江戸時代の三大飢饉の享保、天明、天保の飢饉の正確な死者数が知りたいです。享保は1万2,500人ぐらいだと思うんですが、他の飢饉の死者数が地方ごとの死者数は分かっても全体の死者数はあいまいでよくわからないんです。

A 回答 (2件)

下の方が回答されているように、当時正確な死者数を出すことは困難であり不可能であったとされているので、文献の別やその記録によって諸説あり現在に至っても正確な数字は出されていません。



死者の出し方にしても餓死者と疫死者を一つとして出すか、餓死者のみとするかという点でも別れており、餓死者と疫死者を見分けがつかなかった場合もあるので仮に数字が出ていてもそれが正確なものとは言えないでしょう。

というわけで、ここからはいくつかの諸説織り交ぜて回答させて頂きます。

まず享保の大飢饉ですが、この死者数には二つの説があります。文献『虫附損毛留書』及び『日本災異志』によると全国の餓死者12,172人とあるのですが、『徳川実記』によると96万9,900人とされています。当時の飢民数が265万人とされていますので、後者『徳川実記』の96万9,900人という数字もあながち間違いとするものではないと考えられています。

天明の大飢饉における死者数はこれまた説が分かれており、死者は6万人(一藩で数万から30万人以上の死者を出したところもあるとの記録があるので、この6万人は信憑性が薄いですが)とも90万以上100万人近くであったともされています。が、松平定信が残した記録によると天明4年から5年にかけて全国で140万人の死者があったとされています。天明の大飢饉は天明3年から6年(または7年)にかけてですから、この記録を正しいとすれば予想するに200万人規模で死者を出したと考えられます。

最後に天保の飢饉ですがこれも曖昧なものが多く諸説あるのですが、一説には10万とも20~30万人ともされています。しかし東北だけで数十万の死者が出たともされているので、これによれば前者は否定されることとなりますので一概にどららが正しいとは言えません。大体にしてですが、この飢饉の惨状を紹介する際に用いられる死者数は後者の20~30万人とする場合が多いようです。
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この回答へのお礼

享保の飢饉の一万と九十万はすごい差ですね。ありがとうございました、課題研究に役立てます。

お礼日時:2003/10/02 14:48

残念ながら正確な数字はムリです。



当時はまともな統計がない上に(そもそも日本全国の人口だって怪しい)、伝聞による死者数の増加、
記録すべき人間すら死んでしまったというような状況である上に、
飢饉の後の疫病やなんかまで一緒くたになってしまっていますので。

例えば天明の大飢饉で仙台藩の餓死者数は40万人と記録されていますが
これはあまりにも数が多すぎますし、

享保の大飢饉で『徳川実紀』によると「すべて山陽、西国、四国等にて餓死するもの96万9千人」とありますが、これも本当かどうかなどまったく不明です。

寛政の飢饉で京都での死者が8万2千人という資料がありますが、
これも禅僧雲泉大極の『碧山日録』に、
「洛北の僧が木片の卒搭婆を8万4千作り、死体に1つ1つ置いていったところ、2ケ月で残り2千になった」
という記述がよりどころですので、実数は誰にもわかりません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。ここに質問するのは初めてでしたがこんなにはやく答えが返ってくるとは思いませんでした。

お礼日時:2003/10/02 14:51

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Q天保の大飢饉の時、漁師たちは??

歴史に明るくないので、その点を留意した上で回答を戴けると嬉しいです o(^▽^)o


【質問】:天保の大飢饉の時は漁師たちも飢えたのでしょうか?




ご回答お待ちしております。

Aベストアンサー

一般的に言えば、単純には言えない、場所それぞれでしょう。
江戸時代に何度か飢饉がありましたが、収穫量の減少や期間の長さ、飢饉状態になった地域の広がり、減収になる前の状態などからみれは、天保の飢饉が一番ひどいようです。しかし、死者の数は、天明の飢饉の方が多かったようです。なお、飢饉の実態や飢えの状態、死者の数をきちんと同じ手法で調査したものは存在しないので、おおよそのこともわかりません。
http://www15.plala.or.jp/kuni-1/gakusyuu/edo/kikin.pdf
また、飢饉と言われる状態が起きていても、その時代のその地方には、食べ物に困らない人も、食べ物がほとんど得られない人もいます。また、流民となって他の地方に移動してしまう人も多いのです。流民は生活苦や借金でその地域にいられなくなり、余所に逃げるのですが、その場合、受け入れてもらえ何とか食事にありつけそうだと思うところに逃げていくのです。都市部では流民が多く移動して来ては困るので受け入れません。そのため都市近郊に流民が行き場所もなく溜まり、ここで多くの人が死亡します。
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_e.html
農村、山村、漁村、都市部どこでも、食料に困る人、返済できない借金を抱えている人が多い状態になりますが、全員がそうなるのではありません。また、気候でも、虫でも、不作、不漁も、地域によって差が出ます。
食料に困っているA地域に、これを機会に高く売ろうとする裕福な人がいる(B地域)と、B地域の食料が不足し、B地域の貧困者が飢餓になります。これでは、不作がひどくないB地域でも飢餓になるので、他の地域への販売を禁じて飢餓地域が広がらない対策も打たれます。また、不作や気候変動、虫や天災で天明飢饉が起きたときの経験から、飢饉対策も色々考えられ実行されていますので、天保飢饉のときには飢饉の状態はかなり良くなっています。
自然現象や不作、不漁などの結果でも飢饉は起きるのですが、ひどい飢饉は、人の動きや対処法が影響するのです。
天明の飢饉の頃は魚も不漁だったところが多いようです。カネに困ると借金したり持ち船を売ったりして、とりあえず食料を確保し、それも出来なくなれば、夜逃げで他の地域に逃げ活路を求めようとし、逃げていった先で死ぬことも増えます。ただ、これも、天保の飢饉のころは少しましになっているようです。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no87_08.pdf
千葉県の富津でも、天明の飢饉では打ち壊しがあったものの、天保にはその記載がありません。
http://www.geocities.jp/marusyou03/sub3.htm
米作は、年貢にもなるし、商品価値が高いのですが、この頃の天候では簡単に不作にもなるので、飢饉対策・万一の食料確保でサツマイモやその他の方法も工夫されて行きます。
千葉県の幕張でも、天明(1783~88まで続く)・天保(1833~39まで続く)の大飢饉にも、このあたりで餓死するものは皆無だったそうです。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nakanisi/rekisi.html
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
通常、天候は荒れるもので、数十年間安定していることの方が珍しいのです。そうしたときに飢饉になって多数の人が死ぬような生活は、普通ならばしていません。
鎌倉時代以降、農業が米作中心になり、金肥(肥料をカネで買う)を使うようになってから、天候不順や虫害で収穫が得られないと、金肥代金などの返済が出来なくなり、土地を担保にカネを借りたり、土地を売るなどの状態が起きるようになったのです。そうすると、不作がひどかったり続くとカネがないために飢饉になります。小さな集落で細々と自給自足している場合は、不作になってもさほど飢饉の状態にはならないことが多いようです。
そういう面から考えると、辺鄙なところにある小さな漁村などは、もともと貧しいレベルですが、その貧しい中で食料がさらに乏しいという程度でなんとか済んでいたのでしょう。
農業にカネを使い目一杯米作で暮らしている地域は、不作時には飢饉になりやすかったのでしょう。
 
なお、昔の食糧事情は、次のようだったそうです。
http://www.pref.iwate.jp/~hp2088/park/kikaku/49th_inochi_tabemono.html
 旧藩時代から明治~昭和の戦前まで、農村部では白米だけの食事は晴食(はれしょく)のときなどに限られ、日常的には、量の不足を補うために米にムギ・大豆・根・海草などを混ぜて炊いた「かて(糧)飯」が主体でした。  
 大正7年に内務省が行った全国主食物調査では、岩手県の村落部では「米・麦・粟(あわ)・稗(ひえ)ヲ主食トシ大根カテヲ四季用イル地方ト、特ニ冬季間麦ノ代用ニ用ウル所トアル。米・栗・稗・麦ニ蕪(かぶ)・大角豆(ささげ)ヲ入レタ粥(がゆ)」と記されています。町の商家でも昭和期まででも麦かてが普通の食生活でした。    
かてには麦、粟(あわ)、稗(ひえ)などの穀物の他、大根や海草のめのこが用いられていました。
 稗(ひえ)・粟(あわ)は土質を選ばず、肥料も少なくて済み、冷害にも強く、また30~40年は保存が可能と言われるなど多くの利点があり、米や麦がよく獲れない地帯では主要な作物として利用されていました。
 それでは、凶作の年はどのような物を食べたのでしょうか。作物の生育期間の低温や日照不足によって不作となる凶作年は、米だけが不作となるのではなく、麦や稗などの他の穀物も不作となることが多くありました。こうした場合に備えて、家毎に蕎麦(そば)や稗(ひえ)、干し大根などを井楼(いろう)(大箱)や梁上(りょうじょう)(まげ、焚き火の上)に貯蔵し、凶作時の備えをしていました。
 食料が不足した初期の段階では、まず備蓄を取り崩したり、増量(かて飯)による穀物の節約、家畜飼料の食用化、ダイコンなどの緊急増反などで、食い延ばしを図りました。さらに食料が欠乏し、かて飯も食べられなくなる中期段階になると、ふすまやぬか、カボチャなどの葉、木の実や山菜などで飢えをしのぎました。厳しい冬を何とか乗り越えても、次の年の蕎麦(そば)や大根などの作物が収穫できるまでの春先から夏にかけてが最もつらい期間となり、山菜や野草のほか、末期段階では食べられるものは何でも採取し、松の皮やウルシの実までも食べて命をつなぎました。
http://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_19/vol19_2b.htm

一般的に言えば、単純には言えない、場所それぞれでしょう。
江戸時代に何度か飢饉がありましたが、収穫量の減少や期間の長さ、飢饉状態になった地域の広がり、減収になる前の状態などからみれは、天保の飢饉が一番ひどいようです。しかし、死者の数は、天明の飢饉の方が多かったようです。なお、飢饉の実態や飢えの状態、死者の数をきちんと同じ手法で調査したものは存在しないので、おおよそのこともわかりません。
http://www15.plala.or.jp/kuni-1/gakusyuu/edo/kikin.pdf
また、飢饉と言われる状態が起きてい...続きを読む

Q歴史 大塩の乱が起きた原因とその影響は?

中学で歴史を学んでします。
大塩の乱が起きた原因とその影響について、分かる方具体的に教えてくださいませんか?
お願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。多分、中学の歴史は原因とその影響まではやらないんですよね?
高校のレベルになったら、日本史Bという科目でちゃんと勉強します。
なので、今日は僕が簡単な言葉で解説してみようと思います。
下の方、ここは誰かをけなす場所ではないですよ。そう思うなら、書き込みなんてしなければいいでしょ?

さて、下の方のいうことなんてほっておいて・・・

大塩平八郎の時代は、水野忠邦が行っていたいわゆる「天保の改革」の時代でした。この時代は前の時代の「寛政の改革」やそれよりもっと前の「享保の改革」を見習って、あの「三大改革」の中でも最も一番厳しい改革だったんです。

そんな中、当時「天保の飢饉」というのがあって、各地で深刻な「米不足」が起こりました。米不足の影響で、いろんなところで一揆などが多発していて、世間は大混乱な状態だったんです。
その飢饉の影響はもちろん、大塩平八郎が住む「大阪」にも及びました。彼は飢饉で苦しむ聴衆を救うべく、自らの著書(彼自身、有名な陽明学者だったので、彼の著書は結構なお金になりました。)を売って、貧しい民衆に分け与えるなどの活動をしていました。ところが、それは奉行所から「売名行為」だと判断され、処罰されることになったんです。

それだけなら、まだ良かった・・・さらに大きな問題があったのですが、何と、その大阪の奉行所が飢饉なのにもかかわらず大量にお米を買い上げて「独占」していることが分かったんです。というのは、当時江戸のような主要都市でも深刻な米不足に陥ってたので、大阪の奉行所がそのお米を買占め、江戸に搬送していたんです。でも・・・苦しいのはみんな一緒。それなのに、結局将軍様が江戸にいるからって、そのためにお米を買い占めて良いのか?良いわけありませんよね?大阪の人々に生活はさらに苦しくなるって言うのに、それを無視しても良いのか?

そこで大塩平八郎は、奉行所にこう訴えました。

「あなたたちが米を買い占めているせいで、民衆の生活がさらにひどくなっているんだ!彼らに少しでもいいから、お米を分け与えてやってくれ!」

ところが奉行所は「そんな余裕はない!生活が苦しいなら、苦しいなりに自分たちでどうにかしろ!」と言って、拒否したのです。というのは、やはりこういう世情だったんです。「天保の改革」は民衆などに「自分たちの生活が悪いのは、自分たちが無駄遣いなんかをするから悪いんだ。だから、自分でどうにかしろ!政治のせいにするな!」っていうようなスタンスだったんです。だから、奉行所もこう言って大塩平八郎の言うことなんかに耳を貸さなかったんですね。

利益を目先に米を買い占め、それを売る「豪商」、今の世情に大塩平八郎の怒りはついに頂点に達しました。そこで先ほど言ったとおり、彼はすべての著書を売り、民衆にお金を分け与え、そして家族や知人とも縁を断ち、すべてを覚悟して「決起」に望んだというわけです。これが、「大塩平八郎の乱」です。

しかしこの計画は奉行所のほうに未然に発覚していたために、わずか半日でつぶされるということになったのです・・・彼は諦めて探索方に囲まれた中で自害をしました。

でも、大塩平八郎の意思を継ぐものはたくさんいました。それを「大塩残党」とか言ったりするのですが、その中でも有名なのは「生田万」という人物です。彼もまた、大塩平八郎の意志を継ぎ、「生田万の乱」というのを起こします。

さて、ここからがおそらくどの教科書にも載っていない部分です。その後、幕府はこの混乱をどうにかしなければ!と思い、「豊作祈願」のために儀式を行うことにしました。ですが儀式にも大量のお金が必要で、今のご時世に幕府にそんな余裕はない。そこで幕府は「朝廷」に費用を求めました。これがいけなかったんです。今まで幕府と朝廷の間には、お互いのやることに口出しはしないというような暗黙の了解みたいなものがあったのですが・・・幕府が「朝廷」に費用を借りようとする、ということでそのルールが少し崩れ始めていくことになるのです。そして、その影響はあのペリー来航の際に、欧米諸国と条約を結ぶのに、朝廷の許可を得ようとまでするようになり、幕府と朝廷の間にそのような均衡がなくなることになります。そして、それが影響して公武合体論、尊王論、そして・・・倒幕へと歴史は足を進めることになるのです。

というようなことなのですが、分かったでしょうか?

まぁ、ここまで中学のレベルで知る必要はありませんし、おそらく高校にいってもここまで詳しくはやらないと思います。こんな感じなんだよーっていうのを「なるほどー」っておもって聞いてくれればいいです。

こんにちは。多分、中学の歴史は原因とその影響まではやらないんですよね?
高校のレベルになったら、日本史Bという科目でちゃんと勉強します。
なので、今日は僕が簡単な言葉で解説してみようと思います。
下の方、ここは誰かをけなす場所ではないですよ。そう思うなら、書き込みなんてしなければいいでしょ?

さて、下の方のいうことなんてほっておいて・・・

大塩平八郎の時代は、水野忠邦が行っていたいわゆる「天保の改革」の時代でした。この時代は前の時代の「寛政の改革」やそれよりもっと前の「享保の...続きを読む

Q江戸時代の税金について

江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか?

農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q天保の飢饉

江戸時代に起こった天保の飢饉では侍は餓死者が出なかったということですが本当でしょうか?
それと天保の飢饉が起こる前に天明の飢饉とかいろいろな飢饉が起こっているんですが、それの経験を活かして対策などはたてられなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

相馬藩でも領主が自分の家宝や城の庭木まで売って金を作って大阪から米を買って配り、天明以来の貯蓄が皆無になったとあります。藩内に餓死者は一人もでなかったそうです。

二宮尊徳は天保4年の凶作のあと、天明の飢饉と同様に再度の飢饉があると予知して稗を大量に作らせて備蓄し、天保7年の飢饉では平年よりゆたかに暮らさせ、他の諸藩にまで救済の手を差し伸べました。

この時大阪では大塩平八郎が乱を起したのは、あるところにはある、つまり流通のまずさが多くの餓死者を生んだということを意味しています。

ということで、ふだん蓄えのある侍は餓死しなかった。1年の蓄えも無い貧民が餓死したということになります。

QWord 文字を打つと直後の文字が消えていく

いつもお世話になっています。
Word2000を使っているものです。
ある文書を修正しているのですが,文章中に字を打ち込むと後ろの字が消えてしまいます。
分かりにくいですが,
「これを修正します。」
という文章の「これを」と「修正します。」の間に「これから」という単語を入れたときに,その場所にカーソルを合わせて「これから」と打つと,
「これをこれからす。」
となってしまいます。
他の文書では平気です。
何か解決する方法があれば教えて下さい。

Aベストアンサー

入力モードが「挿入」(普通の入力)から、「上書き」になってしまっているのだと思われます。
キーボードに[Insert]というキーがあると思いますので、1度押してみてください。

Q江戸時代のような飢饉が起こらないのは偶然?

昔は天候の悪化とかで飢饉、餓死者がでる...というようなことを歴史の時間に学びましたが、今これが起こらないのは偶然ですか?

歴史マンガを読んでいてふと思いました。なぜ?
少なくとも私が生まれてからはタイ米騒動以来、食べ物に困ったなんていう記憶は全くございません。。。

Aベストアンサー

江戸時代の飢饉には、寒冷気候・農業技術の未発達以外にも、経済問題が大きく関わっています。
当時の経済は、国家的規模での流通は存在しましたが、国家としての経済政策は持ち合わせていませんでした。
各藩の独自の政策により、米中心の経済運営が行われていたため、歳出を図るために当年の予測収穫量により、年貢米の先物取引が行われるようになりました。早い話、当年の予測収穫量を抵当に入れる形で借金財政が行われ、その利息が一層藩財政を苦しくしました。農民は搾り取られ尽くしても尚絞られる苦境に置かれていました。そうした中での収穫減は、まさに庶民を直撃したのです。
生産地では食糧不足に苦しむ反面、江戸や大坂には米が集中し、大量の米が酒の醸造に回されています。『江戸っ子は宵越しの金は持たねー』などと粋がっていたのは、米中心の藩財政の失敗が最大要因です。
現代は経済の基本が米を離れ、鉱工業や商業、金融に依存するようになって居ます。
その代わり、国の経済運営は政府に一任され(国会の承認は必要ですが、事実上は与党の思いのまま)、大企業が自らの利益を図るために深く介入しています。だから国債発行高が急増し、国民は生まれながらにして借金を背負う羽目になりました。
現代型の飢饉が、非正規雇用の拡大という形で襲い掛かってきています。

江戸時代の飢饉には、寒冷気候・農業技術の未発達以外にも、経済問題が大きく関わっています。
当時の経済は、国家的規模での流通は存在しましたが、国家としての経済政策は持ち合わせていませんでした。
各藩の独自の政策により、米中心の経済運営が行われていたため、歳出を図るために当年の予測収穫量により、年貢米の先物取引が行われるようになりました。早い話、当年の予測収穫量を抵当に入れる形で借金財政が行われ、その利息が一層藩財政を苦しくしました。農民は搾り取られ尽くしても尚絞られる苦境に置...続きを読む


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