仏教では、在家信者と出家信者がおりますが、出家とは、世俗を離れて家庭生活も捨てて仏門に入ることと理解しております。

さて、震災にあって荒廃した町や村を復興することは世俗のことでないのでしょうか?

私は、震災復興構想は世俗であるべきだと思うし、世俗の事は在家信者に任しておいて、出家信者は仏門の修行に専念してもらいたいと考えるのですが、みなさんはどう考えますか?

出家しても、世俗の事に多いに関与すべきだ。
出家したら、在家信者とは違うので、世俗の事に時間を使わず修行に専念するべきだ。

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A 回答 (97件中1~10件)

 「べきだ。

」との末文からドイツ語の“Sollen”のことを想起しました(他の方々の回答を読まずに回答しているので、既に答がでているのでしたらごめんなさい)。と同時に芥川の『杜子春』の結文にある一語を思い出しました。仙人である鉄冠子が杜子春に様々な試練を課す、というあの話です。「何があっても言葉を発してはならぬ」との命に対し杜子春は耐えますが、最後に最大の試練が待ち受けていて遂に言葉を発してしまう。けれども鉄冠子は彼を許す。そして一言「もしあの時お前が声を出さなかったら、お前を殺していた」との言葉を遺して物語は終わる(オリジナルの杜子春伝とは異なる結末ですが)。
 この時の仙人の言葉がsollenと同じではないか、と僕は思うのです。杜子春という若者の本来の姿、それは世俗に生きる人間であり、仙術修行を経て不老中寿の存在となった仙人ではない。街角に佇んでいた若者がすべき或いは彼にとって必要なことは何か?を考えてみた時、僕なりの答が見つかったような気がします。
 震災復興構想のメンバーに僧籍を持つ人が1人、そして自称「哲学者」の特別顧問が1人いますが、少なくとも僕は彼らに復興構想会議には加わるべきではないと考えます。「復興」の内容やグランドデザインとしてのアイデアを具体的なテーブルに乗せることのできるのは医療行政のスペシャリストや、都市計画を専門とする土木工学や建築工学のスペシャリストであり、それを具体的に指示できるのは官僚や官僚OBだけでしょう。
 出家した者のみができること或いは出家した者が世俗から委託されたモノは何か、を問うならば、彼らもスペシャリストであるのだからそれは自らの職掌を全うするだけとしか言い様はないと思われます。
 奈良時代には行基のような私度の僧もいましたが、彼の事業はやがて政治の仕事として大規模な造営事業の形で移管していきました。もちろんその背景には「国家に認定されていない僧の下に多勢の人間が集まることは好ましいモノではない」との政治的判断が働いた可能性も無いわけではありませんが、僧としての彼の仕事からみれば灌漑用水を掘ることなどは本来の枠外であったはずです。厳しい言葉で言うならば、仕事を果たしていない以上は僧ではない、と見られてもおかしくはないでしょう。仏門に帰依する、山門の中の世界で生活することは山門より外の世界との縁を絶ち切ることに等しい、と道元は敢えて越前に居を移した経緯もあります。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

仙術の喩え話と同様、出家すること自体、極めて非人間的なことだと思います。
親を捨て、妻をめとらずに、俗世間の一切を割愛して修行に没頭するなんてのは、極めて非人間的なことです。

そこまで非人間的な選択をしてでも、悟りを開きたい、今生のうちに悟りの境地に至りたいと言う一心で出家という大英断をされるわけです。

ですから、俗世間の復興構想などにかまけることなく初心貫徹して欲しいですね。

お礼日時:2011/05/04 01:09

>つい最近までは、出家らしい出家が居たんですね。

かっこ良いですね。

アメリカにいて最近プロジェクション(投影)て言葉を人間の行動を分析するときに使うってことを知ったんだ。要するに、何かの現象を論じるときに、自分ならどうするかと言うことを無意識に考えて、それで人のことを判断するって言うのをプロジェクションて言っているようだ。例えば、落とし物や忘れ物をネコババしてしまう人間は、他の人も当然そう行動するって決めつけているような現象だ。

別に悪い意味ばかりにこの言葉は使われているわけではないと思う。木造米虫はきっとあんたが出家したら、こんな生臭坊主のような行動は採らんだろうとの確信があるんだろうね。だから、その投影で上の坊さんをかっこ良いって言っているんだね。

あたしも、かっこ良いと思う。

あたしゃこの回答が回答順で100に一番近い素数になっていると思ったんだが、途中で一人抜けやがって、素数だかなんだか判んなくなっちまった。んで、100や素数には特別な意味がないと考えることに決めた。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

プロジェクションですか。またひとつ日本で英語汚染がすすみそうですね。(笑)

この欄を借りて、回答を下さったみなさんにお礼申し上げます。
出家の坊主が娑婆の政治に関与することに異議なしとお考えの方が多いことが判りました。
同時に、少数意見ながら、出家の意義を問うた方もいらして、勉強になりました。

そして、私自身が原理主義的なところがあるんだということも自覚できました。
ここがイスラムの国だったら出世しかもしれない(笑)。

お礼日時:2011/05/24 12:16

きっと出家した者が悟りに至ると、出家時点での精神とは別の境地になって、出家の初心は脱がれて消え、出家している・していないの分別がなくなり、家に帰ってもいいかという気持ちになりそう。

一生ずっと出家者な人は、いつまでも出家や修行に執着している、あまり仏教に向いていない人というか、逆にそういう執着の強い人こそ仏道修行に向いているのかな…。100。
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この回答へのお礼

有難うございます。

お礼日時:2011/08/14 01:50

江戸時代の震災の時にも、僧侶が炊き出しを行なっていたそうです。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6741493.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

昔は坊主が自らの肉体を使って村人に奉仕することがあったのですね。
今も肉体を使って被災者に奉仕活動する坊主もいるかもしれませんね。

お礼日時:2011/05/21 09:56

 明治から大正にかけて活動された“あるお坊さん”は悟りの世界に入られたらしく現代のお経ともいうべき「光明体系」なるものを著わしました。


 そのお坊さんの伝記「日本の光」(田中木叉著)に出家者の覚悟のような記述があるので抜粋し紹介してみます。

   黒髪は剃り落とされた。一生愛欲のきづなと共に。
   黒衣は纏(まと)はれた、一路涅槃の旅のいでたちに。
   新発意(しんぼっち)「弁栄」(べんねい)沙弥。

   姿を新たにし、心を新たにし、前途険しき佛祖の跡に、勇み勇んで踏み出した。
   無上道心に引きしまった新しい草鞋(わらじ)を踏みしめつゝ、
   木枯らしすさぶ鷲の谷の手賀の浦べに暇(いとま)を告げる。

   師は一世に道譽(どうよ)高き淨門の碩学《釈尊》。弟子は古今に稀な法の器《弁栄沙弥》。
   野末遙かに消えて行く法服気高き影二つ。
   小金が原に夕日が映えてゐる。

 木造さんが云う処の“出家者”の真の姿を見る思いがします。
 振り返って日本の社会に根付いたお寺なるものの社会活動は、真の出家者とは切り離して考えざるを得ないように思います。

 禁煙タクシーだったんでしょうか。止めたタクシーの前で運転手と共に煙草を吸っている“おぼうさん”を見かけたことがあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

つい最近までは、出家らしい出家が居たんですね。かっこ良いですね(笑)。

現代の日本では、坊主は単なる職業の一つになってしまったのかもしれませんね。

お礼日時:2011/05/21 09:52

zakky74でございます。



主語が「出家の坊主」となるには前提条件があるのですが、Mokuzo100nennさんはその前提条件が何なのかを分かった状態でその提案をされているのでしょうか?

僕にはそうは思えませんので、その前提条件が整う事を確認してからMokuzo100nennさんの提案に乗りたいと思っています。もし前提条件が整っているとMokuzo100nennさんがお思いでしたら、何がどの様に整っているのかを仰って頂ければそれを僕が確認出来ますのでお伝え頂ければと思います。

しかし重要な事は、Mokuzo100nennさんの中で疑問が起きているという事ですので、僕にとっての対象はMokuzo100nennさんの意識空間であり、Mokuzo100nennさんにとっての対象も「出家の坊主」ではなく、ご自身の意識空間だと思いますよ。

ご自身の意識空間の整理なくして、それ以外となる対象について整理する事は不可能です。その意味でMokuzo100nennさん、若しくはMokuzo100nennさんの意識空間が僕にとっての対象となり、Mokuzo100nennさんの疑問に対する答ではないかと思いますが如何ですか?

>しかし、「Mokuzo100nennさん」を主語にした回答ではなくて、「出家の坊主」を主語にして回答を見てみたいもんですなぁ。

Mokuzo100nennさんが、疑問を抱えている訳なんです。

これは、Mokuzo100nennさんの意識空間の中で繋がらない事があるという事ですね。Mokuzo100nennさんが向き合うべき相手は、実は「出家の坊主」ではなく、ご自身だと思います。

ご自身の中で繋がっていないのは、既に自分が出している答に誤りがあるか固定観念に囚われ、固定観点に束縛されているからでございますね。

人間の判断基準には5つの問題性がございます。

1.誰もが皆、判断基準を持っている
2.一人ひとりの判断基準は全部バラバラ
3.かと言って一つにさせたらもっと問題
4.人間の判断基準は不完全
5.不完全なのに完全だと無意識で思っている

これが、Mokuzo100nennさんにも起きているんですね。

それで、そんな判断基準から出発して疑問が晴れないのでございます。この判断基準の問題性を横に置いといたまま、他のどんなことにも向き合う事は出来ないですね。他のどんな事も、実は自分の判断基準だからです。

実は自分の判断基準としか出会っていません。
Mokuzo100nennさんはその事に気付いていないのではないでしょうか?

Mokuzo100nennさんが、「出家の坊主」に対してみているのはMokuzo100nennさんの判断基準でございますから、Mokuzo100nennさんの判断基準に対して問いかける質問をしたのでございます。

それともMokuzo100nennさんの判断基準を全く関係なしにして、出家の坊主や復興構想、仏教や在家信者や出家信者や修行について語って欲しいとの要望でございましょうか?
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この回答へのお礼

「出家の坊主」を主語にした回答はできない由、了解です。

お礼日時:2011/05/21 09:44

受け入れるべきと思われやすい当たり前の現実を疑うと、


そこから逆に元の価値の見直しが出来る、という教えなのではないか、
という印象を受けましたので、確かに現実離れは望ましくありませんが、
学びの為に、勝手な私見を申します。

そもそも、宗教施設で生まれ育った方々には、
その家を出ての出家が難しいのではないでしょうか。

果たして本来の意味の出家ならインフラを使ってもよろしいのか否か…。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かに、肉を食い、セックスもしている寺(の住居)で育った子供は、それが出家の世界であるとは理解できないでしょうね。普通のファミリービジネスとしか思えなくなるのでしょうか。

お礼日時:2011/05/21 09:49

 ANo.91です。

前回の書き込み後、頭の中に浮かんだ言葉がありました「施行(せぎょう)」です。
確かbaka-hage様が引用されていた行基と同時代に光明皇后の「施薬院」事業がありました。現在の法華寺には日本最古のサウナとしてその遺構も保存されています。この時に慈善事業を行った藤三娘(光明皇后)は出家していません。がしかしこの人物が行った行為は行基と同じく社会的事業として理解することもできると僕は思います。
 凡下の輩として社会を生きている僕にとって、施行の意味を考えてみるならば施業(業を施す)は行為を行うことに等しいとの理解もできます。ただそれを行う主体が出家者であるか在家者であるかにより、その認識が異なる、その場合の基準も「仏教という信仰における規範」によって判断されるという点で制限的な側面を伴うと考えます。
 信仰心が殊更に厚くはなく、そうかといって「目の前にいる人の力になりたい」と感じ、自らが出来る最大限の行動として、本堂や教会を避難場所に開放したり炊きだしを行っていた宗教者の姿を見ると、彼らが行動を起こした基準が戒律などではなくヒューマニズムとしての個人的な価値観に基づいての判断からだった、と僕は素朴に理解しています。
 ただ例の復興会議に出家の者が呼ばれたことの意味を彼自身が理解していたか否かについては今でも疑問符が付きます。また彼にとってのリアリティをその場でどの様に説明することができるかも疑問です。
 不勉強でまことに申し訳ありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>ヒューマニズムとしての個人的な価値観に基づいての判断からだった、、

良い点をご指摘いただきました。
多くの回答者が「ヒューマニズムに基づく行為に関してなんの疑問があろうか?」という観点での回答でしたが、この疑問を敢えて提起し、回答を捻出することが哲学(の一部)だと思います。

とくに社会福祉事業が未整備だった時代の例を挙げて、現代の問題を考えるのではなく、政治や地方自治、社会福祉事業、NPOなどの充実した現代において出家坊主の行動が何を意味するのかを考えてみたいと思いました。

お礼日時:2011/05/16 10:06

#94のお若いの。

あんたみたいな元気の良いのを年寄りは待っちょるんだ。その調子でどんどんやって、血の涙を流しながら石に齧り付きながら哲学やって下さいね。そしたら、何かが出て来るかもしれん。答えは何が何でも出してね。出せるか出せないかではなくて、出して下さいね。期待しているよ。
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この回答へのお礼

石に齧り付いてでも勉強するようには思えんがなぁ。

親か誰かが授業料出してくれる間だけ大学にいて、そのうち哲学なんて忘れてしまい、生活の安定が最優先で公務員になってしまうようなタイプかと思う。

先生が「何が何でも(答えを)出してね」って仰るときには、「こいつは答えに辿りつかんじゃろう」という確信に似たものをお持ちの場合でしょう? 最近、わかってきましたよ。

お礼日時:2011/05/16 09:58

( 'Θ')ノ( 'Θ')ノ( 'Θ')ノオハオハオハ♪



何そのカテゴライズ??一世代前に流行った住み分けってヤツ??柱| ̄m ̄)マジ受ける

質問者こそ老け込むのやめや。そんなんもう時代遅れえ~(*~ρ~)ノ(ToT)

政治・経済・科学・物理学・数学・歴史・宗教みんな哲学あるやん。住み分けを超えた橋渡しが出来んのが哲学やん!まじ行基^(ノ゜ー゜)ノ☆パチパチ☆ヾ(゜ー゜ヾ)^

オイラが専門の心の哲学やて脳科学とかジッケン心理学といまや区別つかんし。じゃけんど、両方の用語が違うんで困るんは板ばさみのオイラたちだけかも。。。。( ´⊿`)y-~~ケッ

それとも何や?歴史文献学から攻められるとなんかまずいん??質問者の哲学では応戦できんと??それってどんな哲学やねんヘ(..、ヘ)☆\(゜ロ゜ )ナンデヤネン!

ヤツみたいなのも、文献学に依存しすぎやって言われよるんσ゜ロ゜)σあっちも今や時代遅れ!

けんど、今でも日本の主流はそっちやけど。。。

んだば、オイラの意見。まったく問題なかd(>_< )

トーシローは知らんやろうが、協力行動実験てのがあってなチンパンジーとボノボと人間比べんねん。そしたらな人間が一番困ってる人見ると協力したいねんファイトーー!( ゜ロ゜)乂(゜ロ゜ )イッパーーツ!!

そう出来とるんやからシャーナイな。

じゃな。=========”└|∵|┐
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この回答へのお礼

あんたもチャンと哲学勉強したら他人の批評だけじゃなくて自分の考えを持つことができるようになるかもしれん。諦めずに勉強してみなさい。

お礼日時:2011/05/16 09:53

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Q奇跡のレッスン

正月早々、良いテレビ番組を見つけました。「奇跡のレッスン」というタイトルで、一流のスペシャリストが子供達を一週間教育するというコーチングの番組です。
私が見たのはバスケットボールの回でして、「運命は自分でコントロールするんだ」という様な言葉がコーチの口から出ていました。カッコええなぁ、、俺もこんなコーチ受けたかったなぁ、などと思いながら見ました。自信のなかった子供達の表情が明るく変わって行くのが印象的でした。他の回の紹介では、「自分で見つけた答えは一生忘れない」→(子供が自分で答えを見つけるのを待つ)とか、「出る杭は下から押し上げる」と言うのもありました。
当方、いつもこのサイトで回答者の皆様にお声かけていただき、「レッスン」を受けている身ではありますが、あらためて尋ねたいと思います。

良いコーチ、先生に巡り会えた方もそうで無い方もいると思いますが、自分が諭された言葉や、自分なら子供達にこう語る、という言葉を選んで、ご回答頂けると嬉しいです。

Aベストアンサー

とても沢山あったはずなのです。その時、その環境、その心境に応じた言葉だからこそ、心の琴戦に響いたといった記憶のみがあります。多くは今から思えば、陳腐な名言とか諺とかです。

たとえば、高校の国語のテキストにて、大岡昇平の「野火」の冒頭だったかに、「たとひわれ死の影の谷を歩むとも(ダビデ、詩篇23:4)」が記載されていて、音読時に、いたく感銘を受けたことを覚えています。この言葉が残っているのは、私のプロフィールを含め、書き残しているからに他なりません。

ポジティブな性格とネガティブな性格と、記憶に関連する研究が多くなされているようですが、比較的、ネガティブな言葉が多く記憶に残っていて、ポジティブに影響を受けた言葉の記憶が少ないのは、多くのポジティブな記憶以上に、ネガティブな記憶が衝撃的な事柄だったからかもしれません。
また、「大人」という年齢に達してから随分経ちますが、こちらが意図して子供達にかける言葉の多くは「???」といったレベルでスルーされることが多いのも事実です。逆に、それほど意図していない状況で、思わずかけた言葉が記憶に残っていると言われたこともあります。

・・・と、古い記録を探っていたら、下記のような記述(日記の断片)がでてきました。非常に青臭いところがありますが「ゆとり教育前」の、いわゆる受験戦争時代をかいくぐって生きていた時代の言葉達です。回答とは程遠い言葉達ですが、何がしかの参考になるかもしれないので載せておきます(ネット上、未公開のものでした)。

当時、ネガティブな記憶が大量に蓄積された脳裏に、一言のポジティブな滴下は、どのような言葉であれ、砂漠のオアシスのように感じられたのかもしれません。
それゆえ、すぐに吸収され、跡形もなく、すぐに蒸発してしまったのかもしれません。
いずれにしても記憶の彼方です。直接お役に立てないで申し訳ございません。

===>>> 以下、個人的な日記からの転記
971208
大人になるとは、純粋な心を失うことであると、誰かが言ったように記憶している。
全てを理想的に解決する手だてを失い、妥協に基づく協調がなされるとき、人は解決の糸口として、互いに受け容れ合うことを学ぶ。
あらゆる物事を、順次、俯瞰的に受け容れざるを得ないとき、人は、いわゆる大人になってゆく。
失うべくして失っていく、個人の過去の遺産とともに、心の偽足も引きちぎられ、萎縮していく。
果たして、いわゆる大人になったものが、心の底から他人に同情などするであろうか。
現実の酷さを隠して、偽りを知りつつ大人は、純粋であろうはずの子供に、「人類は自由、平等、博愛」などと、教え続ける。生存競争のなんたるかを教えようともせず、自然に学ぶであろうことを期待しながら。
あらゆる生活共同体単位で、様々な生存競争が繰り広げられる。それは、緩やかな締め付けが始まったときから、急激に沸騰し始める。しわ寄せは弱者に向かうが、表向き救済されることが暗黙裏に認められている集団に対しては、大声を上げるものは少ない。
様々な知能レベルの策略が、マス・メディアを搾取する。きれい事は大衆受けし、真相は忌み嫌われる。大衆による合意が全てであり、それ以外の何ものも正義足り得ない。神は、その神を信ずる大衆による正義を立法化する手段に過ぎず、信仰の拠り所は教義に存在する。いかなる試みがなされようとも、個々の人の心に基づいて、あらゆることが理解され、感じとられる以上、神は人の心すら越えることができずにいる。形而上学的な全ては、思考の断片すら存在しない場合、全く存在しない。人の理解を超えたものを、人が理解できるわけが無く、人の理解の範囲でのみ、そのものをとらえることが出来るだけである。

980512
子供は、自らなし得る限りの力を使って精一杯生きているというのに、大人は当事者足り得ず、彼らが未だ経験することのない、未来の時間に話をすり替えてしまう。
底辺をレベルアップする事で均質化しつつある義務教育は、ゆとりを求めようとしても不可能なカリキュラムを子供たちに押しつけることとなる。
新たな技術、情報があふれ返る時代に、生きるために、過去に得られた知識以上に学習しなければならない彼らにとって、限られた時間のなかでは、もはや一時の休息すら、落ちこぼれの原因と化す。
自己の経験談:「人生について、将来について、悩む時間すら惜しいと考える時期があった」

980814
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真理(と思われる)の言葉が,頭をかすめ続けるのに,いざ,言葉として残そうとすると,あっという間に消え去ってしまう。いつものごとくに。
おそらく,書き残す必要がないか,書き残すにはまだ未熟な思考なのだろう。
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とても沢山あったはずなのです。その時、その環境、その心境に応じた言葉だからこそ、心の琴戦に響いたといった記憶のみがあります。多くは今から思えば、陳腐な名言とか諺とかです。

たとえば、高校の国語のテキストにて、大岡昇平の「野火」の冒頭だったかに、「たとひわれ死の影の谷を歩むとも(ダビデ、詩篇23:4)」が記載されていて、音読時に、いたく感銘を受けたことを覚えています。この言葉が残っているのは、私のプロフィールを含め、書き残しているからに他なりません。

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