大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

すいません、もう一つ。

幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

私はまるで歴史ド素人なので恥ずかしい質問ですが、宜しくお願いします。

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A 回答 (9件)

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?



イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地支配が容易になる、という目論見でした。この方法は成功しました。ザヴィエルらは、日本においても布教を行うべく1549年に来日し、布教を始めました。

ザヴィエルらが日本へ来て知ったのは、ほかのアジア諸国の人民に比べて日本の人民は教養が高く、さらに戦が強いことでした。

1467年に始まった応仁の乱以後、日本国内は乱れに乱れ、内乱時代(戦国時代)でした。戦国の時代は、武器の発達が進みます。さらに武士たちの武闘能力も向上し、剣術や砲術の力が向上します。戦国時代の日本は、世界で最強の軍事大国だったという学者もいます。

そうした事情を知ったザヴィエルらキリスト教関係者が、本国の王へ「日本を植民地にするのは非常に困難です」といった報告をしたものと思われます。

織田信長はキリスト教を公認しましたが、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、キリスト教関係者を国外追放しました。イスパニア王フェリペ二世の日本征服の野望を知ったからです。

徳川政権もキリスト教を禁止しました。その上、鎖国しました。西洋人は日本を征服するチャンスを失ったのです。


>幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

日本も植民地にされ、列強によって分割される危険がありました。それを避けられたのは、

(1)人民の教養が高かったから。西洋の外交官は、江戸の町の本屋の店頭で、女や子供が立ち読みするのを見て、日本は植民地にすることはできないとあきらめました。多くの人が文章を読めたのです。(日本よりも西洋の方が文盲率が高かった。)

(1)武士階級が支配していたからです。清(中国)は科挙に合格した文官が支配する国でした。西洋列強の手が隣国に及んできても危険を感じませんでした。しかし日本の支配層は武官(武士)ですから、清が英国との戦争で負けて香港を割譲したことを知り、さっそく日本もやばいぞと危機感を抱きました。武士の仕事は戦争ですから、国の危機には敏感なのです。

(2)徳川幕府の外交が巧みだったからです。大政奉還と王政復古の直後の慶応3年12月16日(1868年1月10日)、15代将軍徳川慶喜が大坂城に6カ国の公使を招いて接見し、「朝廷は王政復古を宣言したが、朝廷側に内部事情があり、依然として徳川幕府が主権者である」と説明し、政権承認の確認を求め、さらに内政不干渉を約束させました。欧米諸国の目にも、この段階では、三職をトップとする新政府の実力は甚だ脆弱であり、国際社会の承認に値する政権とは見えなかったはずです。しかし徳川慶喜が各国に内政不干渉の約束を取り付けた結果、その後の内戦(戊辰戦争)では外国の介入を招きませんでした。慶喜の側近に国際法を理解していた人材が豊富だったからこその成果と言えます。徳川幕府の大手柄と思います。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました。大いに参考になりました。ただ、ここで疑問が1つ。織田信長の天下が続いてキリスト教が日本の公認宗教として広く普及していたら、ポルトガル・スペインの思惑通り、植民地化の足掛かりとされていたでしょうか…。

お礼日時:2011/04/24 15:51

#8です。



ロシア革命と日露戦争についてコメントされていましたので補足しておきます。有名な話ですけどね。
日露戦争が避けられなくなったとき、日本政府は明石大佐という人をロシアに送り込みます。明石大佐の任務は、レーニンに活動資金を渡すなどして革命運動を後押しし、ロシア政府を揺さぶることによって間接的に日露戦争を有利にしようとしました。いわゆる秘密工作ってやつです。
結果的に明石大佐の秘密工作は日露戦争に影響を与えました。アメリカで日露が停戦交渉になったとき、実は日本はもう国力をほぼ使い果たしていました。長期戦になればロシアが有利になったのです。しかし、国内事情が不安定になっていたロシア政府も戦争の長期化は望まず、停戦交渉となったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。重ねて勉強になりました。歴史は表層だけ見ていてはいけないと反省しました。また機会があったら御教示よろしくお願いします。

お礼日時:2011/04/26 18:19

あまり指摘されないのですが、実は外交情勢が(全く日本が関わらないところで)「たまたま」日本に有利になっていったという側面も見逃せないと思います。



戦国時代末期は、スペインと特にポルトガルが没落しオランダが台頭する時期でした。スペインやポルトガルがあわよくば日本を植民地に、とは思っていたでしょうがちょうど江戸幕府が開かれる辺りはオランダの全盛期に重なる時期なので、なんだかんだで実行する能力はなかったと思います。
鎖国をした江戸幕府も、オランダとは長崎の出島で繋がっていました。幕府を開いた当時は東アジアでいちばん元気があった欧州列強はオランダだったのですから、なんだかんだいっても賢明な判断をしていたということですね。
あとは現実問題として、日本や朝鮮のような極東地域は彼らからすると「辺境中の辺境」で、わざわざ大軍を送って植民地にするほどでもない、という判断もあったと思います。これは欧米で使われる太平洋で切られている地図を見るとなんとなく実感できると思います。その地図から見ると、日本て本当に端っこです。

そして幕末ですが、「戦艦百隻で攻め込んだるわ」「白い旗をプレゼントしたる。戦争になったらな、白旗が降参の印や。いざ戦争になったら必要やろうから事前に渡しといたる」と恫喝して開国させたペリーのアメリカはその後南北戦争という国内大戦争となります。当然、日本とか外国とかかまっている場合ではなくなったのでアメリカは日本植民地レースから脱落します。
そしてその他の欧州列強ですが、ちょうど同じ時期にクリミア戦争という大戦争を欧州は欧州でしています。クリミア戦争といえばナイチンゲールが活躍したことで有名ですが、しかし世界史ではかなり大きな戦争なのに日本では今一つマイナーです。マイナーなのには理由があって、同じ時期が幕末だからです。
欧州は欧州で戦争があって遠いアジアで植民地争奪戦をやっている場合ではなかったのです。
そして南北戦争が終わって大量の中古兵器が市場に流れ込んでいたちょうどその頃、極東の日本が「武器をくれ。西洋式の武器を売ってくれ」と大量の注文が舞い込むことになりました。市場でだぶついていた武器は欧州では旧式になったものですが、日本に持っていくとアラ不思議、最新式武器としてボッタクリ値段でも飛ぶように売れるので、ここは武力で植民地にするより武器売ってひと儲けしたほうがいいわいとなったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。とてもいい勉強になりました。思わぬ国際情勢の展開に救われたり、たまたま地勢学的に見て有利だった面が強かったわけですね?
しかし日本て何か「持ってる」のかなと思います。元寇の時の暴風雨とか日露戦争の時のロシア革命とか、戦後復興の時の朝鮮特需とか、そして幕末も戦国時代も、いろんな幸運があったわけですね。不思議な国だなと思いました。

お礼日時:2011/04/25 06:25

No.6です。




>織田信長の天下が続いてキリスト教が日本の公認宗教として広く普及 していたら、ポルトガル・スペインの思惑通り、植民地化の足掛かりとされてい たでしょうか…。

信長もいずれ、ポルトガルまたはスペインの野望に気付いたと思います。そのときは政策を転換してキリスト教を禁止したでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。重ねて勉強になりました。

お礼日時:2011/04/24 23:47

 大航海時代、日本は、船の建造技術ではヨーロッパ諸国に劣っていましたが、その他の工業技術については、同等レベルで、経済的生産力では、ヨーロッパ諸国を上回っていました。


 
 当時の経済的生産力の基本である人口は、日本が2000万人以上であるのに対して、ポルトガルはその10分の1以下で、イギリス・スペイン・フランスといった諸国の数倍の人口である上に、戦国時代で武器生産が盛んであり、日本1国の鉄砲の保有量は、ヨーロッパすべての国の鉄砲保有量よりも多かったと見られています。

 鉄の生産が全く行われていなかった、マヤ・インカ帝国をスペインが滅ぼして、広大な領土を獲得したという特殊なケースはありますが、鉄の生産がおこなわれていた地域を、広くスペイン・ポルトガルが占領したというようなことは、歴史上起こっていません。

 大航海時代から300年間、18世紀頃まで、旧大陸の欧米の植民地というものは、貿易拠点の港と港湾都市及びそれを守る砦という、領土からすれば点の支配でしかありません。
 17世紀末の世界の強国=清・ムガール帝国・オスマントルコであり、全て人口の多いアジアの国です。

 18世紀にヨーロッパでは産業革命が進み、人口の少ないヨーロッパの強国の生産力が、アジアの国を上回るようになり、この図式が崩れてくるようになりました。
 これ以降、ヨーロッパの植民地支配は、貿易拠点の点の支配から、地域経済を丸ごと支配する面の支配に変わっていきます。

 とはいっても、何万もの軍隊をヨーロッパからアジアに派遣して、広い面積を植民地化するという形での植民地化ではありません。
 インドや中国などの豊かな地域の地方政権の「内乱」に乗じて、軍需物資を供給し、その代金として地方政権の徴税権を得るような形の「経済支配」をおこなっていきます。

 幕末の日本は、当時世界でも飛び抜けて教育レベルが高く、このような欧米列強の植民地化の手法について理解している者も多くいました。
 徳川幕府15代将軍徳川慶喜は、幕府対西国雄藩連合という全面的内乱を回避し、『多額の負債を負い、国内が荒廃した新生日本』という、ヨーロッパ列強が植民地化するのに最適の環境を作らない幕引きを行いました。

 もし、幕末に徳川幕府が徹底抗戦していたら、日本はヨーロッパの植民地になっていた可能性大です。 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。大変勉強になりました。日本人の教育水準の高さと為政者の知恵が、外国支配を退けた面があったわけですね。ちょっと感動しました。

お礼日時:2011/04/24 15:39

日本が幕末に植民化されなかったのは、日本が千年近くに渡る幕府体制で本質的に軍事国家であり、シビリアンコントロールの国ではなかったからです。

その反対にシビリアンコントロールが千年以上に渡り徹底していた朝鮮は列強にあっという間に併呑されてしまいました。シビリアンコントロールの国は軍事の恐ろしさを体で理解していなかったからです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。なるほど、軍事国家だったという視点を忘れていました。勉強になりました。

お礼日時:2011/04/24 15:33

戦国時代の日本には10万挺ほど鉄砲があり、兵力数10万です。

関ヶ原で10万規模の戦争です。これに対してヨーロッパは1万とか2万程度の軍隊しか持っていません。フランス革命以降に10万規模の軍隊が登場するのです。

10万対1万!どちらが勝ちますか?


幕末ですが、大英帝国で10万の軍隊、当時の武士は40万です。浦賀だけで100門以上の洋式砲を備え、黒船来航の翌年には品川台場が建設されています。


不平等条約と言われますが、そもそもその内容は読んだ事がありますか?
当時の日本には真っ当な司法制度はなく、外国人に対して欧米基準の裁判が行われるか疑問でした。だから外国人犯罪者の裁判は領事によって行われるようにしたのです。スネルのような犯罪者が日本で出る(武器の密輸販売)とは想定していなかったのです。関税自主権は現在も無いです。それに関税率は普通です。当初は価格に関税がかけられていたのに対して改正されたのは重量に関税でした。これを元に戻すのが明治時代の外交交渉です。現在は価格に関税です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。人口は国力、という点を痛感させられました。関税の点については私の勉強不足だった事を反省しています。

お礼日時:2011/04/24 15:31

当時の世界の最先端はヨーロッパ周辺であり、各国が激しい競争をしていました。


そこから比較すると日本は僻地に過ぎず、冒険家が採算を度外視して何とか到達できる
レベルでしかありませんし、往復だけで相当なコストもかかる。そんな無駄遣いができる
余裕もなかったでしょう。

幕末については、利用価値が少なかったからに過ぎません。資源もないですし、
開国当時は、ヨーロッパと比較すると技術水準も相当遅れていました。
あんな離れ小島は無視して構わん、そういうノリでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。なるほど、植民地経営するにも採算が合わないということだったんですね。参考になりました。

お礼日時:2011/04/24 15:27

東アジアが植民地化されていったのは19世紀です。


戦国時代はまだ植民地化の波は東アジアには来ていません。

黒船来航の後植民地化の圧力が日本に強くかかるには、いささか時間がかかります。
幕末からしばらくは、アメリカは南北戦争、イギリスはボーア戦争で新たな植民地獲得どころではありません。
それにとなりに植民地にするのにもっとおいしい対象、中国がありました。
その間に日本は富国強兵を押し進めた訳です。
当事植民地にするには中国のほうが豊かで、また日本は武士と呼ばれる野蛮で精猛な陸兵が跋扈する厄介な国です。
艦砲でちょっと脅せば屈服する国ではなかったので、この時期は中国のほうがおいしかったわけです。

その後ロシアがシベリア鉄道をつくり、東方進出に乗り出しました。
この圧力を強く受けたのは、日本と中国利権を持つイギリスです。
日本はイギリスと同盟を結びイギリスの尖兵となることでさらなる富国強兵をおしすすめ、日露戦争に勝利することによりやっと列強の一角にのし上がりました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。歴史の流れが分かりやすい説明で大いに参考になりました。

お礼日時:2011/04/24 15:24

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従属・植民地化
これは、アフリカや中東で使う言葉
半植民地化
これは、中国に関して言う言葉

従属・植民地化 なり 半植民地化 という「やり方」とかがあったわけでなく、「現在のこの状態や、過去のある時点のああいった状態を、ひと言でまとめると、どうなるかね?」という事で作られるのが「歴史的言辞」となります。なので、教科書でさらっと書いてあるほど明確ではありません。

従属・植民地化をアフリカ・中東で使うのは、エジプトのようにトルコの宗主権を取り上げて保護国化したところもあれば、南アフリカのようにイギリス人植民者がけっこうあったところなど、諸々のレベルがあるのを、強引に一つにまとめて言っちゃっているからです。

中国の場合、イギリス領香港とかいう例外はありますが、基本的には、「不割譲条約」なり、鉄道施設権なり、完全には植民地になっていない状態をまとめて「半植民地」と言っています。
※ 不割譲条約とは、福建省に関しては、日本の合意なく、他国に領土を割譲するべからずとか、揚子江流域に関しては、イギリスに合意なく、他国に領土を割譲するべからずという、「植民地予約券」みたいな条約です。

従属・植民地化
これは、アフリカや中東で使う言葉
半植民地化
これは、中国に関して言う言葉

従属・植民地化 なり 半植民地化 という「やり方」とかがあったわけでなく、「現在のこの状態や、過去のある時点のああいった状態を、ひと言でまとめると、どうなるかね?」という事で作られるのが「歴史的言辞」となります。なので、教科書でさらっと書いてあるほど明確ではありません。

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