「幸福」とは、一体なんでしょうか?

ずっと考えているのですが、正体がわからぬままで、時折他人に「幸福?」と聞かれても、「わからない」と答えるばかりです。
私が生きてきた中で、思ったこと、感じたことは、「幸福感」と「幸福」は別ものではないかということと、「幸福」は相対的なものではないのではないかということです。これはあくまでも私の感性が創ったイメージなので、論理的に説明することは難しいのですが…。
私の日常、人生の中にも「幸福感」は、少なからずあります。(美味しいものを食べた時や、眠りにおちる瞬間や、美しいものに触れた時等々…) しかしながら、「幸福感」は瞬間的な感覚であり、持続性に乏しく、「幸福」と呼ぶに足らないものではないかと、そう思っております。
「相対的なものではない」というのは、私の中に幻想が含まれているのかもしれませんが、「幸福」は何かと比較して見出すものではなく、“そのもの”が発するもの、もしくは“そのもの”が証明してくれるものではないかと、そんな気がしています。(頭の片隅には“絶対的”というイメージが…) 少なくとも、私は不幸な感覚や状態と比較して、「ああ、幸福だなぁ」とは思えませんし、他者と比較して得たとしたら、それは優越感ではないかと、そう思っております。

皆さまの考える「幸福」をお聞かせください。尚、私は哲学書などを読んだことがないに等しい、頭の中で堂堂巡りを繰り返しているだけの素人ですので、ご回答の際にその点を考慮していただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (14件中1~10件)

お釈迦様によると、一般向け(在家)の幸福論として、


「現在あるもの、現在与えられた物、現在の能力で手にすることができるもの」
で、満足することが出来た時、幸福であるといえます。
謂わゆる「小欲知足」のことです。

この回答への補足

すみませんが、すこしお聞きしたいのですが…。「小欲知足」の精神は魅力的だと思うのですが、その精神はどのようにして持つことができると思われますか。または、なにが必要だと思われますか。(頭の中で簡単に作れるものでもないかと…。)
愚問で申し訳ないのですが、もし良かったらお聞かせください。

補足日時:2001/05/01 16:47
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。お釈迦様の幸福論は、「なるほど」と納得してしまいますね。私の場合、まずは、「現在あるもの、現在与えられた物を受け入れること」でしょうか。もうすこし考えてみます。
お答えいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/26 23:06

” 山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う、ああわれ人ととめ行き、涙さしぐみ帰りきぬ、山のあなたのなお遠く、幸い住むと・・・”カール・ブッセの有名な詩です。

幸いを尋ね求めても、見つからないという意味ですね。
幸福は彼方にあるのではなく、自分の住むところ、つまりは自分自身の中に見出さなければならないのではないでしょうか?すでにご指摘のとおり、”そのもの”すなわち、あなた自身が発するものだと思います。 
多様な価値観、相対的な思考、視点の転換等を持ち、柔軟に生きることが幸福に繋がると考えます。自分自身だけではなく、他人の幸福をも入れて・・
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答え、ありがとうございます。
>”そのもの”すなわち、あなた自身が発するものだと思います。
そうですね。そのように思っておりました。(ただ私は、marutakaさんのように、幸福に繋がる自分の姿を見出せていませんが…。)「他人の幸福も入れて」というのは、あまり考えたことがありませんでしたね。

>つまりは自分自身の中に見出さなければならないのではないでしょうか?
仰るとおりですね。(質問自体が愚問に思えてきました…。)
でも長い間関心があったことなので、いろいろな方の意見が聞けて良かったです。
この場を借りて、お答えいただいた皆さまに…。どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/05/03 10:33

『幸福』とかを考えるのは、『死』というものが先にあるからなのかなぁ~?


『死』というものがなければ・・・・こうなりたい、こうしたい、こうありたいという『願望=夢』を抱くことも見ることもないのかもしれない。『夢』をみるために『こころのより所は必要だから求める』と、言わせてしまう。とっても短い時間だから人の一生は・・・・それ故、その限られた時間を楽しみたい気持ちから、『こころのより所』を支えに生きにくいこの世の中を生きていこうとするんじゃないのかなぁ~。自分の生き方、理念にこだわること、が、こころのより所だとしたら・・・・やっぱりなんか矛盾してる。もの=『自分自身を道具としての生活』この生き方を『偽もしくは、悪』=不幸で、『純粋な精神生活』=『真もしくは、善』=幸福と、かんがえたくなる。が、そもそも生き方、理念とて枠で自分を縛り付けてる。
器を二つこさえて違うラベルを貼ってみただけのこと。中身はいっしょ-。どちらの生き方もどこかでなにかに縛り付けられる。一方からみれば、幸福に見え、反対にもう一方から見ても幸福に見える。おかしいよね、結局、何かから逃れることできないのに・・・・・『無欲』になれないんだろうね。

トンチンカ~~ン~~♪人は、欲深き生き物なんだな・・・・
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。考え方は人それぞれで良いと思うのですが、私の発言にすこし補足させていただくと、「こころのより所は必要だから求める」と書いたのは、平たくいうと、ほとんどの人は(自分を含め)、ひとりきりでは生きてゆけないと思っているからです。(たぶん私とlittlekissさんでは、「こころのより所」のイメージが違うのではないかと思うのですが…。私にとっての「こころのより所」は、今在ると思っています。) ご了承いただけたら幸いです。

お礼日時:2001/05/01 18:52

「幸福感」は持続性に乏しいと仰っていますが、それが「幸福」なのでないでしょうか。

確かに美味しいものを食べた時や眠る瞬間などは時間的にも短いですが、それ以外の、例えば欲しい物を手に入れた時というのも暫くは満足できますが、すぐにその状態に「慣れ」てしまうために持続性に乏しいと感じてしまうのではないでしょうか。人間は楽しい事も嫌な事もある程度ならすぐに「慣れ」てしまってそれに対する感覚が鈍磨してしまうようです(それが「当たり前」という状態ではないでしょうか)。環境適応と言えばいいのでしょうか…
望蜀の例えもありますし、その刹那的な「幸福感」が積み重なって「幸福」となるのではないでしょうか。
…でも実際の所、私は、nekoucchaliさんの仰っている「小欲知足」が最も良いとは思っています。中々そうはなれないので日々悶えておりますが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
>刹那的な「幸福感」が積み重なって「幸福」となるのではないでしょうか。
これは私も考えたことがあり、同感できる部分もあります。(でもそれだと、私の場合、あっという間に「不幸」になってしまう可能性も…。) 「持続」というのは、次の瞬間(時間)にも繋がる安定のようなものでは、とも思っており、そう…「持続性」をイメージしたのは、私の願望であるのかもしれませんね。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/29 10:59

『こころのより所は‘幸福’でなくとも必要かもしれませんが・・・・』



幸福でなくても必要とありますが・・・・先のタイトルのところの『幸福』を『夢』『自由』に言葉をおきかえても同じことが言えると思います。知らぬ間にこころのより所を持てば・・・・そこから、そのさきに『理想』が心の中に描かれてしまいます。『希望』というものが・・・また、それが、『苦』を人に負わすことになるんです。皮肉ですよねぇ-。そうとわかりながらも、こころのより所を求めてしまうのは、人間の性なのかもしれませんね。わたしもそんな愚か者の一人です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再びお答えいただき、ありがとうございました。「こころのより所を求めてしまうのは、人間の性なのかもしれません」というのは、そうなのかもしれませんね。私は、「こころのより所は、必要なものだから求める」と思っています。(観念的なものではなく、実在するものが“こころのより所”だと良いと思いますね。)

お礼日時:2001/04/29 10:28

実体のないもの。

ないのにあると信じてそれを心のより所にしてしまおうとする。
おかしいんだけど(矛盾してる)ないという事実から目をそむけちゃう。なぜかしら実体があるかのように自分でいろんな感じに理由付けちゃって、幸福感なんて言葉もどっかからもってきて、さも、幸福ってものはこうこうこういうものですよと決め付け(定義)たようなことを自ら言い出しちゃう。それでもって、あるかのごとく思い込んで、そのうち実体はある!と、自分の中でゆらぐことのない思いへと変わる。しばらくして、壁にぶつかったとき・・・・自分で作り出した定義と違った方向に物事が流れていったとき、定義づけてしまったことで自分で自分を身動きできない状態にさせてしまう。ちょっと、離れたところにたつとそのこともよくわかるのに・・・それでも、なんかかんかに憧れを抱き、夢や願いを捨てずにはいられないわたしです。『幸福』=存在しないもの。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。「幸福=存在しないもの」というのは、潔い考え方ですね。(心のより所は、“幸福”でなくとも必要かと思いますが…。) お答え、ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/26 23:13

お礼有り難うございます。


補足で、私の言うみんなとは
よくみる人でしょうか。家のひとや駅であう人や
会社の人、たこやきやのおばちゃんなどです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

再びお答えいただき、ありがとうございました。
「元気だ」ということは、本当に大切なことですね。

お礼日時:2001/04/26 22:57

難しい事はわかりませんが、私にとっての幸福は成長だと思います。


夢をかなえる為に自己を磨き、一歩一歩成長しているのが実感できた時に幸せを感じます。
まだ夢は実現していませんが、案外今が一番幸せなのではと思います。スポーツでも恋愛でも同じだと思いませんか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。shunicさんにとっての「幸福」は、成長なのですね。成長を実感できることは、羨ましい気がします。スポーツはしませんが、あるスポーツ選手をみて、宗教にも通ずるようなもの、もしくは神聖なるものという印象を持ったことがあります。恋愛のなかで「幸福感」を感じることはあります。そして恋愛は「幸福感」を感じ易いもの、とも思います。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/24 16:26

たとえば、恋愛をして、その想いが叶ったとしたら...


加山雄三のように、海に沈む夕日なんかに向かっちゃって
「幸せだなァ」と実感するかもしれません。
たぶん、そこには理屈なんてないでしょう。
また、たとえば、大きな仕事をし終えて、充実感を感じたとしたら...
やっぱり、何の迷うところもなく幸福を噛み締めるかもしれません。

「幸福」というものは、そもそも一つの、代替不能な一回きりの
体験であるわけですから、他のあらゆる体験同様、「相対的」と
言えば相対的とも言えますが、むしろ、そもそも
「相対的に考える」ということ自体が、意味をなさないような
性質のものであると考えた方が正しいような気もします。
つまり、常にその瞬間の理屈抜きな主観が問題になるわけで、
他人がどう見ようが、自分(とその関係者)が幸福を見つけてしまえば、
外野はまったく関係ない、くらいのものであると思うわけです。

そういう幸福って、最近ご無沙汰だけど、一体どこに落ちてるんだろう、
なんて思ってしまった場合は、有名なメーテルリンクの「青い鳥」の
出番ですね。
ただ、無闇に追い求めることをもって「幸せ」とするような
解釈だと、全然見当違いなんだろうな、と思います。だって、
そんなこといつも飽きるほどしていることですものね。
その結果って、結局ちっとも幸せじゃない。
あの話の趣旨は、きっと、そういうことではないのでしょうね。

だからといって、縁日で売ってる青いヒヨコを買ってきても
何の解決にもならない危険性が高いようです。
なかなか難しい問題です。
たぶん、人生最大のテーマです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。「そこに理屈はない」というのは、共感します。
>「幸福」というものは、そもそも一つの、代替不能な一回きりの体験であるわけですから
この部分を読んで、「生きていて幸福だ」と答える人の理屈を垣間みたような気がします。(理屈を感じてしまい、すみません。misokaさんの「幸福」とは、また別の話ですね。)
>だからといって、縁日で売ってる青いヒヨコを買ってきても
>何の解決にもならない危険性が高いようです。
この文章、愉しいです。

本筋から外れたお礼ですみません。ご回答に感謝いたします。

お礼日時:2001/04/24 15:52

今日もみんなが元気だ。

というのが私にとって幸福。
無事に帰れてまた何ごともなく朝が迎えられたという
のが私の幸福感です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えいただき、ありがとうございます。kierkeさんの「幸福」は、シンプルでいいですね。ところで、「みんな」というのは、kierkeさんのご家族を指しているのでしょうか…?もしよろしかったらお聞かせください。 

お礼日時:2001/04/24 15:30

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q【幸福の科学って創価学会の教えのパクリでは?】 創価学会の教えを参考にして幸福の科学は出来てますよ

【幸福の科学って創価学会の教えのパクリでは?】

創価学会の教えを参考にして幸福の科学は出来てますよね?

両方、幸福はどのように実現するのか?という人生の問いに答えを出すための宗教ですよね。

Aベストアンサー

「創価学会の教えを参考にして幸福の科学は出来てますよね?」
→それは、あなたの勉強不足でしょう。
ご質問には、具体的な内容が書かれていませんが、それらのほとんどは幸福の科学、創価学会でなくても一般常識として当たり前のことなのです。

Q結局「快」(幸福感、満足感、自信etc.)は善なのでしょうか

どうも長年納得いかない事があります。
ストレスによって体の抵抗力など落ちてしまい、疾病を招きやすいと言う事をよく聞きます。また、長寿の秘訣は、なるべく幸福感を持って生きることとか。事実とすれば「笑う門には福」とか「踏んだり蹴ったり」とかいう、面白くない事態を容認しなければならないということです。
私はどうもこれが面白くありません。
なぜ、人生は、あるいは生物の人生(なんと言うんでしょうね?)は、ストレスによって、逆に補償されないのか?なぜバランスを取れないのか?

結局弱肉強食と言う事に世界全体宇宙全体なっているからなのでしょうか。その原理に従えば、すなわち「快」というものはストレスの対極ですから、それは力強い「生」へつながっていく、その「快」を多く味わえるものの勝ちなのだという原則なのでしょうか。

だとしたら、なんとも救いようのない世の中だと思います。

Aベストアンサー

原典を紹介しようと探したのですが見つからず、不確かな記憶で回答します。

免疫細胞の活性状態と情動の関連を見た実験があり、笑ったり幸福なことを思い出したりしたときに、確かに活性化している数値が出たのですが、つらく悲しい記憶を思い起こしたときにも同じように免疫活動が盛んになったという結果でした。

一般常識と異なるその結果に興味を持ちました。私見ですが、喜びも悲しみも、感動ということで一致します。無感動から感動への振幅が、体内の生化学物質に影響するのかな、という感想を持ちました。

ストレスを感じるというのは、生物として最大のリスクである自然界の危険から身を守るために、進化の過程で獲得した、優れた対処法だと思います。下手に積極的に活動せず、警戒するための防御策です。

身体に悪影響が生じるのは、そのストレスが、危機が去った後も無駄に長期間継続するときではないでしょうか。喜びも、感動という形で身体に影響を及ぼすのですから、これも一種のストレスです。「3日間笑い続ける」「半年喜び続ける」など想像してみると、かなり体に悪そうです(笑)

人間がストレスで潰れてしまうのは、外界からのストレッサーが消えた後も、脳内で反復して、内部からストレスを再生産してしまい、“自家中毒”になりやすいからではないかと経験から感じます。

ご質問にある「快」という言葉を、ストレスの対極、つまりストレスフリーな状態とするなら、それは刺激のない、感動の振幅のない状態で、緊張感を失い極端に弛緩した状態は、逆に生物としては様々な機能を低下させることになるのでしょう。よろしくないですね。

「快」は、適度な(長引かない)ストレスを感じる環境に置かれたときに感ずるものだと思います。緊張の後でなければ弛緩を感じられないし、逆も同じです。振れていなければ「快」とは感じられないのではないでしょうか。

ちゃんと喜んで、ちゃんと悲しんで、ストレスを感じることが「力強い生」=「快」である、とすれば、なんとも世の中うまくできていることだろうと思います(^^)

原典を紹介しようと探したのですが見つからず、不確かな記憶で回答します。

免疫細胞の活性状態と情動の関連を見た実験があり、笑ったり幸福なことを思い出したりしたときに、確かに活性化している数値が出たのですが、つらく悲しい記憶を思い起こしたときにも同じように免疫活動が盛んになったという結果でした。

一般常識と異なるその結果に興味を持ちました。私見ですが、喜びも悲しみも、感動ということで一致します。無感動から感動への振幅が、体内の生化学物質に影響するのかな、という感想を持ちま...続きを読む

Q一端相対化されたものはずっと相対的であり続けるのか

スレッドを開いて頂きありがとうございます!

ポーランドの社会学者ジグムント・バウマンは著書『アイデンティティ』において、

ある自分のアイデンティティ(正社員の自分、とか、異性にモテる自分、とか)を一度捨てさったことのある人は、その後そのアイデンティティにコミットすることが苦痛になる

と述べています。
そのアイデンティティの価値が実はそんなに大したものではないと考えるようになるのです。

さて、私が知りたいのは。
みなさんは自分のアイデンティティを、大事に守る主義でしょうか?それともカメレオンのように、様々なアイデンティティをすぐに捨てられる状態にとどめておく主義でしょうか?という点です。
面白い回答をお待ちしております!

Aベストアンサー

たぶんこれはどちらを選択するかというより、
最終的にはアイデンティティを排除していくのが人の成長過程で起きるが、排除するためにまずはアイデンティティをかなりしっかり形成しておかなければならないという事だと思います。

Q「意味」ではなく「強度」を重視した生き方では強い充足感の反動で強いもの

「意味」ではなく「強度」を重視した生き方では強い充足感の反動で強いもの悲しさも感じてしまうようです。

わかりやすく言えば、躁鬱みたいなもんでしょうか・・・

一方、「意味」重視の生き方は、(理解することは可能かどうかは別にして)全体としての世界の文脈の中で決まってきますから、いい意味で安定的、悪い意味でメリハリのないものになります。

これら一長一短ある生き方を現代に合わせて調和のとれたものにするにはどうすればいいでしょうか。

Aベストアンサー

niki00001 さん
僕なりに書いてみますね^^

・慈悲喜捨の生き方をお勧めします。

自他の幸せを願う生き方です。
訓練法としては慈悲の瞑想があります。

自他の役にたつように生き始まると、充実感も生まれます。
この充実感に反動はないと思います。

・「希望」的生き方から「必要」的生き方へ

必要か否かで、物事を観る癖をつけると、人生の苦しみは減るものと思います。
必要なことを優先順位上からこなせば、充実感もあるでしょう。

・足るを知る

得るものについて、標準値が高すぎるとほとんどの機会に不満を抱き苦しむことになります。なので、最低限これだけあればハッピーだというような基準を出来るだけ低くして、日々自分に言い聞かせると、結構気楽に生きれますよ。衣食住薬等々。

・上記のことを鑑みて、言葉や身体の行為を決めていく

・以上のことを容易に実践するため気づきの養成(ヴィパッサナー)

以上が初期仏教から僕が読み取った生き方ですw

お試しあれ♪

Q幸福感の人工操作

大体の人は、機嫌のいいとき悪いときがありますが、それを大げさに言うと、幸福感を感じている度合いが変化するからだとも言う事もできるでしょう。そして、それはかなり些細なことが多いのです。自分の生活の背景やら、取り囲む人間やら、あるいは嫌な仕事や借金があるとか持病があるとか依然として憂鬱なことはおおいかもしれない。でも、ふとしたことで、

幸福感が湧く⇒機嫌がよくなる

はありますよね。
つまり、このプチ幸福感を持続させればいいのではないか、あるいは人工的に恒常的に発生させれば、人生かなり違いますよね。

つまるところ、幸福を感じるレヴェルを操作できればいいのだと思います。グルメな幸福でないとダメなのを、体質改善みたいに変えられないものでしょうか?

本当にこんな些細なことができないばかりに、毎日どこかで自殺者が後を起たないのだと思います。

Aベストアンサー

可能ですよ。実際にそのような薬もあります。禁止されてますけど。
麻薬です。脳に作用し、幸福感を感じます。
しかし依存性や中毒性が強いので、禁止されているのはご承知の通りです。

お酒も不安を消し、結果として幸福感が強くなりますね。

ウツの薬なども同じ系統です。

宗教は自身の意識を変え、幸福感を感じるものですね。

人にはプライドや自我がありますから、自分を変えるのは難しいものです。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報