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◎カント
「なんじの人格や他のあらゆる人の人格のうちにある人間性を、
いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わない様に行為せよ」

というのがありますが、自分の人格も他人の人格も目的として尊重しなさいということだと
解説にはありました。この「目的」のニュアンスがよくつかめません。

◎ベンサムとミル
量的功利主義の快楽計算とは一般的な見方から考える幸福の価値観、
質的功利主義とはおのおの個人的な見方から考える幸福の価値観と考えても
よいものなんですか?

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A 回答 (3件)

補足を要求されているのを拝見しました。


どのように答えようか考えましたが、量は量で、質は質である、という以上の説明の仕方を思いつきません。

ベンサムとミルが同じことを言っている、というのは、質問者さんのご解釈の領域ですので、尊重したいと思います。

なおベンサム・ミルに関しては、このサイトがわかりやすいと思いましたので、よかったら参考になさってください。

参考URL:http://www.ne.jp/asahi/village/good/bentham.html
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。
あまり深く考えなくてもベンサム→量、ミル→質という風に覚えておけばたいていの問題は
解けそうです。(あんまりよくない方法かもしれませんが)
今、哲学専門の勉強ではなく、大学入試としての哲学を勉強しておりまして、一般的な見解を
理解したかったのです。
私の解釈の領域ではやってけない部分がありまして、補足させていただきましたが、
困らせてしまってごめんなさい。

お礼日時:2003/10/14 13:42

◎カントについて



まず身近な例をあげましょう。

Aさんという女性がいるとする。
彼女にはB君という彼氏がいます。その彼はお金持ちで、何でも買ってくれるし、背も高くてカッコいいから、一緒に歩いてもみんなが振り返る。彼のおかげで、Aさんはいい思いができるんです。

ある日、このAさん、授業で大教室に入った。
ほとんどの机がふさがっていて、やっと見つけた席に着くと、コーヒーがこぼれている。もう、と思いながらティッシュを出して拭いていると、隣の席の男の子が、バツの悪そうな顔をしていて、手には紙コップ。(言っておきますが、これは全部捏造です。体験談なんかじゃありません)
それがきっかけになって、彼女はそのC君と話し始めるわけです。

その日以来、AさんはC君が気になります。
どんな人なんだろう。何が好きで、どんな本を読んで、どんな音楽を聴くんだろう。何かが起こっても、まず頭に浮かぶのは、C君だったらどんなふうに感じるか、ということです。
C君と一緒にいたい、でもそれは、C君が何かを買ってくれるからでも、みんなが振り返るからでもない。ただ、一緒にいたいから、いたいんです。

さて、ここで問題です。Aさんにとって、どちらの相手が「手段」であり、「目的」であるかわかりますか。

手段とは、目的にたどりつくための方法です。わからないからちょっと教えてー、というのも、人を手段として使っていることだし、雨が降ってるから車に乗せてってー、というのも、人を手段として使っていることになる。

それに対して、人を「目的」にするというのはどういうことかというと、ほかの目的を考えない、ということです。

小さな魚は大きな魚に食われるために存在している。大きな魚は人間に食われるために存在している。
ならば、そうした生き物の頂点にいるはずの人間は、何のために存在しているのか。
カントは人間の存在それ自身が目的である、と言っています。
カントの言う「人間性」とはそうした意味合いです。

自分がそうであるように、他者もそう扱いなさい、とカントは言っているわけです。自分の利益のために他者の存在を利用するだけであってはならない、ということです。

◎功利主義について

量的は文字通り、幸福の量のことで、質的は、幸福の質のことです。
価値観ということではないし、また一般的、個人的、という位相の話でもありません。

ある行為が「道徳的に正しい」かどうか、ということは、昔から大きな問題でした。
日常生活では自分にとって正しいと思うことが、人にとって正しいかどうか、は一概に言えることではありませんね。
それを一概に言ってしまえるような、客観的な指針を定めようとして、哲学者たちはいろいろに考えたわけです。

ベンサムは、ある行為が正しいかどうかは、多くの人が幸福になるかどうか、が規準になると考えました。
タコメーターで見るように、人々の幸福の度合いを知るためにはどうしたらよいか。
そこでベンサムは「快楽」という規準をもってくるんです。

あらゆるものごとは、快楽か苦痛を生む。
したがって、わたしたちの行為は、快楽を増大させ、苦痛を減少させることに規準づけて行わなければならない。
人に与える快楽が大きければ大きいほど、それは「善い」ことであり、個人が享受する快楽の量×人間の数=社会全体の快楽の総量が幸福である、と考えたわけです。

それに対して、ミルは快楽を等しく扱うことができるのか、と異をとなえた。
快楽にも高級なものと、低級なものがあるんじゃないか。そこで出てきたのが

「満足した豚であるよりは不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるよりは、不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている」

という言葉です(この言葉は正確に引用されることがまれですが、後半の方が重要なことを言っているような気がします)。

ベンサムはすべての個人を平等に一単位、として考えた。同じように快楽も、その性質によらず一単位と考えた。
それに対してミルは、快楽はその性質によって高級なものと低級なものがあるし、人間だって馬鹿もいれば賢者もいる、としています(で、前者に関しては相当クソミソに言ってます)。

したがって、ご質問の回答としては、量的功利主義は、幸福の量を問題にし、質的功利主義は、幸福の質を問題にした、ということになります。
(なお、誤った点、理解の足らない点があったら、どうかご指摘ください)

この回答への補足

ご回答をありがとうございます。
ベンサムのタコメーターで見るように、人々の幸福の度合いを知るというのは
ミルの幸福の度合いには高級なものと、低級なものがあるという考えと
一致してるという風にとらえてしまうんですが、どうなんでしょうか?

補足日時:2003/10/04 16:02
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いっこめだけ。


自分がもっと○○だったらとか、あの人がもっと×△だったらとか言う場合、~だったらああ(つまり目的)なのになぁ。というその人格ないしその人の性質が起こす出来事に対する期待のようなものがあるとおもうのです。
その期待する出来事のためには、自分を改造することも、他人を替えようとすることも、もっぱら惜しまない。
そのような態度を、「人間性を、単に手段としてのみ扱う行為」であるとしていると思います。
 
そうではなく、自分がもっと○○だったらとおもうが、今こうであること、それを、同時に目的(期待すべき事象)として捉えなさい。
こうではないですか?
 
例えば、自分(他人の場合も)の人格(外見も同じ)は、かなり不細工で、不純だと思われる。もっとよくなりたい、よくなってほしい。
そう思って「今の自分(ないし他人)の人間性を否定ばかりする」のではなく、その、不細工だと思っている自分人間性(他人も)が起こす出来事にも期待しなさいな。
そうすることで、今の不細工と感じられる自分(他人も)は、意味あるものとして、あなたの中で大切にされるであろう。
そうすることで、はじめて今の自分(他人も)は、不細工であろうが不純であろうが、活きてくる。
かなり脚色しましたが、
こんなかんじでしょうか。
カントは、多くの人や文化の、師になっている人物です。
ですから、このような解釈を、私はしました。
 
もう一つは、神的なものを前提とした解釈が、私は思いつくのですが、今は、とりあえず上記のものを回答としておきます。

この回答への補足

ご回答をありがとうございます。
カントの考えは他人を目的達成のために利用してはならないということですか?

補足日時:2003/10/04 16:07
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
回答をよませていただいたり、本で調べたりして、なんとなくわかってきました。

お礼日時:2003/10/14 13:46

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Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Qカントの考える自由

カントは義務に基づいた行為(道徳性をもった行為)をしなければならないとした。
もし義務を果たせなかったとしても
「果たすべきだったのに果たせなかった」と良心の呵責を感じる。
そしてそのとき自分は義務に従うことができたという自由を自覚する。
人間としてどういう風に行為すべきかと神剣に道徳法則に直面して
初めて自由の存在を知る。

・「義務に従うことができたという自由を自覚する。」

・「道徳法則に直面して初めて自由の存在を知る。」

この「自由」の意味がよくわかりません。道徳法則という束縛(?)の中で
自由を知るとはどういうことなんでしょうか?

Aベストアンサー

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っていたのに、友だちから「良くなかったよ」と聞かされたとたん、読む気が失せてしまう。
日常ではよくあることです。

カントは、道徳的な行為の規則を作ろうと考えていました。
いつ、いかなるときであっても、世界中の誰でも従わざるを得ない、そのような規則です。

普段ならそれでよくても、道徳的な行為しようとするときに、こうした「自分が~したい」という気持ちは邪魔になります。
ですからカントは「性向に依存したもの」として退けたのです。

一方、しなければならないからする、というのは、どうでしょう。

明日試験だから、勉強しなければならない。
約束してしまったから、行かなければならない。
ここにはどこにも自由など存在しません。
こうした自分以外の要請から起こす行為を、カントは「他律」としてやはり退けます。
道徳的な規則の根拠を、こうした他からの強制に求めるのは間違いである、と考えたのです。

ならば、どのような規則ならば、誰もがすすんで従うことができるのか。
すすんで従うことが、喜びになるような規則は存在するのか。

人間と動物を分けるものは何か、というと、それは理性である、とカントは考えました。
動物は本能に支配されて生きている。
けれども人間は、理性を持つことで、本能から自由になっている。
カントのいう「自由」の中味はそれです。
自らの内側にある理性に従って生きることこそが、人間だけに与えられた自由である、と。

本能や欲望や欲求に惑わされず、理性の声に耳を傾ける。すると、自分が何をしなければならないか、ということが、おのずと明らかになってくるはずだ。
これが、カントの言う「義務」なのです。

どのような行動を自分がとらなければならないのか。
何をしなければならないのか。

このように自分に問いかけることによって初めて、人間は本能や欲望や欲求から自由になることができ、しなければならない、と、自分の理性が命じる行動をとることこそが、真に自由になることである、とカントは考えたのです。

こうしたことは『人倫の形而上学の基礎づけ』(岩波文庫その他)
という本の中にあります。
カントの中では比較的読みやすい本ですので、もっと詳しいことがお知りになりたければ、ご一読ください。

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っ...続きを読む

Q最大多数の最大幸福とは?

ベンサムの有名な言葉に「最大多数の最大幸福」がありますが具体的にはどういう意味でしょうか?

私は大学入試のセンター試験で倫理を選択していた時にこの言葉を知りました。
この言葉が意味するところは少数の人が不幸になろうとも、
その行いで大半の人が幸福になるのであればそれが社会的
に一番いいと言っているのでしょうか?
しかしこの意味だとあまり「教育的」でないので教科書には載りにくいような…。

本当のところどういった意味なのでしょうか?

Aベストアンサー

ベンサムは、人と人の間には利害の衝突があり、全ての人が幸福になることはありえないので、少数の犠牲があってもできるだけ多数の人が幸福になることが全体の幸福であると考えました。つまり、理想論としてではなく、現実問題としての幸福論を唱えたわけです。
しかし後に、少数者が多数者に抑圧される危険性や、少数者の犠牲者が被る不幸が大きい場合は全体の幸福が減少してしまうことに気付き、晩年になって定義をこのように変えました。

「その社会の成員の最大幸福。すなわち、出来ることならば彼ら全員の最大幸福。また、多数者のより大きな幸福のために少数者の幸福の一部を犠牲にすることが不可避であり、彼ら全員に等しい幸福を分け与えることが物理的に不可能な場合は、彼らのうちの最大多数の最大幸福。」

つまり、まず理想を掲げ、それが無理なら従来の「最大多数の最大幸福」がベターだよ、とすることで、より完全な定義にしたのです。

・・・という内容が、参考URLに書かれてありますので、詳しくはそちらをどうぞ。

参考URL:http://tcc.umin.ac.jp/~kodama/bentham/bentham12oct96.html

ベンサムは、人と人の間には利害の衝突があり、全ての人が幸福になることはありえないので、少数の犠牲があってもできるだけ多数の人が幸福になることが全体の幸福であると考えました。つまり、理想論としてではなく、現実問題としての幸福論を唱えたわけです。
しかし後に、少数者が多数者に抑圧される危険性や、少数者の犠牲者が被る不幸が大きい場合は全体の幸福が減少してしまうことに気付き、晩年になって定義をこのように変えました。

「その社会の成員の最大幸福。すなわち、出来ることならば彼ら全員...続きを読む

Qカント倫理学と功利主義の倫理学

この二つの倫理学を比較した時、それぞれのメリットとデメリットはどんなものがあると思いますか?

個人的な意見でも構いませんので回答していただけると有り難いです。
参考にしたいのでよろしくお願いします。

Aベストアンサー

哲学の専門家ではありません。しかしながら、大学で応用倫理学の講義を受け持っています。
その立場からの見解です。

カントの倫理は意思に基づくもの、功利主義(ベンサム)の倫理は結果に基づくものです。
前者は善い行いをしようとする意思に価値を置き、後者は結果が社会全体の幸福を向上するものであることに価値を置きます。

さて、メリット、デメリットですが、私の意見では、さほどの違いはありません。

道徳規則を守る→倫理規則、倫理規定、法。
結果を重視する→結果責任、刑事責任、賠償責任
という考え方では、昨今の企業不祥事が防止できていないことからも、どちらも効果的ではありません。

むしろ、個々の状況に応じて、自分の頭で考えて判断する、という過程が重要なのだと思います。

Qe^-2xの積分

e^-2xの積分はどうしたらよいのでしょうか…。e^xやe^2xsinxなどはのってるのですがこれが見つかりません。お願いします。

Aベストアンサー

いささか、思い違いのようです。

e^-2x は、 t=-2x と置いて置換してもよいけれど、牛刀の感がします。

e^-2x を微分すると、(-2)*( e^-2x )となるので、

e^-2x の積分は、(-1/2)*( e^-2x )と判明します。


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