悟りを開いた状態と言うのはどう言う状態なのでしょうか?
「悟り」という言葉は仏教でよく出てくるように思うのですが、他の宗教でも似たような概念はあるのですか?

また、悟りを開いた方は実際この世に現存するのでしょうか?
「私は悟りを開いている」という方がいらっしゃいましたら何故そう思うのか、単なる思い過ごしでない事を示してください。
悟りを開いた所以なども教えていただけるとありがたいです。

宗教関係の方はどう言う宗教なのか、専門家の方は何の専門家なのかお知らせの上、お答え頂ければと思います。

A 回答 (7件)

わたしは、高校が宗教系のところだったのですが、そこで授業の一環として聞いた逸話をはなしますと、悟りとは、というのは唯一ブッタがひらいたもので、仏教では、ほかに悟った人の話はきいたことがありません。

しかし、ある意味悟った人がいるとすれば、親鸞上人が(ちがったかも?)悟りの境地にたっするために荒行をしたが、いっこうに悟れず、「人間だけの力じゃむりだ」といったひとがいた。(親鸞じゃなかったかも?)これを軸に考えると、まさにブッタ(唯一無二の人)だったのだという結論にたっするのでした?
 一応こんなかんじでした。参考にしてください。ちなみに、これは浄土真宗東本願寺の話だったようなきがします。なんかメチャクチャになってすみませんでした。
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この回答へのお礼

悟りを開いたのはブッダただひとりと言う見解ですね。
対立意見が出てくるかどうか楽しみな所です。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/23 21:48

 PHP新書「自我と無我」-個と集団の成熟した関係ー岡野守也著を紹介します。

660円です。

この回答への補足

>みなさま
ご回答頂いた方々、ありがとうございました。
1週間様子を見ましたが変化がありませんでしたのでこの辺りで締めさせていただきたいと思います。
もうちょっと様々な見解を期待していたのですが今一反応が鈍くてちょっとガッカリしています。何でだろー???
結構面白いテーマだと思ったんですがねー。

補足日時:2001/05/06 22:23
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この回答へのお礼

情報提供ありがとうございます。
機会があれば読んでみようと思いますが、せっかくの知的財産の蓄積を目指す教えて!gooです。
ご面倒でなければ、その中で「悟り」についてどのように書かれていたのか、この場で教えていただけませんでしょうか?
知的所有権の侵害に当たってしまうと困るので、vipさんの解釈でで結構です。

お礼日時:2001/04/26 22:44

なんか下の回答を見るかぎり、悟ったというより


イッちゃった人の話みたいですね。

ちなみにイクだけなら**でもイケます。
もっとも、肉体をつかってイクのは邪道とかいって
あくまで精神だけでイクのがいいのだとかいってる
人もいますが、そういう人は多分早*でしょう。
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この回答へのお礼

一服の清涼をありがとうございました。

お礼日時:2001/04/24 22:44

悟りとは存在を開始する前の状態のこと。

よって悟った人というのは理論上実在しません。非存在界にいる未来の世代だけが悟りの境地にあるのです。私達には彼らの悟りを妨害する権利はありません。
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この回答へのお礼

新興系の宗教の方ですね。
一意見としてありがたく頂戴しました。

お礼日時:2001/04/24 22:41

すみませんが、以下の点にだけ回答させていただきます。



>他の宗教でも似たような概念はあるのですか?
応用宗教哲学と称した団体(scientology)に、「クリア」という概念があり、それは「悟り」と似たようなものだと思います。
信仰している友人に話を聞いたことがある程度なので、私は詳しいことはわかりません。私が知っていることは、「ダイアネティクス」という本に詳しいことが書かれていて、東京(大塚)に日本の本部がある、ということです。
興味がおありでしたら、ご自身でお調べになるのが吉かと思います。

参考URL:http://www.mediaworks.co.jp/alt/000/text/sa.html
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この回答へのお礼

情報提供ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/23 22:18

【お礼への追伸】



>視床下部のA10神経からドーパミンが放出されて快と感じ ると言う話を聞いたこ >とがあります。

これはぼくもNHK3チャンネルで見ましたが、創造的なアイデアが、無意識の世界から生まれて来るという話しです。

>その、奥に入って行った時の状態がどんな状態なのかに興味があります。

これは認知科学や脳生理学では未解決のテーマのようですが、次の本は無意識の世界を論じた面白い本ですよ。

■藤岡喜愛『イメージと人間』NHKブックス

著者は、精神人類学の人です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2001/04/23 21:51

ぼくは経営コンサルタントなんですが、会社経営でも「理念の浸透」のように、これに関連したことが、よく問題になるんです。



そこでいろいろ調べてみたら、認知科学では、人間の知覚というのは、知覚→意味付け→納得→悟り と、だんだん潜在意識の方に深く入って行くと考えているのだそうです。脳生理学でも、追求がなされているようですよ。

これはご質問の宗教的、哲学的「悟り」ほどは深くないとは思いますが、哲学って科学的に理解できないことを考える学問という側面もあると思います。

場違いなお応えですいません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 人間の知覚というのは、知覚→意味付け→納得→悟り と、だんだん潜在意識の方に深く入って行く

その、奥に入って行った時の状態がどんな状態なのかに興味があります。

脳生理学からのアプローチもお待ちしております。
例えば人は愛されたと感じた時、視床下部のA10神経からドーパミンが放出されて快と感じると言う話を聞いたことがあります。
悟りを開いた人の脳の中では何が起こっているのでしょうね?

お礼日時:2001/04/23 14:17

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Aベストアンサー

こんなに物乞い仏僧が多いのだから数撃ちゃ当たる寸法で
誰か1人くらい奇跡的に的を得た悟りを開いても良いと思う
   ↑
これ、面白いですね♪



悟りを開いたら、他者にその至高の悟りを語らずに
悦に入ってしまうのでしょうか?
   ↑
上座部仏教は、己の悟りが第一義ですから、
そういうことになるのかも
しれません。



タイやミャンマーでは新しい悟りを開いている人が
無数にいるのでしょうか?
   ↑
タイやミャンマーは上座部ですから、
あるいはそうかもしれません。



私にもタイやミャンマーで新しい悟りを開いた方の
新しい悟りとやらを聞いてみたいです。
   ↑
昔、悟った人に訊いたことがありましたが、
言葉では語れないそうです。
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知識を頭に詰め込んでも、自身の思想が邪魔をして会得できない場合があり、その場合、悟りを開いたことにならない。
真理という知識を外から詰め込まなくても、内から生まれて、例えその真理を説明できなくとも、悟りを開いたことになる?
でしたら、私的には
考えない・悩まない・迷わない
ようするに「阿呆になった」
と言っていいのでは?と考えていました。

悩み考える人間のほうが良質なのではないか?

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「あほになった」これはいい表現ですね。
しかし少し違います。考えない、悩まない、迷わないからアホになったのではなく、分ってしまったからその事については「考えなくてもよくなった」「悩まなくてもよくなった」「迷わなくてもよくなった」んです。その上を行ってしまったのです。悟りは「全てにおいて悟った」か「その対象物について悟った」というように2つの表現がありますね。仏陀あたりは全てにおいて悟られたと思います。また悟りを開いた人間と無知の人間は似ています。あなたの言う「考え・悩み・迷い」を「欲」だとすると無知の人間はそもそもその対象物について知らないから欲その物がないと推測できます。悟りを開いて無欲になったか、もともと知らないから無欲か。結果的に欲が無ければ悟ったと同じ状態です。

>知識を頭に詰め込んでも、自身の思想が邪魔をして会得できない場合があり、その場合、悟りを開いたことにならない。
そうです。例えば金で大事なことは量ではなく質ですよね。悟りを開こうと無駄に知識を入れるというのは、たくさんの混じりけのある物質を混ぜるのと同じで最終的に金かどうか分からなくなります。金の質を高めたければ、一つ一つ無駄なものを取り去らなければならないのです。
>真理という知識を外から詰め込まなくても、内から生まれて、例えその真理を説明できなくとも、悟りを開いたことになる?
そうです。私はそう思います。知識を入れてない分混じりけの少ない金な訳でその分純金に近いのです。(金=悟 とした場合)

あなたのように考える人間は好きです。これを乗り越えて頑張って悟りを開いてください。私は王陽明の伝習録に出てくる「未発の中」を悟りとしています。求めた回答と違いましたらすいません。

「あほになった」これはいい表現ですね。
しかし少し違います。考えない、悩まない、迷わないからアホになったのではなく、分ってしまったからその事については「考えなくてもよくなった」「悩まなくてもよくなった」「迷わなくてもよくなった」んです。その上を行ってしまったのです。悟りは「全てにおいて悟った」か「その対象物について悟った」というように2つの表現がありますね。仏陀あたりは全てにおいて悟られたと思います。また悟りを開いた人間と無知の人間は似ています。あなたの言う「考え・悩み・迷...続きを読む

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辞書によると悟りとは欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)のはたらきである迷妄を去って、真理を会得することとあります。

真理を知ることこそが死を超越すると言うことなのではないでしょうか?したがって死を超越するということは真理を知ると言うことだとおもいます。
例えば死に対する真理を知ることにより、死とはどのようなもので、なぜ恐れるに相応しく、なぜ誰もが受け入れねばならぬものなのかという疑問から開放されるのではないでしょうか?

例えば、死を超越する-死を経験する(死は経験できないが)、不死である-のいずれに当てはまるものではなく、死は生との表裏一体、死と言う現象が生じない存在は生命体ではなく生命活動を行わない物質であり、生きることが死ぬことを伴うことの根拠を論理上理解することではなく心の奥深い場所で強烈に「知る」ことなのではないのでしょうか?

「人の死」を私たちは至る所で「体験」します。
しかし「自分の死」だけは決して「体験」することはできないのです。
死の訪れはそのまま生からの離脱です。
生を抹消された生命体が一体なにを「体験」するのでしょう・・

そういったもろもろの、真理を心の奥深いところで知ることができたことを「悟り」と人々が命名したのでしょう。
死は決して論理上で克服できるものではありません。

赤ちゃんの「産声」というその表現を決して我々は言葉で表すことはできません。そう、その「産声」は我々の全身で感じ取ること以外その表現を説明できる方法がないのです。

死を超越するために悟りを開きましょう(私の悟りとはなにも仏教だけに限っておりません)。

(言葉では説明しつくせる議題ではないような気がしますね。もちろん私の言葉足らずではあるのですが^^;)

辞書によると悟りとは欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)のはたらきである迷妄を去って、真理を会得することとあります。

真理を知ることこそが死を超越すると言うことなのではないでしょうか?したがって死を超越するということは真理を知ると言うことだとおもいます。
例えば死に対する真理を知ることにより、死とはどのようなもので、なぜ恐れるに相応しく、なぜ誰もが受け入れねばならぬものなのかという疑問から開放されるのではないでしょうか?

例えば、死を超越する-死を経験する(死は経験できない...続きを読む

Q悟りを開いたお坊さんはどれ位いるのですか?

仏教のお坊さんで悟りを開いたお坊さんはどれ位いるのでしょうか?
高僧と言われる人は悟りを開いた人なのでしょうか?
悟りを開いたお坊さんとそうでないお坊さんはどこでわかるのでしょうか?

Aベストアンサー

>仏教のお坊さんで悟りを開いたお坊さんはどれ位いるのでしょうか?

・一人もおりません。

>高僧と言われる人は悟りを開いた人なのでしょうか?

・違います。

>悟りを開いたお坊さんとそうでないお坊さんはどこでわかるのでしょうか?

・お坊さんは悟りを開いてはおりません。

※ご質問の中に、「仏教」とありますので、仏教で言うところの『悟り』についての記述には、「物事の道理を明らかに感知すること。迷いを離れ真理・実相を証得すること。成仏の境地・仏果を得ること。」とあります。

そもそも、「僧」と言われる立場の方々は、古来より伝わる仏典、釈書によって仏教を研鑽し、その教えを行じてきました。あるものはその宗門に残り、あるものは独自の宗派を開いてきました。しかしながら、全てそれらの教えが、釈尊よりの教えを正しく理解し行じているかといえばそうではなく、独自の解釈や全く仏意を度外視した内容としてしまったり、また、時代の流れの中で、寺をその周囲の住民を管理させるもの(檀家制度)としてしまったり、仏の本意からは大きくかけ離れてしまっているのが現状です。

しかし、その中で、鎌倉時代の僧「日蓮」は、末法の世の中に流布するべき『南無妙法蓮華経』を御題目として世の中に取り出しただけではなく、御本尊として末法の衆生に曼荼羅として残してくださいました。
先に、「鎌倉の僧」と書きましたが、釈尊の法華経には「末法に於いて、上行菩薩を筆頭とした地涌の菩薩が出現し、末法の世に法華経を広めるであろう」との記述があり、「末法に法華経を広めれば数々の難が起きる」ということ、身をもって体験されたのが日蓮大聖人であり、まさしく末法の御本仏としてこの世に生誕され本懐を遂げられました。
そういった意味で、単なる「僧」というにはあまりにもかけ離れている為、上記の回答といたしました。

>仏教のお坊さんで悟りを開いたお坊さんはどれ位いるのでしょうか?

・一人もおりません。

>高僧と言われる人は悟りを開いた人なのでしょうか?

・違います。

>悟りを開いたお坊さんとそうでないお坊さんはどこでわかるのでしょうか?

・お坊さんは悟りを開いてはおりません。

※ご質問の中に、「仏教」とありますので、仏教で言うところの『悟り』についての記述には、「物事の道理を明らかに感知すること。迷いを離れ真理・実相を証得すること。成仏の境地・仏果を得ること。」とあります。

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Aベストアンサー

どなたかへの補足で「印可」のことをお書きですが、今の「印可」はすでに形式的なものになっています。

「悟り」自体は、さほど難しいものではなく、何かの拍子に「ピン」と来た!という人は結構いると思います。
特に禅宗の坊さんなら、そう感じた人はたくさんいると思います。

ただ、みなさん、そこで「ああ、オレは悟りを得た」と慢心してしまって、そこまでで止まってしまっていると思います。
その状態で、形ばかりの「印可」をもらうわけですから、ますます、「もうこれでよい」となってしまっています。

その「ピン」と来た状態で、さらに修行を積み(何も坐禅することだけではありません)、深めていくことをしないと、「ああ、この人は立派な坊さんだ」と周囲から言われることはないと思います。

先の回答にもありますが、悟りを開いた人は、自分で「悟りを開いた」とは言いません。また、他人も「この人は悟りを開いた人だ」と明確に認めることはできません。
ただ、本当に悟りを開いた人なら自ずとそれが周囲に伝わりますし、周囲はそれをなんとなく感じて「ああ、この人は立派な坊さんだ」と思うことはあると思います。

そのように思われる坊さんは、今、まあ10人いればいい方じゃないかなあと思います。

どなたかへの補足で「印可」のことをお書きですが、今の「印可」はすでに形式的なものになっています。

「悟り」自体は、さほど難しいものではなく、何かの拍子に「ピン」と来た!という人は結構いると思います。
特に禅宗の坊さんなら、そう感じた人はたくさんいると思います。

ただ、みなさん、そこで「ああ、オレは悟りを得た」と慢心してしまって、そこまでで止まってしまっていると思います。
その状態で、形ばかりの「印可」をもらうわけですから、ますます、「もうこれでよい」となってしまっています。
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