( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?

 ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。

 ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。

 ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~
 
 1:1 はじめに ことばがあった。
    ことばは神とともにあった。
    ことばは神であった。

 1:2 このことばは はじめに神とともにあった。

 1:3 すべてのものは ことばによって成った。
    成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。

 1:4 このことばに命があった。
    この命は人を照らす光りであった。

 1:5 光りは闇のなかに輝いている。
    闇は光りをとらえなかった。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。
 言いかえると 次のように位置づけるかたちである。

 ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。

  ○ (ことばの階層) ~~~

  (α) 神としてのことば 

  (α’) 天使としてのことば

  (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)  

  (δ) 人間のことば

  ~~~~~~~~~~


 ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。

  ○ (ロゴスの階層) ~~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
       
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

  ~~~~~~~~~~~~


 ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。
 被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?
 もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。


 おしえてください。
 

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A 回答 (81件中1~10件)

 こんばんは、ヒドッチでございます。



 前回の”悪魔学”でもそうだったのですが、明確なことはわかりませんでした。ですが、微力を尽くしたいと思っております。

 まず、天使の例を以下に列記してございます。

[大天使ガブリエルの例]
ダニエル書 8章15から17節
わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」 彼 [ガブリエル] がわたしの立っている所に近づいて来たので、わたしは恐れてひれ伏した。彼 [ガブリエル] はわたしに言った。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」

[大天使ミカエルの例]
ダニエル書 10章12から15節
彼は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。それで、お前の民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。この幻はその時に関するものだ。」こう言われてわたしは顔を地に伏せ、言葉を失った。

同 10章21節
しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ。彼はわたしを支え、力づけてくれる。

 ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。

 (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 


 しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。ただ、このペルシア王国の天使長が、以下のイザヤ書に見られる堕天使にあたるかどうかは不明でございます。「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」という共通点が見受けられは致しますが。

イザヤ 14章12から15節
ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされたもろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた墓穴の底に。

 何らかのお役に立つことができれば、幸甚に存じます。

この回答への補足

 ひどっちさん 参考資料を見つけました。

 パウロの次の《異言》にちなむときの《天使》をめぐって 見解が述べられています。
 ◆ (コリント前書13:1) たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

 ▼ http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koshin/s22.htm ~~~

 ギリシア語の原語の「人間と天使の異言」を最新の岩波訳は「人間の、そしてみ使いたちの言葉」と訳してあり、これは同じ「言葉」が両方の意味を持つと解釈しています。

 新共同訳では「人々の異言、天使たちの異言」とあってはっきり違ったものを指すように訳されています。・・・この辺で、この箇所の解釈と受け取り方にかなりの混乱があるように思われます。

  (III)

 では、実際はどうであったのでしょう? 
 (あ) パウロは人間が語る異言は、「神に向かって語る」とはっきり述べています(Iコリント14章2節)。
 (い) ところが先に挙げた天界の異言は人間が語ることができないほどのものなのです。
 (う) すなわち、「異言」とは「人が神に向かって語る」場合と「神が天使を通して人に語る」場合とが存在するとパウロは考えていたようです。異言にはこの両方の役割があるのです。
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ (あ)から(う)の解説は あざやかであるように思われます。
 これによれば 天使は はっきりと神の使いでありその声そのものであるとさえ言ってよいように思われます。ただし 神そのものであるとか 神の声と言う場合にも声そのものであるとかと言うのは やはりはばかられるだけではなく経験事象となってしまっておかしいので 天使という概念を用いたのでしょうか?
 ひどっちさんは いかが解釈されますか? お聞かせください。

 天使たちをめぐって いろんな物語があるというのは また別の話であるように思われるのですが。・・・

 

補足日時:2011/04/25 22:57
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ええ たしかに名前までついているのですよね。また 天使長というように 集団を成しているのでしょうか?
 そしてダニエル書とイザヤ書ですか。
 さらにそして ペルシャの天使長や 《天から落ちた明けの明星》――明けの明星のままなら 天に輝いているのだと思われるのですけれど――などでは 神に背いた場合の天使あるいは堕天使もいるという具合いで。

 ★ ~~~~~~~~~
 【( d )――神のことば――】 ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。

 (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 


 【 ? ――神の使い?――】 しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。
 
 【( f )――神に背く――】 一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。

   ▼ (イザヤ書 14:13) かつて、お前は心に思った。
   「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の
   果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。

 【( f )――自由意志を持つ――】 さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 今回は ロゴス(α)と (β)以下の人間に経験しうるロゴスとのあいだに あたかもまぼろしとしてのような天使のことば(α’)を位置づけるということ これがふと思い浮かんだということでした。
 それほど大きなまちがいではないように思われますね。
 それと同時に やはり( f )の問いが依然として残ります。神のもとにある霊的存在であって しかもおのれの意志を決めそれを実行に移すという時間的行為の主体であるという。その間のやはり矛盾(?)をどう受け取ればよいのか? これだと思います。

 たぶんそういう捉え方で――つまり問い求めの進め方として――よいとは思うのですが ただいまはこういったところでしょうか。たしかに致し方ないと思います。もう少し待ってみます。ほかの回答者さんたちの様子を見て この質問は一たん閉め 何かのきっかけで再びみたび掲げることもあろうかと考えます。
 さらに何かありましたら お寄せください。

お礼日時:2011/04/25 21:53

クライアントPCのユーザーがサーバの挙動の把握を経験し得る可能性は存在していません。



例えば、「此のサイトへの入力の際に、サーバの遠隔操作を為さっているのだろう。」
と若しかして誤解なさっているのではないですか?

あくまでも、クライアントPCの側での読み書きは、ブラウザーソフトウェア上だけでの出来事でして、画面更新の際にクライアントとサーバとの間で行なわれる通信は、ユーザーの経験に「全く」関わっていません。

そこで確認の為に伺いますが、何故に無関係なのかを既に理解出来ていますよね。

因みに、最近の日本では、多くの小学生達が是を理解しています。
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この回答へのお礼

 分かりません。小学生以下です。

 もしどうしても コンピュータの理解から始めて 神ないし天使の問題とからめるという順序を取るというのでしたら それは ご自分でそういう質問を立てて情報交換をなすったらよい。
 順序が このわたしの質問では 逆です。

お礼日時:2011/05/23 00:17

ターミネータとかマトリックスとかの映画で極端乍らも描かれています通りに、電力供給とか接続関連のメンテナンスとか利用料金の回収とかが必要になっている事情を除きますと、ネットワークの現状維持には、最早、人間の存在が要求されていません。



つまり、既に【人間が関与する低俗な領域】を、
「通信ネットワーク」は超越しつつあるのです。
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この回答へのお礼

 その超越と 非経験の領域とは 別だと 口を酸っぱくしてお伝えしつづけています。

お礼日時:2011/05/22 01:04

例よって、質問者が教えようとなさる、という本末転倒が起きつつありますが、私の側での説明の不足が多過ぎるからなのかも知れませんから、追加の補足説明を致します。



そもそも、神もが「繋がり(ネットワーク)の【管理者】」になってはいけません。

但し、プロトコルはサーバが開発される誕生の前から、
サーバによる経験に先立って存在しているとは言えましょうから、
其の意味ではプロトコルが神の象徴なのかも知れません。

そして、プロトコルの裏をかく「ポイスニング」の犯罪の存在が、
是迄にも報告され続けてきていますので、そういう意味では、
堕落の恐れもが潜んでいる、と言えます。

確かに、プロトコルはあくまでも「規格」に留まっていまして、繋がりの仕組みを保たたせるだけですが、ネットワークへの参加の為の開発の基準を、【OSI参照モデル】のプロトコルが開発者達に教え諭しているのかも知れません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%97% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%83% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E7%90%86% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/OSI%E5%8F%82%E7%85% …

この回答への補足

 そろそろ閉めようと思っています。

補足日時:2011/05/21 08:19
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この回答へのお礼

 ★ 質問者が教えようとなさる
 ☆ これは 誤解です。これまでにそういう振る舞いがあったとしても それは 互いに問い求めの同じ出発点に立ちたいというための質問者としての務めです。務めとしておこなっているものです。 
 しかも 今回は 単に質問の焦点はどこにあるか。これを明らかにしたまでです。とうぜんだと考えます。
 
 このところ じどうしゃがいしゃさんからの投稿は この問いで問い求めるところとは 筋がずれています。そのように指摘したまでです。


 ★ そもそも、神もが「繋がり(ネットワーク)の【管理者】」になってはいけません。
 ☆ これはあまりにも 不用意な発言ないし考え方です。《神》を出すのに こんな漠然とした持ち出し方はないと思います。定義の問題としてはです。そうでなければ 雑談のたぐいになります。
 あるいはひょっとして ネットワークのことに詳しくないからそのわたしが 汲み取れないだけかと思い直すなら それでもまづはしっかりとした初めからの定義のもとにひととおりの仮説を述べるのでないと それは通りすがりに顧慮されるに終わっても仕方がない問題提起だと考えます。
 おそらくこの判断に大きな間違いはないでしょう。そこのところをしっかりと受けとめさらに 持論を展開していただくよう願います。

 ☆☆(No.80お礼欄) ~~~
 (あ) 神は非経験です。

 (い) おのぞみなら 神は遍在すると言えるのですから すべてに通じていると捉えたら どうでしょう。
 
 (う) 神を何か特定のひとつのことに取り決めることが まちがいでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この(あ)と(い)とのふたつの側面が 同時に言えるというのが 神の存在=(あ)であり それに伴なわれる属性=(い)です。

 たとえばこの命題と絡み合わせて 論じるのでなければ 筋が違っていると見えてしまいます。
 次に 例証します。

 ★ ~~~~
 但し、プロトコルはサーバが開発される誕生の前から、
 サーバによる経験に先立って存在しているとは言えましょうから、
 其の意味ではプロトコルが神の象徴なのかも知れません。
 ~~~~~~
 ☆ この場合の《経験に先立って存在している》というのは その形相つまりアイディアとして人間の頭の中にはもともとあったのだということを意味しているはずです。
 神は それらすべての経験事象を超えている。と同時に それら経験事象のいづれに対しても 遍在しているという捉え方もされ得る。こういう見方を 提出しています。
 この見方に絡めて 説明して欲しいという要望を出すと 質問者が教えることになりましょうか。

お礼日時:2011/05/21 00:32

プロトコルへの認識が経験され「得ない」様に作られているからこそ、


其の仕組みの喩えが妥当なのだろう、と言えます。

そもそも、辿られるべき経路は、ユーザー側で認識されない処か、
中継のノードによっても認識され得ず、隣接部位だけが分かる様に留められています。

余りにも理解が杜撰過ぎます。
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この回答へのお礼

 あまりにも神を無みしすぎます。

 ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。
 被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?
 もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。


 おしえてください。

お礼日時:2011/05/20 18:44

#75の続きです。



先ず、若し神をネットワークの外部へ配置するのでしたら、
ネットワークは破綻します。

そして、たとえ「サーバとユーザーのクライアント群との連絡を取り持つ【プロトコル】は神なのだ」と見做しましても、別の大きな問題の存在が直ぐに明らかになります。

つまり、プロトコルは文字通りの約束事に留まっていまして、閃きの提供を期待させてはくれないのです。

(※各プロトコルに準拠した製品を拵えませんと、他社製のサーバとの通信を致せませんから、企業が自社の製品の売れ行きを伸ばす為に、OSI参照モデルのプロトコルに準拠させて、PC関連の製品群が開発されています。)

従いまして、現時点では、勇み足の状態に過ぎないのかも知れません。
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この回答へのお礼

 ★ 外部
 ☆ というのは どこまで言っても 経験世界におけるどこかの場所です。神は非経験です。


 おのぞみなら 神は遍在すると言えるのですから すべてに通じていると捉えたら どうでしょう。

 神を何か特定のひとつのことに取り決めることが まちがいでしょう。



 もし仮りに 神を経験世界における何のもかにでも決めるのでしたら そのような仮説なり理論なりをまづ提出してからの話になります。
 コンピュータやインタネットの世界で 神のことをめぐって話をするのはあくまで たとえ話としてです。
 それをもくつがえすというのでしたら それなりの見方を出して話をすすめてください。
 同じことの指摘は もう飽きました。

お礼日時:2011/05/20 10:42

サーバから率先してクライアント側へのアクセスを試みさせて貰えない、


という事情を皮肉った冗談プロトコルもが策定されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Hyper_Text_Coffee_P …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E9%A1%9E% …
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/19 05:28

初めに有りし約束事は何なのでしょう。

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この回答へのお礼

 りとるきっづさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 うん?
 ★ 初めに有りし約束事
 ☆ ? いやいや そんなものありませんよ。あるって誰が言ったんですか?
 
 あぁ それとも モーセのときの十戒やらその前のアブラハムとの契約の話ですか?

 それなら アブラハムの《約束事》が先ですから それについて述べますが でもずいぶん何度か書いたはずなんですが。
 でもそれは オモテに現われたこととしては 《父祖の地を去って 行け》という声を聞いたということです。75歳だったそうで けれどもどこかはっきりした土地を示されたのではなく 分からないままとにかく去れという声に従ったという話です。ここから 《信じる》という行為が――おそらく人類にとって歴史的に明確なかたちでは初めて――始まりました。

 この信仰の中身を たとえばむさぼるなかれといったように戒めとして モーセのときに言葉として表わされたという歴史がつづきます。
 さらにそのあと歴史を経て イエスという男は 自分はこれらモーセやアブラハムより前にいたのだと言い出しました。その信仰の動態が 一人ひとり《わたし》の生きることにおいて実現したよとも言いました。

 イエスの前には そのような実現は無理でした。むさぼるなかれなどの戒めを生涯きちんと守ることのできる人間はいなかったからです。
 パウロは これを説明して その存在じたいが完全になったのではないが その信仰の動態をあゆむその過程は たとえ脱線したとしてもただちに復帰できるかたちにおいて〔過程をあゆむこと自体としては〕すでに完全であると言いました。つまり イエスの十字架上のはりつけとその後の復活〔のうわさ〕によってそれは実現したと宣言しました。

 ★ 初めに有りし約束事
 ☆ というのでしたら そういう話になると思いますが 果たしてお応えできましたでしょうか。


 * 初めにあったのは 《ことば》です。それと《わたし》との関係が・つまり約束事が アブラハムの時に起きたという物語です。

お礼日時:2011/05/18 17:42

厳密な訳語に気付きました。



「初めに言葉成りませり。」
という表現こそが原義に近似しているのかも知れません。

つまり、【高天の原に成りませる神】と同じ見方です。
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この回答へのお礼

 《成る》というのも 経験事象に とうぜん当てはまります。
 それを非経験のシルシとして成り立たせるのは  おそらく次に出て来る《神》などの語ないしそれを取り巻く全体としての物語の性格にあるでしょう。

 ★ 【高天の原に成りませる神】
 ☆ については たとえば その神が
 ● 独り神に成りまして 身を隠したまひき。
 ☆ でしたか そういう表現で中身を吟味させようとするまでの文章としての力量はありますが 総合的に言って 非経験のナゾの何ものかについてその文章のままで指し示すところは きわめて薄いと考えます。
 
 アマテラスは お日さまのことです。
 オホモノヌシ(物)とヒトコトヌシ(事・言)のそれぞれ神という表現については モノの究極としての物質や精神ないし概念の究極としてのイデアのようなものを想起させていると採れば採れないこともないようではあります。そのつてで 取りようによっては 非経験のナゾについて解釈が出来なくもないと思います。
 ですが 総じて言って 記紀神話だけによっては 発展がその力にとぼしいと見ます。

 経験世界と非経験とを峻別してください。また そのように峻別したかたちに解釈しうる文章表現を問い求めるべきです。
 一文だけでは 用を成さないとも考えられます。

お礼日時:2011/05/18 16:22

失礼を致しました。


更にもう1つの情報の追加が必要でした。

ブロードキャストの場合には、TVの配信と同じく、
受信側がキャッチ出来ているのか否かの確認をしていません。

其の際に使われるプロトコルは是です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/UDP
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この回答へのお礼

 直前のお応えにて 礼を失するとは考えません。

お礼日時:2011/05/18 16:10

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Q《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か

《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か



 ▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観――
  http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html
 ☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。

  ・ 韓国の仏教学者に教えられたこと
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一)
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二)
  ・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰

  ☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつつ疑問を述べて行きます。その前にすでに問いをかかげておきます。

 【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。

 【β】 仮りにうったえていたとして どこまでそれが錯覚でないと言えるか。


 1. 《 ♪ 夕焼け小焼けのあかとんぼ》ともうたわれるわけだが ここでは童謡の《夕焼け小焼け》をとりあげよう。小節づつ。

 2. 《 ♪ 夕焼け小焼けで 日がくれて》

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 日本人は昔から、あの落日のかなたに浄土をイメージしてきたのではないでしょうか。・・・
 沖縄に行きますとニライカナイという海上のかなたに存在する理想の国土が信じられております。

 その太陽がまた翌日になると、東から昇るわけであります。それは人生が必ずよみがえる、季節も繰り返しよみがえってくるという再生の考え方とも結びついている。それを象徴するのが落日ですよね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 3. 《 ♪ 山のお寺の 鐘がなる》

 ▲ “山のお寺の鐘が鳴る” その山のお寺が朝昼晩 鐘を鳴らす。鐘の響きを聞いて人々は起床し、食事を取り、労働をし、1日のリズムがそれで決められていく。
 ☆ 鐘は人為的なものだが すべては人びとの日々のくらしの世界に溶け込んでいる。自然とも一体であるということをも つづく箇所と合わせて言おうとしているようです。

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 6. 木下順二の『夕鶴』

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・〔* あるたけの羽根で織物を織らせられ〕鶴は人間どもの欲望の尽きないありさまに絶望して、天上に帰っていく。鶴が飛び立ったときに初めて与ひょうは大事なものを失ったと思う、という現代劇です。
  最後につうが天上に戻っていくその場面を、木下順二はどう表現していたか。これが夕焼け空なのです。つうは真っ赤に燃えた夕焼け空に向かって飛び立って行った。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 7. ☆ さてここで最初の【α】と【β】の問いになります。
 特に【β】については こうです。

  【β‐1】 日本人は――いくら自然と一体だと言っても――決して 夕陽の向こうのイデアの世界にふるさとを見るなどということはしないのではないか。――《世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば》(山上憶良)。その場この場にとどまるほうが 日本人の伝統ではないか。

  【β‐2】 同じような内容として:《人間のあさましさ・その欲望の深さにたとえ絶望した》としても 鳥ではないのだから 夕鶴のように夕焼け小焼けの赤く染まった西の空のかなたを目指して飛び去っていくことはないであろう。

  【β‐3】 この《夕鶴》および《夕陽の信仰》というしろものこそが 日本人のあいだに いぢめを無くさなくしておる共同の観念であり幻想であるのではないか。いぢめに遭ったとしても 夕陽の観念に逃れその栄光の観念の国にのぞみを見い出せと 周りの《観念の運河》からは声が聞こえて来る。――《和を以て貴しと為せ》と上から言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。これが 日本人の信条ではなかったか。

 ☆ 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。どうでしょう?
 
 * (おまけ) 夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?

《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か



 ▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観――
  http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html
 ☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。

  ・ 韓国の仏教学者に教えられたこと
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一)
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二)
  ・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰

  ☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつ...続きを読む

Aベストアンサー

>【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。
日本人の宗教は、「仏教+神道」であり、輪廻を否定していないので
一神教系(=輪廻を否定)よりは日本人のこころに近いのは明らか。

なお、山折さんの論法は、
日本:落日とは再生を意味する。  ※西洋では、終焉を意味する。
日本:落日の光景の芸術がある。
西洋:落日の光景の芸術が少ない。
よって、日本のほうが夕陽の信仰が大きい。
という、客観判定可能な事項を基にした論法なので、
真っ向から否定するなら、
・落日とは再生を意味する。
or
・西洋にも落日の光景の芸術がてんこ盛り。なお、落日=終焉の意味の芸術は除外する。
の部分を爆撃するしかないです。そこをつぶさない限り、山折さんの論理はダメージを受けないのだけど、
bragelonneさんはそれと関係ない、どうでもいいところばかり攻撃しています。

>【β】 仮りにうったえていたとして どこまでそれが錯覚でないと言えるか。
科学では証明できないという意味では錯覚である。
ただし、「再生」を否定する思想系(たとえばキリスト教)も科学では証明できない。
つまり、思想の客観性からは、引き分け。つまり、言っても意味ない。
※ここでいう客観性とは、科学における証明のことであり、観測事実(=賛成派・反対派で意見が一致する事項)から片方だけ矛盾が生じるゆえに間違い、という論理が成立することを言う。

>――《和を以て貴しと為せ》と上から言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。
>これが 日本人の信条ではなかったか。
当時の時代背景を無視した発言です。
聖徳太子が憲法1条に、「和を以~」と書いたのは、曽我氏と物部氏の戦争が終わった直後。
モロに、和を乱した状態の直後。
あと、「和を以~」は、悪用されていて、議論すべからず、という意味に使われています。
議論の時は、何を言ってもいいけど、決議後は決議に従うのが世界標準。「和を以~」??アホか~。
その意味で、「和を以~」は、単に「私は議論下手です」と言っているだけ。

> 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。
>どうでしょう?
どうでしょうって...思想は各人の自由だから、
「私は山折哲雄および木下順二の思想に同意できない」以上の意味を見出せません。
全否定しようが部分否定であろうが、知ったこっちゃないです。ご自由にとしか言いようがありません。


>β‐1
>β‐2
人間のあさましさ・その欲望の深さに絶望したことを、「飛び去った」と表現しただけ。
比喩なので、字句どおりにとる必要はありません。

>夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?
比喩なのでいちゃもんをつけるのはどうかと思うが。
自然科学でも一応は説明可能。
「羽根がなくなった」わけではないため。
羽の一部を使っただけであり、羽根を全部むしったのではないため、当然、飛べます。
※《つう》は、自分で自分の羽を抜いています。他人により羽根をむしられたわけではありません。

> ☆ 鐘は人為的なものだが すべては人びとの日々のくらしの世界に溶け込んでいる。自然とも一体であるということをも つづく箇所と合わせて言おうとしているようです。
現代科学と重要な相違点があります。このため、鐘は人為的でなく自然現象と解釈せざるを得ません。

・なぜ、夕方(=日の入り)に鐘が鳴るのか?
  夏や冬には、現代なら鐘が鳴らない。午後6時に鳴る。

旧暦では、現代の時刻の定義と異なり、日の出・日の入りが六つ時と定義されます。
要するに、昼・夜で、1時間の長さが違った。
現代時刻なら、春分の日近辺・秋分の日付近しか、日の入り時刻に鐘が鳴らないところ、
年間を通じて、日の入り時刻に鐘が鳴ります。現代時刻のほうが、明らかに人為的です。

>【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。
日本人の宗教は、「仏教+神道」であり、輪廻を否定していないので
一神教系(=輪廻を否定)よりは日本人のこころに近いのは明らか。

なお、山折さんの論法は、
日本:落日とは再生を意味する。  ※西洋では、終焉を意味する。
日本:落日の光景の芸術がある。
西洋:落日の光景の芸術が少ない。
よって、日本のほうが夕陽の信仰が大きい。
という、客観判定可能な事項を基にした論法なので、
真っ向から否定するなら、
・落日とは再生を意...続きを読む

Q売買する株数が多くなると売買しにくくなりますか?

株の売買について質問があります。

あるA社の株を1000株売ろうとしたとき、1000株買いたいという人がいるときのみ売買が成立するのですか?仮に、100株を買いたいという人が10人いた場合、売買は成立しますか?

株の売買の優先順位は速い者順ですか?
たとえば500円で売りたい人が100人いたとして、
自分も500円で売りたい場合100人の人の
売買が成立した後に自分の株も売買されるのですか?

そのほか、株価の変わり方や板の見方について
説明されているホームページがありましたら
教えてください。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>あるA社の株を1000株売ろうとしたとき、1000株買いたいという人がいるときのみ売買が成立するのですか?

100株買いたい人が10人であっても成立します。しかし、これは売買単位が100株であった場合ですね。銘柄によって売買単位(単元株数)は異なっています。(例えば、ソニーは100株単位ですが、シャープは1000株単位)
http://quote.yahoo.co.jp/q?s=6758%2C6753&d=t&k=c3&h=on&z=m

>自分も500円で売りたい場合100人の人の売買が成立した後に自分の株も売買されるのですか?

基本的にはその通りです。500人で売りたい人の列に並ぶのと同じです。それを待てない場合、499円で売りに出せば500円の人よりは優先されます。

>そのほか、株価の変わり方や板の見方について説明されているホームページがありましたら教えてください。

下記を参考にしてください
http://www.kabudream.com/hajimete/hajimete2_5.html

Q《マツリゴト》とは どういうことか?――宗教批判です――

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人
と人との関係性を この宇宙の中で持っていると考えられる現象が見受けられま
す。その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
  してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。
   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
     の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
     あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
神体山(かむなび)であるとか神木(ひもろき)であるとか これらに人が身
心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。その
山の石(いはくら)や木が神との交流の依り代になっているということのよう
です。

人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があっ
たのだと思います。アニミズム。

3.
アニミズムからのへそ曲がり。としてのシャーマニズム。
 
ところがこれをいいことに そこからは 自分でこのアニミズム交感なる現象
を〔勝手に〕操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 
何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があった
り衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法
ではなく そうではなく このシャーマンの出番となったという場合です。

何が何でも 自己の努力によって・しかも自己の意識を突き抜けて 何ものかの
世界――つまり言わゆるかみがみなのでしょうか――に身を置き さらにそこか
ら 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニズムであるようです。
占いのようなものです。これは もう端折ります。

4.
さらに時を飛んで 《時間的存在》としての人間の誕生。

やがて あたかも初源のアニミズムの自然性を取り戻してのように しかも新た
な心性を 人は獲得したと思われます。単純にそれは 時間の獲得によるもので
しょう。死を知り 生を知った。

農耕をとおして・つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして・つまりその種蒔
きから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であること
を知ります。
 
要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく眠るのでもなくそうでは
なく死ぬのだという認識を得たことがからんでいるはずです。時間的存在である
ことは われわれの心性を高めて 精神および身体において 《歴史知性》を獲
得したと考えられます。世界の内へ その時間的存在なる自覚において 入った。

5.
ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。世界内存在。
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
                 社会力学上(政治的に) 寄せる。

ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て
来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によって
は 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

6.
歴史知性を獲得したひとの抱く信仰。
 
言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミス
ムの要素を備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょ
うから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持ち得ます。単純に 超
自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 
これが ふつうの知性のあり方だと考えられます。経験世界を超える場については 
個人として・あくまで個人の主観内面において その神とよぶむしろ非対象をいだ
いた。という信仰。

7.
さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。

単純に言えば ヨリ・アニミズムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神
との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 
神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわ
けです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。どんちゃん騒ぎをも伴なっ
て。

ヨセは このマツリを 一段高いところから〔ふつうのイリ歴史知性を超えた(と
自称する)ところの精神において〕 《まつりごと》として制度化したというもの
です。マツリゴトとは 個人やムラを寄せ集め人びと〔の信仰〕を束ねる宗教であ
り政治です。

8.
古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
   コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新
羅を討つというくだりに出て来ます。

これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは す
でに人びとは一般に イリ歴史知性なる相対的で移ろい行く存在であることの自覚
を持ったあとだということです。かくて 《ヨリ・シャーマニズム+イリ歴史知性》
で 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。


9.
《ヨセ》なるスーパー知性とはいったい何か?

《一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところに《ひかり》を見て
そのまぼろしなる精神のもとに) 村々のマツリを寄せ束ねた》というのは その
ように《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った知性であり人間精
神である》と考えられます。

つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ人びと(アニミスト)と同じ地平に立
っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌った
ようです。
 
嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづからアマアガリして行ったのか。
それとも人びとが その新型チョー弩級シャーマンに辟易してこれを《敬遠》し人
びとの合意で 言わば社会の神棚に据えてまつることでもしてやろうと考えたか。
いづれとも推し測られます。
(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。

10.
要するに ここに 神の代理が 出現しました。紛れもなく宗教です。
(オシヘはなくても。あるいはつまり ムラのまつりにおけるイリ知性なる人びと
の仲の良さをパクって《和を以て貴しと為せ》と のたまい いや実は《逆らうこと
無きを旨とせよ》と――ただし普段は言挙げせず クウキなる《徳化》手段によっ
て――しめつける・・・これが 神聖なる教義でしょう)。
 
村における人びとの見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 村々をたば
ねた統一集団として一段高いところからおこなう・見える神との共食(貢税を伴な
うまつりごと)になったという話です。

これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。

11.
《神の代理》を名乗るという要素は シュウキョウ一般に共通です。
 
要するに 一人ひとりがそれぞれその心の内に おのれの神を抱き きよらかなお
それを持ってこれをとうとび人生を生き切ればよいものを いちいちわざわざこの
個人の信仰をおれがおしえてやろう おれの言うことを聞けと言って オシヘを垂
れる。一般には このオシヘという要素があります。

そのオシヘ〔を説く神の代理人〕に対する従順さの度合いに応じて人に権限を分け
与え その集団をヒエラルキアなる組織につくり上げる。こうしてあたかも一個の
国家のごとく人びとに対して君臨する。何の理論的保証や根拠もなく。結社の自由
は 基本的人権なる自由をむやみに拡張しただけではないのか。

11. 
《神の代理》との共食なるマツリゴトとしての共同自治の制度 これは一般に 国
家という形態です。ヒエラルキアないし教会・教団なる組織も 国家のようなもの
です。

信教・良心の自由なる公理をいいことに その宗教組織には政治権力は手を出すな
とさえ言おうとしています。

マツリゴトが 政治と宗教というふたつの国家に分かれただけです。このような結
社の自由とは いかなる意義があるか?
 
国家あるいはヒエラルキア国家は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくこ
とでしょう。捨てられて行きます。わたしたちは 永く働き蜂に甘んじていたとい
うわけです。いまはすでに慣性の法則で存続しているのみです。つまり 死んでい
ます。
 
イリ歴史知性の復権 万葉集いや億葉集のルネサンスを迎える未来しか来ないでし
ょう。

いかに?

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき...続きを読む

Aベストアンサー

>恐ろしい信念の持ち主でおられる

これはお互い様でしょう。

>人間を解放へと向かう宗教は論理的には成り立たない

ということは、当然あなたの主張する「非知たる神論」から導き出される結論ですから、
私がそこに切り込んでゆかなければ、平行線のつまらない議論で終わることでしょう。

あなたの「神論」はいわゆる「神」を「非知」として、そこから組み上げた理論であろう
と思っています。
一方、私は大乗仏教の生命観を学んでいるものです(お判りでしょうが)。この二者がどう
かみ合うのか?いや、かみ合わせることができるのか?ここが、極めて面白いと思ってい
ます。
だから、なかなか時間が取れないながらも、対話を続けようとしています。

「人間とは何か?」が分かればいいのだと思います。そう考えれば、「哲学」「宗教」は
「人間学」とも言えると思います。

Q初めて株をするならどこの銘柄がおすすめですか。詳しい方、安全なところを教えれ下さい。

初めて株をするならどこの銘柄がおすすめですか。詳しい方、安全なところを教えれ下さい。

Aベストアンサー

初めてだからおすすめとか、そういうのはないですね。
資金量とか、投資のスタンスや目的とか好みとか生活スタイルとか、そういうことによって選択する基準が違ってきますので。

なお、株式投資に「安全」というのはありません。
当然、値下がりして損失を被るリスクはありますし、破綻等によって株式が無価値となる可能性はどこの企業でもありますから。

といっても参考にはならないので、私は最近はよく8591オリックスをすすめます。
なぜか?。
・日本を代表する金融関係の企業で、倒産等の破綻のリスクは非常に低い。
・現在の株価であれば、100株18.5万円程度で買える。
・業績は堅調であり、指標的に割高感がない。
・配当利回りが3%弱あり、グルメギフト的な優待もある。
というところですか。私自身、わりと長く保有しています。

かつてはマヨネーズのキユーピーの株価が3桁、1000円以下だったことがあるので
キユーピーをよくすすめていましたが、今は株価が上昇してしまいましたので、オリックスをすすめることにしています。

無論、最初に書いたように株価値下がり等のリスクは当然あります。

初めてだからおすすめとか、そういうのはないですね。
資金量とか、投資のスタンスや目的とか好みとか生活スタイルとか、そういうことによって選択する基準が違ってきますので。

なお、株式投資に「安全」というのはありません。
当然、値下がりして損失を被るリスクはありますし、破綻等によって株式が無価値となる可能性はどこの企業でもありますから。

といっても参考にはならないので、私は最近はよく8591オリックスをすすめます。
なぜか?。
・日本を代表する金融関係の企業で、倒産等の破綻のリスクは非...続きを読む

Qひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――

ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――



 《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。

 《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。

 ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で ウチとソトのアヒダについての気持ちがかかわっていましょうか。

 例の『遠野物語』〔の紹介記事ですが〕によれば 《マヨヒガ》という話があって それは山の中でふと大きな屋敷を見つけ そこには誰もいずただ料理が出来上がっている。これを食べて家に帰ったあとはと言うと 何ごともうまく行きやがて長者になったと言う。マヨヒガ=マヨイガ=迷い家。

 禍事(まがごと)だけではなく善事(よごと)も アハヒの魅力にはふくまれているようです。話を広く取っていわゆる神隠しに遭ったが 山の中で家に帰ろうかそれともよそうかという思いのそのアハヒから事が展開したというような。マ(間)→ま(真)あるいはマ(魔)。魔はよその国の言葉ですが早くに採り入れたもののようです。逢魔時。

 けれどもこの逢魔時は 例の丑三つ刻につながっていて それこそ例の藁人形ののろいにまで行き着きます。つまりこの事例は アハヒから新たなコトが出て来るというよりは 自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。

 ここで――例によって――《ガミガミ役とアース役とのアヒダの意識の排泄》という社会現象の話です。

 要するにひとは 神隠しが好きなのでしょうか? つまり《意識の排泄なるガミガミ電波の放射》についてなら それはいけないことだと言うに決まっています。けれどもその《マ》に臨んでは どうしても耐えきれない何か惹かれるものがそこにはあるのでしょうか?

 でもそれは《間違い》ではないのでしょうか? 《間抜け》ではなくそのマを埋めているのですが もっともっと間合いをうまく取ろうと思えば取れるのではないか。

 どうすればよいでしょう?

 * どうもわたしは 一般的に言って占い好きというところに アース役がいぢめに遭うという社会現象のひょんなきっかけがあるようにも思えるのですが どうでしょう? 言い過ぎでしょうか。こわいもの見たさでもないでしょうに マ(アハヒ)の魔のほうに自分が持って行かれてしまうというようなクウキとして。

ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――



 《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。

 《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。

 ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で...続きを読む

Aベストアンサー

ぶらじゅろんぬさん。ふたたびこんばんわ。
ご返信ありがとうございます。4番です。

>★ 最初から何もしゃべらんほうがいいのかなあ。
 ☆ というようなつぶやきは 誰からも聞きたくはないですね。
:わかりました。それなら二度と言いませんですわ。
ぶらじゅろんぬさんが「しゃべりっ放し」を嫌っているようなので、
このように、つぶやきとして、反応してしまっただけです。
しかし施錠された檻の中でしゃべっているわけではなく、
公園のようなところでしゃべっていますから、
わたしの都合で勝手に退席させてもらいますとお断りしておきます。
わたしの都合というのは、たとえば
理解力・表現力・語彙の不足・時間の不足などです。

>《ことだまのさき(咲き・幸)はふ国なれど 言挙げぞ我れする》で行かなくちゃ 世界では話が始まりません。ただしその基調は《ゆづりあい》であるとは考えます。その意味で沈黙は金だと。
:異議なし。

>☆ これは分からんなぁ。説明不足では?
:3番様が「ひとのさが」とおっしゃったので、
「さかなのさが」と言っただけです。
釣られましたと言っただけです。ふざけすぎですか。


「ちまた」は「道・股」と書くのですね、
知りませんでした。おもしろい。


>☆ 【Q:美智子さん雅子さん愛子さんは アース役となって】〔ガミガミ役からの意識の排泄としてのガミガミ電波をゴミ処理のごとく受けておられるのではないでしょうか?〕
 たぶんこれについて 《それはいけないことだと言うに決まっています》と言ってよいと思います。《自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来い》という魂胆だからという理由からではないでしょうか。
:分かりませんです。主語を書いてください。
「>いけない」のは、外に出て行った
「美智子さん雅子さん愛子さん」ですか。
それとも「ガミガミさん」ですか。
「>都合のよいコトよ出て来い》という魂胆」
を持っているのは、ここでは誰ですか。

>自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。
>アース役を探し出し(または 自分で作り出し)
:捏造に関しては以前わたしは「渇愛(による歪んだ期待)」
ということで納得しましたが、
「自己アイデンティティの確立のため」と
昔だれかが言っていました。なるほどなあと思いました。

>占いというのは みづからの意志ではないと思おうとするだけのことですから
:異議なし。

>おのれをも神隠しに遭わせる・つまりむしろ《神隠れ》であるように思われます。
:はい、これが、
「>責任逃れつまりあるいは 意志放棄であるように見られます。」
ということでよいのだろうか。

...........ブレイク...............

>社会の自律性は、個々人の責任感によって保たれる。
>責任が、行動を制御するからである。
>問題は程度であり、限界をどこに定めるかである。
>金銭化、数値化し、市場化しようとすらしている。
>貨幣価値によって表象される以前の人間は、人間でしかなかった。
...................................



>ともかく――ひとをではなく その考えや行動をなのですが―― 批判をする場合というのは この社会では オカルトやら霊媒師やらでないとしづらいというこれまた雰囲気があるのでしょうね。
:気のせいだと思います。

>《いやしい者が言っているぶんには 言わせておけ》
:分かりません。これを言っているのは誰ですか。
そう言って男が聞き流していると?

>数値にしてどのくらいの割合なのでしょうか。
:分かりません。

>まっ いづれにせよ 現状認識から入って行くということではないでしょうか。
:ありがとう。やさしいね。
みずから墓場に住んでいるのに、
聞いてちょうだいとわめいている人のことでしょうか。

>これで「マインドコントロール」の問題にも触れ得て ボールはそちらのコートへ行きましたよね。
:話をそらすなと言っていますか。

ぶらじゅろんぬさん。ふたたびこんばんわ。
ご返信ありがとうございます。4番です。

>★ 最初から何もしゃべらんほうがいいのかなあ。
 ☆ というようなつぶやきは 誰からも聞きたくはないですね。
:わかりました。それなら二度と言いませんですわ。
ぶらじゅろんぬさんが「しゃべりっ放し」を嫌っているようなので、
このように、つぶやきとして、反応してしまっただけです。
しかし施錠された檻の中でしゃべっているわけではなく、
公園のようなところでしゃべっていますから、
わたしの都合で勝手に退席さ...続きを読む

Q人気ブログについて・・・

ライブドアの株で大損をした人のブログが
人気になってるらしいですがそのサイトを
教えてください。

Aベストアンサー

http://blog.livedoor.jp/easygame/

これですかね

Q法螺吹きの効用について――心のゴミをきれいに処理する《アース役》とは?――

1. ひとは 人の――おのれの――自然本性を見よ。
 
 2. ひとは 《全ての悩みからの解放が成った存在》として しかも同時に 《全ての悩みを背負い得る存在》として 生まれて来る。

 3. あなたの悩みは すべて 過去の人びとや現在における周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになった そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。

 4. 自分もウソをついたなら 自分の悩みをも負っています。

 5. 世界中のあらゆる悩みを引き受けて生きた人たちも いたのではないでしょうか。

 6. この悩みは 残留放射能のようであり すぐ直ちには 消えません。消えませんが 時として 何ものかによって 覆われ包まれ癒されてくるようにもなります。

 7. いわば人びとの悩みを そのような人たちは 《アース(接地)役》となってのように 引き受けたのではないか。すでに癒されていたからでしょう。

 8. ひどい言い方をすれば ごみ処理場です。色をつけて言っても ごみ清浄化再活性化工場なので この世の屑だとも言われています。

 9. この現状 この動態としての過程 これで すでに 完全な解放は成っています。

 11. じつにすでにすべての解放と自由とは成っています。心配は要りません。

 12. たしかになお かつての悩み癖が消えないかのごとく 思い思いの心配をすることはあります。たとえば 心にシミ・ソバカス・ホクロなどの母斑が残っているのではないかというたぐいの心配です。

 13. ですが やがて この悩みにかんしても しかるべきものはしかるべく消えて行くでしょう。

 14. 社会の三分の一の人たちが 連帯して ゴミ処理工場を引き受ける情況がやって来たときです。つぎの三分の一がそれに加わらないけれど 共感し のこりの三分の一が ゴミの――人間の恨みや蔑みといった心のゴミの――排泄専門の・一般におえらい方がたです。三つ目のは アース役に対するに ガミガミ役です。
 
 15. そうなったときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。

 ――という法螺を吹きたくなりますね。どうでしょう?

1. ひとは 人の――おのれの――自然本性を見よ。
 
 2. ひとは 《全ての悩みからの解放が成った存在》として しかも同時に 《全ての悩みを背負い得る存在》として 生まれて来る。

 3. あなたの悩みは すべて 過去の人びとや現在における周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになった そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。

 4. 自分もウソをついたなら 自分の悩みを...続きを読む

Aベストアンサー

私も一つ、法螺を・・・

『日本は今や世界に冠たるアース役を買って出ているのだ!』

         (☆ 天才バガボンに替って。)


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