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こんにちは。

原則的にはクリスチャンのみにお答え頂きたいですが、自分の意見に誠がある方のみクリスチャンでなくてもお答えをお伺いします。
何卒、よろしくお願い致します。



終末にはイエス様が来て世を裁くとあります。この時、羊は御国へ、山羊は地獄へ行く事になりますが、御国とは何で、地獄とはなんで、羊とはなんで、山羊とはなんだと思いますか?


聖霊を冒涜する事以外の罪は全て赦されるとありますが、イエス様を信じない事は赦される事に含まれていると思いますか?
つまり、イエス様を信じなくても結局は赦されて天国に行く事になると思いますか?


私自身、夜も遅く頭も回っていない為、今思いつくのはこの2点だけですが、キリスト教の存在意義について一度自分の考えをハッキリさせたいと思い、この質問を立てさせて頂きました。
よろしくお願い致します。

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A 回答 (17件中1~10件)

>自分の生活習慣が悪くて病気になり、自分の生活習慣のどこが悪いのかも解っていながら改める事をしない人は結構居るのです。

改めるのがストレスだからです。これを踏まえ「既に裁かれている」のであれば、これ位で済むなら全く問題ないと考える人がほとんどなのではないでしょうか。「既に裁かれている」に反論しているのではありません。現に聖書にそう書かれていますし、私自身の体験もそれを証明しています。ですが、それが聖書に書かれている「裁きの全容」だとするなら、裁きなど全く問題ないです。改めたいと思った時に改めようと思います。それが現代人の普通の発想ではないでしょうか。

ご指摘のように悪い習慣を改めるのは当人にとりかなりのストレスであるということはうなづけます。前にも書きましたが神学を学んだわけでもなく、自分の体験を通してのみ回答せざるを得ないので自分のことを書くことをお許しいただきたいと思います。自分がクリスチャンで無かった時はどうだったろうか思いめぐらしますが、その第一の特徴は自分に罪があるなどとは思っていないということでした。しかも自分はまじめで善人だと評価していましたから、他のクリスチャンの方々から見たら、悪臭紛々であったと思います。つまりご質問者さんが述べられているお友達あるいはお知り合いの現代の人たちにとり、罪の痛みや裁きの結果が回答の通りであるならば問題ないと考えることも至極当然のこととしてうなづけます。そもそも「罪」の意味が分かっていないからです。

罪を理解するというのも実は体験だと思います。お友達には罪を罪と知る体験が無かったということをご理解して差し上げる必要があると思います。聖書にある通り「罪の報酬は死です。」と言う通り彼らは罪を犯し続け、自分たちがすでに死んでいるということに気づいておりません。彼らは丁度死んだ魚と同じで、人生という河の流れに流されて最後は腐って骨だけが海底に沈んで行っているそのような存在です。なぜならば生きている魚は急流を上り、自分の目的地にまで登ってゆくことができるからです。

罪の生活は何か構築されているように見えても実は大きな音とともに崩れ落ちてゆく時が来ます。お友達があるいは現代人がなにか真に確かなものに触れますと今までの罪の世界が跡形もなく崩れ去る現状を心のうちに見ることができると思います。それは回答者の体験でもありました。罪とはおおきなものであれ、小さなものである放っておきますと全体を破壊します。

「神は命を捨てるほどにこの世を愛された、それは一人として滅びることなく、永遠の命を得るためだからです。」と言うのは本当ですが、聖書やイエスと無縁の人にとってはまた意味もない言葉であるということもまたわきまえております。これはご質問の「非信者にとってのキリスト教の存在意義って何でしょうか」と言うこととも関連してくると思います。ご質問者さんに出来ることは少ないと言わざるを得ません。おそらくその方のために「祈る」しかないように見えます。

>そして、仏教にも全ての人の罪を一身に背負って死ぬ仏様が居ます。

確かにその通りで、一般人の中に人のために命を捨てる人がおりました。昔、三島由紀夫という有名な小説家がいましたが、国の将来を憂いて市ヶ谷の自衛隊駐屯地に数人の同志とともに突入し、檄文をバルコニーで読んで、自決しました。国のために自分を捨てることが彼の使命であったというよりもとにかく彼は死に急いでいたように見えました。今回の地震に伴う津波でも多くの方が他の人を救うために命を落としました。そのような意味ではイエスも特別ではないと言えなくもありません。イエスはしかし自分が殺されることを認識したうえで十字架に付けられるまで苦しみや恐怖や不安を乗り越えて私ども罪のために死なれたというのが聖書の見解と思います。

しかしここ話が少しそれますが、イエスが私たちの罪のために十字架において自ら命を捨てたということは、私どもクリスチャンはもう自分の命を捨てる必要が無いということではないでしょうか。だから、たとえ命を失うことがあってもイエスの求めた生き方を実践してみようとしたこの回答者は決心した後30年以上も生きてきたのではないかと思います。つまり私どもがつかんだ真理をお友達に説明する時もご自分で死んでみせる必要はなく、ただイエスのもとに連れてくれば良いだけです。キリスト教と言う教えや決まりごとに連れてくる人がいますが、それは第一義的なことではないと思います。

またご質問者さんのご質問をお読みして、神は私どもの心の内に良心を創造されてその後この世に送り出してくださったと確信させられます。その結果イエスキリストを知らない人でも、聖書を一度も読んだことが無い人でも、心の奥底に正しく生きたいという願い、罪を犯したくないと言う気持ちが生じるのではないかと思います。神様が私どもの心に良心を書き込んだということに感謝したいと思います。ご質問者さんがいみじくも書かれておりますように、キリストのある側面をクリスチャンで無い人が知っていることがあるというのはまさに心に書き込まれているイエスキリストの心ことではないでしょうか。もしそうであるならばキリストをキリストととして明確に認識していなくてもキリストはその背後にあるわけですからキリスト抜きに赦されるということも言えなくなるのではないかと存じます。またさらにいみじくも書いておられますが、「誰もキリストの全体を理解することはできません。クリスチャンもキリストの一面しか知らないのです。」、まさにその通りでございまして、回答者が軽々しく理論的なアプローチを試みるということはイエスキリストを十字架から引きずり落としてしまうことになりかねません。しかし神は愛ですから、どのような議論を挑んでも彼はたじろぎもせず、私どもが理解できるまで待ってくれるはずですし、それこそ天的な方法で啓示してくれるはずです。求めなさいしからば与えられるであろうというのは聖書の理解が与えられるであろうとも読めますし、さらに信仰が与えられるとも読むことができます。不足するものがあるならば祈り求めなさいということだと思います。

従いましてキリスト教の存在意義がなくなってしまうというご質問者さんのご質問に対しては繰り返しですがイエスのところにお友達の非信者や現代人をお連れするということになるのではないでしょうか。その後お友達や現代人の方のイエスキリストを理解する度合いに応じてキリスト教の存在意義が増してくるのだろうと思います。

>裁きとは永遠の地獄の火に焼かれるとか、そういう恐ろしいものでない限りは、キリストを信じなくても結局は赦されると考え、例え赦されなくても信じていない事自体が既に裁かれているという様な痛みの伴わないものであるなら、それが解った時に改めれば良い、それまでは気が済むまで遊ぼうではないかという事になると思います。では、聖書に書かれている永遠の地獄の業火に焼かれるとか、そういう事はやはり死後起こるのでしょうか。そうだとすれば、聖霊を冒涜する罪以外の全ての罪は赦される(その他同義の箇所含む)と書いてあるのはどういう意味か。

聖書で死後の裁きの結果がどのような世界かを記載した個所としては以下の個所があると思います。

ルカによる福音書16章19~31  ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

聞いても聞き入れない人が多数存在しますということは、聖書でも認めていることでありますが、絶対にあきらめないで語り続けるというのは私どもクリスチャンの務めと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>罪を理解するというのも実は体験だと~
私も罪を理解するのは体験だと思います。

友達も知人も死んでいると言えば死んでいるのかもしれませんが、実力というか行いでというか、思考というか、心の美しさというか、とにかく「自分に帰属する要素で判断するなら」私こそ死んでいます。彼らと違う要素があるとするならキリスト教徒であるという事くらい。これがそれほど大きな事でしょうか。
私がした体験では、「最大の罪はキリストを信じない事」でした。もちろん、体験にも個人の器や洞察力など様々な要素が関わってくるので、それが神様からみてもそうなのかどうかは私は断言しません。しかし、私の体験に対する私の主観としては間違いなくそうでした。
でも、行いや思考、心根は私は私の周囲に居る人たちとそれほど変わらない。ある部分は優れているであろうし、ある部分は劣っているであろうと思います。
そんな状態の私が彼らについて「死」という言葉を用いるのは気が引けてなりません。

結局「祈るしかない」「諦めない(疲れない)」というところに落ち着きましょうか。
仕事や勉強で忙しく、聖なる行動の不足から聖なる経験が不足し、いつのまにか頭でっかちになってしまっていた様です。
経験さえしていれば自ずと答えはそこに見いだせるものだと思いますから。

さて、どうしたものでしょうか^^
「ちょっと良いですか~?あなたワ、神ヲ、信じマスカ?」などと街角で言って回ってみましょうか^^
私にとってキリスト教って、体験が必要なので、体験なくして言葉でどうこう言って伝えるというのがどうも理解できないというか、なんというか^^;

お礼日時:2011/05/22 22:40

回答にコメントをいただきありがとうございましした。



>友達も知人も死んでいると言えば死んでいるのかもしれませんが、実力というか行いでというか、思考というか、心の美しさというか、とにかく「自分に帰属する要素で判断するなら」私こそ死んでいます。彼らと違う要素があるとするならキリスト教徒であるという事くらい。これがそれほど大きな事でしょうか。

同じキリストをご自分の生活の礎にしようとしている方が何か足踏みをしているような時、とてつもなく気になります。Apostleさんはお名前が示すようにイエスに従ってゆきたいというお気持ちがあるようで、大変うれしく思います。時には疲れることも、結果が出ないで落ち込むこともあると思います。しかしイエスは私どもの最終の保証人ですので、安心してこの道を求めてください。聖書の約束の通り「将来と希望と平安を与える」という約束を体験されると思います。

>私がした体験では、「最大の罪はキリストを信じない事」でした。もちろん、体験にも個人の器や洞察力など様々な要素が関わってくるので、それが神様からみてもそうなのかどうかは私は断言しません。しかし、私の体験に対する私の主観としては間違いなくそうでした。

私もApostleさんと全く同じ罪を犯してきました。それでも神様はあるとき自分のみじめな姿をより明確に示してくださって、古い自分に決別する決断を与えてくださいました。クリスチャンの生活は今でも今後も常に古い自分から新しい自分に作りかえられてゆくことと思います。罪を犯しても悔い改めるならば赦していただけるというのは何と幸いなことでしょうか。

>結局「祈るしかない」「諦めない(疲れない)」というところに落ち着きましょうか。仕事や勉強で忙しく、聖なる行動の不足から聖なる経験が不足し、いつのまにか頭でっかちになってしまっていた様です。経験さえしていれば自ずと答えはそこに見いだせるものだと思いますから。

疲れた時はお休みください。教会の友人にも言うことですが、教会の奉仕がつまらなく、疲れを覚えるのであれば、休んだ方がいいのでは無いですかと申し上げています。神様は私どもがよろこんで何かをなさることを喜んでおりまして、苦しんで奉仕したりすることは全く望んでおりません。伝えたくないときは伝えなくてよろしのではないでしょうか。

>さて、どうしたものでしょうか^^「ちょっと良いですか~?あなたワ、神ヲ、信じマスカ?」などと街角で言って回ってみましょうか^^私にとってキリスト教って、体験が必要なので、体験なくして言葉でどうこう言って伝えるというのがどうも理解できないというか、なんというか^^;

伝道の実際は時代とともに変わります。私どもが神様のことをどんなに伝えたくても現代の町を歩く人は私どもの声に耳を傾けるほどの時間的余裕がございません。したがって燃えるような信仰を持ってそれに押し出されるまではとどまってエネルギーを蓄えるという時間も必要ではないかと思います。あるいはご自分の信仰に応じて最適の方法を選択なされればよろしいかと存じます。

いろいろ書きまして気に障った文言がございましたら、お赦しいただけますようお願いいたします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

もちろん疲れた時には休みます。
ありがとうございました^^

お礼日時:2011/05/23 19:54

Ano.2.7.12.14です。

「洗礼なくして救いなし」については(マタイ伝28:19 ヨハネ3:5など)で充分と考えます。他に明記されているところもあるでしょうがここでの主題ではありませんね。
ご自身がカトリック教徒であることを示さずに教会批判を求めたりすることも不思議ですが、聖書を読み通した回数でその理解度を主張なさることは大間違いです。もしそれが正当ならばカトリック教会の中には貴方よりも多くの方々が「聖書読み返し回数の記録」をお持ちのはずです。その方々のご意見に従うべきではないですか?
貴方ご自身が自ら考えるべきことは、多分「聖書の中に異教徒をも意識的に含む人々への愛が明瞭に主張されているか」、「異教徒への不寛容の度合いが時代と共に変わる理由」などでしょう。すなわち、異教徒への不寛容が「教え自身にあるのか」と「教会の政策にあるのか」でしょう。後者であるならば貴方にご努力の甲斐があるかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

特に自分がカトリックである事を隠していたつもりはありませんし、自分がどこの教派に属しているかなど気に留めてもいません。そして「教会批判を求める」と仰るのも何を意味しているのか解りかねます。

また、聖書を読んだ回数で理解度を計ろうなどとも思っていません。
ただ、一度も読んだ事がない箇所の多い人たちがものすごい自信満々な姿をかなり見てきているので、正直少々うんざりしているだけです。
それに、最低でも一度は読んだ方が良いと思います。
大きく偏った知識で勢いよくこられても困るのです。

freuleinさんの仰る「異教徒への不寛容」とは何を意味しているのでしょうか。


文章でのコミュニケーションなので、少々先走ったり、飛んでみたりする事も時と場合によって必要だとは思います。
でも、誤解や思い込みを相手に押し付けるのと紙一重なので、お互いに気をつけましょう。

お礼日時:2011/05/22 22:08

ANo.2,7,12です。

「洗礼なくして救いなし」のキリストの教えは新約聖書のあちこちに記載されております(例 マタイ伝28:19 ヨハネ伝3:5など)。これらが教会設立とその主張「教会の外に救いなし」の根拠だったはずです。貴方が  <<それを悪だと言うつもりもありませんが、だからといってそれを真理だとも思わないのです。>>  とおっしゃることには二つの問題があります。それらを吟味なさることが「個人的なキリスト教理解」に先決するべきでしょう。
第一は「聖書の文言に個人的解釈を自由に加えることでキリスト教が正当に成立するか?」であり、次にご希望の「キリスト教流布」のためには「異教徒への不寛容が特に有効とされてきた理由は何か」でありましょう。
お気楽なキリスト教理解をなさるお積りはないのでしょうから、これらの点をよく吟味なさることをお薦めします。キリスト教の世界では古くから論議されてきた問題でもありますから、先行文献がいくつもあるはずです。ご自身でよくご勉強なさることでキリスト教への理解が進むことを期待します。
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この回答へのお礼

こんにちは。

マタイ28:19もヨハネ3:5も「教会の外に救い無し」と名言している箇所ではありません。それを言いたいのであれば、もっと他に相応しい箇所がいくつかあります。今はどこだか直ぐには思い出せないので書きませんが。

そして、それをfreuleinさんが持ち出したと仮定して話を進めると、そう書いてありますが、「赦される」とも”確かに”書いてあります。
どうして「教会の外に救い無し」の部分だけがそのまま受け入れられ、「赦される」の部分は解釈が付け加えられるのでしょう。

私は「教会の外に救い無し」色の強い教会にかなり深入りし、そこの信者さんたちとも沢山沢山話しましたが、結局は「はじめに自分たちの理解という解釈ありき」の読み方しかしておらず、結局は平行線のままで終わりました。

その人たちの自信もかなりのものでした。日本人ではなく外人だったので言いたい事は単刀直入にすべてそのまま言う事ができ、結構突っ込みましたが、正直知能レベルというか、聖書解釈に対する誠実というかを疑いたくなる答えが殆ど、その他は単なる強引に見えるだけでした。
※一応言っておきますが彼らとは今でも友達です。彼らが来日する際には遊びます。


freuleinさんもかなり自信がおありの様ですが、例として出してくる聖書の箇所は彼らよりも的外れに見えます。聖書は全部読まれましたか?また何回読まれましたか?
彼らにはマニュアルの様などこそこにこう書いてある的なリファレンスがあり、それに従って読んでいるのでつまみ食い読みですが、そのリファレンスがまぁまぁ良いのでそれなりに聖書知識があります。
私は通しで3回、部分読みは数えきれません。
最近はご無沙汰中なので記憶の出し入れが遅くなっていますが、それでも聖句を書かれればそれが聖書の文章か否か位は解ります。
freuleinさんは如何でしょう?
失礼な問いかけで申し訳ありませんが、聖書を読んでいない人の中の多くが自信過剰なのを見ているので確認したく思いました。

お礼日時:2011/05/21 22:52

再度のご質問ありがとうございます。

いろいろなご質問が行間に隠れているように思いましたが、以下のご質問だけに集中したいと思います。

>「裁き」とは何でしょうか。。。

聖書には「罪の支払う報酬は死である」と述べられておりますが、裁きの不都合な面は裁かれることにより永遠の死に至るということです。しかしもしあなたがクリスチャンであれば裁きは永遠の命の通過点でありでしかありません。聖書によれば人は一度死ぬことと死んだ後裁きを受けると書かれています。従いまして死は天国と地獄との分岐点と言えるものでもあると思います。

しかしここでは現実的でないことは避けたいと思います。つまりこの地上にあるときでさえ私どもは天国の生活の一部を生きています。またある方は地獄の生活の一部を生きています。クリスチャンの人生は天国の一部を生きているということを申し上げたいと思います。

また回答者がクリスチャンで無かった時の人生は地獄のような生活であったということができます。イエスを知らない時の生活は、自己中心、放蕩、高慢、悪意、ねたみ、絶望、虚無、無目的、争い、不信、など思いつくままの悪い生活が全て該当するような生活でした。これは地獄と呼んでもおかしくない人生でした。つまり回答者は生きていながら裁かれてすでに地獄の炎に焼かれておりました。世の中に苦しみのあまり自殺する人もおりますし、苦し紛れに人を殺す人もおります。まさにそのような心的状態は地獄です。

しかし神の恵みにより回答者に回心の時が訪れ、この意味もない様な命ではありましたが、たとえ死ぬようなことがあってもイエスの生き方に従ってゆこうと決断した時でした。突然抑えきれない歓喜に包まれました。その後誰に相談するまでもなく聖書の話、イエスのお話をすることが楽しいことの一つになりました。洗礼も受けておりませんでしたが、語らずにいられないというのはこのようなことだと思います。その動機は自分が楽しいことももちろんですが、だれでも自分と同じ毎日が楽しい幸いな人生を送ることができるということが分かったからです。重要なことはキリスト教という教えではありません。イエスキリストを自分の内に迎えるということだと思います。今までの自分が自分から出てゆき、生活の中心にイエスが座るようになったのです。イエスは教会の中だけ、聖書の中にだけに存在しているのでは無く、あなたの心の内を住まいにしています。もし心のうちにイエスキリスト住むようになれば儀式やお祈りや交わりは第2義的なことになります。この点はご質問者さんと同じではないかと思います。ただし、同じ考えを持っている人たちとともにいることはこれもとても楽しく幸いな時を提供してくれることでもあります。

ご質問者さんが感じておられるように、仏教でもイスラム教でもなんでも良いのだろうというのはよくわかります。つまりイエスキリストの生き方と合体することができるのであればどんな知識を持とうが関係ない様に思えます。ただし、私どもにとりもっとも重要なものは「愛」であると述べ、愛とはその友のために命を捨てることであると述べてきたものが実際に自分の命を十字架において捨てたという歴史的事実を知るならば、そのイエスについて書かれた聖書はおのずと私どもクリスチャンにとり他の宗教書とは重さが大いに異なると思いますが、いかがでしょうか。

つまり私どもはこの地上にあってすでに裁かれています。地獄の苦しみを味わうように裁かれた人、あたかも天国にいるかのごとき幸いな人生を与えられるように裁かれた人、そのどちらかに分かれているという意味が「裁き」の一側面です。

回答者プロテスタントのクリスチャンで統一教会、エホバの証人、モルモン教とは関係ございません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自分の生活習慣が悪くて病気になり、自分の生活習慣のどこが悪いのかも解っていながら改める事をしない人は結構居るのです。
改めるのがストレスだからです。
これを踏まえ「既に裁かれている」のであれば、これ位で済むなら全く問題ないと考える人がほとんどなのではないでしょうか。

「既に裁かれている」に反論しているのではありません。現に聖書にそう書かれていますし、私自身の体験もそれを証明しています。

ですが、それが聖書に書かれている「裁きの全容」だとするなら、裁きなど全く問題ないです。改めたいと思った時に改めようと思います。それが現代人の普通の発想ではないでしょうか。

そして、仏教にも全ての人の罪を一身に背負って死ぬ仏様が居ます。


裁きとは永遠の地獄の火に焼かれるとか、そういう恐ろしいものでない限りは、キリストを信じなくても結局は赦されると考え、例え赦されなくても信じていない事自体が既に裁かれているという様な痛みの伴わないものであるなら、それが解った時に改めれば良い、それまでは気が済むまで遊ぼうではないかという事になると思います。

では、聖書に書かれている永遠の地獄の業火に焼かれるとか、そういう事はやはり死後起こるのでしょうか。
そうだとすれば、聖霊を冒涜する罪以外の全ての罪は赦される(その他同義の箇所含む)と書いてあるのはどういう意味か。




クリスチャンにとってキリスト教は生き甲斐、全て、大いなる喜びの源、その他この類いの事ですから、クリスチャンにとってキリスト教の存在意義を考える必要はありません。ですが、非信者にとってのキリスト教の存在意義って何でしょうか。。。
やはり「そんなのあるわけない」の一言で終わってしまうのでしょうか。
なんとかして伝えられたら。

お礼日時:2011/05/21 22:35

ANo.7です。

重ねて申し上げます。キリストの救いは洗礼を受けた者だけが対象です(幼児などを対象に一部例外が論議されていますが)。
「洗礼なくて救いなし」の検索を、あるいは「教会の外に救いなし」の検索をなさることをお薦めします。キリスト教内部でも深刻な論議があるようですが、根本的にこれも「神の教えの一部」なのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

正直に申し上げると、私個人的には教派などはほとんど気にしないのですが、一応所属している(洗礼を受けた)教会はカトリックです。
「教会の外に救い無し」の語調は一昔前のカトリックが一番強いのではないかなと思っていますが、それを見ても「人が勝手に付け足したんじゃないの」と考えている部分の方が大きいです。

もちろん、何かの形にしないと人には伝えられませんし、広める事はできませんから、それを悪だと言うつもりもありませんが、だからといってそれを真理だとも思わないのです。
「神の教えの一部」と仰いますが、私の理解としてはそれは間違いではないが、より厳密に言うと「神の方便としての教え(導き方)の一部」であると思うのです。
だから隣にそういう人が居ても全く大賛成ですが、その反対の隣に大反対をしている人が居たらその人にも大賛成です。別に意見や考えがない八方美人な訳ではなく^^;


私には父(肉の)は一人です。
お隣には私の父よりも色々な説明が巧く、優しく、カッコいいお父さんが居るかもしれません。
でも私の遺伝上の父は唯一一人です。どんなに隣にステキなお父様が居ようが、私が属するのは私の父だけです。
これと同じ様に、私はキリスト教に属しています。
仏教の方が真理を巧く説いている部分があるかもしれません。ですからそこから(隣のお父様から)も学ぶ事はできます。
でも私が属しているのはやはり私の父(キリスト教)です。
ですから、私自身にとってキリスト教の存在意義とかは考えるまでもありません。
それは私が属している物であり、喜びも試練も全てそこから来ます。


ですが、「非」信者にとってキリスト教の存在意義が見いだせない以上、伝える力があまりに弱い。
キリスト教について相談したり話したりする事が大きな喜びである私にとっては生き甲斐の激減とも言える大打撃です^^;
だからといってちゃんと納得もしていない「教会の外に救い無し」などと言う自分を想像したら吹き出しちゃいそうです。
困った状態なのです。。。

お礼日時:2011/05/20 21:27

追加質問がございましたので、



>森の事を知る為には時には木一本一本についても知る必要があります。

お説の通りと思います。森も木も詳細に調べた結果浮かび上がってくるものが重要と思います。それはおそらく聖書の主題ということになるのだと思いますが、回答者の見解では「神は愛である」ということなのだと申し上げたいと思います。

>因に、「私が話した言葉がその人を裁く」とはどういう意味だとお考えですか?もう少し具体的に書いて頂けると幸いです。

聖書で語られているイエスの言葉や行いに接することがなかったら回答者も罪について悩む必要がなかったと思います。つまりイエスの言葉や行いが回答者をさばいたように、他の人々の行いや考え方をさばいたと思います。「燃える思いを持って女性を見たものはすでに姦淫を犯している」という言葉にそんなことはないといえる男性はほとんどいないと思います。

>全体を通して、cincinnatiさんは全ての罪は結局は赦される→キリストを信じる必要は必ずしも無い、的な結論をお持ちですか?

理論的にキリストを信じなくても自分の罪が赦されていると考えることはできると思います。神学を学んだ者ではないので、自分の体験しか語れませんが、あるときクリスチャンになった瞬間がありました。その時は聖書の言わんとしていることが分かったという体験でもありました。その時私は聖書に書かれていることと自分の内側から生まれてくる考えが一致したことを理解しました。つまりイエスキリストを知らなくてもこの内側から生まれてくる考え方は理論的にはどなたにもイエスキリスト抜きでも起こりうるのではないかとご質問をうかがいまして、考えている次第です。つまり実に殺風景ですが、すべての罪はイエスキリスト抜きでも赦されるのかもしれないとぼんやりと考えています。道理でクリスチャンでない方の中に偉大な人が多くみられるという現実が分かるような気がします。

ただし、個人的にはイエスキリスト抜きに罪を赦された今の自分を考えることができません。罪の許しをイエスキリストの霊を通して体験したともいえるからです。またイエスキリストにより罪を認識するようになったという種類の罪はイエスによってのみ赦されるのではないかと思います。

回答者はいまとんでもないことを書いているのではないかと恐れますが、聖書によれば「真理はあなた方を自由にする」と述べています、どのような議論でも吹き掛けていただいても神はたじろいだり、前言を翻すような方ではございません。最後には真理だけが残るのではないかと思います。最後に聖書の言葉を贈ります。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ヨハネ14章6節
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この回答へのお礼

ご回答本当にありがとうございます。

「イエスが話した言葉が終わりの日に人々を裁く」に関するお答えは、頷けます。
私は過去に強烈な宗教体験をいくつか持っており、そのあまりの強烈さに裁きとか、色々な物について他人から聞く理解を遥かに超えて強烈に考えてしまう傾向があると思います。
ですから、お答え頂いた様な理解は当然私も通りましたが恐らくあっさりと通り過ぎてしまっていたのだと思います。今ここに来て改めて示されると確かに頷ける事は頷けます。
それで。では「裁き」とは何でしょうか。ただ罪とは何かを知った時に自分で自分を裁いた時に感じた心の痛みでしょうか。それで全てなら何も恐れる事はありません。
ただ一時期痛い思いをしてこの世よりは改心も善に生きるのも簡単そうな天国ではじめからやり直せば良い事です。それができない/異常に難しい様な境遇に置かれる事が「裁かれて地獄に落とされる」という事なら何としてでも「今ココ」で改めなければなりません。
「裁き」とは何でしょうか。。。


私は「キリスト抜きに罪が赦される」とは思いません。
「キリストを意識的に信じるという行為が伴わなくても赦されるかもしれない」と考えているだけです。
赦しには必ずキリストが関わっていると思います。ただこの場合の「キリストの定義」が大きいのです。
真理=キリスト、命=キリスト、愛=キリスト、万物の源=キリスト。これは聖書にハッキリと書かれています。
それではキリスト以外の物がどこにありましょう?
仏教の説く真理だってキリストじゃないですか。
誰もキリスト全体を余すとこなく示す事も理解する事もできません。
だとすれば仏教という側面、道教という側面があっても良いのではないでしょうか。その延長線に「人が生まれつき持っている道徳観」もあります。
つまり、人が人の持つ自然の誠を信じればそれはキリストを信じているとは言えまいかという事です。
繰り返しますが、誰もキリストの全体を理解することはできません。クリスチャンもキリストの一面しか知らないのです。だとすればクリスチャンが知っている一面とは別の一面を知っている人がそれを信じていればそれはキリストを信じている。
私にはこういう思想があります。

だから、「キリスト抜きに赦される」という思想があるのです。改めて言いますがこの場合所謂キリスト教としてのキリストという意味です。

さて、この時に「キリスト教の存在意義がなくなります」。これが困ったところなのです^^;

お礼日時:2011/05/20 21:10

>もう少し簡単に仰って頂けると助かります。



ネバー・エンディング・ストーリーの原作者(映画のクレジットから自分の名前を外させましたが)のミヒャエル・エンデは モモ って本を書いたんですね。

時間泥棒のお話。

灰色の男たちに人々は時間を盗まれてしまい、みんなの心から余裕が無くなってしまった。
モモが時間泥棒からみんなが奪われた時間を取り戻すって物語。

その中に登場するジジってのが観光ガイドで、客に嘘八百を並べてガイドをしてお金を取るんです。
人々は虚実皮ひとつなジジの描き出す世界を、笑いながらも楽しむんです。

彼曰く

「学者の本に出てくる話だって、ただのつくり話かもしれないじゃないか。ほんとうのことは、だれも知らないんだもの、そうだろ?

ほんとうだとか、うそだとか、いったいどういうことだい? 千年も二千年もむかしにここでどういうことがあったか、知ってるやつがいるってのか? 

え、あんたはどうだい? 知らないさ  ほらみろ!そんならどうして、おれの話がうそだなんて言える? 
ひょっとすると、ほんとうにそういうことがあったかもしれないじゃないか。
そうだったら、おれの話は、正真正銘の事実だってことになるよ!」


こういう説明をされてしまうと、思わず彼に詭弁にうなづいてしまいそうになる。笑

ただ、エンデは、こういう人の存在もありだと思っていたと思う。
人の心をゆたかにする上では彼のやり方は、存在意義がある と。

それは、<果てしない物語>や<モモ>の作品が、読み終わった人になにか良い影響を与える そんなものと同質のものだってことじゃないかと。

そのジジも時間泥棒に時間を奪われてしまい、もう上のようなことは言わなくなり、「忙しい」「忙しい」と切りきり舞になってしまい、モモとお話をすることができなくなった。


で、あなたは忙しいんですよね。 
考えている時間が無いので、答えだけを知りたい と。

答えは最後にあるのではなく、途中にあるんです。

その途中をすっぱぬく つまり 答えをすっぱぬいては、答えはわからないんです。


考える時間も心も無い。
それは ひょっとして、灰色の男たちに時間を奪われてしまったからじゃないのでしょうか。


古代より人間は真理というものを探してきたことは、いろいろな神話(聖書も含む)をみても明らかです。
結局 今にいたるまで真理が何か言い当てることはできていませんが、それでもあれこれ言い続けるってのは、諦めが悪い というのではなく、あると信じているというより あるとわかっているから、探そうとするのではないかと。

真理=幸福。

個人の幸福と国家(集団)の幸福が等しくなれば、天の国が地上に降りてくる わけです。
天の国は死んだ後いくところではなく、生きている今現在。
今現在が天の国になることを、古代より人々は願い、試行錯誤してきた。

その過程のひとつがキリスト教。
そのキリスト教が世の中を縛り、人々から自由を奪ったという歴史もありますが、ジジのように夢を与えて、真理を求めることを人々が断念しないようにしてきたという側面も持っている。


    そういう意味ではキリスト教は<存在価値があった> と言えると思います。


だぁ これでも長いですよね。
「時間無いから手短に」と言われると、あなたは自分の人生を一言で、他人がわかるように言い表せますか?と質問したくなります。

努力している人に「成果が出ていないから、お前の努力は価値が無かった、まったくの無駄なものだ あなたの存在もまったくの無駄 あなたは存在価値は無い」と言えますか? 

言えるのなら、その人は時間泥棒に時間を奪われてしまった人ってことになります。
生きていないってことです。
この世にもどこにも、その人は存在していないってことです。
存在するためには不可欠な時間が奪われたから、存在していないってことになる。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かに、私は時間泥棒さんに時間を盗まれています*^^*
でも、それを踏まえてもkigurumiさんの話し方はもう少しなんとかなるとも思います。
。。。というあたりが”心を奪われている証拠”かもしれませんね。。。はぁ。。。
いや、でもやはりもうちょっとはなんとかなる筈。。。いや~。。。はは。。。^^;

うーむ。
一つの存在意義が明らかになりましたが、まだもう一声強烈なのが欲しい気がします。
何せ私自身にとっての存在意義ではなく「非」信者にとっての存在意義ですから。

わがまま/無理言ってすみません^^;

お礼日時:2011/05/20 20:52

カトリックのクリスチャンの者です。

専門家ではありませんので、キリストを信じる一信仰者として個人的な意見をお伝えしたいと思います。

【一点目の質問】
一点目の質問には御国と地獄という非常に大きな二つの問いかけと、付随する羊と山羊についての合計四つの質問が含まれているかと思います。羊と山羊の話は神様がみんなにして欲しいなと思っていること、これを御心とも言いますが、その御心を行う者と行なわない者の例えです。御心を行った羊は御国に入り、行わなかった山羊は御国に入ることができない(これを地獄と定義するのかどうかはちょっと分かりませんが・・・)と書かれています。そこで、この御国と地獄、羊と山羊という四つの疑問が出てきたのかと思います。

この大きな四つテーマすべてに答えることはできないので重要な箇所のみ、私なりの意見をお伝えしたいと思います。

さて、御心を行った人が御国に入るとここでは書いてありますが、では神様の御心とは一体何かという大きな問題が生じます。この聖書の箇所はその事、つまり神様の御心とは何かを伝えたいのではないかと思います。

羊と山羊の例えの後、『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25章40節)という言葉で結ばれています。ここでいう「わたし」とは神様の事であり、最も小さい者とは、文字数制限のため引用はしませんが、上記マタイ25章40節までの間に登場した弱い立場の人、病気や経済的な弱者から、牢屋にいる罪人を指します。そして神は、最も小さな者たちに良く振る舞った人の行いを『わたしにしてくれたこと』と祝福を与えるのです。最も小さな者は、ここでは神様そのものとして描かれており、本当に弱い人々にも目を注ぎ、共に寄り添って下さる神の姿が表現された一節かと思います。

さてここまで説明しましたが、改めて御心とは何か。この聖書箇所をもとに整理をすると、どんな人にも分け隔てなく接すること、困っていれば救いの手を差し延べることであり、神様がお造りになり、愛しておられる一人一人の人間を全身全霊で愛することなのだと私なりに理解しています。

御国や地獄がどのようなものかは、行ってみない事には分かりませんが、そこに至る道を神様は隠すことなく示されていることは、神様を信じる者にとってまさに福音と言えるでしょう。

【二つ目の質問】
さて、二つ目の質問、「イエスを信じなくても赦されるか」という問いを読みがら「イエスを信じるということは一体どういう事なのだろう」と日々の信仰を振り返っていました。

私自身の確信を述べるなら、イエスを信じることとは、イエスが示されたまことの神の愛を信じることなのだと私は考えています。

「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(ヨハネの手紙一4章8節)

この言葉に集約されるのかなと思います。
そして、イエスが示された第一の掟、思い行いのすべてで神を愛すること、そして第二の掟、隣人を愛することにあると思います。信じる信じない、と言葉で宣言することは簡単です。信じているといっても行為が伴わないのなら、引用した聖句にあるとおり、神を知らないものとされるのです。イエスを信じるとは、そういう要求を伴うものだと考えています。

【その他】
キリストを知らないものが救いを得られるか、という問いをご関心をお持ちのようですが、その問いに対するカトリックの公式見解は教会憲章16条が参考になるかと思います。こちらに文章が掲載されていますのでぜひお読みになってみて下さい。

http://sugano-hp.web.infoseek.co.jp/sei/lg-0.htm

答えになっておらず、また乱文乱筆深謝致します。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

細かな違いはありますし、他にもありそうですが、概ね一致していると思います。
「非信者にとってのキリスト教の存在意義を知りたい」私にとっては「キリストを知らない者が救いを得られるか」が目下のところ第一優先です。
お示し頂いたURL、時間ができ次第拝見させて頂きます。
ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/20 00:22

No1です。

質問者様は深くお考えのようですね。
私は聖書に書いてある一説というのは、かつてキリストの聖人がキリスト教を
広めるために言った文言にすぎないと思っています。

深く読めば読むほど聖人は「本当に聖人の振る舞いか?」と思うような
話がでてきます。かつて地球が丸くない時代に、「信者になれば地獄へ行かないよ」という
宗教創世記によくある勧誘文句ではないでしょうか?だから洗礼を受けていない人は全て山羊に
なるということです。キリスト教を知らないのに信仰心がキリスト教と合致していてもです。
つまりこういう思想は差別的思想でキリスト(神)が訴えたいこととは違うと思います。
かつて宣教師が江戸時代の日本に来たとき、新井白石とのやり取りで
宣教師が自分の信仰解釈が間違っていたと白石に気づかされる場面があります。
「あなたがた野蛮人は・・・」と、信仰していない人を野蛮人扱いしています。
長くなるのでこれ以上書きませんが、つまりたとえ信仰していても洗礼を受けていない人(キリスト教をしらない人)は等しく蛮族になってしまうのです。

また、唯一の神が天国や地獄というようなことを人間に説いた時点でそれは神ではなく悪魔でしかありません。神がつまらん損得勘定(天国へ行く、地獄へ行くという二元論)で物事を考えるでしょうか?
それがまかり通るならイスラム教原理主義者が説いている、「聖戦で死ねば天国で13人の処女に囲まれて生活できる」という童貞男子なら涎を垂らして喜ぶような話も信じなければなりません。

まぁ確かにあなたの考える通り、論理的に解釈をしていくと誰が羊で、誰が山羊か
解らなくなってきて当然ですね。
また、信仰者でない人にこういう話をするのは好きではありません。
非信仰者から見ればやはりただの御伽噺でしかないからです。

>ちなみにですが、天国と地獄をおとぎ話と仰るgadovoaさんは
キリストの復活もおとぎ話だとお考えですか?

そうです。私だけではなく、私の通っている教会の司教もそういいます。
当然普通はそんな話は人前で言いませんが、キリスト教の魅力は「復活や終末」ではありませんよね?
なぜマザーテレサが人々から尊敬されたか?彼女が「復活や終末」の話を病に伏せている人に説いていたとは思えません。つまり「犠牲」こそがキリスト教の魅力だと思っています。
キリストは罪をかぶり犠牲になった。それが我々がキリストのように真似して敬虔に生きなければならない所以の部分であり、キリスト教を信仰していく糧になる部分だと思います。(黄金律)

私よりも非常に深く考えている人も多いようなので
戯言だと思って読んでください。
思考が深い人と対話ができてよかったです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

私の知りたい「キリスト教の存在意義」は”非信者にとっての”なのです。
私自身にとってはキリスト教は不可欠ですから。

宣教の過程で本来別にどうでも良い筈のある種のタブー作りや教義の狭義化などは人間の使用する言語の性質上仕方ないかなとも思います。
が、それはあくまで方便であり、真実ではありません。
そこに突っ込まれたら「方便です」と正直に答えるしかない。これが私が宣教の類いを一切していない理由の主なものです。

でも、キリスト教団には必ずしも属する必要は無いと思うが、キリストには是非触れてほしい。絶対に命であり愛でありそれはすなわち全てであるという事が解るからとは思っています。ところがキリストを伝えようとすると突然いきなり手詰まり。
これがもどかしいのです^^;


私にとってキリスト教は魅力があるから属する物ではありません。
もちろん魅力もあります。
でも、それが真理であると直観したからなのです。それにはキリストの復活も含まれています。地獄は知りませんが天国も存在すると直観しました。

お礼日時:2011/05/20 00:16

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Qキリスト教における聖人

キリスト教において、聖人の果たしてきた役割とはどんなものなのでしょうか?「聖人」という存在自体についての説明も、わかる方お願いします。

Aベストアンサー

高校がカトリック系だったので、カトリック系のことしか詳しくは知らないのですが。
No.1の方もおっしゃっていますが、プロテスタントには、聖人というものはいないようです。これは、おそらく、簡単にいえば、
「神の前では人は平等。神がある特別の人を選りすぐって、他の人間より崇高である、などということはない」
というのが、プロテスタントの根幹にある考えだからです。したがって、プロテスタントでは、牧師さんも一般信者と対等な関係としてみられていて、皆をまとめる「まとめ役」ではあるが、他の人間より精神的に偉いわけではない、ということになっているようです。

この、ある意味徹底された「人間は神の前では平等」の思想は、一応カトリックにもあります。ただ、カトリックは、そう説いておきながら、「教会・宗教者の方が、一般の信者よりも宗教的に偉い」という考えをあからさまにして、腐敗してしまったことがあったため、その反感から生まれてきたのがプロテスタント、という感じです。ものすごく単純にしてしまっていますが。
カトリックは、ピラミッド型の教会組織を持っており、さまざまなことに関して「上が認定する・認定しない」、ということが絡みます。聖書の翻訳やミサで使われるお祈りの文章に関しても、ちゃんと認定されて統一されたものが使われます。拡大解釈などで、カトリックの名をかたりながら、違う教えを教えている、というような事態を避けるためです。
つい最近の話は、主の祈りの日本語訳が、古語訳から分かりやすい現代語訳にあらためられました。

そして、聖人に関しても、偉大な僧がなくなると、その人を聖人として認定すべきかどうか、ということに関してバチカンの方で会議を開くようです。一回聖人として認定した後、実は裏で不正をやっていた悪者だった、などということが発覚すると教会の権威が失墜しますから、一回の会議で済む問題ではなく、その人の一生の身辺調査を十数年以上かけてやるとかいう話を聞いたことがあります(ここ、不正確です)。
まぁ、いずれにしろ、一回の会議で済むような話ではなく、相当綿密な調査が行われるようです。
どんな人が聖人になるかとういうと、殉教者・宣教師・修道会を開いた人、などが聖人になるようです。
聖人、というと、年取った男性をイメージしますが、神父とは違い、別に男性である必要もなく、年をとっている必要もなく、純粋に「聖人」に値するかどうかだけで決まります。
15歳で夭折して聖人になった聖ドメニコ・サヴィオもいますし、女性では、聖xxx修道女、聖xxx乙女殉教者、などが多くみられます。
聖人は、亡くなった日が「xx聖人の日」となります。365日、ほぼすべてが「xx聖人の日」など、何らかの記念日になっていて、その日に生まれた子は、その日の聖人の名前がそのまま名前・クリスチャンネームなどに反映されることがあります(もちろん、そうでない場合も多いですが)。
http://www.pauline.or.jp/saint/

高校がカトリック系だったので、カトリック系のことしか詳しくは知らないのですが。
No.1の方もおっしゃっていますが、プロテスタントには、聖人というものはいないようです。これは、おそらく、簡単にいえば、
「神の前では人は平等。神がある特別の人を選りすぐって、他の人間より崇高である、などということはない」
というのが、プロテスタントの根幹にある考えだからです。したがって、プロテスタントでは、牧師さんも一般信者と対等な関係としてみられていて、皆をまとめる「まとめ役」ではあるが、他の...続きを読む


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