A 回答 (7件)

改めて、似ていないことを説明します。



たまたま西洋では自然哲学から派生して、一方では哲学、他方では自然科学が生まれ、また自然科学の発展が数学を発展させたという歴史的な経緯がある。このことから世の中には、哲学と数学が同根であると誤解している方も居られるようです。

しかし、数学の発展は必ずしも自然科学や工学によらないければ出来ないと言うものではありません。事実、人類の歴史では、自然科学や工学に関する一切の応用を考えることなく、単なるゲームとして数学を高度に発展させた国が在ります。それは日本の和算です。元々和算は中国の算術を輸入した物ですが、中国の算術は大変初等的な段階でした。それを日本人が高度に発展させたのです。

ところで日本人が和算を進歩させた動機は、本質的には娯楽であり、頭の体操であり、まあ、俺の方があいつよりもルービックキューブやジグゾーパズルが早く出来るということで恍惚としていられる感覚でした。仲間同士が集まり、互いに面白い問題を提示し合い、誰がそれを解くことができるかを競いました。しかし、その結果を何かに応用しようなんで考えたことも無く、綺麗な定理が証明されるとそれを絵馬に書いて、神社やお寺に奉納して記念に残しました。また、クイズ集の類いの本を出版して、娯楽に供しました。にもかかわらず、西洋に全く教わること無く西洋と殆ど同時代に独立に解析学の積分の概念に到達し、さらに、西洋に先駆けて行列式の発見まで成されております。

しかし明治政府が政権を取ってしまい、新しい政権が権力を取るとどの国でもしばしばやるように、自分たちの正当性を主張するために明治以前の政権なり文化なりを糞味噌にこき下ろす大宣伝をしました。あの馬鹿馬鹿しい鹿鳴館での連夜のパーティーをやったり、日本の気候に最適に順応した和服や袴や浴衣を捨てて、蒸し暑くてさらに自分たちの体形に似合わない洋服を着るようになったなんて言うのは、そのほんの少しの例ですね。例えばインドのようにそんな馬鹿なことをやらなかった民族もあったのです。インド人の男性の服も女性の服も機能的で、彼等の体形や肌の色にピッタリで美しく、且つ、あの熱い気候に最適に出来ていますね。要するに明治政府は、江戸時代の連中のやっていたことは全て時代遅れで、我々は西洋を学ばなければならないと国民の洗脳の大キャンペーンを行ったのです。その結果、和算もとばっちりを受けて独自の発展を妨げられ、結果的に消滅してしまったのです。

この例が示している通り、数学を発展させるためには、必ずしも自然科学や自然哲学は必然ではありません。だから、自然哲学に搦めて数学を哲学と同列に置くと言う議論に説得力があるとは思えません。

要するに、西洋かぶれをした明治政府流の西洋中心的な物の見方をするとそう見えないこともないけど、西洋人だけが人間じゃないんで、人類の発展の歴史を見るときには、もっと公平に見る態度が必要だと思います。

この回答への補足

長文を書いてくださった方をBAとさせていただきます。
ありがとうございました。

補足日時:2011/05/03 05:14
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この回答へのお礼

いいですねー!
ほんといいですね。
他者の意見の反論でなく、どう捉えて、どう意見するかを一歩一歩深く考えていく。みたいな。
みなさまありがとうございます。

お礼日時:2011/04/25 19:44

 似ている、いや元々の学問としての根源は同一に近いものと考えても差し支えないと思われます。


ヨーロッパ中世のフランスにパスカルという人物がいました。
彼の考案した「パスカルの計算機」と呼ばれる機械装置は現在のコンピュータの原型となったとされ、また彼は元祖「確率論」の数学者として知られています。
 一方、彼の遺した有名な言葉に「クレオパトラの鼻」の喩えがあります。これは「人間という存在をどう認識するか」との哲学的なメッセージとして知られています。彼の遺した思索は『パンセ』としてまとめられました。
 「哲学」はPhilosophyと呼ばれる様に「知を愛する」つまり「モノをどう認識するか」との学問です。その中に「数理哲学」と呼ばれる分野もあります。「モノをどう認識するか」「なぜ、そうなのか?」と問い掛けることから全ての学問は始まります。「数学」を例にとっても同じです。「1+1、この計算式の値が2になる理由を説明せよ」という設問の答えは「1という値の意味を知ること」から始まることと同じであって、ただ単に計算式を解くこととは「本質的に」異なる複雑な作業がそこにあることの表象でもあります。
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この回答へのお礼

カッコイイお話ですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/22 23:22

似ていません。



数学は全員がひとつの言葉で考えますが、哲学の方はドイツ語で考えたり、フランス語で考えたり、日本語で考えたり、各人が好きな言葉(得意な言葉)を選んでしまうので、まったくてんでんばらばらになってます。

例をあげましょうか。

椅子がある。
猫がいる。

この二つの文章の動詞について考察せよ、という哲学の課題に対して、ドイツ語で考える人が日本語で考える人と同じ論考をするとは考えられないですね。論考した後、議論をしようとしても議論にならないです。
ですから、哲学は使用者の言語依存の学問となってしまい、ローカル・アカデミアから脱却できんのです。

このような特質をもつ哲学は学問体系を維持することができなくなるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

おもしろいお話をありがとうございます。

お礼日時:2011/04/21 19:57

数学って言葉に対する文法学のようなものです。

文法をいくら学んでも文章の達人になれるわけではない。それをやるのは詩人の仕事です。ですから、たとえ自然を記述する言語が数学であっても、文法学者に自然は語れません。自然を語るには文法だけじゃ駄目で、哲学がいるのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/04/21 19:55

似ているらしいです!!



数年前、ある著名な数学者の方の講演でそう聞きました。
聞いたときはビックリ!!
だって、数学と哲学はむしろ両極端のものだと思っていたので。

アリストテレスは数学と哲学を隣り合ったものと考えていて、
自分の学校(リュケイオン?)では、数学ができることを入学の条件に
していたそうです。(←ちょっとうろ覚えですみません。)

ガリレオは「宇宙は数学の言葉で書かれた書物である」と言って
いたらしいですよ。

私が持っていた数学のイメージは全然違っていたのか?
数学はやたらと奥が深いらしい……と思いました。
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この回答へのお礼

ノリがよく、優しい人ですね。ありがとうございます。

お礼日時:2011/04/21 19:54

全く似てません。



数学は理屈が言えるようになったガキでも解る学問で、歴史的に見ても十代半ばから二十代前半で歴史的な仕事が幾らで成されて居ります。そんな学問は数学だけです。数学が大人の学問ではないと言うことは数学者が一番知っており、その証拠に数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞は40歳以下と言う制限がついています。

その反対に哲学は若い人で歴史的な仕事をした方は一人も居りません。だから、学問の中でも数学と哲学ほど極端に離れている学問は有り得ないようです。

ではこの学問のどこが違うのか。数学は頭のハードウエアが優れていれば出来る学問ですが、哲学はハードウエアがどんなに優れていても駄目です。ソフトウエアが優れていなくてはなりません。そして、良いソフトウエアを手に入れるためには理屈だけじゃ駄目で経験で手に入れた世界観が必要だからです。
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この回答へのお礼

面白いですね。ありがとうございます。

お礼日時:2011/04/20 22:12

似てないこともないけど、どちらかといえば、自然科学や宗教のほうが似てる気がします。


自然科学は、もともと、ターレスとアリストテレスなどの哲学者たちが、「万物は水である」とか何とかと言ったところから始まっているので、源流は同じだと思います。
数学は、そもそも、測量から始まってるんじゃなかったでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
面白いです。

お礼日時:2011/04/20 19:53

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