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哲学は物理的法則であれ、化学的法則であれ、生物的法則であれ、人間社会の法則であれ、・・・、全ての法則を支配する更に上位の法則、様々な概念を統率し説明するより上位の概念を探求する学問であるから、哲学は哲学以外の学問の上位に位置する学問である。
哲学をこのよーに考えるのは正しいか。
世の中で現実に行われている哲学はどーあれ、本来の哲学とはこのよーなものであると考えるのは正しいか。
 

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A 回答 (6件)

人の道を求め、世の無常を知る。


と(自己紹介に)書いてありますが。
その、無常、が知恵=哲学 の方向を決める、分岐天、ポイント、
になる筈です。
日本人の無常観、というのがありますが。
どうも、平家物語の
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理を現す。
奢れる者も久からず、ただ春の世の夢の如し。・・
が基になっているようです。
だとしたら、無常、という概念の誤解、曲解、と言えます。

仏教(釈迦の思想)が正しく伝えられていたなら、あるいは正しく理解されて
いたなら。
祇園精舎の鐘の声
一切業苦(人間の一切は苦であると、知恵によりて見る者は自らの苦悩を癒す)
の響きあり。
沙羅双樹の花の色、諸行無常(あらゆるものは変化する過程として、今、あるのみ)
の理を現す。
となる筈です。

同じような事が、色即是空、という言葉にも見られます。

色即是空、とは3世紀頃か、鞍羅磨汁が、仏教の神髄として、
(諸行無常と一切業苦を一緒にして?)
色形あるものは、移ろいゆく空しいものである、というような意味で漢訳した、
そう誤解されるような漢訳をしたようですが
7世紀に玄奘三蔵が漢訳しインドから持ち帰ったとされる。
般若心経の、舎利子、以下の一節では、そういう意味にはなっていない
(本来の釈迦の理法に戻っている?)
色不異空 空不異色  色(形あるもの)と空(実体のないもの)は異ならない
色即是空 空即是色  色=空 空=色 である
受想行識 亦復如是  人間の(精神活動の)在り方も、同様である

舎利子           シャーリプトラよ
是諸法空相        事象は空(実体のない変化を起こすもの)によって現れる
不生不滅         相、 単位×空(=縁)によって起こる相、つまり、今が変化、
不垢不浄         転化した、次の今、であり、(空や色が)新たに生まれたり       
不増不減         消滅したり、することはなく。善悪美醜を評価したりするような
               ものではなく。
               単位全体としては、増えることも減ることもない
               色×空=一定 となる。

 
是故空中無色 無受想行色 無、無、となり。無意味?、な文章が続きますが。
何故、空、と、無、が並存しているのか。イントの思想でり、どちらかは、ゼロ、の概念であるはず
です。原典訳では、二種類はなかったように、記憶します。
空か無、どちらかが、ゼロ、の概念であるなら、もう一方は「×1」不確定の概念になります。
無=×1 というのは、古代中国の「老子」の考え方なのです。
玄奘は老子を知っていた、理解していた。老子を当てはめた。と考えると。何故この一節だけが
突出した、別品の理論、になっているのかが納得出来ます。

老子の
道は道にして常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず。

無を天地の祖になずけ、有を大地の母に名づく、
もって無はその檄をしめさんと欲し
有はその嬌を誇示せんとす。

意味は、道(とう、世界を在らしめている、根元存在、法則性)
とは。
道=道である。しかしそれでは、道-道=0 であり。存在にならない。

道が1(いっ)なる存在となるためには
道×(1/道)=1 とならなければ、一つの存在単位にならない。
道が存在するためには、(1/道)としての、常でない道、が一体に
なっていなければならない。
名は名にして常の名にあらず。「老子」の2章がその説明になっていますが。

人々は善は善であると考え、善が悪であることを知らない。・・とへー:ゲルの弁証法の説明?
なっていますが。
善=善 では存在、名、にならない。善×(1/善)=1 として一つの名となる。
そして(1/善)は悪と名付けられる。善と悪は一つの名の両面であり
善=悪 善×悪=一つの名、=概念 となる。と言っているのです。

さて、
無はその檄を現さんと欲し、有はその嬌を誇示せんとす。
無=檄、実体のない、能力方向性 であり
有=色形あるもの
となり。
有=無 であり
有×無=1(いっ)なる、存在となる。と言っています。

有=色 無=空 と置き換えると。

般若心経の、色即是空、の一節と、全く同じ事を言っている。
全く同じ理論、考え方になっている。
と言うことになります。
漢訳仏教に、一(いっ)の悟り。などと云うのがあるように。
玄奘は釈迦と老子を結びつけた。無神論者の代表とされないでもない、
老子の思想を取り入れることによって。神の宗教に、転落?していない
漢訳仏教の一派もある、ヒンズー教、ばかりとも言えないようです。

現在は哲学は存在しない、マルクス主義、マルクス弁証法が、哲学そのものを
道連れに滅んだ。というのが、私の若い頃の認識でしたが。

この世界の在り方起こり方と合致する考え方としての哲学は、釈迦と老子
の知恵、考え方の中にある。と思います。
釈迦を蓮の台座、(本人にとっても、最も居心地の悪いであろう)から、ひきづりおろし、
哲学=考え方 の師とすることが必要かどうか?。
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私は哲学ってものはフィロソフィだから愛智だと思っていたんですね。


ぼんやりと、真理ってものを希求する学問だと思っていた。
そして人間倫理と言い換えることができると思っていた。



『正しい判断をするためにどう考えればよいかを探る学問』

うーん 惜しかったなぁ と思った。

正しいことを探るのではないく、どう考えればいいかを探る という、、、いわば、心のおいしいケーキを作るには、どの材料がいいか材料を吟味するってのが、ケーキ職人の哲学?
幻のおいしいケーキを作るには、どの材料がいいかって、幻のケーキのおいしさがどういうものか知らないと、材料を吟味できません。

うーーーん、 困ったぞぉ。

サンデル氏は、真理はこうだとは人類は決定できていないが、今までできなかったが、これからもできないと思わず、できると信じて哲学をやっていきましょうって。。。

うーーん 心に良いと思うものが真理だとすると、ひとそれぞれに真理は異なってしまうと、真理には普遍性が無いことになり、、、

そうじゃなくて 誰にとっても心に良いものが真理であるべきで、、、
ねぇ。。。

誰にとっても正しいってことはなに?
どうやれば誰にとっても正しいことだって判断できる?
意見を聞いてみんなが賛成すればただしこと?
それは全員の本心だって、どうやってわかる?

うーん わからなくなってきたぞー。笑


>哲学は哲学以外の学問の上位に位置する学問である。

というより超越した(支配下においたって意味で、いわば 憲法の前文みたいなもの)ってものであるべきなんじゃないかと。

哲学って人間倫理のことだと思う。
だから医療倫理、政治倫理、経済倫理(なのあったっけ?)と人間が行うことすべてにおいて、ただやるのではなく、心に善いことをやることが求められていると思うんです。

良心ってものがあり、自分の幸福だけのために他人を利用して利益を得て「みんなだってそうだろう 自分のために生きているんだろう。自分を幸せにするために生きているんだろう」と言った人がいたとする。

だけど「みんなだってそうだろう」と言った段階で、自分のやった行為に罪悪感は抱いているってことで、その人の心の中に良心はちゃんとあるわけです。
しかし、良心の声は聞こえていたが、その声に従えなかった。
だから どんなに利益を得ようと、常に不安でしょうがなく、その人は益を得ても心によいことをやっていないので、心は満たされないわけです。

政治でも経済でも経営でも、心に善いことをやるってことが、幸福になる秘訣だろうと思います。

私も悩み苦しみ心の声が聞こえないまですさんでしまうことがありますが、心の声はそれでも私に語りかけてくる。
今思ったんですけど、私って しあわせ なんだ。
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この回答へのお礼

>哲学って人間倫理のことだと思う。

kigurumiさんに一つゆーておきたい。
人間倫理とゆーものが単独で存在するわけではありません。
人間倫理が何かを人間が決めることは出来ないし、決めると間違いを生みます。
人間倫理とは宇宙の法則、自然の掟に逆らう事ではなく、従うことである、これが一番正しいです。
このよーに考えると人間倫理が何かは常に目の前に開示されています。
ちっとも難しいことではないと思います。
 

 

 

お礼日時:2011/05/20 18:51

それは大きな勘違い。



基礎を作る土方職人と、柱を建てる建前大工、そして屋根を葺く瓦職人は、それぞれの仕事場の高度が異なるが、職に上下は無いんじゃ。

むしろ瓦職人は土方職人や建前大工に大きく依存しているね。
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「本当の哲学」など、必要ない。


この世界を構成する情報は、物理だの科学だの、生物学、
地学などと、分かれて存在している訳ではない。
相互作用で結ばれた、ただ1つの存在に他ならない。
ただ我々の認識力の不完全さによって、分けて考えないと
扱えないだけであって。
ただ、「見聞きするものの認識を深める」事が全てだ。

究極的には、我々の日常の感受の向うに、自我仮説(時間)
と時空仮説(空間)の相補分化(~階層現象表面的定性化)
として、自己の必要(ただし原理的にまで遡った)としての
環境性を見、その一環としての他我化(社会生命的自覚化
=愛)において、自律的な生を果たす事だ。
(自由意志(完全充足)+最大生存(最大繁栄)=最大充足)
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この回答へのお礼

>究極的には、我々の日常の感受の向うに、自我仮説(時間)
>と時空仮説(空間)の相補分化(~階層現象表面的定性化)
>として、自己の必要(ただし原理的にまで遡った)としての
>環境性を見、その一環としての他我化(社会生命的自覚化
>=愛)において、自律的な生を果たす事だ。
>(自由意志(完全充足)+最大生存(最大繁栄)=最大充足)
 
この独特の言い回し(恐らくこれはブータンヤマト語の一種であろーと思われる)を、
日本語に翻訳してみよーと思う。

人間が生きて行くために必要な環境が何であるかを見い出し、他者の心を知り生きて行くことによって自身の生を果たすことが大事である。
(最大多数の最大幸福 - ベンサム )
 

お礼日時:2011/05/21 21:30

永遠の青年じゃなかった永遠の幼児の仁野みっちゃんよ、そりゃ違うで。

哲学っちゅうのは、

 井戸の蛙が空うち眺め 四角なものだと議論する

ちゅうもんだ。また、あるお偉いさん曰く、

 「アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者がむずかしさをよそおったのは、空虚な事柄に箔をつけて、われわれの精神にうつろな、肉のない骨を与えてしゃぶらせ、好奇心を満足させるためでなくて何であろうか。クレイトマコスは、カルネアデスの著書から彼がいかなる意見をいだいていたかを全然知ることが出来なかった、と言った。エピクロスが著書の中に平易を避け、ヘラクレイトスが《スコテイノス》とあだ名されたのはなぜだろうか。難解さは、学者が手品師のように自分の技倆のむなしいことを見せまいとしている貨幣であり、愚かな人間どもはこれで簡単に支払いを受けたつもりになる。

彼はあいまいな言葉のために、むしろ愚かな者の間に有名である。、、、
なぜなら、愚かな者は難解な言葉の下に隠された意味を見つけて感嘆し、これを喜ぶからだ。」

また、別の方曰く、

「されば、かかることは東洋にもように多くありしにて、死んだらどなるもんだろうか、天地は何の処に生ずるくらいのことは、村翁、馬子といえどもいうことなり。何ぞこれを哲は徹なりとかいうて、小むつかしく哲学哲学というべきや。いわば、一理屈こじつけたというほどのことにて、それは諸子というほどのことなり。故に小生は、ギリシャ・ローマの哲学なというものは、決してそんなにえらいものにあるずということをいいしなり。何やら哲の字にくらまされて、なにか御光のさしたるようにおもうもおかしければ、子学というなり。フィロソフィールズとあらば、哲学者などといわずに、諸子というて可なり。また、サイエンチストも、理学者とか科学者とかいえども、中には得手勝手な無用のもの多し、必ずしも理を論じ科を分つにもあらず。これ百家と訳すべし。諸子百家の学ということ、『史記』の甘茂列伝、また『漢書』の武帝の挙士の詔にもありしと見え、支那の古えは多くありしことなり。インドにはなお多し。」

また曰く、

「予のいうところは、西洋人の口吻にならい、タレスが地は水より成れりとか、またエレアチック派の輩が、予輩は何ごとも保せず、否、予輩は何ごとも保せぬということも保せぬとか、また、アリスチップスが、人は目前のも楽しまばすむことなりとか、ゼノーが人の行くは行くにあらずといい、プロテランドラスが善悪の性は空気にありて具わり、それを心でうつすときはたちまち善たちまち悪なりなどこじつけたことは、余輩、これを釈迦や竜樹のちゃんと一貫して述べたる、それこそ哲学ほどのものとは決して思わず。」

なんてえのも参考になるんじゃないかな。
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何を探求するか、その課題が私であったり、存在や時間であったり、或いは死生であったり、徳であったり、あるいは神や魂であったり、言語であったり、現象であったり、様々な対象があります。

それぞれ掘り下げて考え、あるいは俯瞰で考え、複数で議論したり一人で思索にふけったりしているが、そのどれもがその本質に迫り得る。

哲学、とりわけ形而上学がすべての学問の上位に位置しているという考え方は、ギリシャの時代のものです。実際には上位であろうが下位であろうがそんなことは気にもかけず、知りたい事を知ろうとする、それが学問なのであり、その対象によって、形而上学であるとか、自然科学であるとか、或いはその他諸々の学問であるとかに分けられるのでしょう。哲学が学問の王様であるという考え方は、きっとアリストテレスの影響でしょう。実際、自分の学問分野が王様であろうが奴隷であろうが何であろうが、真理の探究者はそんなことにはこだわらないでしょう。
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この回答へのお礼

 
>実際には上位であろうが下位であろうがそんなことは気にもかけず、知りたい事を知ろうとする、それが学問なのであり、・・・

なるほど真理を探求するものは、自惚れてはならんし、卑しんでもいけない。
全くそのとーりであり、「人の道」はそのよーに説いております。

一方、哲学とは何かについては人によって答えが同じではなく、哲学とは捉えにくいものとゆーのが現実です。
それゆえ専門的に哲学する者でさえ、簡単に方向を見失ったり、あらぬことを考えたりすると言われるのです。
それ故哲学が対象とするものは何か、またその対象をどのよーに探求するのか、哲学的方法とは何かはっきりとした自覚を持つ必要があり、間違えてはいけないのです。
 

お礼日時:2011/05/19 22:41

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