(現在のイラン,イラクなどを支配)はフビライに服属しており,元という国号を付けた後もモンゴル帝国という建前を捨てたわけではありません。

3→正しいとは言えません。
 フビライは,1261年にモンゴル帝国の第5代ハーンを名乗りましたが,ハイドゥを始め帝国西方の一族の多くはフビライの権威に服しておらず,1268年の段階では,既にモンゴル帝国は実質的な分裂状態に陥っていました。
 そして,1271年に元が成立したというのは,前述のとおり国名がちょっと変わったというだけですから,フビライによる服属要求の時期と元朝成立の前後関係は,歴史的には何の意味もありません。
 したがって,モンゴル帝国の第5代大ハーンを名乗るフビライが日本に対し服属を要求→フビライが自らの国名に「大元」を付ける→元寇が起こるという順番の出来事だったというのが歴史的実態です。

1→正しいとは言えません。
 チンギス=ハーンによって創始された帝国(モンゴル帝国)は,もともと遊牧民の国なので土地を分け与えるという感覚はあまりなく,チンギス=ハーンの一族や配下には,土地というより「何千戸」といった単位で人間が割り振られた,というのが実情に近いところです。
 それら一族のすべてを束ねる「大ハーン」の地位は,チンギス=ハーンの死後,2代オゴタイ(チンギスの三男),3代グユクの順に継承されましたが,3代グユクの即位には一族からの反対が強く,結局グユクは暗殺され...続きを読む

Q内モンゴル自治区がモンゴルから外れたわけは

独立戦争のときに何か事情がありましたか。

Aベストアンサー

wikiを読んだら、昔っから別だったみたいですよ。もともとはチンギス・ハーンのモンゴル帝国が、世継ぎで息子達に分割されてから別々の国。
内モンゴルはその後、清を建てて中国を支配した。だから第2次世界大戦の時も、となりのモンゴルは別の国、自分たちの国は中国そのもの、みたいな感覚だったんじゃないでしょうか。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%8C%BA

Qモンゴル帝国を築いたチンギスハンがいたのに何でモンゴル後進国?

 チンギスハンからのハン一族がモンゴル帝国を築き、日本にも遠征をするほどの勢いがあったモンゴル帝国、

 しかし、今となっては遊牧民中心の後進国です。
 あれほどの勢いが何故近代にも継続されなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

モンゴルですが、チンギスハンの時代に世界帝国になりますが、その死後、オゴタイハン国・中央アジアのチャガタイハン国・ロシアのキプチャクハン国そしてイラン方面のイルハン国の4国に事実上分裂し、彼の息子や孫たちも徐々に分かれていきます。
モンゴルのリーダーを決めるのをクリルタイと言い、伝統的には末の息子が継ぐことになっています。
ただチンギスの長男ジュチは妻が略奪された時に身ごもった子なので血筋に疑問があって、次男のチャガタイと不仲という理由もあり、両者を巧く調停できる3男のオゴタイが継ぎます。
その後この4家はお互いに争ったり同盟したりしますが、フビライがその武力を背景にクリルタイを開いてハン(モンゴル族のリーダー)になり、彼の時代に中国の南宋を滅ぼし、中原の国すなわち中国になります。
中国の王朝は通例では1字ですから、国名も「蒙古」から「元」として、ご存知のように日本にも攻め寄せてきます。
ところがこの元も歴代王朝と同様徐々に中国化し、遊牧民の質実剛健な気風は影を潜め、一方でモンゴル族に従っていた他の遊牧民の心も離れ衰退していきます。
やがて1368年明により首都が落ち、元は滅亡します。
因みに日清戦争の清も同様に遊牧民の国でしたが、中国化して衰退しました。
尚ハンというのはモンゴル族の王の称号であり、一族の名前ではありません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3

モンゴルですが、チンギスハンの時代に世界帝国になりますが、その死後、オゴタイハン国・中央アジアのチャガタイハン国・ロシアのキプチャクハン国そしてイラン方面のイルハン国の4国に事実上分裂し、彼の息子や孫たちも徐々に分かれていきます。
モンゴルのリーダーを決めるのをクリルタイと言い、伝統的には末の息子が継ぐことになっています。
ただチンギスの長男ジュチは妻が略奪された時に身ごもった子なので血筋に疑問があって、次男のチャガタイと不仲という理由もあり、両者を巧く調停できる3男のオゴ...続きを読む

Qムガール帝国?ムガル帝国?どっち?

両方耳にするのですが、二つとも同じことですか?

Aベストアンサー

同じですね。
15年くらい前は「ムガール帝国」が一般的でしたが、それ以降は「ムガル帝国」の記述が多くなったように思います。

Q現代に残るモンゴル帝国の遺産は?

モンゴル帝国は現在の中国、ロシア、イスラム諸国等にまたがる巨大な帝国でしたが、それにしては現代に残る遺産が少ないように思います。
ギリシャ、ローマに匹敵する建築や書物が現代に残っていないのは何故でしょうか?

Aベストアンサー

 騎馬隊で遊牧しながら幕舎で暮らす生活様式のモンゴル帝国は、確かに建築書物は少ないですが、
現代文明に「モンゴルは帝国内において、(中央政府の利益に反する場合を除き、地域ごとの法の多様性を許す形での)法の支配を確立し、信教の自由を保障し、拷問を廃止し、自由貿易をもたらし、外交特権の考え方を樹立し、メリトクラシーを実現しました。そして、このようなモンゴル帝国で、史上初めて紙幣が発行され、郵便制度が生まれ、印刷、火薬、羅針盤、算盤といった革命的技術が帝国内外にあまねく普及し、レモン、人参、お茶、トランプ、ズボンといった帝国内の一地方の産物が世界に広まりました。まさに、近代はモンゴルに始まる、と言っても過言ではありません。」というような影響を与えています。
また、モンゴルには民主主義の萌芽形態が見られた、すなわち、重要な国事について、チンギス=ハーンの一族やモンゴルの有力者が参加して聞かれたクリルタイ(Kuriltai=大会)です。重要な国事は、対外遠征、法令頌布、そして新ハーン(汗)の選定・即位でした。モンゴルに完全に支配された期間が(南宋滅亡の1279年から元滅亡の1368年までの)90年弱と比較的短かった中国が、長期にわたってモンゴルの支配を受けたけれども間接統治にとどまったロシアが、十分、寛容で民主的なモンゴル「文明」を身につけることができなかったのは、残念なことでした。

もちろん、古都カラコルムのような世界遺産もありますよ\(^^;)...

http://www.tabitamago.jp/mongolia/tour-topics/02.html

 騎馬隊で遊牧しながら幕舎で暮らす生活様式のモンゴル帝国は、確かに建築書物は少ないですが、
現代文明に「モンゴルは帝国内において、(中央政府の利益に反する場合を除き、地域ごとの法の多様性を許す形での)法の支配を確立し、信教の自由を保障し、拷問を廃止し、自由貿易をもたらし、外交特権の考え方を樹立し、メリトクラシーを実現しました。そして、このようなモンゴル帝国で、史上初めて紙幣が発行され、郵便制度が生まれ、印刷、火薬、羅針盤、算盤といった革命的技術が帝国内外にあまねく普及し、レ...続きを読む

Qイスラム帝国とローマ帝国について

例えば、エルサレムやアフリカの地中海沿いの地域なんかは
イスラム帝国の時代もあれば、ローマ帝国の時代もあった訳ですが
言葉があきらかに違います。

この地域にた普通に暮らしている住民はどう対応したのでしょうか?
支配国が代わる度に覚えさせられたのですか?

Aベストアンサー

言語は支配国が変わる度に変わるわけではない。変わるのは税金の納入先が変わるだけです。帝国とはそういうものであり、属州とはそういうものです。ただし個別の都市に限って論じれば、元の住民が追放されたり、虐殺されたり、自発的に他の地域に移住したりしてまるっきり中身が入れ替わってしまうこともあるので言語の継続性は保証されません。

世界的な人口の増加は、近代の産業革命や農業革命による飛躍的な食糧増産が可能になってからのことであって、古代においては現代人が考えるような人口じゃないんです。大規模な自然災害や伝染病の流行で、いともたやすく都市が廃墟になったり住民が入れ替わったりします。言語は、新しい住民の流入や新しい文化や新しい宗教の流入によって相互に影響しあい長い歴史によって自然と変わっていくものです。

Qモンゴル帝国

モンゴル帝国では、モンゴル第一主義をとっていて、第一にモンゴル人、第二に色目人、第三に漢人、第四に南人 らしいですが、中国とヨーロッパの間にいる色目人を味方につけるとどのような利点がモンゴルにはあったのでしょうか? そのことについて先生が言っていたのですが、肝心なトコを忘れてしまいました。 お力貸してください。

Aベストアンサー

モンゴル帝国にとって色目人は経済的に有用でしたし、各地を往来するため情報をもたらす役に立ちました。

遊牧民が主体であったモンゴル人にとって外部の情報(地理、民度、思想、政治など)は貴重でしたし、貨幣経済や科学技術をもたらした色目人の協力なくしてはあの偉業は無理でした。
鉄の使用は製鉄、原料の供給確保、武器への加工の一切は色目人の知識によるものでした。

Qローマ帝国とかイスラム帝国の武将って誰が有名なの?

 日本では戦国時代や源氏・平氏などいろいろありますし

 中国の三国志などで多くの武将が紹介されていますが

 ローマ帝国などにも猛者っていなかったのですか?

 ヨーロッパの方では武将みたいなのは存在しないのでしょうか?

Aベストアンサー

 もちろん,いっぱいいますよ。
 ローマ帝国関係なら,ハンニバルを破った大スキピオ,ポンペイウス,カエサルあたりが名将として日本でも知られていますし,『ローマ人の物語』を読めばそれ以外にも名の知られた人物は沢山いることが分かると思います。
 イスラム関係は,日本ではあまり知られておらず,比較的知名度が高いのはサラディンとバイバルスくらいですが。

Qモンゴル帝国の滅亡について

チンギスハンが興したモンゴル帝国はなぜあんな大きな帝国ができたのですか。その当時の国はどうして対抗できず滅んだのですか。また、これは教科書にもなかったのですが、なぜあんな巨大帝国が後に滅んだのですか。滅んだ過程がわかる方ぜひともお願いしますむ。中学や高校の教科書で断片的な知識しかなく、ぜひともお願いします。

Aベストアンサー

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができるのは精鋭くらいなもので、精鋭であっても錬度の面で馬上で生まれ馬上で死ぬ遊牧騎馬民族にはとてもかなわない)です。
また、都市という概念がないので食料とかもすべて(生きた状態で)持って移動していますから、「補給」という軍隊において最も重要で最も面倒くさく最も維持しにくいものを維持する必要がないため、桁外れの機動力を持ち合わせていました。
また、その機動力を余すことなく使用する戦術(代表的なものは偽装撤退。城攻めの必勝戦術でもありまして、相手に撤退すると見せかけて追い討ちさせ、それを迎え撃つという戦法です)を保有していました。
そのため、どんな強国でも優秀な指揮のもとで統制された遊牧騎馬民族にはかなわず、ホラズム(この国はモンゴル帝国の侵攻直前まで領土を拡張し続けており、決して弱い国ではないのです)や金も、敗北しています。ちなみに、この強弱関係がひっくり返るのは火器が積極的に導入されてからです。

しかし、滅びたのもまた遊牧騎馬民族である面が大きい、ともいえます。
遊牧騎馬民族というのは、都市の概念がないですから、そもそも「国」という概念が希薄です。
それをかなり変えたのはやはりチンギスなのですが、それでもモンゴルの伝統である末子相続(つまり末っ子が遺産を引き継ぐ)、そして後継はクリルタイという族長会議で決定(ただ、このクリルタイ、モンゴル帝国では2年くらいかかるんです・・・なにせ、あの広い領地から集まってくる上、このクリルタイも半分宴会みたいなものでして・・)というのがありました。
そのため、チンギスは生前に嫡子4人に領地を分配します。長男であるジュチ家(後のキプチャクハン国)、次男であるチャガタイ家、三男であるオゴタイ家、そして四男であり、モンゴル高原を直接的に保有するトゥルイ家です
そして、三男のオゴタイが継ぎました。しかし、その次が問題でして、グユクというのは酒癖も悪く評判が悪かったのですが、母親の根回しもありハーンとなりました。しかし、これを一番嫌ったのが長男家の当主で一族の長老であったバトゥ(また、四男家も、譲歩したとはいえ面白くはなかったようです。逆にグユクの側にいたのが次男家)。グユクは彼に暗殺されたとも言われています。
その後、トゥルイ家のモンケが継ぐのですが、これが面白くなかったのがチャガタイ家とオゴタイ家。このあたりから兄弟家の間での不和が表面化します。
そして、日本でも有名なフビライの代で分裂は決定的になります。彼は、いままでの方針を破って、全族を集めないで(支持者だけを集めて)クリルタイを行った上で即位、また即位を宣言した弟を倒して、ハーンとなりました。これが気に食わなかったのが長男、次男、三男の家。とくに三男の家当主であるハイドゥとは軍事衝突に発展しています。
そうなると、もうあとは各地の地方政権ですから、ほかの歴史上の国と同様、隣国、兄弟家同士でたたきあったり(オゴタイハン国はチャガタイハン国に叩かれて消滅)、支配民族が反乱を起こしたり、ほかの異民族に倒されたりで、消滅していきました。

また、モンゴルの政権といってもほとんどその妻は現地人のため、代を重ねるにつれどんどんモンゴル人から離れていって、しまいにはハーンがイスラム教徒になってハーン位を捨てたり、はてまたキリスト教に染まったり・・
そういう具合に、自然とその地に溶け込んで、消滅していったのです。

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができ...続きを読む

Qモンゴル帝国の成立から元の成立まで・・・

最初に、、
幼名テムジンのチンギス・ハンが出てくるところまでは
わかるのですが・・・
そこから何があってクリルタイが起きたりしたのでしょうか?
どこからがモンゴル帝国成立ですかね?
そして元の成立まで単語単語はわかるのですが
どのようにつなげていけばよいのかさっぱりで・・・

ほんとに馬鹿な質問ですみません

Aベストアンサー

簡単に。

テムジンは、モンゴルの豪族、乃至は有力者の息子として生まれますが、早くして父を亡くし、苦境に陥ります。
その後、がんばって勢力を拡大し、モンゴルを武力統一します。日本でいうところの徳川家康か豊臣秀吉みたいなものです。
そして、クリルタイでモンゴルの王位(ハン)につきます。日本でいうと、征夷大将軍になったり関白になったりするようなものです。
このハン位についたときがモンゴル帝国成立となります。

チンギスハンの死後に、孫のフビライが中国へ侵入し(このときは大元蒙古帝国)、中国の宋(南宋)を滅ぼして中国を統一します。そして(蒙古帝国は分裂していたので)自分の領土である中国の領土を、中国風に元と名付けました。これが1271年のことで、丁度元寇の頃です。


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