高杉晋作と本田圭佑は顔が似ていませんか?

高杉晋作の性格は本当に激しくて破天荒で信じ込んだら人の言うことを聞かないで突っ走ったそうですが、一方でその純粋な心意気を気に入られ、仲間に好かれたり上司に可愛がられたり、またはかばわれたりします。
本田選手の性格も、高杉晋作に似ているような気がします。
顔だけじゃなく似た性格のように思います。
似た様な顔の人は性格も似るのでしょうか。

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A 回答 (1件)

本田圭佑ってサッカーの選手の本田圭佑ですか?



性格は、本人を存じませんのでコメントしませんが、写真で見た限り、顔はあんまり似ていないような気がします。

> 似た様な顔の人は性格も似るのでしょうか。

同じような発想から、例えば骨相学や人相(人相占い)なんかがありますね。
色々な人が2000年くらい研究していますが未だに当たるも八卦の世界でしかありませんから、そういうものでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/22 10:23

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Q高杉晋作の流派?

近藤勇 沖田総司などの方は天然理心流ですが
高杉晋作の流派?はなんですか?

高杉晋作が桂小五郎と同じ練兵館で剣術を習っていたって本当ですか?
明倫館だと思ったんですが…

あと天然理心流は今でも習えるみたいですが高杉晋作の流派?は今でも習うことはできますか?

質問多くてすいません

Aベストアンサー

高杉晋作は、幕末・江戸三道場 (北辰一刀流千葉周作の玄武館 / 鏡新明智流桃井春蔵の士学館 / 神道無念流斉藤弥九郎の練兵館) の一つ練兵館の門人だったらしい。

明倫館は長州藩の藩校で、晋作も少年期に通ったが、学問よりも剣術に熱中していたという。
   

Q高杉晋作が奇兵隊を用いて

藩内で内戦を行っていた時、藩主毛利敬親、家老?木戸孝允は
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Aベストアンサー

>亡命とはどんな理由でどこへ行っていたのでしょうか?
亡命の理由は反対派(俗論党といわれる。)が藩の政権を握っており、桂小五郎は高杉の兄貴分のような存在でしたから帰藩すると殺されかねなかったからです。
桂は剣術も免許皆伝で腕には自信があったようですが、逃げ足は速いほうで、それが明治まで生き延びられた一因です。
どこにかというと、場所は一定せずに隠れ歩いていたようです。

Q高杉晋作の言う「おもしろい」とはどういう意味ですか?

高杉晋作の言う「おもしろい」とはどういう意味ですか?

高杉晋作の辞世の句に「おもしろき こともなき世に おもしろく」というのがあります。
高杉晋作の言う「おもしろい」とはいったいどういう意味なのでしょうか?

現代の若者が言う「面白ければそれでいいじゃん」
というのとは少し違うような気がします。

一般人としては戦場に赴くことが、あるいは戦争を仕掛けることが
「おもしろい」とはとても思えません。
ですが、高杉の言う「おもしろい」の方が現代の若者のそれよりも
はるかにポジティブで建設的に聞こえます。

彼が目指した「おもしろい」とはどういうことなのでしょうか?
お教えください。

Aベストアンサー

今では、「面白い」と言えば「楽しい」と同じような意味に使われていますよね。

「面白い」を辞書で調べると、本来は「美しい景色を形容する語」だったと説明されています。

本来の「面白い」とは、「パッと目の前が明るくなる」、「目の前に美しい景色が現れる」。
そんな意味だったようです。

ですから、高杉晋作が言うところの、
「おもしろき こともなき世」
とは、閉塞的で身分に縛られて生きる封建社会を揶揄したものではないかと、私的には考えます。

その「おもしろき こともなき世」を「おもしろく」。
封建社会を解体し、身分などと言うモノを取り払えば、目の前が明るくなる、新しい社会になる。
そんな願いを込めているんじゃないかと思いました。

Q吉田松陰は獄中から高杉晋作へ手紙を。

松陰は、牢役人に目こぼしをしてもらうための賄賂が要るので金を工面してくれ、と伝馬町牢屋敷から晋作に手紙を出しています。
幕府は、藩に命じて松陰を萩から江戸へ護送させてまでして、投獄したのですが、それにしては監視が雑な気がします。
安政6年といえば、まだ井伊大老が健在のころです。
質問ですが、伝馬町の牢屋敷の監視や手紙の検閲はこの程度のものですか。
松陰以外(例えば橋本左内や頼三樹三郎)で、獄中から手紙を出した人はいますか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関連情報なのですが。
 牢役人もですが、牢では牢名主(ろうなぬし)という人にも賄賂(寸志・心付け)をあげないと手紙を出したり手紙を受け取ったり、差し入れをもらったりが出来ませんでしたので、松陰は牢名主にも賄賂を渡していました。
 牢名主というのは役人ではありません。牢屋に入れられている同じ罪人なのですが、長く牢屋にいるのでいばってて、牢屋の主(ぬし)のように後輩罪人にあれこれ指図して力を振りかざしていた人だそうです。牢名主ににらまれると、些細なことから意地悪されまくりだったので意地悪されないように、気に入られて少しでもマシな牢屋ライフが送れるように、みんなせっせとワイロを渡したそうです。
 松陰は牢名主に渡すため、「福神漬けを2樽送ってくれ」と実家のお父さん(杉家)に手紙を書いています。なんで、福神漬け? と思いますが、牢名主の好物だったか? それにしても2樽とは、江戸時代の流通が発達していない時に、運賃がすごい高かったでしょうに。
 清廉潔白な松陰がワイロだなんて、似合いませんが。今の時代の価値観で判断してはいけないのかもしれません。
 しかし、牢名主にワイロ渡していたお陰で、松陰の遺書『留魂録』は残りました。牢名主が明治に入ってから松陰の門下生に遺書を届けてくれなかったら、遺書は歴史の中に消えていたところでした。その最後に記された辞世の句、 身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂 も牢名主のお陰で残りました。

 関連情報なのですが。
 牢役人もですが、牢では牢名主(ろうなぬし)という人にも賄賂(寸志・心付け)をあげないと手紙を出したり手紙を受け取ったり、差し入れをもらったりが出来ませんでしたので、松陰は牢名主にも賄賂を渡していました。
 牢名主というのは役人ではありません。牢屋に入れられている同じ罪人なのですが、長く牢屋にいるのでいばってて、牢屋の主(ぬし)のように後輩罪人にあれこれ指図して力を振りかざしていた人だそうです。牢名主ににらまれると、些細なことから意地悪されまくりだっ...続きを読む

Q高杉晋作と本田圭佑は顔が似ていませんか

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Aベストアンサー

本田圭佑ってサッカーの選手の本田圭佑ですか?

性格は、本人を存じませんのでコメントしませんが、写真で見た限り、顔はあんまり似ていないような気がします。

> 似た様な顔の人は性格も似るのでしょうか。

同じような発想から、例えば骨相学や人相(人相占い)なんかがありますね。
色々な人が2000年くらい研究していますが未だに当たるも八卦の世界でしかありませんから、そういうものでしょう。

QNHKの龍馬伝では、例えば龍馬は「西郷さん」 「高杉さん」と、さん付け

NHKの龍馬伝では、例えば龍馬は「西郷さん」 「高杉さん」と、さん付けで呼んでます。方や桂さんや千葉道場の先生は「坂本君」と君付けでよんでいます。時代劇では「様、殿、氏(うじ)」が定番です。江戸時代末に本当に「さん、君」が使われてたのか、ドラマの中だけなのか、どうなんでしょうか?

Aベストアンサー

 今年6月に出た本で、
大野敏明著 『歴史ドラマの大ウソ』 産経新聞出版
 という本を読み始めたところです。

 第三章 ホームドラマになった「江戸」  の所にちょうど、
< 「さん」「君」は幕末から >  という項目がありました。
 一般藩士らが同格の相手を呼ぶ時は、名字に「氏(うじ)」を付けて呼んで、現代のように同僚同士が苗字をそのまま呼び捨てにして呼び合うことは考えられなかった。
 「さん」や「君」は幕末にはやり出した。

 と書いてあります。他にも、同格の老中同士が呼ぶ時、格上の大老を呼ぶ時など載ってます。
 実は武家の女性に苗字は無かった、とかおもしろそうなのも載ってます。
 < 武士は泣かない笑わない > は、最近の時代劇で武士がやたら泣いてて何かヘンだなと思ってたのでやっぱりねという感じです。
 著者のひいおじいさんが旗本だったと聞いたことがあるので、時代劇の中のヘンなことに気付いちゃうんでしょう。
 

Q高杉晋作にまつわる名所を観光したいのですが

山口県に旅行するにあたって高杉晋作にまつわる名所を観光したいとおもっているのですが
どこかおすすめな名所等はありますでしょうか?
できればたくさん教えていただきたいです。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

山口県萩市在住のものです。
彼の出生地の萩に絞って上げますね。
出発地としては萩市堀内(ほりうち)にある『萩博物館』をオススメします。
ここで萩の歴史が学べる上、高杉晋作資料室に晋作に関する常設展示やビデオ上映がありますのでそこで見聞を広めてスタートした方がいいでしょう。
また、高杉晋作資料室長である一坂 太郎(いちさか たろう)学芸員がいらっしゃったらお話を伺うことをオススメします。
彼は下関にあった晋作ゆかりの東行記念館副館長でしたからその辺のエピソードも聞けるはずです。
次は『萩博物館』から歩いて、『菊屋横丁』へ行きましょう。ここは彼の出生地で今も菊屋家の住宅と当時の町並みが残っています。
次に菊屋横丁から徒歩3分くらいでいける『円政寺』ここでは幼少期に神社に飾られた天狗の面を見て心を強くしたという逸話が残っています。
更に歩いて10分くらいの距離には晋作が14歳のときに、入学した藩校明倫館の跡地、現在の明倫小学校に行きましょう。
明倫小学校に行った後は、小学校の道路を隔てた向こう側にある萩市役所前から発着している『はぎまぁーるバス』(コミュニティバス、どこまで行っても1回100円)の東回り(松陰先生号)に乗りましょう。(西回りの晋作くん号では行けません)
それで、萩市椿東にある『松蔭神社』に行きます。
ここには彼が通い、師である吉田松陰に教えを受けた『松下村塾』があります。
これだけで足りなければオプションとして松蔭神社から山手に上がった吉田松陰誕生地にある『高杉晋作草庵跡地顕彰碑』や、江戸から帰ってきてから投獄された野山の獄(のやまのごく)跡(萩市今古萩(いまふるはぎ)町)くらいですかね。
奇兵隊に関する史跡や墓所は下関市にあるので、そちらについては明るくないので今回は控えております。

参考URL:http://www.takasugi-shinsaku.com/index.html

山口県萩市在住のものです。
彼の出生地の萩に絞って上げますね。
出発地としては萩市堀内(ほりうち)にある『萩博物館』をオススメします。
ここで萩の歴史が学べる上、高杉晋作資料室に晋作に関する常設展示やビデオ上映がありますのでそこで見聞を広めてスタートした方がいいでしょう。
また、高杉晋作資料室長である一坂 太郎(いちさか たろう)学芸員がいらっしゃったらお話を伺うことをオススメします。
彼は下関にあった晋作ゆかりの東行記念館副館長でしたからその辺のエピソードも聞けるはずです。
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Q日本にピストルが伝わって来たのは江戸時代後期だと思うのですが、高杉晋作と坂本龍馬以外で使ってた偉人が

日本にピストルが伝わって来たのは江戸時代後期だと思うのですが、高杉晋作と坂本龍馬以外で使ってた偉人がいれば知りたいです。

Aベストアンサー

確かディーン藤岡演じる五代友厚はピストルを持ってたね。 こどものあさが、初めて訪れた大阪の街ではしゃいで走り出した時、逆方向から走ってきた若いさむらい五代とぶつかって、その際五代の持っていたピストルがあさの着物の袖のなかに入ってしまった。

Q高杉晋作らはいつ頃から重要人物になったのですか?

はじめまして。質問させていただきます。

レポートを作りはじめて疑問に思ったのですが、高杉晋作や坂本龍馬などの幕末の主要人物は、いつ頃から警護がつくようになったのでしょうか?
安政の大獄辺りには、もう重要視されていたのでしょうか?

御回答お願いします。

Aベストアンサー

坂本龍馬については、1866年1月に成立した薩長同盟の際に
長州の三吉慎蔵が竜馬の警護についています。
2日後に竜馬は寺田屋で幕吏のために襲われてしまいますが
後に竜馬の妻となるおりょうが風呂場から裸で急を告げ
その際に三吉も同席していたという話は有名ですね。

この頃には龍馬はすでに幕府・薩長の両方から
重要人物として注目を浴び始めていたようですが
安政の大獄(1860年)当時は、まだ江戸の千葉道場で
剣術修行に励んでいた一人の若者に過ぎませんでした。
(彼が井伊大老の暗殺を聞いたのは土佐に帰省していた時でしたが)

高杉晋作については、警護を連れていたという話はあまり聞きません。
風来坊の高杉ですから、そういうことは嫌ったのではないでしょうか。
ただ伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)は舎弟のような立場で
いつもくっついていたということです。

ちなみに彼は代々上級武士の家柄でしたが、無名の頃は
品川で建設途中だったイギリス公使館を焼き討ちするなど
手がつけられない暴れん坊だったそうです。
本当に頭角を現したのは、私の意見ですが
1864年12月の「功山寺決起」ではないかと思います。
この挙兵で高杉は太田・絵堂の会戦での勝利を経て反論を掌握、
第二次長州征伐の海戦では坂本龍馬の海援隊と連合して
幕府軍を全面撤退させ、長州復権の立役者となりました。

坂本龍馬については、1866年1月に成立した薩長同盟の際に
長州の三吉慎蔵が竜馬の警護についています。
2日後に竜馬は寺田屋で幕吏のために襲われてしまいますが
後に竜馬の妻となるおりょうが風呂場から裸で急を告げ
その際に三吉も同席していたという話は有名ですね。

この頃には龍馬はすでに幕府・薩長の両方から
重要人物として注目を浴び始めていたようですが
安政の大獄(1860年)当時は、まだ江戸の千葉道場で
剣術修行に励んでいた一人の若者に過ぎませんでした。
(彼が井伊大老の暗殺を聞い...続きを読む

Q高杉晋作と伊藤博文は練兵館に入塾していたか

長州藩の桂小五郎は、斎藤弥九郎の練兵館に入門し、塾頭まで勤めたことは有名ですが、高杉晋作や伊藤博文も同じ練兵館に入門していたとされています。
そのことを示す史料をご存知の方がいらっしゃいますか?もしご存知でしたら、史料の名称と、その史料が掲載されている文献等についてご教示下さい。

Aベストアンサー

東京大学史料編纂所のHPに「維新史料綱要」や「大日本維新史資料」についての記載があります。(参考URL)

前者についてはDBで検索できますので、伊藤博文や高杉晋作を検索してみてください。お探しのものが載っているかどうか不祥ですが。

高杉をちらりと見てみましたが、結構読み応えがあります。

参考URL:http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/ishinkoyo-j.html


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