タイトルが変な風になってもうてすみません。

知りたいことは、タイトルどおり、自分の勝手な話で申し訳ないですが、インタかどっかで知ったことがあるんですが、昔、征夷大将軍に成るには、源氏の血を引いていなければ成れへんっちゅう事をどっかで聞いた事があるんです。ただ、其れはうろ覚え・聞いただけの事、なので確かではないんですけど・・・。

1192年(1185年?)に源頼朝によって初めて、鎌倉に幕府が開府された。せやから征夷大将軍は源氏の血を引いてへんと成れへん、そういうイメージが強いんです。

けんどもっと昔に遡れば、元々は今の北海道、即ち蝦夷を討伐っちゅうか、征伐?する為に設けらたもので、その最初の征夷大将軍には「坂上田村麻呂」が選ばれた。

つまり、別に源氏の血を引いてへんでも、なれたんちゃうかなぁ~・・・と、勝手な思い込みなんですが・・・

実際はどうやったんでしょうかね?

ホンマにそう言う決まり事があったんでしょうか?

是非、知ってる方、居られれば教えてください。

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A 回答 (7件)

そういう俗説が以前は、まことしやかに信じられていた時代もあったようです。


実際はそんなことはないようです。
恐らく幕府としての将軍は鎌倉の源氏、室町の足利氏が将軍になったため、そういう誤解がいつの頃か流布したのでしょう。徳川家が当時そう主張していたかどうかは知りませんが、源氏の血を引いているという系図をねつ造したとも言われています。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

という事は、悪まで逸れは昔に流れていた噂で実際はそんな事あらへんと言う事ですかね。

自分はその噂を聞いてずっとそうやと思っっとったんで、今聞いて成る程っちゅう感じです。

お礼日時:2011/04/26 11:12

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91% …
 坂上田村麻呂は源氏でしたか?
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この回答へのお礼

回答有難うございました。

坂上田村麻呂に関しては、大体皆さんが解るとおり、自分はそういう噂、又は話をどっかで聞きました。最初に幕府を開いたのは源頼朝。だから征夷大将軍は源氏の血を引いてなければなれへん。
けんど、翌々考えれば最初の征夷大将軍は別に源氏の祖でもなければ血縁関係でもなんでもない全くの他人の坂上田村麻呂と言う人が選ばれた。だから別に源氏の血を引いてなくても成れたんちゃうかと言う個人的な考えです。

お礼日時:2011/04/26 11:19

>昔、征夷大将軍は源氏の血を引いてないとなれない?



これは、鎌倉幕府・室町幕府と続いた将軍家の正統性を得たい為に、後世の各実力者が考えた政治的ショーなんですわ。

百姓でも、先祖は源氏すなわち鎌倉将軍家・室町将軍家と先祖が繋がっている。
だから、ワシでも将軍になっても良いやんか!
秀吉の考えですね。足利義昭と養子縁組までして源氏の血筋に拘っていました。
足利義昭から、拒否されましたがね。

家康にしても、先祖は乞食坊主ですが松平郷の有力者と婚姻関係を結んで松平家を乗っ取り。
家康の代になって、色々と公家・神官・僧侶の伝を頼って「源氏系統が絶えた徳川家」を発見!
徳川家康の誕生です。
が、家康は余程源氏に拘りがあったようですね。
足利尊氏の傍系である喜連川(古河公方)家に対しては、幕客として「国勝手」を認めています。
他の藩が、幕府から領地安堵の朱印状を貰う事で幕府配下になっています。
が、この喜連川藩には領地安殿朱印状はありません。あくまで、幕府の客分扱いです。
江戸屋敷も、各藩は幕府から与えられますが、喜連川藩は幕府の臣下でないので「自分で購入する必要」がありました。
歴代藩主を「御所さま」と、徳川幕府が呼んでいます。^^;
足利尊氏直系子孫である阿波公方家と、大きな違いですね。
こちらは、阿波蜂須賀家の家臣扱いでした。

では、信長は?
この時代、源氏も平家も同様な思想がありました。
平家と源氏が、交代で世を治めるという思想ですね。
「足利(源氏)家の次は、平家が収める番だ」との事で、信長は「僕ちゃんは、平家だ」と公言しています。
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おっと, #4 の「征荻」は大間違い. 草冠のない「征狄」です.

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本題については他の回答者の通りで, 特に #2 で言われるように鎌倉時代には藤原氏や皇族の「征夷大将軍」がいました. ただ, その時代にはすでに北条氏が執権・連署として実権を握っており, 征夷大将軍はその北条氏の実権の裏書にすぎず, 「長じて北条氏に対抗するようになると京に送り返す」というのがパターンとなっています.



余談ですが「征夷大将軍」は本来「(今でいう) 東北の太平洋側を制圧する」ための職です. 同じ東北でも日本海側は「征荻大将軍」.
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源氏しか将軍になれないというのは俗説です。


実際には鎌倉時代、藤原家や皇族が将軍になっています。
豊臣秀吉が百姓の子だったからなれなかったというのも違います。
秀吉は将軍よりも上の地位である関白を目指し、実現しただけです。
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天皇の血を引いてないとなれないのではないでしょうか。


秀吉は足軽だったためなれなかった。
家康は家系図を誤魔化した。
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Q織田信長は平氏?源氏?藤原氏?橘氏?忌部氏?

『尾張の織田家は元々は藤原氏、橘氏に連なるものであり、熱田神宮とも深いつながりがあったようです。
尾張の物流を司る津島神社の宮司家に連なる者であり、津島港を押さえていたため、尾張守護の斯波氏や尾張守護代の織田本家もうかつに手を出せない立場にあったようです。

尾張における海運の発祥は、日本武尊が東国遠征から帰ったあと婚姻すると約束した美夜受比売の兄、建稲種命。
この人が尾張水軍を率いてた人で、尾張氏。
藤原氏を中心とした物部連に連なる人です。
この美夜受比売がのちに日本武尊から預かった剣こそ、通称、「草薙の剣」と呼ばれる「天叢雲剣」です。
そして、その剣を収め、祀ったのが熱田神宮です。
今でも熱田神宮の奥には「天叢雲剣」が御神体としてあるらしい。
このように熱田神宮は常に、尾張の物流の根幹を握っていたようです。」

という内容を読み聞きしたのですが、本当に織田氏は藤原氏=熱田神宮に関係する家系なのでしょうか?
(信長が平氏を名乗ったのは知っています。)

Aベストアンサー

『織田系図』・『織田家譜』では平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とし、初めは近江国津田荘に、そして越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官へ養子となり織田氏を称したとあります。
 しかし、永正15年(1518)に守護代織田達勝が円福寺に出した禁制では「藤原達勝」とあり、信長も天文18年(1549)に出した禁札に「藤原信長」と署名しています。信長が平姓を名乗ったのはご承知の通り天下統一に向けて、源氏である足利家への抵抗からでしょう。そのため、平氏の落胤に結びつけた系図を作成したというのが妥当ですね。

 ですから織田氏は、藤原氏であり越前国丹生郡織田荘を本拠としていたというのが、通説となっています。ただ信長が途中から平と氏を変えたように、「織田は藤原氏だった」というよりも、「織田は藤原氏を名乗っていた」ぐらいに見るのが妥当ではないでしょうか。昔は地方ほど無姓の者は「藤原」を名乗って、ステータスとしていた時代もあったのですから。それが大量に藤原氏の流れを汲む一族が生まれる一因となります。

 また藤原だったから攻めなかったというのも、後世の後付の域を出ない内容でしょう。今目の前にいる肉親ですら平気に争っていた時代に、そんな大昔の氏族つながりがどれほど意味があったでしょう。

「氏神というものは複数存在するものなのでしょうか」
氏神が本来の“氏の祖神、祖先を祀った神社、あるいは神”という意味ではなく、郷土の産土神や有力神を氏族の守護神としたものという意味で使われているのであれば、複数存在してもおかしくはないでしょう。それ以前に藤原氏であれば氏神社は奈良の春日神社ですが、藤原といっても鎌足や不比等の流れを汲むものではなく、ステータスとして名乗っていた藤原であれば、そほど意識はしないでしょうね。

 尾張氏(おわりうじ)は天火明命を祖神とし、本宗家は天武天皇13年(684)に姓(かばね:氏とともに朝廷より賜る称号)を連(むらじ)からより高いの宿彌(すくね)に改められます。

 熱田神宮は当初、尾張氏が奉斎していましたが、12世紀初頭からは藤原南家の熱田大宮司流が大宮司を勤めます。

『国史大辞典』吉川弘文館
『日本史諸氏諸家系図大辞典』講談社

『織田系図』・『織田家譜』では平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とし、初めは近江国津田荘に、そして越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官へ養子となり織田氏を称したとあります。
 しかし、永正15年(1518)に守護代織田達勝が円福寺に出した禁制では「藤原達勝」とあり、信長も天文18年(1549)に出した禁札に「藤原信長」と署名しています。信長が平姓を名乗ったのはご承知の通り天下統一に向けて、源氏である足利家への抵抗からでしょう。そのため、平氏の落胤に結びつけた系図を作成したというのが妥当で...続きを読む

Q征夷大将軍とは?

日本の歴史にとって当たり前のことなのですが。
何故、征夷大将軍が武家の頭領であり、幕府を開くことができたのでしょうか?
考えついたのは、大江広元だと思うのですが。

Aベストアンサー

 征夷大将軍が幕府を開くというのは、どういう政治的意味合いなのか、日本の武家政権という政治システムの根幹にかかわる部分で、歴史学者の論文も多数出ています。

 そもそも、征夷大将軍は東北の平定を目的とした軍事最高指揮権を意味し、軍事行動を行なっている地域の軍政を行なうことは出来たでしょうが、日本全国の統治権の根拠となりうるものではなかったようです。

 確定した学説ではないのですが、有力なものを一つ上げます。

 征夷大将軍となるとき、慣例として「源氏の長者・淳和院別当・奨学院別当」を兼ねます。
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/toyokuni.html

 源氏は、天皇の子供(親王)が臣籍降下したときに与えられる姓として高い格式を持ち(平氏は親王よりも代が下がった王に与えられた)、準皇族として扱われ(藤原氏と同じように平安貴族であって、武士ではありません。)ていました。
 平安時代に村上天皇の血統である「村上源氏」は、最高権力者を輩出しましたが、そのような「源氏」という氏族の長であることを、明確にする役職が淳和院別当です。
 また、奨学院は皇族を対象にした学校で、準皇族の源氏も入学することが出来ました。

 源氏の長者が、皇族の将来を左右する奨学院の責任者になることで、皇族代表の地位を明確にし、その立場で天皇の政治を代行するという形を取っているというのが、この説の骨子です。

 尚、源頼朝が鎌倉幕府(幕府=幕を張った本部=軍事用移動司令部)を開いた当時は、征夷大将軍の名前のように、権限が及ぶのは東国だけで、京より西の地域では、平安時代と同じように朝廷の行政権が優越していました。
 鎌倉幕府の全国支配が確立するのは、承久の乱の後のことです。

承久の乱では、三人の上皇(元天皇)が、後鳥羽上皇が隠岐に、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐に配流となり、仲恭天皇(九条廃帝:明治になるまで天皇として認められなかった。)が退位することとなり、朝廷・皇位の権威が著しく失われました。

 征夷大将軍が幕府を開くというのは、どういう政治的意味合いなのか、日本の武家政権という政治システムの根幹にかかわる部分で、歴史学者の論文も多数出ています。

 そもそも、征夷大将軍は東北の平定を目的とした軍事最高指揮権を意味し、軍事行動を行なっている地域の軍政を行なうことは出来たでしょうが、日本全国の統治権の根拠となりうるものではなかったようです。

 確定した学説ではないのですが、有力なものを一つ上げます。

 征夷大将軍となるとき、慣例として「源氏の長者・淳和院別当・...続きを読む

Q藤原氏はなぜ偉いのか

一般に、藤原氏は源氏・平氏より貴種とされていますが、なぜ天皇家から分家した源平両氏よりも、中流貴族であった中臣氏に由来する藤原氏の方が家格が上なのでしょうか?

Aベストアンサー

貴種(というより家格ですね)は天皇との血の繋がりの濃さから構築されていったようです。源平は確かに皇別氏族ですが代を重ねれば天皇の身内とは言えませんよね。母親が違うと兄弟でも他人感覚の母系重視のご時世でしたし。
勿論、一世源氏は別格です。初めて授けられる位階も四位が通例で中には三位なんて例もあります。(道長の息子の頼通・教通は正五位下です)これは天皇の息子だからこその優遇措置でしょう。しかし二世以下は違いました。名実共に臣下の扱いです。
対して藤原氏は娘(姉妹)から産まれた皇子を皇位につける事を繰り返し、外戚の地位を保持し続けたので(例外もあります)平安時代後期には濃厚な血縁関係が形成されました。それが家格というものが意識され始めた頃、氏族の優位性を決定づける事に繋がったのではないでしょうか。
ちなみに村上源氏も堀河天皇生母の実家で藤原氏とも濃い繋がりがあるので発展していますよ。

Q二代目以降の征夷大将軍

 征夷大将軍は朝廷が任ずると理解していますが、
二代目以降について、
・誰が手続き的な決定権を持っているか(指名)(実際は先代が決めるのでしょうが。)、
・朝廷が任ずるのか(任命)
をご存じの方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>二代目以降の征夷大将軍
> 征夷大将軍は朝廷が任ずると理解していますが、
二代目以降について、
・誰が手続き的な決定権を持っているか(指名)(実際は先代が決めるのでしょうが。)、
・朝廷が任ずるのか(任命)
をご存じの方、よろしくお願いします。

徳川将軍について勉強させて頂きます。
2代秀忠、3代家光、5代綱吉、6代家宣、7代家継、8代吉宗、9代家重、11代家斉、13代家定、14代家茂は、将軍継承についてもめた将軍達です。まず、この将軍達から見ていきたいと思います。
2代秀忠は長兄である信康の死があり、また、家康が天下人となったということで、新たに後継将軍について家康が側近に諮問したという話が残っています。次兄の秀康が対抗馬でしたが、出頭人の本多正信が秀康を推した(正信の子の正純は秀忠を押す)のに対して、秀忠は譜代層の大久保忠隣が推し、最終的に家康が秀忠に決定というプロセスです。将軍就任前の官職は権大納言から直前に内大臣。
3代家光についてはかなり有名ですが、弟の忠長には秀忠の正妻のお江の方と譜代層が推したようです。これに対して家光には乳母の春日局や出頭人層が推したように見えます。(次の説によれば譜代層は家光よりですが)最終的には創業者の家康が決定し、秀忠が追認する形でしょうか。
別の説では、家光は早い段階から世子に内定しており、譜代層を中心として、春日局に近い人間を加味した側近層を形成していた(秀忠の指示であろうとは思いますが)との考え方もあります。幼名竹千代。将軍就任前の官職は権大納言。
5代綱吉は、譜代層を代表する酒井忠清が宮将軍案を主張したのに対して、出頭人の堀田正俊は家綱の弟の綱吉を推して、論争になったとあります。この後がはっきりしないのですが、会議後、堀田は病床の家綱の同意を得てという説と、家綱は死んでいたとの説に分かれますが、江戸城中に綱吉を入れて、(生死は不明ですが)家綱に対面させて、継嗣を決めたとされています。養嗣子決定後、西の丸に入っています。
6代家宣は、綱吉と生母桂昌院及び出頭人中心の側近層が綱吉の嫡子徳松の死後、娘婿の紀州綱教を推したのに対し、水戸光圀や譜代層は綱吉の亡兄綱重の子家宣を推したが、綱教死後、綱吉の決断で将軍世子は家宣と決定し、西の丸へ入っています。将軍就任前の官職は権大納言。
7代家継は、父である家宣が死の床に就いたときに幼少であったため、家宣が将軍就任を危ぶんで、尾張大納言の中継ぎの将軍就任を考えたが、側近の新井白石(間部詮房も相談に与ったとの説あり)が譜代層を慮って反対したため、家宣の決断で家継の継嗣が決定下とされています。将軍就任前の官職は権大納言。
8代吉宗は、紀州家の当主であったが、家康直系が家継によって絶えた(実際は家宣の弟が存在したが)ため、御三家の中でもっとも家康の血統に近いものとして選ばれたとされていますが、家宣正室の天英院と譜代層は吉宗を推し、側室の月光院と新井白石・間部詮房などの出頭人は御三家筆頭であり、家宣の考えにあった尾張家を推したとされています。綱吉、家宣、家継3代は側用人を中心とする出頭人が政権の中枢に位置し、譜代層は中枢から外れたようなありさまであったため、譜代層の巻き返し的要素があったものと思われています。このため、吉宗は将軍就任後、老中を中心とする譜代層に気を遣った面が見られます。将軍就任前の官職は権中納言。将軍後見役。
9代家重は、言語障害や、身体の障害があり、老中の中には廃嫡し、弟の宗武を押す動きもありましたが、吉宗のが長子相続優先の考えにより継承が決まったとされています。将軍就任前の官職は権大納言。
11代家済は、10代家治の世子権大納言家基の急死を受け、実父である御三卿の一橋治済と、田沼意次の暗躍により家治の承認の元、養嗣子とされ、西の丸へ入っています。しかし、家基の急死は暗殺との説もあり、スムーズな継承ではない可能性があります。将軍就任前の官職は権大納言。
13代家定については、病弱で、脳性麻痺を疑われる言動等があり、父12代将軍家慶は徳川慶喜を後継にしようとしたことがあったが、老中の反対で家定を後継としたとされています。将軍就任前の官職は権大納言。
14代家茂は、井伊直弼などの譜代層・大奥の南紀派の推す家茂と、水戸藩や有力諸藩の一橋派が推す慶喜が争い、最終的には井伊直弼が大老に就任し、家茂に決定(養嗣子)。ただし、家定は諸大名を集めて家茂の後継決定を伝えているので最終決定は家定だったようです。将軍就任前の官職は前日に権大納言。
4代家綱は生まれてすぐに父家光により後継とされ、元服後西の丸へ入っています。幼名竹千代。将軍就任前の官職は権大納言。
10代家綱は祖父吉宗にかわいがられ、嫡男であったので問題なく継嗣となる。幼名竹千代。元服後西の丸へ。将軍就任前の官職は権大納言。
15代慶喜は、前代の家茂の遺言が田安亀之助であったが、幼少のため、難局の将軍には無理があるとの家茂夫人和宮の主張で、慶喜-亀之助の順で継承することになったと言われています。

このように見ると、家光を除くと幼名に「竹千代」と付く者は、生まれながらにして将軍後継者であったことが分かります。ただし、幼児の死亡率が高かったために、家基のように竹千代の幼名を持ちながら将軍になっていない者もいます。
将軍が父親であった場合、生存した男子中の最年長者が途中経過は別として、父親の将軍によって最終的には選ばれています。この背景には、家光の継承時に、家康によって長子相続の原則がたてられた(祖法と考えられた)ことが大きいように思います。また、譜代層が概ね保守的で、長子を支持したことも背景としては重要のように思われます。また、養子を迎える場合も、将軍が健在であれば、その将軍の意向が最終的な決定権になっているようです。
前代が死亡した、もしくはそれに近い状態のときには、大奥、特に前代の正室が強い発言権を持っていたようです。これに、譜代層の支持があったことも見逃せません。
一般的に、将軍の継承者に決まった時には、諸大名を集めて発表し、西の丸に住むようになり、元服後権大納言に任官し、襲位を待つことになります。
手続きとしては将軍(正室)→老中→高家→朝廷に将軍任命の申請となることが一般的です。
朝廷が征夷大将軍に任命し、4代家綱以降は江戸に勅使を派遣して、辞令を渡しています。
(家康は伏見、秀忠・家光は京都、慶喜も京都であったと記憶しています)
この時に、征夷大将軍の任命だけではなく、例外はありますが、同時に、内大臣、右近衛大将、源氏の長者、勧学院奨学院別当に任命されています。

以上、長くなりましたが参考までに。

>二代目以降の征夷大将軍
> 征夷大将軍は朝廷が任ずると理解していますが、
二代目以降について、
・誰が手続き的な決定権を持っているか(指名)(実際は先代が決めるのでしょうが。)、
・朝廷が任ずるのか(任命)
をご存じの方、よろしくお願いします。

徳川将軍について勉強させて頂きます。
2代秀忠、3代家光、5代綱吉、6代家宣、7代家継、8代吉宗、9代家重、11代家斉、13代家定、14代家茂は、将軍継承についてもめた将軍達です。まず、この将軍達から見ていきたいと思います。
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Q奥州藤原氏の滅亡はなぜ?

なぜ奥州藤原氏は滅亡したのでしょうか?
藤原氏の武力は奥州17万騎といわれていましたが、これほどの軍勢がなぜ抵抗らしい抵抗をせずにあっさり敗れ去ったのしょうか?
後三年の役より約100年。
戦の仕方を忘れてしまった奥州藤原氏の軍は、保元・平治の乱を戦い抜いた源氏軍の敵ではなかったのでしょうか?
また、奥州藤原氏が滅び去った後の陸奥・出羽はどうなったのでしょうか?

Aベストアンサー

俗に奥州17万騎と言われる兵力は、あくまで農民の延長線上にある数で、いつでも戦える武力ではなかったと思われます。

頼朝の奥州攻めの中で、最もキーポイントとなるのは「阿津賀志の戦い」ですが、この戦いが行われのは8月8日~10日の3日間・・・この8月8日というのは、もちろん旧暦で、しかもこの年は4月に閏月があったため、この日を太陽暦に換算すると1189年9月28日となり、東北の刈り入れ時期とぴったり重なります。(もちろん頼朝の計算です)

結局、現実に動員された人数は1万~2万ほどではなかったかと言われています。
かたや、鎌倉側は24万4千騎と発表してますが、その前の源平での戦ぶりを見ると、実際には数万騎くらいではなかったか?と思います。

それでも奥州の2倍~3倍はありますが、もちろん、この米の収穫時期を狙ったのが頼朝の計算である事は藤原泰衡も承知しています。

倍以上の兵力を少ない人数で迎え撃つためには、山中のゲリラ戦か、一点集中の防御かになると思いますが泰衡は後者を選びます。

それが、阿津賀志に柵を設けての合戦です。
もし、ここでゲリラ戦に挑んでいたら勝てたかも知れませんが、それは、この後の結果を知っているから言える事で、少なくとも、この時点では、どちらをとっても一か八かの賭けのようなものだったと思います。

もちろん、泰衡も、「もし、ここが破られたら・・・」というその先の計画も考えていたでしょう。

それが、ここを破られたら、あっさりと北へ逃げる事です。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』では、この泰衡の行動を、敵に背を向ける臆病者呼ばわりしていますが、それはあくまで鎌倉側の言い分で、おそらくは、泰衡は、時間をかせいでいたのではないか?と思います。

東北の冬は、早いですから、もう少しだけでも時間を稼げば、農期は終わり、あたりに雪が降り始めますから、そうなると、例の奥州17万騎がフルに活用できる上、雪中での戦いにおいて、彼らは鎌倉武士よりはるかに有利です。

しかし、残念ながら、泰衡は、その冬が訪れる前に、信じていた家臣からの騙まし討ちで命を落します。
さすがに、これは計算できません。

いや、逆に頼朝側から見れば、この戦いを冬にまで持ち込まれてしまっては、負ける確立大ですから、それこそ、騙まし討ちであろうが何であろうが、泰衡を討ってしまう事を最優先にした可能性もアリですね。

よって、
>なぜ奥州藤原氏は滅亡したのでしょうか?
の回答としては、泰衡が家臣に殺されたから・・・と考えます。

雪の季節まで彼が生きていたら、巻き返しがあったかも知れないという期待を込めて・・・以上は、あくまで私見ですが・・・参考にしてみてください。

俗に奥州17万騎と言われる兵力は、あくまで農民の延長線上にある数で、いつでも戦える武力ではなかったと思われます。

頼朝の奥州攻めの中で、最もキーポイントとなるのは「阿津賀志の戦い」ですが、この戦いが行われのは8月8日~10日の3日間・・・この8月8日というのは、もちろん旧暦で、しかもこの年は4月に閏月があったため、この日を太陽暦に換算すると1189年9月28日となり、東北の刈り入れ時期とぴったり重なります。(もちろん頼朝の計算です)

結局、現実に動員された人数は1万~2万ほどではなかった...続きを読む

Q北朝鮮軍(+中国軍)vs韓国軍(+日本軍、米国援助)ではどっち勝つか?

北朝鮮軍(+中国軍)vs韓国軍(+日本軍、米国援助)ではどっち勝つでしょう?

中国は、物資や武器、資金の提供、軍事力の援護
日本は、自衛隊の援護?ただし、どれぐらい派遣できるのかは未知数ですよね。
イージス艦は派遣しそうです。
しかし、陸自、空自は派遣は難しそうですが、有り得ますかね?
(今度の総選挙で鳩山政権が与党になれば楽に?)
米国は例のごとく、武器とイラナイ紙切れ同然のドルを韓国に援助します。

この場合、韓国が勝ちそうに見えるのですが、
某所の外人の書き込みによると、
「韓国がやられ、日本が反撃する(抵抗する?)」とあります。
これは、どういう意味なのでしょうか?
実際に韓国と北朝鮮同士ならば、韓国が圧倒的差で勝つと思います。
また、この場合、中国+北朝鮮軍が日本へ攻めてくるということも有り得るのでしょうか?
しかし、結局は日本が割りと楽に防衛し、中国がやけくそになって日本へ核を撃つということは有り得ませんか?
実のところ、無いとは思いますが、中国は奥が深いので難しいです。

一応、念のために原文載せます

Try this. 2009 North Korea gets attacked by South Korea. Japan joins with SK. China joins NK. US refuses to take sides. Israel attacks Iran, EU/US refuse to help. Russia does nothing. Aussies turn on china and helps SK+Japan. USA funds Israel and SK offensive. SK is ruined, but japan keeps attacking. Israel is stuck in a long term hit-and-run war with Iran supporters. EU finally steps in to help Israel and Japan, Russia sides with China, 2011. 2012, USA official joins the Allies, war cont.

北朝鮮軍(+中国軍)vs韓国軍(+日本軍、米国援助)ではどっち勝つでしょう?

中国は、物資や武器、資金の提供、軍事力の援護
日本は、自衛隊の援護?ただし、どれぐらい派遣できるのかは未知数ですよね。
イージス艦は派遣しそうです。
しかし、陸自、空自は派遣は難しそうですが、有り得ますかね?
(今度の総選挙で鳩山政権が与党になれば楽に?)
米国は例のごとく、武器とイラナイ紙切れ同然のドルを韓国に援助します。

この場合、韓国が勝ちそうに見えるのですが、
某所の外人の書き込みに...続きを読む

Aベストアンサー

僕は中国が本気で支援したら韓国軍が負けると思います。
日本軍は役に立たないでしょう。
「韓国がやられ、日本が反撃する(抵抗する?)」
これはない気がします。
米軍が反撃しそれに巻き込まれる形で支援、
そして支援した段階で日本も標的になるってことはあるでしょう。
日本に攻めてきた場合も楽に防衛なんてことはまずないと思います。
みえる軍だけじゃなく日本には多数の中国、朝鮮の人がいます。
その人たちの一部でもテロなんか起こそうものなら。敵軍が来る前に大混乱でしょう
中国がやけくそになるぐらいの状況にならすでに日本半分ぐらいなくなってるんじゃないかな

Q奥州藤原氏と東北地方について

奥州藤原氏のことでお聞きします。
藤原秀衡は源義経を受け入れ、大軍を擁して源頼朝に対抗しようとしましたが、藤原秀衡の死後どうしてあっけなく滅ぼされてしまったのでしょうか。
源義経が自害においこまれ、藤原秀衡が病死したという個人の死が原因だというにはあっけなさすぎるように思えるのですが・・・。
奥州藤原氏の東北地方の支配体制が制度疲労を起こしつつあったにもかかわらず、藤原秀衡という一人のカリスマによって維持されていたのでは?と推測しているのですが、奥州藤原氏の東北支配体制とはどのよなものだったものなのでしょうか。
また奥州藤原氏滅亡後、鎌倉幕府に対して東北地方で反乱等は起こったのでしょうか。奥州藤原氏滅亡後の東北地方と鎌倉幕府との関係についても教えてください。

Aベストアンサー

藤原氏の武力は奥州17万騎といわれていた。これほどの軍勢がなぜ抵抗らしい抵抗をせずにあっさり敗れ去ったのか
この当時。少なくとも源氏軍は保元・平治の乱や平氏との戦いをくぐりぬけた実戦部隊、いわば歴戦のツワモノ達でした。これに対して100年の奥州藤原氏三代の太平の中で戦いを忘れて弱体化した、平和を愛する蝦夷達が太刀打ちできるはずがなかったのです。

それともう一つ。
東北武士は当然、鎌倉にできた新政権がどんなものか知っていたでしょう。
鎌倉政権はそれまでの貴族政治に代わる、武士による、武士のための国づくりを目標とした政権だったのです。

それに引きかえ藤原氏は奥州の覇者ではあるが、その実態は律令政治(それまでの貴族政治)とそれほど違いがあるわけではない。

藤原氏は、朝廷から陸奥守鎮守府将軍に任命され、
奥州の王として黙認されているだけではないか・・・。

当主泰衡は父祖に似ず凡庸ということもあって奥州武士達は、政治体制として鎌倉政権の方により魅力を感じたのではないでしょうか

頼朝は、陸奥国に関東の武士を地頭として配置し、奥州土着の武士を配下にした。鎌倉以来の移住地頭と地元武士が戦国時代まで陸奥国に割拠した。その中で、葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、「奥州惣奉行」職に就任した。
 

藤原氏の武力は奥州17万騎といわれていた。これほどの軍勢がなぜ抵抗らしい抵抗をせずにあっさり敗れ去ったのか
この当時。少なくとも源氏軍は保元・平治の乱や平氏との戦いをくぐりぬけた実戦部隊、いわば歴戦のツワモノ達でした。これに対して100年の奥州藤原氏三代の太平の中で戦いを忘れて弱体化した、平和を愛する蝦夷達が太刀打ちできるはずがなかったのです。

それともう一つ。
東北武士は当然、鎌倉にできた新政権がどんなものか知っていたでしょう。
鎌倉政権はそれまでの貴族政治に代わる、...続きを読む

Q征夷大将軍

征夷大将軍という地位は、田村麻呂から江戸時代に入るまで変わりませんが、本来の目的ではなくなっているのに、なぜその名が変わらなかったのでしょうか。ご高見をお願いします。

Aベストアンサー

征夷大将軍に本来の意味とは異なる意味が付加されたためでしょう。
征夷大将軍は役職ですが、あらゆる言葉は少しづつ意味が付加されたり、削られたりしています。
征夷大将軍の場合、令外官ですし、武官ですし、地方に赴く官ですので朝廷も任命しやすく、武士も朝廷の権威だけを利用し支配は受けないので都合がよかったのでしょう。
そのうえで新たな意味が付加されてしまうとその職自体に意味が出ます。征夷大将軍の場合、「為政者」ですね。

Q藤原道長と奥州藤原氏?

はじめまして。ちょっと疑問があります。
奥州藤原氏は、東北らへんに住んでいたんですよね。でも、藤原道長は京都で摂政をしていたってことは、藤原一族は京都から東北地方まで移り住んだってことですか??徒歩で?!@@
それとも藤原道長と奥州藤原氏は親戚ではないんでしょうか,,,
教えてください。

Aベストアンサー

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、結構な数が藤原氏後裔を名乗っています。

理由は二つです。
1つ目は後裔を名乗っている家の独自改竄。
当時家系図といっても、あちこちに散逸している一族の家系図をすべてまとめてはいません。そういうわけで「自分たちのさかのぼれる先祖を、ここにくっつけてしまおう」というのが横行しました。
なお、架空の人物が家系図に入っているわけではないため、どこがどう改竄されたのかがわからないのです(そもそも改竄した家、つまり勝手に名乗っている家は、それより前の記録がない)。
2つ目は、藤原氏が売り渡したもの。藤原摂関家は没落して財政難となったのですが、そのため自分たちの戸籍を売り渡して、ばら撒いていたようです。
こちらもどう改竄されたのかはわからないのです。

奥州藤原氏は前者ですね。実際に本当の家系と認識されるのは清衡までです。それ以前は怪しい、というのが現状です。
でも、ある程度家系図がしっかりしていると、そうであると認められるのが世の常。奥州藤原氏もそうです。

なお、実際に藤原氏は日本中に散布しています。理由は律令官制の国主などのせいです。また、嫡男以外は別系列を作るしかないですから、子孫が別家系を作り、またその子孫が別家系を・・・という具合に、どんどん増えたのです。で、もちろん嫡男以外は中央からは遠ざかりますから、端のほうはどんどん遠ざかります。
その中には守、介を拝領してその地に赴いて、そこに土着した人もいました、中には罪人となり僻地に流された人もいました。中には敗戦したのちに落ち延びた人もいました。次男がそのまま土着した例も数多いです。
で、そういった人の実際の子孫か、それを利用して家系をくっつけた家が全国には大量にいるのです。奥州藤原氏もその一つです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/奥州藤原氏

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、...続きを読む

Q征夷大将軍と太政大臣の差

中学の歴史の勉強をしているんですが
平清盛が太政大臣になり そして 源義経によって殺害され 
源頼朝が 征夷大将軍になり、鎌倉幕府を開きました

そこで 幕府を開いた 征夷大将軍の方が 太政大臣より 上の身分なの? 
と 思ったので 調べてみたら 

とんでもない 太政大臣の方が 上の方だよ

と書いてありました

じゃあ もし 同じ時間に 源頼朝が 征夷大将軍で 平清盛が 太政大臣で
源頼朝が 鎌倉幕府を開いても 平清盛の方が 身分は上なのですか? 

ハチャメチャな話ですみません

Aベストアンサー

なるほど。面白い質問ですよね。とてもいい疑問だと思いますよ。

征夷大将軍→武士で一番上の位。つまり武士のボスです。
太政大臣→これは貴族社会の高い位です。

つまり、単純には比べられないのです。
A中学校の校長先生とB高校の校長先生はどっちが偉いか、というのと同じですなのです。

そして、覚えておいてほしいのはここからです。
貴族社会(中学生なら平安時代とおぼえておいていいです)で、
「俺たち貴族の領地を荒らす者が出てきたぞ!そうだ!武に長けた者を雇うよ!」
ということになって、雇われたガードマンの役目をしたのが武士のはじまりなんです。
貴族が雇い主、武士は雇われる人、こういう風に覚えておいて下さい。

そうすると、貴族社会の高位である太政大臣と、雇われ人の武士のボスである征夷大将軍では太政大臣のほうが偉い人、ということになりますよね。

最後に、あなたのいうような、「清盛と頼朝が同時に存在したらどっちがえらい?」
という質問に答えると、太政大臣にあった清盛が上、ということになるのです。


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