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新田義貞は源氏ですが、それほど家柄は高くない二流武士です。
そんな彼が、谷と海に囲まれ難攻不落と恐れられる要塞都市鎌倉を
いとも簡単に陥落させてしまうなんて、どんだけ強いんでしょうか?
当時、鎌倉は弱体化していたとは言えど、そう易々と負けるとは
意外に思えます。

新田義貞は、足利尊氏・楠木正成に比べると知名度はいまひとつで
それほど強いイメージもないんですが、新田義貞はなぜこんなに強かった
のでしょうか?

「新田義貞はなぜ強いのか?」の質問画像

A 回答 (2件)

No1の方も書かれていますが、鎌倉攻略時の主兵力は足利千寿王(のちの足利義詮)です。


主兵力は 足利家が旗頭であると信じて合流しています。

頼朝が石橋山の戦いで負けて、房総半島に逃れ、千葉氏の大勢力やらと合流したのと構造は似ています。
頼朝という旗頭があったので兵力が集まった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%BC%98% …

近畿圏に主兵力が出ていて、さらに 足利尊氏やら名越高家など追加支援に出ているから、すでに鎌倉は手薄だったんじゃないかなと。
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挙兵を聞くと越後、信濃、甲斐の新田一族がすぐに合流します。


義貞が一族の信望が高かった事が伺えるよに見えます。

実際には上野守護所の快勝で一族に喜んで旗を揚げさせたと言う見方が正しいようです。
(山伏から聞いたのでなく、本人が送り込んで応援を求めた可能性がある。)

ここまで7千騎だったのが千寿王と合流するとまたたく間に20万に膨れ上がります。

竹若丸は捕縛されて斬首されていますので、この旗頭の獲得は大きな戦果でした。
「この戦勝った。」と思った武将は少なく無いと心得ます。

高氏の庶長子の斬首を聞くと御家人は激怒した事でしょう。
頼朝を許した為に滅んだ平家同様で、鎌倉幕府も千寿王を取り逃がした為に滅んだのです。
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