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先日、ボロボロの身なりの老人(浮浪者)を見かけました。時々、町をぶらついています。ぶつぶつ独り言を言っていて、ちょっと頭がやられてしまっている感じです。こわくて近づけないです。

でも、後になって、ふと思う時があります。「もし、あの浮浪者が、実は観音菩薩の化身だったら?」

浮浪者だけでなく、自分の苦手な人や嫌いな人も、もし観音菩薩の化身だったら?憎むことはできなくなるし、悪口なんか何も言えなくなるなぁって思います。

人間の姿を、観音菩薩の化身だと考えるのって、変でしょうか?
アドバイスお願い致します。

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A 回答 (11件中1~10件)

ちょっと訂正です。


普段浮浪者の方を見て怖がっていた中で、そう感じられたのなら、薄っぺらいものではありませんよね。
素晴らしいなーと思います。

あとは・・「変」と考えたら変とも言えますし、つまり質問者さんの本音が大事です。
変という人もいますし言わない人もいますし、どう言われても、特に助けにはならないのでは・・
というか、怖い状況の中そう思えたのなら、その実感のほうが、人の言葉より100倍重いはずです。

そう信じきることは、間接的には助けられますが、最後の最後、人間の姿を観音様の化身だ、と保証してくれる形ある証拠はこの世に、言葉も概念も含めてひとつもない以上、その自分の思いや実感や判断を信じていくのみだと思ってます。

変かどうかなど気にせず、突き進まれるのがいいと思いました。似たようなことを努力中の身としては。
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この回答へのお礼

大切なのは、自分の思いや実感や本音ですね!

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 20:49

松原泰道さんの観音経入門に、「観音様とはいつでもどこでも巡り会える」と書かれています。


観音様はいつでもどこにでもいらっしゃる、という事なのでしょう。

様々な姿に化身するという事は、様々な姿を通して導く、というように解釈できます。
三十三身ともいわれる変化は、あらゆる姿を通して導こうとする観音様の広い智慧の働きを象徴しています。
「広修智方便」ともいわれる内容に相当するのでしょう。
「十方諸国土、無刹不現身」とありますから、観音様はいつでもどこにでもいらっしゃる、という事にもなります。
観音様の智慧と慈悲心の自在なる働きは「観音経」に説かれているところです。
また、観音様を通して、内なる観音の働きに気づく大切さが「松原泰道さんの観音経入門」には説かれています。

人それぞれにある様々な出会いの中に観音様がいらっしゃるのでしょう。
出会った人や物、そのものが観音様ではなくて
出会いをもたらす働きが観音様なのだと思います。
また、出会う事によって得たものが、ご利益というものなのでしょう。

化身の解釈は、観音様が直接に身を変えたもの、というのではなく
「人に応じて、様々な姿との出会いがもたらされたもの」といったものだと思います。
それは、浮浪者だったり、嫌いな人だったりもするかもしれません。
或いは、人間だけではないかもしれません。
動物であったり、植物であったりするかもしれないのです。


以上のような考えは信仰を前提としたものですが、そこには、すべてを都合よく信仰に合わせて解釈してしまう、といった危険性があるようにも思います。
それらは信仰の浅い場合には、特によくある事なのでしょう。
観音様の計らいを推し量ろうとする我心が、事実の曲解を招いてしまうといった事だと思います。
そうした事も信仰の一つの自然な通過点のようにも思います。
長く信仰の道に入っていると、どのように解釈してもただの偶然とは思えない、というような事を少なからず体験している方が多いように見受けられます。
それがまた、信仰をさらに深める、といった事でもあるように思いますが・・・
信仰の内容に客観性が加わって重みが増す、といった感じなのでしょう。

>人間の姿を、観音菩薩の化身だと考えるのって、変でしょうか?
変ではないと思いますが・・・
気を付けたいのは、生身の人間が観音様そのものではない、という事と
人との出会いをもたらし、人を通して教えてくださる働きが観音様だという事です。
それは、偶然のように見えて、決して偶然ではない出会いを通して観音様が教えてくださる、という事でもあると思います。
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この回答へのお礼

とてもよく分かりました。私も、松原泰道さんの観音経入門を読んでみたくなりました。

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 20:40

こどもが、おかあさんは本当のおかあさんじゃないかもなぁ、と考え、


甘えることもできないし打ち解けることもできなくなるなぁ、と思うのと変らないくらい、実感が薄くふわふわしているように見えます。

考え事や空想として頭の中で思っているだけで、
あなたの胸が打たれて心に響くという経験を通していないため、
おかしくはありませんが、たわいないと思います。

観念ではなくて、感受性が、人をなにかに出逢わせます。
迷走した妄念が生み出す想像力とは違い、
透徹した洞察を世界と自分とに向けることから生まれる想像力は
感受性によって、あなたが観音に遭うべきときに、あなたを導き、
あなたは大切な遭遇を「体験」すると思います。

たとえ自分で振り返ってみて、そんな遭遇を空想的だなと思うにしても、
胸に残る体験をしてから、空想的だと思うのと、
町で避けた人や自分の思いついた人を空想してから、さらに追空想で像を歪ませるのでは、
心の豊かさの蓄積に雲泥の差があるでしょう。
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この回答へのお礼

感受性ですか!大変参考になりました。御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 20:45

観音菩薩は、観自在菩薩とも言います。



観自在と言う言葉を「超訳」すると、
物事を偏り無く正しく観る、と言う事になります。

真理を悟り、物事を正しく見て、
正しく行動をする人を、観音様と言うのです。

誰もが観音様の化身であると見なすのは、
本来からすれば正しい解釈ではありませんけど、
非情に謙虚な考え方だと思います。

私は好きですよ、こういう考え方は。

まあ、相手が観音様ではなく、
ただの人間だったとしても、
憎悪したり、悪口を言ったりするのは、
やめておいた方が良いとも思いますけど(笑)
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この回答へのお礼

物事を偏りなく正しく観るのが、観自在なのですね。

大変参考になりました。御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 20:47

全く同感です。


また理にかなってるとも思いますし、単に事実だとも思います。
先に他の方もそう書かれてますが。

僕の場合、観音菩薩ではなく、神様ですが、やはり同じようなビジョンです。
似たような感じだと思いました。



個人的に難しいのは、あとからそう思うのはまだいいんですが、まさに怖いその瞬間なかなかそうは思えないと思うんですが、
でもだんだん包囲網を狭めていけば、不安の極地に於いても、そう思えるようになるんじゃないでしょうか?(と自分にも言いたいんですが)

実際、ポイントは、自分の本心に照らして、それがまさに理にかない、ちょっとの違和感もないところまで事実だと納得出来るかどうか?だと思っています。
心理的にも、現実の構築としてもです。
観音菩薩と思う本音が納得するか、怖がる本音がまさるか? そんな境目が動くには、
人間の姿が観音菩薩の化身だということを、どれほど理念や直感的判断だけでなく、「怖い人がいるのが現実なんだ」と受け取ったその本音の気持ちが、真逆のそれを現実として納得するか? が、大事な気もします。人事でなく自戒してるんですが。

人間の姿が観音菩薩の化身だ、ということは「現実」でしょうか? (直感的判断のみでなく質問者さんの実人生に照らし合わせて、という意味です)
僕は個人的にそのあたりで火花が散るんですが・・ちがうかな・・
以上のあたりが肝心なポイントかと思うんですが、当てはまってますでしょうか?
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この回答へのお礼

すごいです!更に上を見た感じです。極めていらっしゃいますね。私はまだ回答者様まで至っていないです。

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 21:03

十数年前辺りから世の中が変わってしまったと言う#5のzakky74さんの意見に賛成です。



人類と言ったら大袈裟かもしれませんが、少なくとも日本では全く新しい時代がやって来たと言うzakky74さんの主張を裏付ける証拠がいろいろ出来ていますからね。良い例が、大橋弘忠東大教授ですね。この名前でググって頂ければ、大橋弘忠教授がどんな方か解ります。大橋弘忠教授は如何にも頭脳明晰でその論旨は理路整然としている。何か、zakky74さんを彷佛とさせますね。

二昔以上前の日本ではこのように理路整然とした方を日本人は疑うような所があって、皆さん理屈に長けた人達を相手にしない文化を持っていた。他の例では、戦後間もない光クラブの山崎晃嗣など、現在の堀江貴文と瓜二つの人でしたね。ところが、その頃の日本では山崎のような口八丁の人間を山師と言って蔑む文化が在った。しかし、ここ十数年前辺りから日本で何かが起こってしまったらしく、頭脳明晰な堀江貴文を多くの人達が讃えるようになって、国政に引っぱり出そうとしたり、あるいは、大橋弘忠東大教授のような立て板に水の理論派を経済産業省が全面的に後押して、国のエネルギー政策を牽引して行くような日本に成って来ているようです。zakky74さんの言うように、世の中は新しい時代に入ってしまったようですね。これからは大橋教授のように理詰めで世の中を分析する人達が増々高く評価される時代に成って来るんでしょう。科学であり、論理とイメージにて確認できる世界では大橋教授や堀江貴文のよう方が増々住み易い時代に成って来ているのでしょうね。

最近私の友人が、なぜ頭脳明晰な東大出に任せていたら日本が駄目になるかを大変旨く説明していました。その方曰く、

「そもそもなんで皆が東大に入りたがるのか。それは、何とかして旨い汁を吸いながら世の中渡って行きたいからでしょう。」

言い得て妙ですね。
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この回答へのお礼

#5さんの補足、新しい時代についてのお話、ありがとうございました!

お礼日時:2011/05/22 21:13

十数年前までは変ではありませんでした。



それは、悟りに対するイメージが曖昧で抽象的で、日常に応用活用が不可能だったからです。どれだけ頑張ってみても、2500年前のお釈迦さまが悟りを得た時の抽象的な悟り、イメージが曖昧な悟りレベルで留まっていたからです。

ですが、今ではその時代が明確に変わっております。
今では、悟りはイメージが明確で具体的で、日常に応用活用が可能です。
悟りは、科学であり、論理とイメージにて確認できる世界となりました。

その観点からお応えしたいと思います。

人間の姿を観音菩薩の化身だと考えるというのは、イメージが曖昧で抽象的であったからこそ、そのレベルで良かった訳でございます。例えるならば、理解の単位がメートルだけで構わない場合は、センチメートルやミリメートルは切り捨てても構いません。

今、僕のいるところからコンビニまではどれくらいの距離ですか?という問いに対しては、大体の範囲で何メートルと応えれば問題はない訳ですので120メートルくらいだよ・・・という応えで構いません。ここで、120メートルと20センチメートル、それからもうちょっと行って7ミリメートルね・・・という応えは、あっても良いのですが、そこまではあまり必要とはしません。

ですが、僕のいるところからコンビニまでの距離に対する問いではなく、今使っているノートの行間がまったく同じものを購入すると言った場合には、ノートの行間に対する問いとなりますので、ミリメートルまでが必要となります。

それで、世の中のパラダイムや社会プレートが、今いるところからコンビニまでの距離だけを問う様な状態でしたら、ミリメートルの情報は要りませんし、そもそもそのパラダイムや社会プレートが出来上がっておりません。

しかしながら、もしパラダイムや社会プレートが変わる時には、今度はメートルの情報はとても荒すぎますし、何も整理が起きない状態となります。

十数年前までの状態では、悟りに関してもそこまで緻密なパラダイムや社会プレートではございませんでした。ですので、ボロボロの身なりの老人(浮浪者)を見た後で、フッと「あれは観音菩薩の化身だったのでは?」と思い、そこに対して悪口も何も言えなくなるという事は、特に変ではありません。

ですが、欲しい情報が行間ですのに、メートルのみで応えようとする事と同様に、今では悟りに対してもパラダイムや社会プレートが移行している最中でございますので、その状況下では変となってしまいます。

悟りに対するイメージを明確に出来る時代です。

悟りに対するイメージが明確であり具体的であり科学である時に、zkjfさんの考えには時代遅れですし変だと言えますでしょう。すなわち、人間がどういう存在なのかも分からず、悟りが何であるかも分からず、考えが何であるかも分からず・・・その状態で、人間を観音菩薩の化身だと考えるのは少しおかしいと言いますか、変でございます。

そもそも分からないんだ・・・という状態だから、変ではありません。
ですが、明確に分かる・・・という状態では、変です。

もっとイメージを明確にしてから、全ての仕組みを理解してからご質問に立ち返ってみますと、いったい何がどういう事なのかが明確になります。それをおススメ致します。
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この回答へのお礼

今は、悟りのイメージを明確にできる時代なのですね。

大変参考になりました。御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 21:18

#3です。



ワープロって恐いですね。拝死体なんて字が出て来た。それ、「拝したい」って読んで下さいね。「金送れ頼む」が「金をくれた飲む」になっちゃあ大変ですからね。
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この回答へのお礼

私もよくやります笑

ありがとうございました!

お礼日時:2011/05/22 21:21

別に変じゃないですよ。



斎藤月岑の『武江年表』の「寛永年間記事』に、寛永の頃、大伝馬町の豪家、佐久間某が家の婢女たけといふもの、慈悲の志し厚く、食べ物を乞食に施し、自らのは残り物と流しの隅に網を釣って留まりし物を食し、絶えず称名していた。武蔵野国比企郡の行者が出羽の湯殿山に参詣し、生身の大日如来を拝死体と願ったところ、江戸の佐久間某の婢女たけを拝めという霊夢を蒙り、お竹を拝した、とある。お竹はその後念仏三昧で大往生を遂げたが、佐久間の親族で馬込某が大日如来の像を造らせて湯殿山黄金堂に納めたから、これを世間では「お竹大日如来と云ふ」と記している。

http://homepage2.nifty.com/inutomononohu/otakeid …

室山原三郎著『江戸川柳謎解き』、教養文庫によると、

  右の肩あらはしお竹流しもと    

「右の肩あらはし」は『観世音菩薩普門品』の「偏袒右肩、合掌向仏」の偏袒右肩だ。

  仏に飯を炊かせたは佐久間なり

  知らぬが仏竹とこき使ひ

  お竹が来たでこの頃犬が痩せ

  お竹めは無慈悲なやつと犬仲間

  知らぬが仏頼むわなお竹どん       

と口説くの奴もいる。

  お竹殿どうだと凡夫つめるなり

  知らぬこととて大日へ這って行き

  口説かれて仏頂面をお竹する

大日様も観音様もときどき生身で娑婆に出て来て下さったようです。



     
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この回答へのお礼

知らなかったです。日本橋へ行ったら、ぜひ足を運んでみます!

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 21:24

観世音菩薩を念じて敬うと怒りから離れられる


という言い伝えがあったと思うのですが、
それに照らしてまったく理に適ったお話と思えますので、
変ではないと思います。
「憎むことができなくなる」とおっしゃるところですが、
まさにそういうことをもたらす菩薩ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

観世音菩薩を念じて敬うと、怒りから離れられる、という言い伝えがあるのですね。「憎むことができなくなる」というところが、まさにそうですね!

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 21:28

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Q曲名が分かりません→歌詞:私恋をしてます~(福山雅治)

ありがとうございます。
ラジオで流れていた曲ですが、曲名が分かりません。

○歌詞:私恋をしてます~○

これだけしか歌詞を覚えていません。
今日聴いた曲では女性の方が歌っていました。

ただ以前福山雅治の魂のラジオで、福山さんが歌っていたことも思い出しました。

一体どなたの曲で、何という曲でしょうか?
ご存知の方はお教え下さい。

この曲に感動しました。

Aベストアンサー

こんにちは
もしかしたら松本英子さんの「Squall」でしょうか?↓(歌詞)

http://www.uta-net.com/user/phplib/view.php?ID=12180

参考URLで試聴できますのでご確認下さい。

ちなみに曲を作った福山雅さんも歌っています。↓

http://www.bmgjapan.com/_artist/item.php?id=1321&item=4787

参考URL:http://www.tsutaya.co.jp/item/music/view_m.zhtml?pdid=20007820

Q身なりについて

先ほど、若者が浮浪者に見られて落胆したという質問を見ました。
仏教の十戒では不塗飾香鬘、
つまり見かけを気にしてはいけないとの教えがあります。

しかし、品格は人相や身なりに出ます。
人前でそれなりの格好をすることはエチケットとして求められます。
宗教的にはこういう考え方は誤りなのでしょうか?

以前から疑問に思っていたことですが、この機会にお尋ねします。

Aベストアンサー

まず、「不塗飾香鬘戒」とは「装飾や化粧を戒めるもの」であって、「見かけを気にしてはいけない」というのとは違います。

以前の回答にもはっきり書いたと思いますが、まず、出家者は自分で生産することなく世俗からの寄進だけによって生活することを選択したのですから、華美を慎んで生活を簡素にすることを信条としたのは、いわば当然といえます。とりわけ装飾などのように、周囲の人間の視線によって成り立つ欲望の成就を排除しようとすることは、自分をコントロールすることを目標とした出家者には必然的なことだったのです。

しかし、だからといってサンガとしては個々の出家者の身なりについて、修行第一で何でもありとしたわけではありません。社会との無用な軋轢をさけるため、仏教の出家者集団はそれなりに身なりやエチケットに配慮していたのです。

出家者の規範である律は、身だしなみについても色々と定めています。衣の扱いについていえば、色や縫い方からつけ方、つける作法など全てにわたってこまごま規定されていて、例えば沐浴する時を含めて衣をつけずに生活することを禁止していますし、托鉢のスタイルについても異形であったり不潔なものには厳しく制限を設けています。こういった決まりがなぜ生まれたかといえば、すべて世俗の人たちから無用な誤解を受けることを避けるため、です(律自身にそういった制定の因縁譚が記されています)。

つまり、サンガはむしろ修行を重視したからこそ、重要度のあまり高くないことについては極力社会に順応しようとしたのです。他の回答にあるような、「世俗の人間ではない出家者には身だしなみは不要で、浮浪者に見られてもかまわないはず」というのは、単なる思い込みにすぎません。サンガの実態は、「華美は排することは前提だが、しかし浮浪者や野放図な集団に見られることを避けるため、穏当で受け入れられやすい身だしなみを心がける」ことを信条としていたのです。

ちなみに、この「不塗飾香鬘戒」は出家者にしか求められなかったのはまあ一応の事実ですが、この戒は八斎戒のひとつでもあって、月に何日かは在家信者も守ることが求められたものです。その精神である「華美を排する」ということは、程度の違いはあれ、出家・世俗がともに実践すべき徳目であったからです。

また同じことを書きますが、なぜか律について知りもせず思い込みで回答する人が多いのは不思議なことです。質問者氏は真に受けやすい真面目な方のようですから、どうぞ特にご注意下さい。

まず、「不塗飾香鬘戒」とは「装飾や化粧を戒めるもの」であって、「見かけを気にしてはいけない」というのとは違います。

以前の回答にもはっきり書いたと思いますが、まず、出家者は自分で生産することなく世俗からの寄進だけによって生活することを選択したのですから、華美を慎んで生活を簡素にすることを信条としたのは、いわば当然といえます。とりわけ装飾などのように、周囲の人間の視線によって成り立つ欲望の成就を排除しようとすることは、自分をコントロールすることを目標とした出家者には必然的な...続きを読む

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半月ほど前に、「リアル・クローズ」というドラマに、香里奈さんと黒木瞳さんが出演していましたが、香里奈さんと黒木瞳さんは世間的にはどちらが人気がある人ですか。

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Q釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?

こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。

wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」
と、その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。

それから後ご存知の通り釈迦は成道し、(釈迦はこの時点で阿羅漢、有余涅槃であったと私は考えます)
そのまま喜びの中で無余涅槃に至ろうとした釈迦を、梵天は釈迦に法(ダルマ)を衆生に説くことを勧請し、その結果釈迦は仏陀として衆生に法を伝える身となった(応身)。この事を釈迦の慈悲、大悲と呼ぶ。

この考えでいくと、釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。

 天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。で、大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。

長くなりましたが、私が感じていることを踏まえて頂いた上で、質問に回答して下さればとても助かります。宜しくお願いします。

こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。

wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」
と、その修行...続きを読む

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 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。
>>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?
 そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。

>>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。
 菩薩行の中にもそういった目的は存在しています。菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、全ての菩薩の共通する願いでもあります。
1、衆生無辺誓願度・地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するぞ
2、煩悩無量誓願断・煩悩は無量だが、すべて断つぞ
3、法門無尽誓願智・法門は無尽だが、すべて知るぞ
4、仏道無上誓願・成仏の道は無上だが、かならず成仏するぞ
というものです。1の誓願は利他、残りの234は自利行ということになるでしょう。大乗では1を重視しますが、234もちゃんとありますからね。他者の救済でも、自分自身の悩みの解決でも、何を機縁に仏を目指すかは人それぞれで良いんじゃないですか??後に出来た伝説かと思いますが、ナンダは「天女を奥さんにしたい」っていう理由で仏門に入って、悟りを開いてしまいますからね。もちろん仏道修行の最中に心は改めますけどね。

>>釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。
 私もそのように思いますよ。お釈迦様は菩提樹の下で成道されました。そして、この悟りを誰にも説かずに悟りの境地を楽しみながら、入滅してしまおうとお考えになっていました。そこへ、梵天という神様が現れお釈迦様にその悟りの境地を皆に説いてくださいと頼まれます。そうした梵天の頼みによって、お釈迦様は五比丘の元へ向い初転法輪(初めての説教)となるわけです。
 この梵天勧請のお話をお釈迦様の心の中の葛藤としてしまえばそれまでですが、出来上がった説話だけ見てみると、お釈迦様としては成道してすぐには悟りの境地を人に説くという事は考えてにはいっていません。ということは釈迦様の「悟り」の境地には、他者に教えを説く、もしくは他者を救済するという要素は含まれていないことになります。
 しかし、梵天勧請によってお釈迦様の中に「悟り」とはまた違った要素が与えられます。それは、他者に教えを説き、他者を救済するという要素です。それを仏教的に言えば「慈悲」や「大悲」と表現するものといえるでしょう。梵天勧請以後のお釈迦様の中には「悟り」と「慈悲」という二つの異なった理念をもって行動されます。しかし、結果を見てみれば「悟り」と「慈悲」は異なる境地であるかもしれませんが、そこに矛盾がなかったからこそお釈迦様はそれを一生涯続けることが出来たとも考えられます。

 確かに梵天勧請以前のお釈迦様は菩薩というより阿羅漢というニュアンスのほうが強いですね。ただ、それも阿羅漢・菩薩という言葉の問題も出てきます。言葉の原意から言えば、阿羅漢は当時のインド宗教一般としては「尊敬されるべき修行者」をさしてようですし、菩薩はbodhi-sattvaの訳語ですから、bodhiは悟り、sattvaは衆生、両語を結合して「悟りを求める人々」となります。こうなると、阿羅漢も菩薩も同じような気もしますしね。

>>天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。
 「天上天下唯我独尊」この言葉は中村元先生に言わせれば「この詩句は人間性の尊厳を言い表わしたものだと解する」のだそうです。「三界皆苦我当安之」という後半部分は、経典によって若干の異なりがありますが、『修行本起経』のこの文句は、自己の正覚と衆生の救済の二つをあらわしていて、「唯我独尊」を一人ひとりが尊いという意味で捕らえるときの根拠となるわけですね。私はこの言葉は何の根拠も無く作られた説話ではなく、成道後のお釈迦様の言葉や行動を基に作られたのではないかと考えています。

>>大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。
 この大乗と上座部(小乗)の違いはそこなんでしょうね。上座部は成道前のお釈迦様をモデルとして修行に励む。大乗は成道後のお釈迦様をモデルに修行に励む。ということになるのでしょう。
 個人的な意見としましては、お釈迦様自身は「悟り」と「慈悲」の二重構造を持っており、それを修行中の者が自分の「悟り」をそこそこに「慈悲」を持って他者の悟りへ介入するというのは難しいように思います。観音菩薩や文殊菩薩のような仏と同等クラスの力があれば別ですけどね。
 また、大乗仏教の中でも「悟り」と「慈悲」を二重構造として扱っているものも出てきます。代表的なのは日本浄土教の考えです。そのなかでも特に親鸞聖人に顕著に見られます。『歎異抄』第五条には
「親鸞は父母の孝養ためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず」(わたしは父母の追善供養のために念仏したことは一度もない)
というのです。その理由を「そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と説いています。私たちは自分の作り出した業によって苦しみの世界から逃れられず生まれ変わり死に変わりしているという、輪廻思想は古代インドの思想から受け継がれた仏教の生命観ですが、親鸞は『歎異抄』のなかでしか輪廻の思想については語っておられない。しかし輪廻があるとすれば、あらゆる生物はいつの世にか父母兄弟であった身であったはずです。親鸞は自分の力で仏事を行った善をもって父母を助けようなどという自力の心を捨てて、まずは極楽往生をし阿弥陀仏の指導を受け自分自身が悟りを開きてのちに、父母を救うべきであると説かれています。
 お釈迦様の場合とは形は違いますが、他者を救済するよりまずは自分自身の悟りを目指すべきであると説かれています。この極楽浄土に往生し成道して(往相廻向)、後に慈悲を持って衆生を救済する(還相回向)という、「悟り」自分の悟りと「慈悲」他者の救済ををはっきり分割したスタイルが説かれています。

 思ったことをつらつら述べさせてただきましたが、まとめきれず申し訳ないです。文意を読み取っていただきたく思います。
 合掌 南無阿弥陀佛

 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。
>>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?
 そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。

>>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。
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日蓮大聖人は上行菩薩の再誕(生まれ代わり?)なんでしょうか?


それなら大聖人は釈尊と会ったことを覚えているとされているのでしょうか?
それとも、上行菩薩のような、という比喩なんでしょうか?
あるいは、後の世の人による上行菩薩であろう、という推量なんでしょうか?

宗派団体で見解が異なるのなら、該当する宗派等をご存知の範囲でお示しください。

Aベストアンサー

なんで?

○ 2500年前、釈尊晩年の「りょうじゅせん」説法を聞いた者は仏とともに末法の世に生まれ変わり仏法社会を作り上げるという話なんです。
釈尊の説いた末法の世というのは邪教がはびこると同時に人類絶滅の危機という時代のことなのですね。
久遠の仏ですからね。スケールが違うのですね。
槍や刀で戦うローカルな末法時代の話ではないのですね。
現代の日本にはあの釈尊晩年の「りょうじゅせん」説法を聞いた者がうじゃうじゃ生まれていますよ。
なぜなら現代が法華経の示す末法の時代だからですね。 
末法に現れる邪教、つまり、お題目・念仏・真言など陳腐化した仏教は無くなる運命なのですね。
それが仏とその弟子の仕事ですから。
で、当時の日蓮さんそのことわかってなかった。ということですね。 わからないということは「りょうじゅせん」にいなかったからでしょうね。

Q観音菩薩の化身

先日、ボロボロの身なりの老人(浮浪者)を見かけました。時々、町をぶらついています。ぶつぶつ独り言を言っていて、ちょっと頭がやられてしまっている感じです。こわくて近づけないです。

でも、後になって、ふと思う時があります。「もし、あの浮浪者が、実は観音菩薩の化身だったら?」

浮浪者だけでなく、自分の苦手な人や嫌いな人も、もし観音菩薩の化身だったら?憎むことはできなくなるし、悪口なんか何も言えなくなるなぁって思います。

人間の姿を、観音菩薩の化身だと考えるのって、変でしょうか?
アドバイスお願い致します。

Aベストアンサー

ちょっと訂正です。
普段浮浪者の方を見て怖がっていた中で、そう感じられたのなら、薄っぺらいものではありませんよね。
素晴らしいなーと思います。

あとは・・「変」と考えたら変とも言えますし、つまり質問者さんの本音が大事です。
変という人もいますし言わない人もいますし、どう言われても、特に助けにはならないのでは・・
というか、怖い状況の中そう思えたのなら、その実感のほうが、人の言葉より100倍重いはずです。

そう信じきることは、間接的には助けられますが、最後の最後、人間の姿を観音様の化身だ、と保証してくれる形ある証拠はこの世に、言葉も概念も含めてひとつもない以上、その自分の思いや実感や判断を信じていくのみだと思ってます。

変かどうかなど気にせず、突き進まれるのがいいと思いました。似たようなことを努力中の身としては。

Q金剛薩たと金剛手菩薩

金剛薩たと金剛手菩薩

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E8%96%A9%E3%81%9F
【金剛薩た(こんごうさった)】

(1)金剛手秘密主菩薩ともいい、また金剛手は、またの名を散那(サンダ)ともいう。

(2)その由来は、ガンダーラ美術にしばしば登場する、ブッダを守るこん棒を持つ神=執金剛神ヴァジュラパーニにさかのぼる。

(3)同じヴァジュラパーニである、インドラ神(帝釈天)とは違い、本来はヤクシャ(夜叉)あるいはグヒヤカ(密迹、みっしゃく)とも呼ばれる下級の鬼神である。

(4)美術のみで好まれ、仏教説話にはほとんど登場しない。

(5)この神の役目は、単なるゴータマ・ブッダのガードマンにすぎない。
しかし、密教では地位が上がり、金剛手菩薩、さらには金剛薩たへと派生していった。

http://www.rmt.gr.jp/tibetan/bani.htm
【金剛手菩薩】
金剛杵を手に持った菩薩様と言う意味。
髪を逆立てて口を開け、虎の皮をまとい、ちょっと恐い顔で表されます。


う~ん、よくわからないんですけど
金剛薩たと金剛手菩薩は同じものですか。
また薩たってどういう意味ですか。

金剛薩たと金剛手菩薩

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E8%96%A9%E3%81%9F
【金剛薩た(こんごうさった)】

(1)金剛手秘密主菩薩ともいい、また金剛手は、またの名を散那(サンダ)ともいう。

(2)その由来は、ガンダーラ美術にしばしば登場する、ブッダを守るこん棒を持つ神=執金剛神ヴァジュラパーニにさかのぼる。

(3)同じヴァジュラパーニである、インドラ神(帝釈天)とは違い、本来はヤクシャ(夜叉)あるいはグヒヤカ(密迹、みっしゃく)とも呼ばれる下級の鬼神である。

(4)美術の...続きを読む

Aベストアンサー

20年以上前、大学で仏教学を専攻していました。
密教の授業を受けたことがありますが、専門ではなかったので間違いがあるかもしれませんが、私の記憶では、「金剛薩た」と「金剛手菩薩」は同じものです。

手許の宇井伯壽監修『コンサイス佛教辭典』には、

金剛薩た
Vajra-sattva 訳、執金剛、持金剛、金剛手、秘密主、金剛主菩薩摩訶薩。
1.密教にいう付法八祖の第二。本尊大日如来が法身の自内証を説きたるを、上首たる金剛薩たが結集して、南天竺の鉄塔中に置き、のち龍樹菩薩が此塔を開くに際し、金・胎両部の秘訣を授けたりと伝えらえる。……以下略

金剛手菩薩
金剛薩の異名。また普賢を指す場合もあり。

〈以上、一部省略、旧字は新字にしてあります〉

現在では、「もともとは両者は違うもので混同されていったのだ」ということが明らかになってきて、そういう考え方が学説として常識とされているのだと思いますが、“真言宗の教義”という意味においては同一のものと考えられている、ということだと思います。

性質の異なるインドの神様と仏教の菩薩が混同されること、あるいはインドの神様が発展して仏教の菩薩となることは、金剛菩薩に限らず、例はたくさんあると思います。

20年以上前、大学で仏教学を専攻していました。
密教の授業を受けたことがありますが、専門ではなかったので間違いがあるかもしれませんが、私の記憶では、「金剛薩た」と「金剛手菩薩」は同じものです。

手許の宇井伯壽監修『コンサイス佛教辭典』には、

金剛薩た
Vajra-sattva 訳、執金剛、持金剛、金剛手、秘密主、金剛主菩薩摩訶薩。
1.密教にいう付法八祖の第二。本尊大日如来が法身の自内証を説きたるを、上首たる金剛薩たが結集して、南天竺の鉄塔中に置き、のち龍樹菩薩が此塔を開くに際し、金・胎両部...続きを読む

Q福山雅治出演のキューピーCMの歌詞は?

福山雅治さんが出演しているキューピーCM「セロリと壁」編でラップが流れています。
CiENという方が喋っていることは分かりましたが、あれはなんと言ってるんですか?
CM終盤で「ヨソヨ ヨソヨ ヨソヨ・・・」と連続して言ってCMが終了しますが、「ヨソヨ」の前に「タベラレマス!」と言ってます。
もしかして全部日本語だけど、外国語に聞こえるような喋り方をしているのでしょうか?
わざと聞きとり難くしているだけで、喋ってる内容はキューピー製品に関することを喋っているのかな?と色々考えます。
CMが流れる度に耳をすまして一言一言聞き分けようとするのですが、どうもよくわかりません。
CMで何と言ってるんでしょう?
何が「タベラレマス!」なんでしょう?
すごぉ~く気になります!!!

↓CM
http://www.kewpie.co.jp/know/cm/mayo/mayo_13.html

Aベストアンサー

heartin_peさんの貼り付けていたURLをクリックしたら、
全て答えが出ていましたよ。

日本語ではなく、スペイン語のようですね。


『QP HALF』lyric

Cuando llege al baile yo nunca pense que
Te iba encontrar aqui viendo te sexy
Tu mirada me dio escalo frio
Quiero otra noche con tigo quiero otra noche con tigo
Cuando entraste vi que estabas con tu novio
El no trata bien y chicka eso es ovio
Y si tu quieres esta noche yo te robo
Solo por un momentito solo por un momentito
Y tu me matas con esos ojos
Tan venenosos y nosotros
Un par de locos con un poco de deudas
Y quiero aserte gritar una vez mas.

Yo soy yo
Yo soy yo
Yo soy yo
Yo soy yo


「キユーピーハーフ」歌詞 
日本語訳(原文スペイン語)

あのパーティーに行ったとき、君はとても魅力的だった
もう一度君に会いたい もう一度君と過ごしたい
君を見たとき、鳥肌が立つほどの一目惚れをしてしまった
君はボーイフレンドと一緒だったけど
僕には彼が、君をとても大事に思っているようには見えなかった
君がもし、僕と一緒にいたいと思ってくれるなら、僕はきっと
君を大事にするよ
1秒でもいいんだ、1分でもいいんだ
僕の気持ちは罪なのかもしれないけど
僕はもう一度君に会いたい 君と一緒に過ごしたい

自分は自分。
自分は自分。
自分は自分。
自分は自分。


福山さんもとっても素敵だし、
とても素敵な歌詞ですよね。
さすが、いつもオシャレなCMのキューピーです。

heartin_peさんの貼り付けていたURLをクリックしたら、
全て答えが出ていましたよ。

日本語ではなく、スペイン語のようですね。


『QP HALF』lyric

Cuando llege al baile yo nunca pense que
Te iba encontrar aqui viendo te sexy
Tu mirada me dio escalo frio
Quiero otra noche con tigo quiero otra noche con tigo
Cuando entraste vi que estabas con tu novio
El no trata bien y chicka eso es ovio
Y si tu quieres esta noche yo te robo
Solo por un momentito solo por un mom...続きを読む

Q十二観音ってありますか?

十二観音ってありますか?

日本霊異記に次のように記されています。

http://ncode.syosetu.com/n7930l/54/

大倭国、平群(へぐり)の郡、鵤(いかるが)村にある、岡本の尼寺に、
12柱の銅でできた観音像がありました。(上記サイトより引用)

岡本の尼寺とは奈良県斑鳩町にある法起寺のことだそうです。

古い文献に記されているということは、十二観音というものがかつてあったのだと思います。
(現在の法起寺には十二観音はありません。
像高20センチメートルの銅造菩薩立像 一体が奈良国立博物館に寄託されているようですが。 )

ウィキペディアには十二観音の記述がありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9

質問
(1)十二観音をお祀りしているお寺はありますか。
(2)十二柱の観音さまの種類は何でしょうか。
(3)それとも十二観音というものはもともとないんでしょうか。

Aベストアンサー

ANo.3のものです。

>しかしながら、平安末期に創建された三十三間堂という名前は
>三十三観音にちなむものではないか、と思うのですが。

変化観音の信仰が一般化するのは、鎌倉時代に入ってからではないでしょうか。
三十三間堂もお寺の成立は平安時代ですが、建物自体は鎌倉時代(西暦1266年)に建てられたものだそうです。
日本霊異記の成立は西暦800年代前半とされていますから、300年くらいはやいでしょうか。


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