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次のAとB、イとロ のどっちですか。
教えてください。

最近の日本人は、昔(戦前)の人に比べ、「自己の責任」を軽んじる人が
A.増えた
B.減った

これは社会の中で生きる人間として、昔の人に比べ
イ。進歩している
ロ。退歩している

こんなに単純に割り切れないとおっしゃる方は、お考えをお教えください。

A 回答 (7件)

アメリカ寄りになってきたとは思います。



例えばモンスターペアレント。
自分の子供を褒めなかったと担当教員に猛烈に抗議して謝罪させる親とか。

「うちの子はこれが嫌いなんです。それなのにやれといった。もっと個性を大事にしてください」と、みんなでやる共同作業に参加させるのは個性を大事にしていない 罪だ という親。

なんでもかんでも 個人を尊重しろとして、個人を尊重して 社会とのリンクを断絶しようとする親。

そしてなんでも許した教育をしたあげく、親を殴る子供に育ち、それは自分ちのせいじゃあない 学校教育が悪い 社会が悪い、自分たちだけは悪くない と平気で言う親。

昔は教師から叱られたら「お前が悪い」と言ってたものですが、今は「なに 叩かれた? どういう理由があっても叩くなんていけない 暴力教師はいらない」と教育委員会に訴える。

教師は子供を壊れ物のように扱い、笑顔で接して生徒が怒らないように懸命にごますりをする。
そのゴマすり教師を冷笑する生徒。
先生を馬鹿にして授業は聞かず後ろ向きになる。
誰も聞いていない騒がしい教室で、先生はただ教科書を読み上げる。

先生も責任を取りたくない。
役割は勉強を教えることだから、教科書を時間中読めば教えたことになり、義務は果たしたとなっているわけです。


で、パブリック・スクール というアメドラがあった。
自殺願望の生徒の目線にたって自殺クラブをつくり顧問になり、生徒と同じ目線となり生徒と密接にかかわり問題を解決していこうという先生。

もう一人は姿が見えるだけで、どんな生徒もたちまち席について前を向くとという先生。
威圧感で混乱を瞬時に沈めることができて、生徒はその先生の前だとビクビクしている。

ナンバーワンの先生が選挙で選ばれた。
ナンバーワンの先生は生徒の目線にたって生徒と接していた先生じゃあなく、ものすごい威圧で集団を瞬時に統率していた先生の方だった。
「あなたはヒーローです、いろいろ僕たちは問題を抱えているが、あなたのゆるぎない態度を信頼しています」みたいなことが生徒側から述べられた。

あくまでもドラマですが、そうじゃあないでしょうか。
嫌われてもいい 一本筋が通ってゆるぎない態度をしていれば、生徒は心の底ではその人を神に向ける信頼と同じくらい確かなものとして信頼するのではないかと。

正しいことは正しいという。 間違えていることは間違えているという。
集団においての振る舞いを学ぶ場面で、個人を尊重しろといいすぎるのは、場違い。

モンスターペアレントに負けてしまう教育委員会も問題。
地位を失いたくないから保身にまわり、訴えられた教師を担当から外して、責任をとったかのようにしている。
先生たちだって、そんな保身に周る教育委員会の人格を信じることはできないでしょう。

だから現場の先生は正しいことができず 病んでいくわけです。


結局 民事裁判でもそうですが、正しい人が勝つのではなく、騒いだ人が勝つ。
むちゃくちゃな要求をして、わーわー騒いで説得が不可能な人の方が裁判で勝つ。
話を聞いてくれる人を、調停員は説得する。
「相手が悪いのはわかているが、500万あなたが支払えば別れてくれるといっているから、ここは浮気しただんなさんにお金を払ってわかれたほうがあなたのためですよ」と説得する。

「なんで? 私は浮気されて持っていた財産も全部 浮気相手に貢がれた被害者ですよ。共同財産? なんでここまで私が譲歩しなければならないのですか 納得いきません」

と言った時点で、「落とせる」と調停員は思うわけです。
だって会話が十分成立するオツムを浮気された妻は持っているとわかるから。

話が通じない野獣のような夫は話が通じないから説得は無理。
だけど日本語が理解できる人間の奥さんなら、日本語で説得できる。

このように責任とか正義とかじゃなくて、いかに早く仕事を切り上げる効率優先に社会はなっているんです。

松下幸之助氏も効率とかそういうのを優先して質はどうでもいいといいう考えだった。
人の質もどーでもいい 質が悪くても多ければいい。
質がよいものをそろえず、質の悪い商品が人の心を幸福にするという考え。

大量消費時代の寵児ですから、そうなっちゃうわけです。

人の大量消費時代ですから、なるだけ能力は無いが安く雇える人たちをそろえる。
というか日本社会はここ数十年 そういう質より量を優先した人事をしてきたので、今 幹部となっている人は 質の悪い人たちばかり。
リーダーシップをとって質のよい商品を作り出そうという意思が無い。
企業が育ててこなかったから。
つけがまわってきて、日本は世界のトップから転落していったわけです。

とうわけで、質の悪い人たちを安いからと雇い、金がかかるからと育てえることをしなかった責任は、日本国民全部が担うしかない。
東電にしたって、質の良い人材を雇い育ててこなかった結果 日本を襲う惨事になったのだと思う。

大量消費は物ばかりじゃなくて人もそうだったわけですね。
粗悪品をゴミ箱に捨てたら、生きていけないので、粗悪品で日本をまわすしかない。
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「責任感」というと、1つの要素のようですが、


その『責任』を感じる対象として、意識の社会性に発する
自分の職責や所属コミュニティであるか、自己中心的な
意識における批判の忌避や人目を気にするがゆえであるか
によって異なる。

元来の日本社会の集団主義は、濃厚な地域コミュニティや
大家族制に支えられた、他我(滅私)的な責任感であったが、
今や、過度の学校教育(詰め込み教育&点取り競争)への
依存や核家族化&格差社会化によって劣化し、他人への
甘えや虚栄心に由来する、その場しのぎのものになっている。

私が社会人になった頃(@設計事務所)は、誰かが残業に
なりそうだと、自然に皆んなで分担したものであるが、
今は、自分の担当さえこなせば、他人がどんなに忙殺され
ていてもさっさと帰宅するのが普通である。
もちろん「自分の仕事をこなす」という点に、責任感が
ある訳であるが、先の例の共同体意識は欠如している。
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この回答へのお礼

おっしゃる通りです!

お礼日時:2011/04/28 15:25

最近の日本人は、昔(戦前)の人に比べ、「自己の責任」を軽んじる人が


A.増えた

これは社会の中で生きる人間として、昔の人に比べ
ロ。退歩している


昔は天変地異などで国民に不幸なことが生じると為政者は一心に自らの責任と恥て反省して詫びたものです。現在は主権在民でありその代表者が総理ですが、主権者とその代表に責任と反省がみられないね。
「自己の責任」ではなく「すべて他人の責任」というような考えの人ばかりになってますね。その人たちから選ばれた代表が国民の代表としているわけですから国民も国家も進歩するわけがないですね。天変地異や原発の二次災害も全て自然のせいでしょ。本当は全て国民とその代表たる政府のせいなんですけどね。それがさっぱりわかっていないからずいぶんと退化しているのですね。自己責任ということがわかるまで異変は続きますね。それが退歩へのストッパーなんですね。
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この回答へのお礼

おっしゃる通りです。

お礼日時:2011/04/28 15:26

 最近の日本人は、昔(戦前)の人に比べ、「自己の責任」を軽んじる人


  うーん難しいですね。「自己の責任感」というのは、やっぱりそれだけ「自己の自由」というものがあってこそ注目されるものだと思うからです。戦前に生きてたわけではないのではっきりしたことは言えませんが、少なくともその時代に、自己を生きる権利、つまりなにしたいとか、なにがいいわるいということを自分で自由に決められる人がどれだけいたか、ということには疑問があるからです。たとえば、戦争は国のせいだとする人は多いのかもしれませんが、それはその時代がそういうのを反対する権利がなかった時代ですし、「基本的人権」そのものが「天皇のため」だったので、そういうところで自己の責任論を意識するのは難しいとおもうからです。
  だからと言っても、武士道のような過激なおとしまえとかそういう責任の持つ意味がすごく深かったのは今よりもある気もする。よって割り切れないかと。

 これは社会の中で生きる人間として、昔の人に比べ
 これに対しては、「進歩している」でしょう。いろいろな尺度はあるにせよ、個人的には「社会に生きる人間として進歩すること」とは、「どのようなコミュニティーでも適応していく」いわば、柔軟性や適応力がポイントだとおもうからです。そういういみでは、古風な考え方とかは(もちろんいい部分はあるのですが)邪魔なものになえます。また、異文化とかそういうものに対する適応力はやっぱりあらゆる社会という意味で進歩する上で不可避な考えだとおもうので、その意味では現在のほうが間違いなく進歩している(いなくてはならない)でしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/04/28 15:26

最近の日本人は、昔(戦前)の人に比べ、「自己の責任」を軽んじる人が


C.変わらない

これは社会の中で生きる人間として、昔の人に比べ
ハ。変化している

自己の責任については、何に対して自己の責任を負うかというものが変化しただけで、軽んじる人が増えたと言うことも減ったと言うこともないと思います。
戦前は自己の責任を負う対象が天皇であったり国家であったと思われますが、今はそれがビジネスであったり家庭や個人であったりするだけです。対象がより個人化してきたので重んじる人が減ったように見えますが、自己の責任を軽んじてるということはないと思います。
国家に対する自己の責任を軽んじる人が増えていると言えば、その通りだと思いますが。

次の質問も同様に、進歩とも退歩とも言えません。
これは社会の変化なので、変化としか言いようがないでしょう。
どんな社会がベストかも分かりませんし、そもそも何が進歩で何が退歩という判断基準がないと思います。
従って、そこにあるのは変化だけです。

ご参考まで。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/04/28 15:27

◆最近の日本人は、昔(戦前)の人に比べ、「自己の責任」を軽んじる人が



A.増えた


◆これは社会の中で生きる人間として、昔の人に比べ

なんともいえない。


◆こんなに単純に割り切れないとおっしゃる方は、お考えをお教えください。

ある意味、さまざまな情報を多面的に与えられ、得る術を心得ているので、
簡単に騙されない、自分で考え、自分で結論を出せるようになった半面、
どこか、自分とは無関係、他人事と捉えがちなところがある。ようにみえる。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/04/28 15:28

比較するには、比較の対象を良く知らなければいけません。


戦前の日本を知る方は、最近の若者を
あまり良く知ろうとしませんし、
最近の若者は、戦前の日本人を良く知りません。

「最近の若い者は」論は年をとった人が
必ずはまる論に思えて
あまりまじめに考える気になりません。

なので、割り切れないに1票。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/04/28 15:28

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