おはようございます
最近、質問が立て続けになってしまって申し訳ないのですが、どうしても確認したい事項があるので質問します。

以前、戦国時代に詳しい方から「合戦は弓や鉄砲による攻撃がほとんどで、白兵戦はほとんどないと考えて間違いは無い」とのご教授を受けました。

このことから考えますと…大河ドラマなどの合戦シーンを実際のものに近いものとして見るのは難しくなりますよね?何故なら白兵戦が多く描かれているからです。

では、実際の合戦とはどんな感じになるのでしょうか?
出来れば、次にあげる合戦で説明しやすいものを選んで頂き、実際にどんな感じで合戦が進んでいたのか解説していただけると非常に嬉しいです。
(1)武田氏と村上氏が戦った上田原の戦い
(2)六角氏と浅井氏が戦った野良田合戦
(3)姉川の戦い

これらの合戦以外でも良いので、典型的な戦国時代の合戦で解説しやすいものを例にあげて、ご教授のほどよろしくお願いします。

特に、白兵戦がほとんど行われずに…ということが非常にイメージしにくいです。
単純に考えて、お互い離れ合って弓を撃ち合い、引き上げるのでしょうか?そうなると槍による激戦が繰り広げられたイメージのある(1)(2)(3)の合戦はどんな感じになるのか非常に興味深いです

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A 回答 (6件)

もし本当に白兵戦がほとんどなかったとしたら、戦国時代が始まったのは鉄砲伝来の80年くらい前ですから、おおざっぱにいって鉄砲が来るまでの半世紀の間はどうやって合戦していたのかっていう素朴な疑問はあります。


弓ってのはテレビなんかで見たことがあるでしょうが非常に難しいもので、目標に対しては文字通りに弓なりの軌道で狙います。それで正確に相手に命中させるのは非常に困難で、弓道の大会でも選手が的を外すのは珍しくありません。ましてや露天なら横風の影響もありますからね。
当時は弓は今なら野球が得意みたいな運動能力に優れた人がやっていたと思います。つまり誰でも弓兵にはなれなかったと思います。

また鉄砲が伝来した後も、将兵のうち槍兵がおよそ半分くらいで、弓と鉄砲を合わせても全体の12%から多くて20%程度です。およそ半分は槍なのでやはり主兵力は白兵戦力であったと思います。

また古代から中世にかけて、ま、近世も入れていいんですけど、その時代の戦争つまり鉄砲と大砲が幅を利かす近代戦以前の戦闘では、戦死者の多くは追撃のときに発生しています。その典型が長篠の合戦で、武田軍の主だった武将が多く戦死していますが、そのほとんどが追撃の途上で討たれています。
片方の軍が崩壊すると、兵士は我先にと逃げ出しますから武将を守る供の者も少なくなりますので非常に危険なんですね。で、多くの戦争の場合、勝った方の損害率って案外に5%とかそんなもんなんです。20人に1人が負傷か戦死(医療が未発達の近代以前の戦争において負傷に伴う戦死率は非常に高かったと思われます)しているということになりますね。5%くらいなら、死屍累々、というほどでもないと思います。

戦国時代の多くの合戦で、合戦により雌雄が決してしまうことがしばしばあります。このとき、我々は負けた軍勢は兵力を全滅させて負けてしまうとイメージしますが、実際はちょっと違うんですね。
摺上原の合戦がその典型だと思うんですが、敗北した蘆名軍は確かに主だった武将を失うのですが、敗北してしまったがゆえに配下の武士たちが沈みゆく船に付き合う理由はないとどんどん勝手に帰ってしまうのですね。あるいは、戦場から離脱してそのまま戻ってこない。それで、黒川城を守れるほどの戦力が集まらなくなって蘆名氏は落ち延びていくことになります。
どちらかというと威信が低下して誰も命令に従わなくなる、という感じかと思います。
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その方の話の典拠は鈴木眞哉氏の一連の著作でしょう。



『戦国合戦の虚実―日曜歴史家への誘い』 講談社、1998年
『鉄砲と日本人―「鉄砲神話」が隠してきたこと』ちくま学芸文庫、2000
『刀と首取り―戦国合戦異説』平凡社新書、2000
『謎とき日本合戦史―日本人はどう戦ってきたか』講談社現代新書、2001
『鉄砲隊と騎馬軍団―真説・長篠合戦』洋泉社新書y、2003

などが該当します。
戦闘による負傷原因が書かれている一次史料である軍忠状をもとにした負傷原因の統計が根拠となっているようです。
統計では、飛び道具による負傷が大半で、刀などによる負傷はほとんどないことから、時代劇に見えるような白兵戦は考えにくいとのことです。
刀で甲冑が斬れるとは考えにくいことからも、納得できる結論だと考えています。
基本的に日本人は遠戦志向であったことも指摘されていて興味深い内容です。

なお、例としてあげられた合戦の描写復元ですが、部隊編成・規模や戦場の推移を明確に物語る史料そのものが欠如しており、実態を知るのは非常に困難かと。
姉川はまだ史料が多い方ですが、詳しいものほど徳川史観の影響が強く書かれた内容を鵜呑みにするのは危険です。
上述の長篠の本でしたら、すこしイメージしやすいかもしれません。
私は、ご想像の通り、遠くから両軍が撃ち合い、先鋒がある程度被害を受けて敗走し、それが全軍に及び、追撃戦に移る、というイメージを抱いています。隣の仲間が撃たれたら、正直逃げ出したくなりますもの。

いずれにしても上述の著書をご覧になるのがよろしいかと。

ちなみに中世前期でしたら
近藤好和『騎兵と歩兵の中世史 』 吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2004
も参考になります。
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合戦は弓や鉄砲による攻撃がほとんどで、白兵戦はほとんどないと考えて間違いは無い」とのご教授を受けました。



とのことですが。。。。

まずひとつめ

小田原衆所領役帳(永禄2年)を調べてみますと、北条軍軍役は北条氏康の時代で、
家臣は560名が記載され、その所領総額が7,2168貫259文となっています。
一般的に後北条氏の軍役は、7~8貫あたり1人というのが大方の見方のようです。ほぼ1万人ほどとなりますか
北条氏の支配体制をなした貫高は(石高制はもっと後)、年貢・公事などの賦課額や家臣の知行高や
それに対する軍役の賦課額などを、銭の単位である貫文によって表示したものである。」と述べています。
この検地は、在地から申告される指出検地(さしだし検地)で、耕地が田と畑に区分され、
各々一反当たり田が500文、畑が165文の基準数が決められていたようです。
検地は秀吉が始めたわけではなく、各地でそれぞれに検地をしてそこから軍役を課すわけですよ

参考までに

   家臣名     知行高    馬上  鉄砲  弓  槍  指物  旗  歩者  合計  着到年次

小曾戸丹後守   200貫     5   20   0   0   0   2   0    27  天正年間


岡本八郎左衛門  59貫     1    0    0   2   1   1   2    7  元亀2年(1571)


ふたつめ

この時代馬2頭が並列に並んで通れる道がそもそも存在しません。
したがって相手も反対側から同じ道を来て、ガッチヤンすることもあったでしょう。
よほど索敵をしっかりしていないとそこで出会い頭の乱戦となる。

その例が今川雪斎と織田(信長の親父)の小豆坂合戦の緒戦となりました。

みっつめ

戦国時代はまた飢饉の時代ともいえます。
2、3年おきに天候不順による飢饉が続いて、領土拡大ではなく明日の食べるものを
求めての他国侵略(乱捕り)人(女子供捕虜にして後で売り飛ばす、物、金の略奪。
これは組織的に公認された行為です。


よっつめ

中国戦国史のような支配体制ではありませんし、軍の展開も組織的にはほど遠いもだったでしよう
戦が始まったら、あっちへこっちへなんて指図はかんたんではないはずです。




江戸時代のやくざ同士の出入りの大きいものとみるのがちょうどかな
度胸勝負

馬はロバよりやや大きい程度、とても早くは走れませんし、それに高価。
戦闘に入るときは後ろに置いて、徒歩で戦います。


相手より数多く集めることが、第一に問われる大名の力量です
数で相手に圧力をかける。前に書きましたが、出会い頭の乱戦で斬り合いがあっても
実際のところ、合戦で巷でいわれるほど人は死なかったようですよ
後ろばかり気にしていたとおもいます。退路を絶たれることが一番怖い。
怖気ずいたほうが負け、合戦の勝敗が決まるのはどちらかが引いたとき
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 刀の切り合いが白兵戦というなら、TVほど華々しい例は少なかったかも。


 鎧は刀に対する防御なので、刀を使う時は刺すか、ブロテクトのない部分つまり足先や指先を傷つけるだけでよかった。
 槍は初期段階では馬や人の突撃に対する防御として、柄の部分を土に突き刺して斜め上に穂先を構え、歩兵戦に入る時は上から振り下ろして、相手の頭をドツク。つまり兜のうえからの打撃で、脳しんとうを起こさせる。
 弓は遠距離の場合、角度をつけて上から垂直に落下させることで、鎧や屋根の防御のない所を傷つけ、結果として陣形を混乱させることが主眼。近距離の場合は鎧を貫くことができるが、速射には技術がいるので、農民兵には無理。今でいう、攻撃準備射撃みたいなもん。
 ただ川中島の合戦のように、天皇家へ激戦の報告がいっている場合もあるので、切り合いがなかったとはいえない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
ほどほどの白兵戦だったという感じですか

武器も距離などによって役割が変わってくるんですね

お礼日時:2011/05/04 21:48

>合戦は弓や鉄砲による攻撃がほとんどで、白兵戦はほとんどないと考えて間違いは無い



というのはひょっとしたら
テレビで見るような華々しい合戦は頻繁では無く、その多くは、睨み合いや籠城の駆け引きや小競り合いだ。
と言うような趣旨なのかもしれませんね。

鉄砲が有力な戦力として本格的に導入された時期や弓矢の有効射程距離を考えれば、飛び道具で戦いの趨勢が決したとは考えにくいですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
その可能性もあります
私も個人的には飛び道具で勝負が決まるとはあまり思えません…

お礼日時:2011/05/04 17:32

ご質問の意図に適合した回答ではないかも知れませんが、お許し下さい。



>以前、戦国時代に詳しい方から「合戦は弓や鉄砲による攻撃がほとんどで、白兵戦はほとんどないと考えて間違いは無い」とのご教授を受けました。

その方の説の根拠は何なのでしょうか?

武田、上杉、織田などの戦国時代の兵員の主力は、その殆んどが農民兵です。

堅固な城に立て籠もる籠城作戦が有効だったのは、籠城により合戦が長期化すると兵の主力となる農民達が田植えや収穫の時期には野良仕事に戻らなくてはならなくなる為に兵を引かざるを得なくなってしまうためでした。
(農民を国に帰して米を生産しなければ収穫が無くなり、年貢が納められなくなったり、飢餓が起きるなど国力が衰えてしまうから)

質問者様は農民兵に配られた槍などの武器の実物をご覧になった事はございますか?
農民兵に配給される槍は、テレビなどで見る様な立派な武器では有りません、実物は槍の先端部の刃の長さが10センチにも満たない様な極々粗末な物です。(不足の場合には竹槍を配給される事も有ったようです)

戦う事を専門の職業とする職業軍人(傭兵部隊)を本格的に実践活用しだしたのは、豊臣秀吉が天下統一に向けての最後の仕上げに入る頃になってからの事です。

鉄鉱石の少ない日本では砂鉄などから鉄を造る事も多く金属はかなり高価な物でした。
農民は木製の鍬や鋤などを使用していたようです。(出土した古民具が歴史資料館などに展示されています)
刃渡りが50センチも有るような立派な槍を与えたら、大喜びで戦の途中で戦線を離脱して槍を持ち逃げしてしまうと言う事も考えられます。
まして鉄砲などは論外で、農民兵に与えたりしたら確実に持ち逃げされて敵国や商人に売り飛ばされてしまうでしょう。

鉄砲は非常に高価なもので合戦の主力となるほどの数を用意する事は困難だったと考えられる事。
また、臨時の農民兵に熟練を要する鉄砲の扱いを訓練する事は実質的には殆んど困難であったと思われる事。
弓は有効な武器であり実践では大活躍をしたと考えられますが、弓の技能の習得は鉄砲よりもさらに難しく、兵の主力の農民が扱う事は鉄砲よりも更に困難であったと思います。
(沢山の敵がいる辺りを目がけて上空に向けて矢を放つくらいなら農民兵にでも可能なように思えるかも知れませんが、実際に殺傷力が有るような弓を射る事はそんなに簡単なものではありません)

更には、史実として残っている信長の時代の武器の変化の中に、通常の槍に対して有効な武器(新兵器)として「長槍」という武器が登場している事が上げられます。
(槍の柄の部分を長くする事で、白兵戦の際に敵の槍がこちら側に届く前に、先に敵を殺傷する事ができる)

上記のような諸事情を踏まえ、兵の主力(兵の殆んど)が農民兵であったという事も合わせて考えると、鉄砲や弓は非常に強力で有効な武器では有ったが、それらの武器を扱う事が可能な者(持たせてもらえる)は極一部の武士たちや傭兵に限られていたと考えられる。

城攻めなどに於いては火矢や大筒などによる攻撃が行われた可能性も有りますが、信玄と謙信の川中島の合戦野戦などのような野戦に於いては槍兵が横一列に並んで突進してぶつかり合うような白兵戦が戦の主流だったと考えるのが普通だと思います。

だからこそ速力と突破力に優れた武田の騎馬隊が最強軍団として恐れられていたのではないでしょうか。
(馬の速力をもって敵の放つ矢をかわし、雑兵の農民兵を蹴散らして突進して敵将を討つ事が可能)

川中島の合戦や姉川の合戦など、当時の合戦の多くは広く開けた河原などで行われていました。
他にも現代に伝えられている「〇〇ヶ原古戦場跡」など、平原や河原のような広く見通しの良い場所が決戦の部隊として選ばれていた事が分ります。

鉄砲や弓が合戦の主力であったのならば、河原の様な広く開けた場所ではなくて、矢避けや玉避けとなる遮へい物が多い場所での戦いになっていた筈です。

以上のような様々な状況や史実を組み合わせて考えると、戦国時代の合戦の様式はテレビドラマや映画などで描かれているようなに沢山の雑兵が槍を持って突進してぶつかり合う白兵戦が主流であったと考えられると思います。
(テレビや映画のシーンも当時の実際の戦闘シーンとはかなり違う物だったとは思いますが、白兵戦が主流であった事は間違いではないと思います)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
まずその方の根拠というか説明を書きますと…
(1)戦国時代の合戦は遠距離攻撃が主流であった
(2)現実問題として考えて、白兵戦を行えば使者が多数出る。そのため、合戦場は屍により病気が流行る。また、戦力は減少し、二度と合戦が不可能になるばかりか、白兵戦が主流であったならば日本の人口は10年足らずで壊滅してしまう。
というものです。
また、戦国時代の負傷原因は弓矢などによる傷が最も比率的に高かったそうです。

ちなみに騎馬隊はなかったというのが通説ですが…また旧説が盛り返したのでしょうか?

お礼日時:2011/05/04 17:31

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当方弓道をやっておりますので、知る範囲でお答えします。
威力と射程は矢により変化(一般的に矢重に比例する威力と、矢重に反比例する射程はトレードオフの関係)するので、弓自体の性能についてお話しします。

 一般論になりますが、弓は当然ながら”強い弓”をより引き尺をとって使えば威力・射程とも上がります。
しかし引き絞った時に強いからといって弓にパワーがあるというわけではありません。
 正確には、「引き絞っていく途中の加重の積分値」が弓のエネルギーになります。
(平たく言えば、弓の引き尺に対しての加重をプロットしたグラフの、その曲線の下の部分の面積)
 木製・合板の弓や単純な湾曲の弓ではこの引き尺と加重がほぼ比例します。(和弓もだいたい比例します)
 しかし、強靭な材料を使い、湾曲を複雑にすれば、この曲線を上に膨らますことができるので、前者の弓と引き絞ったときに同じ加重でも(つまり、同じ筋力の射手でも)、より威力のある矢を飛ばせます。
 
この後者の条件に当てはまるのが、騎馬民族系の大きく湾曲した弓で、トルコ弓などとも呼ばれます。
(ちなみにコンパウンドボウという現代の弓は非常に高効率、正確なことで知られていますが、この弓をヒントに作られました。)

 そのため形状で言えば単純湾曲弓より、上記のような特徴を持つ湾曲弓のほうが高性能でしょう。実際、トルコ弓の最大飛距離は実用の矢で400m、遠矢用で約600mだそうです。
材質は、木だけのものは、折れるのを防ぐため引き尺が取れず(ロングボウは折らずに引き尺をとるために長いのです)しなりが少ないため不利で、木竹をあわせた合板弓(和弓はこれ)や、さらにはより強靭な角・腱・革を使ったもののほうが高性能でしょう。

結論として、ご質問のものは時代はわかりませんが、騎馬遊牧民族系の弓だと思います。

和弓では、長い距離を飛ばす競技で最高400mという記録がありますが、これは専用の軽い矢を使った記録なので、征矢では最大でも200m位だと思います。
因みに和弓は、番える位置が中心より下寄りになっているため矢は先端をやや上げて飛行し、遠くに飛びやすくなっています。

有効射程となると一口で言うのは難しいですが、
~2,30m だいたい急所を狙える
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くらいだと思います。
威力ですが、フライパンぐらいなら結構簡単に射抜けますし、
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/kyuba.html
かつて明珍の鉄兜を串刺しに射抜いた人もいます。

書籍ですが、確か歴史群像シリーズの『北条時宗』で蒙古弓と和弓の比較をしていたと思います。
あとは検索で見つけましたが
http://www.coatl-head.com/arc.html
の『武器の歴史(Weapons)』(マール社)が詳しそうです。
キャッシュでしか見られませんが
http://72.14.203.104/search?q=cache:gEp-EUHAqMkJ:
www.if-n.ne.jp/member2/netdh/Item/mktext.pl
%3Fcorpus%3D0%26id%3DOTAwNjU
も詳しいです。

当方弓道をやっておりますので、知る範囲でお答えします。
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これは確立された兵制で、戦国時代は大名により、まちまちです。  旧陸軍参謀本部では昔の合戦の研究をしていて、戦国時代は30~50石あたり1人、中をとれば40石あたり1人の軍役と推定していました。   このころの非戦闘員の割合は、江戸の兵制より低く、10~15パーセントでないかと、思います。
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(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q戦国時代に乗っていた馬

戦国時代に武将たちが乗っていた馬はテレビとかでみて知っている 大きなものではなく
ずっと体の小さな馬だったと聞いたことがあるのですが 本当ですか?

だとしたら 迫力なくてしょぼい気がしますが…

Aベストアンサー

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできません。実際問題、当時の宣教師が残したものには「ヨーロッパの騎士は戦闘になると馬に乗るが、日本の武士は戦闘になると馬から降りる」と書かれてあります。馬ってのは基本的にかなり「高級な乗り物」なんです。皮膚が弱いので衛生状態をよくして世話してやらないとすぐ皮膚病になるし、水をちゃんと飲ませてやらないと便秘になってフン詰まりで死んじゃう。はっきりいえば、人間より手間がかかるんです。

さて、その日本の馬のしょぼさが明治近代陸軍の最大の問題になります。馬が小さすぎて物資や大砲を引っ張る駄馬はもちろん、騎兵馬がどうにもならない。しかも日本の馬というのは当時去勢されてなかったそうで、優秀な軍馬を集めようと明治陸軍が馬を一堂に集めたら、牡馬が一斉に盛ってしまって収拾がつかない大混乱になったと記録に残っています。
そのため、日本の内国産馬の育成の奨励のため競馬が行われるようになりました。JRAは元々は優秀な軍馬を育てるために発足したのです。
日露戦争でも、コサック騎兵で有名なロシアの軍馬に比べると日本の馬はかなり見劣りしたそうです。そのせいか日露戦争では騎兵同士の会戦というのはほとんど行われていません。日本軍があえて回避したようです。遡って日清戦争のときは「騎兵がしょぼい」のが悩みだったようです。
なにしろ、幕末の日本馬でもポニークラスなのに、それよりやや時代が古いナポレオンの軍隊の騎兵馬ときたひにゃ体重が800キロくらい(ちなみに今のサラブレッドが500キロくらいです)、こんなに大きな馬は日本ではばんえい競馬くらいです。重さ800キロが時速40キロくらいで突っ込んでくるんですから、ほとんど軽自動車が突っ込んでくるようなもんですわ。それを肉体で受け止めるスコットランド歩兵もどうかと思います。ワーテルローのネイ将軍の突撃は、さぞや迫力があったと思いますよ。

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできませ...続きを読む

Q戦国時代は戦の給与・武器と食料は誰が負担する?

 
 戦国時代、戦費は参加する人間負担だと言われます。

 (1)知行のある人間が、村々に割り当てして兵を徴収する訳ですが
  村から集まった兵は給与はゼロ、なしだんでしょうか? 
  もしも、給与ゼロだったら、当然略奪とか起こりますよね?
  給与ゼロだったら、戦いに参加したくないです。
  給与があったり、褒美があったり、略奪できて得るものがあれば別ですが。

 (2)村から集まった兵は、武器や食料は自分で準備したんでしょうか?
  農民は自分で食料や鉄砲など用意できないです。
  もし、各自負担だったら、食料を荷駄などでまとめて輸送はできません。

  食料や武器は、大名が用意するもんでしょうか?それとも各武将が用意する
  もんですかね?あくまでも各自負担ですか?


 (3)もし、食料や武器は各自負担だったら、まあ、統制は取れない軍隊になります。
  普通に考えれば、食料や武器は統一で運用したほうが、戦いは合理的に進められ
  ますが、 この辺は戦国時代はどのように運用されていたんでしょうか?

  詳しい人がいたら教えて下さい。

Aベストアンサー

えーとまず質問者さんの疑問に思ってる点が徐々に変化していったのが戦国時代ですので、戦国時代と一言で言っても時期・大名によって変わっていった時代です。
ですので概ねこんな感じといった概略を答えることはできても、実際どうだったかは個別その戦いを調べてみないとわからないでしょう。


(1)基本的に戦に行く事そのものに対する給与は0ですね。ただし職業兵としての足軽であれば足軽であることそのものに俸禄があります。農民兵はただのタダ働きですね。ですがなかには派手に金銭をばらまいて兵士を集めたケースもいくつかあります。
恩賞首を討ちとれば、当然褒美はあります。

(2)武器は基本的に武将が支給します、食料は数日(二日?)程度は自弁で持ち歩き、それ以上は基本大名が用意します。
なお当時の農村は武装しています。農民が丸腰になったのは秀吉が刀狩りしてからです。それまでは農民は各自武装して自分の村を自分で守っています。

(3)基本的に戦国時代の部隊で統制がとれているのは希ですよ。
食料や武器が統一運用できるようになったのはごく一部の大名であり、多くの大名は自国の領内もしくはその近隣地域に略奪してまわるのがせいぜいです。遠征戦をできるのはごく一部の経済的に裕福な大名で、それができた限られた大名が統一的に食料の調達や輸送ができたのだと思われます。織田・羽柴・毛利・武田・上杉といった大名でしょうか、各自強力な金蔓があります。なお徳川は関ヶ原のみ遠征戦を経験していますが、関ヶ原も道中の大名の協力のもと食糧供給を受けていて、おそらくそういった戦略輸送・戦略移動は極めて苦手だったでしょう。

えーとまず質問者さんの疑問に思ってる点が徐々に変化していったのが戦国時代ですので、戦国時代と一言で言っても時期・大名によって変わっていった時代です。
ですので概ねこんな感じといった概略を答えることはできても、実際どうだったかは個別その戦いを調べてみないとわからないでしょう。


(1)基本的に戦に行く事そのものに対する給与は0ですね。ただし職業兵としての足軽であれば足軽であることそのものに俸禄があります。農民兵はただのタダ働きですね。ですがなかには派手に金銭をばらまいて兵士を...続きを読む

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む


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