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『江』を見ていて疑問に思った事があります。
お城の中で暮らす人々の部屋には鍵がかかってない
と思うのですが、いろんな人(使用人等)が住む中
盗難等なかったのでしょうか?

お城≒マンション のような物と理解してよいのでしょうか?

お初が後に結婚する人を城内でチラッと見かけた前回の描写から
自分の部屋を出る時は いわゆる部屋着では出れなかったのでしょうか?(誰に会うかわからないから)

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A 回答 (5件)

 明治時代、ハインリッヒシュリーマン、イザベラ・バードなど日本にやってきた人たちがいろいろな旅行記を書いていますが、旅館の、襖で仕切られただけの部屋でも、全然お金が盗まれないので驚いています。



 どの本だったか忘れましたが、数日間出かけて戻るために旅館の主にお金を預けようとしたら、「お預かりします」と言ってテーブルの上に置くだけだったので、盗まれないのかと聞いたら、「盗まれません」と返事をした。もどってきたら、置いた時とまったく同じようにお金が置かれていた、とか書いてありました。

 誰が泊まるか分からない旅館でさえそうですから、いわんや城内においておや。

 お城は、マンションではありません。質問者さんの家(個人の邸宅)のようなものです。そこへ使用人が小部屋をもらって住み込みで仕事をしているようなものです。

 自分の部屋から部屋着では出られなかったか、という記述はみたことがありませんが、たぶんそうでしょうね。

 篤姫でも、誰かが起こしに行くまで起きないでください、と言われたり、とこに寝たまま髪を梳かれたりしているシーンがありました。あんなものだと思います。

 ただ、城は、殿様の個人住宅兼仕事場ですが、女性たちが住む「奥」はいつでも誰でも行ける場所ではない(徳川時代の江戸城の大奥ほど整った制度ではないようですが)ので、顔見知りのお手伝いさんに対してでもよほど慌てたと思われたくないとか、「女のたしなみ」でそうやっているだけで、誰か知らない人に出逢うから、ということではないように思います(確証はありませんが)。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

詳しいコメントありがとうございます。
興味津津で楽しく拝見致しました。

自分なら、旅館の襖で仕切られただけの部屋に
寝泊まりなんて 絶対できないです。
鍵のある部屋が当たり前の生活に慣れてしまってて。

いろんな歴史の本をこれからでも読んでいこうと思います。

お礼日時:2011/05/18 21:24

平安時代に至っては、壁や襖すら無かったそうです。


せいぜい几帳と呼ばれる一種のスクリーンだけ。
視界は遮る事はできても音なんてだだ漏れだったそうです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます☆

とても私は生きていけません。。。

お礼日時:2011/05/18 21:11

 今も普通の日本人の家庭や集団では施錠はしませんね、無論、最小の事項(裸体や排泄、或いは性行為)以外はプライヴァスィへの方策ってないでしょう。


 そういう中での生活習慣ですかた。

 私も46年大学に居ましたが、最初であった学長は旧内務省からの次官ですが、お酒はすきでした。
 学長室で飲む事はなかったが、贈り物はすごくあった。すごくいい酒。
 若造で何でも許されていた我々は、夜になるとそこから勝手に持ち出し、のんでいました。
 学長に聞かれた時は、いただきました。で済みました。
 
 まぁそんなこともありますが、ゲンナマに手を出すなでした。
 そこらにおいてあるものはみんなのものでした。
 秘密ってのも余りなかったが、不思議に秘密はすぐわかりました。
 みんな親族みたいでしたね。

 どもも部屋の造りもみんな秘密や何かを取られないようになんて考えていなかった。

 学生寮:旧寮もみんな一緒。防犯はない。警察だけは来させない。一階が男子二階が女子。旧青年道場だから和式建築。防犯もプライバシーもない。
 新寮:同じ、個室は鍵がかかるが、誰も施錠しない。各階の要所要所に冷蔵庫があるが、そこに名無しで入れておくと、誰かが頂いてしまう。
 そんなことでがたがたいう人は寮生活はできない。お互い様。確保したいならちゃんと名前を書いておけばいい。
 日本はお互いプライヴァシーってないですね。そっと大事にするでけでう。施錠もしない。
 昔も今も、我が家は施錠しないことがあります。
 1920年代~1950年代はこの区道だって、通る人は近所の人だから、誰も施錠しない。日本の特質ですね。
 でももうそれは通じないな、いけない。泥棒される事は、決して無罪ではない、共犯ですね。気をつけます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます☆

みんな親族 そう考えると納得ですね。

今も施錠されない なんて、ビックリです。
帰宅したら即かっちり施錠してます^^

いろんなお話をありがとうございました

お礼日時:2011/05/18 21:14

ちょっとで盗めばその場で殺害だし、単なる使用人ではない


これが泥棒の抑止力となります。
使用人と言っても、親の代からとか、本人が生まれた時から付き従うというのが核になりますから、盗難なんてのは想定できない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E3%80%9C% …

侍女
須磨(すま)
演:左時枝
市の乳母。
ヨシ
演:宮地雅子
江の乳母。
サキ
演:伊佐山ひろ子
茶々の乳母。
ウメ
演:和泉ちぬ
初の乳母。

こっちの豪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%A7%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C% …
宇喜多騒動というのがありますが、要はもともと宇喜多家にいた家来と豪姫といっしょに前田家から宇喜多家に来た家来との衝突。
衝突するくらい大量の部下を嫁入りでは連れてきます。

※ 念のため
今回の大河ドラマは、まるでマンションにみんなが住んでいるように描写していますので、あれを史実あるいは、当時の様子だなんて信じないでください。
毎回大河ドラマのコメントを書いていらっしゃる方が、あまりにひどくてしゃじを投げています
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-category-20 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます☆

詳しいご説明 ありがとうございます。
楽しく読ませていただきました。

江 を見るにおいては そのまま捕らえてはいけない
と、いろんなサイトに書いてありますね。
でも 結構信じてしまってる 自分がいます(笑)

お礼日時:2011/05/18 21:29

元々江戸時代は生活が貧しく、


長屋やお城での生活は必ずお隣さんが見ているから、
盗難は少なかったはずです。
つまり盗むものがなかったので。

しかし一部のお金持ちは盗難の危険性を考え、
蔵に金品をしまいました。

お城にも蔵があります。

また侍は身だしなみが重要でいつ死ぬか分からないので
女性にしても朝から身だしなみはしっかりしていました。
農民は別ですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます☆

お隣さんの視線、それが防犯になるのですね^^

今の時代のように お隣さんを知らない 時代では
なかったですからね~

身だしなみ、私もいつもきちんとしておきたいです。

お礼日時:2011/05/18 21:19

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 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
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・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
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江戸時代になるまでの武士というのは、普段は農民でした。だから、当時の戦争は農閑期でなければ出来ませんでしたし、農業に影響を与える長期の作戦は不可能でした。これを「半農半兵」といいます。
このタイプの軍隊の長所は土地に根ざしたしっかりした組織なので精強だということです。武田軍や上杉軍、島津軍はこういった「伝統的軍隊」でした。

一方、織田信長は金で雇った足軽兵を中心にする組織にシフトしました。この軍隊の長所は戦争専門にやる連中を雇うので年がら年中好きなときに軍事作戦を行えることです。一方、よくいわれることですが、金で雇われるごくつぶしの集団なので士気が低く「負けそうだ」となるとすぐみんな逃げてしまうのです。#1さんも書かれているように、弱かったのです。
しかし、年がら年中戦えるというのはやっぱりメリットで、戦国時代も後半になるとこういった「戦争専門の軍隊」が主流になっていきます。
武田軍や上杉軍もこの時代の流れに無関心だったわけではないでしょう。しかし、甲斐や越後は田舎なのでそんなに簡単に人が集まりません。織田軍は、人とお金が充分に手に入る都会だったからこそ足軽に不足しなかったんですね。

さて、天下統一がなされると巨大な軍隊は不要です。多くの「傭兵」たちはリストラされます。秀吉は、朝鮮に出兵することでこの雇用問題を解決しようとしました。また、島原の乱には多くの「失業武士」が参加したのです。
同じことはずっと後の明治維新でも起きます。西南戦争はリストラされた武士たちの反乱でもあったのです。

江戸時代になるまでの武士というのは、普段は農民でした。だから、当時の戦争は農閑期でなければ出来ませんでしたし、農業に影響を与える長期の作戦は不可能でした。これを「半農半兵」といいます。
このタイプの軍隊の長所は土地に根ざしたしっかりした組織なので精強だということです。武田軍や上杉軍、島津軍はこういった「伝統的軍隊」でした。

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Q昔の性交の実態

現代社会では、モラル的な圧力で、第2次性徴が来てもまだ性交適齢期でないとか社会的に未成熟とか言う理由で抑圧しますが、昔はもっと自然に、子供が生める体になったら交わり始める、と言う感じだったのですよね?
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Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
結婚や出産の年齢の「上限」はありましたが、「下限」はありませんでした。
まあ、12歳前後になると、現代で考えると確かに未成熟ではありますが、その時代の風潮として、それ位の歳になれば、もう、周囲からは立派な大人扱いをされましたので、女性も、もう、そうした心づもりで嫁に行ったりしました。
まあ、お産については、大変な苦労があったと思います。出産の最中に死亡したり、産後の日だちが悪くて死亡したり、また、生まれて来る子どもも未熟児ですぐに死亡したり、と、苦労?も多かったのが実際でしょうね。

(よもやま話)
(1)ある大名家(判ってはいますが、ここではあえて伏せます)の嫡男15歳に政略結婚で7歳の少女が嫁ぎました。初夜の時に、乳母や女中連中が少女の股を無理やり、押さえつけて、開かせ、姦通させた、という話が残っています。(明らかに「幼女姦」)。
(2)また、男女が共に7~8歳前後で結婚した場合は、夫婦とは名ばかりで、10歳位になるまでは、遊び友だちでした。
(3)江戸の商家の娘になると、自由恋愛は全くと言って良いほどできませんでした。また、商家の娘は「箱入り娘」と呼ばれたように、自由に街中を歩くことさえできませんでした。
(4)現代のようにウインドショッピングを楽しむ場所もありませんでしたから、たまに、小物が欲しいと、街へ出ても、乳母や女中がお供をして出歩きましたので、自由にどこでも行くことは許されませんでした。
(5)では、着物や櫛(くし)、簪(かんざし)などが欲しいというと、大店の丁稚がそうした店へ使いに走り、店からの出張販売でした。
(6)江戸時代を例にとると、儒教の精神が上は将軍家から、下は町人まで、
「男女7歳にして席を同じゅうせず」
でしたので、武家はもちろん商家でも、双方の家柄や財産などを基に、親同士が決めた「許婚(いいなずけ)制度」で、特に、父親の権限が強く、父親の許可なしには結婚できませんでした。
(6)江戸の街には「分一(ぶいち)」と呼ばれる「仲人専門」の職業の人がいました。これは、結納金の十分の一が謝礼として貰えることから、そう呼ばれました。
(7)適齢期の男女を物色し、商家へ縁談を持ち込む。ただし、男は40歳前後まで、女は20歳まででした。となると裏をかえせば、10歳前後の結婚もあった、と言うことでしょう。
(8)「十分一(じゅうぶいち)取るにおろかな舌はなし」
と、狂歌にもよまれたように、「口先三寸」のやり手でした。
(9)また、逆に、将軍家や大名家の大奥では30歳になると「おしとね御免」と言って、夜の相手ができなくなる話はご存じだと思いますが、30歳位で妊娠すると、今度は、医療技術がお粗末だったため、高齢出産となり、母体の安全から子どもを作ることはできませんでした。ただし、町人などは、側室などいませんから、子どもを生むこともありました。
現代でも40歳以上になると、やはり、高齢出産と位置づけられますよね。江戸時代から400年余り過ぎても、医療技術が進歩したとはいえ10歳しか「上限」が上がっていない。
(10)ここには、主に、江戸時代で江戸の街を中心に述べていますが、地方(田舎)も似たり寄ったりでしょう。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
結婚や出産の年齢の「上限」はありましたが、「下限」はありませんでした。
まあ、12歳前後になると、現代で考えると確かに未成熟ではありますが、その時代の風潮として、それ位の歳になれば、もう、周囲からは立派な大人扱いをされましたので、女性も、もう、そうした心づもりで嫁に行ったりしました。
まあ...続きを読む

Q戦国武将の日常

歴史の、ああなった、こうなったばかり学んでいたのですが

ふと!武将って、日常の仕事は何していたのだろう?

などと思いまして

殿とか、城主なら、政務をやっていたのでしょうが

たとえば、武田氏の、山県さんや
羽柴の、蜂須賀さんみたいな人達は

日常は何の仕事をしていたのでしょう?

めっちゃ、初心者な質問で、ごめんなさい

ですが、ぜひ!教えてください!

Aベストアンサー

1、徴税
現代のサラリーマンのように所得を100%補足されてきっちり徴税されても、文句も言わず、一揆など考えたことも無い人々は、歴史上、奇跡的な存在です。現代でも、自営業者は何とか税を軽減しようと節税に努めますが、昔の人はもっともっと、税をきっちり払うことに抵抗があります。脱税・節税・控除枠の拡大に命がけなのが、歴史的には普通の人間なのです。まあ、今日に比べれば、福祉は極小、義務教育も無し、行政サービスがあまりにも少ないので、税を払うことに義務感が少なくて当然なのですが。
ですから、武士にとっても徴税は非常に骨の折れる仕事でした。農民の所得を計算するには、丈量検地と言って、田畑を実測するのが一番なのですが、これはなかなか受け入れられません。本当の収入は不明なまま、伝統的に、この土地の収穫または税収は○○貫、あの土地は△△貫と決まっていたのが、当時に多かった貫高制。ただし、作況によって税控除とか減税なんかあり、これが「農民」の側には節税の口実になるわけで、さらに、当時は農民も武装しているし、下級の武士は農民の側につくことも珍しく無いし。
武士は武力をちらつかせながら、交渉して徴税していたようです。特に畿内のような豊かな地域ほど、農民は団結して強いのです。
ちなみに、近代国家以前は、武力は徴税のための武力という側面も強いのです。中世の軍が、近代軍に比べて、戦争用としては不合理な組織なのも、徴税のために使われた面も大きかったからであります。

2、相続や縄張りの争いの裁定
武士社会は、相続や縄張りの争いが非常に多く、しばし流血に及ぶことが武士たる由縁でもあります。武士は、自分の一族の相続争いに苦しみ、さらに主君の相続争いに巻き込まれ、家来の相続争いの裁定を請われます。主君や有力者に運動をし、家来から運動を受けます。同じ主君を仰ぐ隣人との縄張り争いも、流血に及ぶことは主君から厳禁されてるので、これも有利な裁定を得るための運動の日々。村対村の争いもうまく裁定できねば、流血沙汰になってしまいます。

3、勧農とか行政
農民達に農業の振興を進め、また村祭りには太っ腹な所を見せて多額の寄付をしたり、人々の信仰を集める寺社にも寄付をしたり、大した行政サービスはしませんが、農民達にも「良い顔」を見せねばなりません。力だけでは支配できませんしね。

4、治安維持
領内の安全は当然、武士の責務であります。

1、徴税
現代のサラリーマンのように所得を100%補足されてきっちり徴税されても、文句も言わず、一揆など考えたことも無い人々は、歴史上、奇跡的な存在です。現代でも、自営業者は何とか税を軽減しようと節税に努めますが、昔の人はもっともっと、税をきっちり払うことに抵抗があります。脱税・節税・控除枠の拡大に命がけなのが、歴史的には普通の人間なのです。まあ、今日に比べれば、福祉は極小、義務教育も無し、行政サービスがあまりにも少ないので、税を払うことに義務感が少なくて当然なのですが。
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Q江戸時代の人はどうやって寒さをしのいだ?

今夜合気道の稽古に行きました。
寒かったです。

すると、稽古の後にある人がこう言いました。
「昔の人はどうやって寒い冬を過ごしたんだろうね」

私「ダウンとかないですよね。藁をかぶって寝てたんでしょうか」
「じゃあ戦のときはどうやって寝たんだろう」
私「うーん。野宿は無理でしょ」
「でも農繁期には戦はしないだろ」
私「いや、秀吉のころには兵農分離していたし、やったのでは?
昼間は広いところで戦っても、夜は農民の家や納屋で寝たのでは?」

「そんなに都合よく寝るところが見つかるかな。テント張ったのでは?」
私「無理です。大将は天幕張ったかもしれないけど、雑兵は無理でしょ」

「寒いけど我慢したのかな」
「我慢できるとは思えません。寒すぎますって」

すると別の人が言いました。
「江戸時代とか、かけ布団はなかったらしいよ」
私「そりゃ死にますよ。服を何枚も重ねたのですかね」

さて、実際の農民や戦場の武士はどうやって寒さをしのいで
寝ていたのでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんでした。
都市部では、火鉢と炬燵(行火)がごく普通の暖房設備でした。
火鉢や炬燵のある部屋に家族全員が集まって寒さをしのぐというのがごく普通の習慣でした。
部屋ごとに部屋全体を暖房するというのは、高度成長期以降の習慣です。

炬燵や行火が使われるようになったのは室町時代以降とされています。
火鉢は奈良時代から使われていました。
火鉢に使われる木炭は縄文時代からありました。
つまり、奈良時代から昭和30年代までの都市部の暖房というのは、主役は火鉢でした。
信長が秀吉の才能を注視するようになった切っ掛けは、城中で使われる炭を大幅に節減したことだったと言われています。
江戸時代の江戸の街の様子を描いた江戸名所図絵という書籍がありますが。
その中に、部屋の障子を全て開け放って、皆で庭に積もった雪を眺めている絵があります。
部屋の真ん中に火鉢が一つ置いてあるだけです。
江戸時代は現在よりも寒冷で、江戸でもよく雪が積もりました。(小氷河期と言われています)
あちらこちらで雪見という行事をやっていました。

台所などの炊事場には七論と呼ばれる煮炊き用の移動式の炉があって夏でも火が入っていました。
湯沸かし器がありませんでしたから、常時お茶用などのお湯を沸かしていました。
この移動式というか携帯形の炉は平安時代から置き炉と呼ばれて使われていました。
日中は必ず火が入っていましたので、暖房の役目も結果的には担っていました。

農漁村地帯では囲炉裏が唯一最大の暖房設備でした。
囲炉裏の周りに集まって寒さをしのいでいました。
現在、村興しなどで古民家を使って囲炉裏端での食事を提供していますので、機会があれば訪ねてみて下さい。

明治以降ストーブが普及した後はストーブが囲炉裏の代わりをしていました。
学校も教室にストーブが一つ置いてあるでけでした。
入学試験の際には不公平になるということで、ストーブは消してありました。
つまり暖房のない教室で試験を受けていました。
もしお祖父さんやお祖母さんがおられれば聞いてみて下さい。

明治になるまではウールという動物質の繊維製品がありませんでしたから、着物は木綿が主体でした。
木綿の入手が難しかった関東以北の地では麻が主体でした。
セーターという衣料品は明治以降に着られるようになった衣料品です。
木綿も麻も現在の衣料品に比べれば保温性が劣ります。

江戸時代には、着物は夏は一重と言って浴衣のような感じの着物でしたが秋になるとあわせといって、夏の着物に裏を付けて二重にしました。
和服というのは、糸を抜いてばらばらにして洗い、また縫い直すというやり方をします。
この為に季節ごとに一枚にしたり重ねたりということを繰り返して着ていました。
冬になると、この重ねた表裏の間に綿を入れた綿入れという状態にして着ていました。
この綿入れの綿の量を増やした掻巻(かいまき)、あるいは褞袍(どてら)というものを作って掛布団代わりにしていました。丹前とも呼ばれました。
掛布団が無かったのではなく、チャントその代わりの役目を果たすものがありました。

質問者さんが、江戸時代どころか、昭和20年代の家へ行けば、おそらく寒さに文字通り震え上がるでしょう。
簡単に言えば昔の人は寒さには強かったということです。

あとは、生活習慣が違いますので、一人で部屋にこもってゲームで過ごすなどということはありませんでした。
常に火のある部屋へ家族が集まって過ごしていました。

それと、人間はある程度寒さには慣れます。
これは外国人観光客の方にも見受けられます。
南欧以外のヨーロッパから来られた方やアメリカから来られた方は日本人よりもはるかに薄着です。
永平寺などで修業をされている僧侶も特に暖房もなく一冬過ごします。
寒稽古で頑張って下さい。寒さには直ぐに順応します。

戦国時代の武士の野宿ですが、当然焚火をして寒さを凌ぎました。
移動の際には、蓑と呼ばれる稲わらを重ねた外套を着用していました。
雪のある時期はお互いに足場も悪く体の動きも鈍りますので、余り積極的には戦はしていませんでした。
この当時の常識を破ったのが佐々成政のさらさら越えです。
命懸けで冬の立山を越えています。
常識外の行動でしたので、現在まで伝えられています。

人間の体というのは血液が循環していますから、手足を温めるだけでも寒さは凌げます。
焚火が効果があるのはこのためです。
湯たんぽもこの原理を応用したものです。
寒いなと思ったら手をお湯に10分ほど浸けてみて下さい、全身が温かくなってきます。
最近温泉地で足湯というのが流行っていますが、これも相当暖かくなります。

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんで...続きを読む

Q天皇の側室について

平成天皇、昭和天皇、大正天皇、明治天皇、、、、の中にも側室(二号さん)の子どもであった人が複数いると某雑誌に書かれていましたが、それは誰でしょうか。

 その場合、その側室である女性はどういう人だったのでしょうか。側室の人も公表されて系統図に残るのでしょうか。

Aベストアンサー

今上天皇
皇后・正田美智子…父:日清製粉社長 正田英三郎
側室なし

昭和天皇
皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
側室なし

大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
側室 権典侍・葉室光子…父:権大納言 葉室長順
    典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
    権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
    権典侍?・園祥子…父:園基祥

孝明天皇
女御・九条夙子(英照皇太后)…父:従一位関白 九条尚忠
側室 典侍・中山慶子【明治天皇の生母】…父:従一位権大納言 中山忠能
    典侍・坊城伸子
    典侍・藤原(堀川)紀子

仁孝天皇
贈皇后・新皇嘉門院 藤原繁子…父:関白 鷹司政熙
女御・新朔平門院 藤原祺子…父:関白 鷹司政熙、義父:関白太政大臣従一位 鷹司政通
女院・新待賢門院 藤原雅子【孝明天皇の生母】…父:正親町実光
側室 権典侍・観行院 藤原経子《和宮 親子内親王の生母》…父:橋本実久
    典侍・藤原研子…父:甘露寺国長

光格天皇
中宮・新清和院 欣子内親王…父:後桃園天皇
女院・東京極院 藤原婧子【仁孝天皇の生母】…父:勧修寺経逸
側室 内侍:菅原(東坊城)和子
    藤中納言局 藤原(葉室)頼子
    菖蒲小路局 藤原(姉小路)聡子
    小侍従局 藤原(富小路)明子

とりあえずちょっと遡って、正妃(皇后およびそれに準じた立場の人)と子供を生んだ側室を列挙してみました。

明治天皇の側室は、典侍、権典侍という身分のある「女官」です。
御所や皇居内に局や部屋をもらい、天皇の身の回りの世話(という仕事)をしていたと思われます。
天皇の子を妊娠した女性は、実家に帰って出産することが多かったようですが(お産は「穢れ」とされていたので、宮中で出産することはできなかったようです)、その後は、また「女官」として生涯宮仕えであり、天皇の子は、実際に自分が産んでも自分の子ではない-ということで、自分の子供にも「仕える」という形だったようです。

私も蛇足ながら…。
#2さんがお答えのように、今の天皇陛下(時々、名前を使って明仁天皇-という表記をされることもありますが)のことは、「今上天皇」、「今上陛下」というのが正しいですね。
明治以降の慣習からすれば、将来、「平成天皇」と言われるのでしょうか、51代の「平城天皇(へいぜいてんのう)」と紛らわしいような気がするので、本当に「平成天皇」になるのかなぁ-と思っています。

今上天皇
皇后・正田美智子…父:日清製粉社長 正田英三郎
側室なし

昭和天皇
皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
側室なし

大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
側室 権典侍・葉室光子…父:権大納言 葉室長順
    典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
    権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
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Q戦国時代の城内の様子について(図説)

お世話になります。
日本の戦国時代の城内の資料を探しているものです。
城の建築方法や、外側からの写真などを取り扱った書籍は良く見かけるのですが、城内の写真などが載っている書籍に巡り合えません。

当方が知りたいのは、城内の人間の生活空間が載っている図説のような資料で、
床の間・寝室・廊下・庭園・厠などが写真・絵などで図説されているものを探しています。
また、当時の城の資料でなくとも、和室・座敷などについて図説されている資料も、探しています。
写真集・ムック・コミックなど、書籍の種類は問いません。
上記のような書籍をご存知の方は、お教え願えませんでしょうか。
よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

「床の間・寝室」があるということは、城主の居館ということになりますね。
さらに「戦国時代の城内」と限定されていますので、徳川幕府成立1603年以前ということですね。
図書館で探してみましたが、見つけることはできませんでした。
居館は焼失したり、明治維新直後の城郭取毀令でほぼ全滅して現存しているのは少ないと思います。
また、絵巻にしても中世のものは多いですが、戦国時代の居館の内部が描かれているものは、ちょっと思いつきません。

大坂夏の陣1615年までの築城で現存している名城で、居館が現存しているのは二条城二の丸御殿ですが、すでに調査されているでしょうね。
二の丸御殿の白書院一の間は、将軍の居間や寝所に用いられたので、床の間や違い棚、障壁画もあります。
庭園は、枯山水なら年月が経過してもそんなに変貌しないでしょうが、植栽があれば、手入れされていても大きく変わってしまうでしょう。
また、戦争もあり手入れされていません。
学研の歴史群像名城シリーズ11二条城(142ページ)がよいと思います。
幕末の頃の庭園の写真も載っています。
なお、松本、彦根、姫路城など、みな居館は残っていません。
彦根城の表御殿は、取り壊しの直前に詳細な絵図面が作成されており、この図面を基に昭和62年再建されました。特に奥向きは、主要な座敷の床の間の周辺についての正確な「起絵図」があったので、忠実に再現することができたそうです。また、庭園も昔の絵図どおり再現したそうです。
学研の同じシリーズの6彦根城に詳しいです。

厠は、歴史的建物を見るときには必ず見るようにしていますが、城の厠は数年前に特別公開された姫路城天守地階のものを見ただけです。
城以外では、家老屋敷のものはあちこちで見ました。
旧中山道妻籠宿の脇本陣・奥谷では明治天皇用の雪隠を公開しています。パンフレットにも出ていました。
他の本陣でも見学コースで通るついでに見ることはできます。戸が開いていて、中をのぞくだけですが。
こんな感じです。
www.e-sagamihara.com/obarahonjin.html

「床の間・寝室」があるということは、城主の居館ということになりますね。
さらに「戦国時代の城内」と限定されていますので、徳川幕府成立1603年以前ということですね。
図書館で探してみましたが、見つけることはできませんでした。
居館は焼失したり、明治維新直後の城郭取毀令でほぼ全滅して現存しているのは少ないと思います。
また、絵巻にしても中世のものは多いですが、戦国時代の居館の内部が描かれているものは、ちょっと思いつきません。

大坂夏の陣1615年までの築城で現存している名城で、居...続きを読む


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