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先日、ボロボロの身なりの老人(浮浪者)を見かけました。時々、町をぶらついています。ぶつぶつ独り言を言っていて、ちょっと頭がやられてしまっている感じです。こわくて近づけないです。

でも、後になって、ふと思う時があります。「もし、あの浮浪者が、実は観音菩薩の化身だったら?」

浮浪者だけでなく、自分の苦手な人や嫌いな人も、もし観音菩薩の化身だったら?憎むことはできなくなるし、悪口なんか何も言えなくなるなぁって思います。

人間の姿を、観音菩薩の化身だと考えるのって、変でしょうか?
アドバイスお願い致します。

A 回答 (11件中1~10件)

ちょっと訂正です。


普段浮浪者の方を見て怖がっていた中で、そう感じられたのなら、薄っぺらいものではありませんよね。
素晴らしいなーと思います。

あとは・・「変」と考えたら変とも言えますし、つまり質問者さんの本音が大事です。
変という人もいますし言わない人もいますし、どう言われても、特に助けにはならないのでは・・
というか、怖い状況の中そう思えたのなら、その実感のほうが、人の言葉より100倍重いはずです。

そう信じきることは、間接的には助けられますが、最後の最後、人間の姿を観音様の化身だ、と保証してくれる形ある証拠はこの世に、言葉も概念も含めてひとつもない以上、その自分の思いや実感や判断を信じていくのみだと思ってます。

変かどうかなど気にせず、突き進まれるのがいいと思いました。似たようなことを努力中の身としては。
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この回答へのお礼

大切なのは、自分の思いや実感や本音ですね!

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 20:49

松原泰道さんの観音経入門に、「観音様とはいつでもどこでも巡り会える」と書かれています。


観音様はいつでもどこにでもいらっしゃる、という事なのでしょう。

様々な姿に化身するという事は、様々な姿を通して導く、というように解釈できます。
三十三身ともいわれる変化は、あらゆる姿を通して導こうとする観音様の広い智慧の働きを象徴しています。
「広修智方便」ともいわれる内容に相当するのでしょう。
「十方諸国土、無刹不現身」とありますから、観音様はいつでもどこにでもいらっしゃる、という事にもなります。
観音様の智慧と慈悲心の自在なる働きは「観音経」に説かれているところです。
また、観音様を通して、内なる観音の働きに気づく大切さが「松原泰道さんの観音経入門」には説かれています。

人それぞれにある様々な出会いの中に観音様がいらっしゃるのでしょう。
出会った人や物、そのものが観音様ではなくて
出会いをもたらす働きが観音様なのだと思います。
また、出会う事によって得たものが、ご利益というものなのでしょう。

化身の解釈は、観音様が直接に身を変えたもの、というのではなく
「人に応じて、様々な姿との出会いがもたらされたもの」といったものだと思います。
それは、浮浪者だったり、嫌いな人だったりもするかもしれません。
或いは、人間だけではないかもしれません。
動物であったり、植物であったりするかもしれないのです。


以上のような考えは信仰を前提としたものですが、そこには、すべてを都合よく信仰に合わせて解釈してしまう、といった危険性があるようにも思います。
それらは信仰の浅い場合には、特によくある事なのでしょう。
観音様の計らいを推し量ろうとする我心が、事実の曲解を招いてしまうといった事だと思います。
そうした事も信仰の一つの自然な通過点のようにも思います。
長く信仰の道に入っていると、どのように解釈してもただの偶然とは思えない、というような事を少なからず体験している方が多いように見受けられます。
それがまた、信仰をさらに深める、といった事でもあるように思いますが・・・
信仰の内容に客観性が加わって重みが増す、といった感じなのでしょう。

>人間の姿を、観音菩薩の化身だと考えるのって、変でしょうか?
変ではないと思いますが・・・
気を付けたいのは、生身の人間が観音様そのものではない、という事と
人との出会いをもたらし、人を通して教えてくださる働きが観音様だという事です。
それは、偶然のように見えて、決して偶然ではない出会いを通して観音様が教えてくださる、という事でもあると思います。
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この回答へのお礼

とてもよく分かりました。私も、松原泰道さんの観音経入門を読んでみたくなりました。

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 20:40

こどもが、おかあさんは本当のおかあさんじゃないかもなぁ、と考え、


甘えることもできないし打ち解けることもできなくなるなぁ、と思うのと変らないくらい、実感が薄くふわふわしているように見えます。

考え事や空想として頭の中で思っているだけで、
あなたの胸が打たれて心に響くという経験を通していないため、
おかしくはありませんが、たわいないと思います。

観念ではなくて、感受性が、人をなにかに出逢わせます。
迷走した妄念が生み出す想像力とは違い、
透徹した洞察を世界と自分とに向けることから生まれる想像力は
感受性によって、あなたが観音に遭うべきときに、あなたを導き、
あなたは大切な遭遇を「体験」すると思います。

たとえ自分で振り返ってみて、そんな遭遇を空想的だなと思うにしても、
胸に残る体験をしてから、空想的だと思うのと、
町で避けた人や自分の思いついた人を空想してから、さらに追空想で像を歪ませるのでは、
心の豊かさの蓄積に雲泥の差があるでしょう。
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この回答へのお礼

感受性ですか!大変参考になりました。御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 20:45

観音菩薩は、観自在菩薩とも言います。



観自在と言う言葉を「超訳」すると、
物事を偏り無く正しく観る、と言う事になります。

真理を悟り、物事を正しく見て、
正しく行動をする人を、観音様と言うのです。

誰もが観音様の化身であると見なすのは、
本来からすれば正しい解釈ではありませんけど、
非情に謙虚な考え方だと思います。

私は好きですよ、こういう考え方は。

まあ、相手が観音様ではなく、
ただの人間だったとしても、
憎悪したり、悪口を言ったりするのは、
やめておいた方が良いとも思いますけど(笑)
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この回答へのお礼

物事を偏りなく正しく観るのが、観自在なのですね。

大変参考になりました。御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 20:47

全く同感です。


また理にかなってるとも思いますし、単に事実だとも思います。
先に他の方もそう書かれてますが。

僕の場合、観音菩薩ではなく、神様ですが、やはり同じようなビジョンです。
似たような感じだと思いました。



個人的に難しいのは、あとからそう思うのはまだいいんですが、まさに怖いその瞬間なかなかそうは思えないと思うんですが、
でもだんだん包囲網を狭めていけば、不安の極地に於いても、そう思えるようになるんじゃないでしょうか?(と自分にも言いたいんですが)

実際、ポイントは、自分の本心に照らして、それがまさに理にかない、ちょっとの違和感もないところまで事実だと納得出来るかどうか?だと思っています。
心理的にも、現実の構築としてもです。
観音菩薩と思う本音が納得するか、怖がる本音がまさるか? そんな境目が動くには、
人間の姿が観音菩薩の化身だということを、どれほど理念や直感的判断だけでなく、「怖い人がいるのが現実なんだ」と受け取ったその本音の気持ちが、真逆のそれを現実として納得するか? が、大事な気もします。人事でなく自戒してるんですが。

人間の姿が観音菩薩の化身だ、ということは「現実」でしょうか? (直感的判断のみでなく質問者さんの実人生に照らし合わせて、という意味です)
僕は個人的にそのあたりで火花が散るんですが・・ちがうかな・・
以上のあたりが肝心なポイントかと思うんですが、当てはまってますでしょうか?
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この回答へのお礼

すごいです!更に上を見た感じです。極めていらっしゃいますね。私はまだ回答者様まで至っていないです。

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 21:03

十数年前辺りから世の中が変わってしまったと言う#5のzakky74さんの意見に賛成です。



人類と言ったら大袈裟かもしれませんが、少なくとも日本では全く新しい時代がやって来たと言うzakky74さんの主張を裏付ける証拠がいろいろ出来ていますからね。良い例が、大橋弘忠東大教授ですね。この名前でググって頂ければ、大橋弘忠教授がどんな方か解ります。大橋弘忠教授は如何にも頭脳明晰でその論旨は理路整然としている。何か、zakky74さんを彷佛とさせますね。

二昔以上前の日本ではこのように理路整然とした方を日本人は疑うような所があって、皆さん理屈に長けた人達を相手にしない文化を持っていた。他の例では、戦後間もない光クラブの山崎晃嗣など、現在の堀江貴文と瓜二つの人でしたね。ところが、その頃の日本では山崎のような口八丁の人間を山師と言って蔑む文化が在った。しかし、ここ十数年前辺りから日本で何かが起こってしまったらしく、頭脳明晰な堀江貴文を多くの人達が讃えるようになって、国政に引っぱり出そうとしたり、あるいは、大橋弘忠東大教授のような立て板に水の理論派を経済産業省が全面的に後押して、国のエネルギー政策を牽引して行くような日本に成って来ているようです。zakky74さんの言うように、世の中は新しい時代に入ってしまったようですね。これからは大橋教授のように理詰めで世の中を分析する人達が増々高く評価される時代に成って来るんでしょう。科学であり、論理とイメージにて確認できる世界では大橋教授や堀江貴文のよう方が増々住み易い時代に成って来ているのでしょうね。

最近私の友人が、なぜ頭脳明晰な東大出に任せていたら日本が駄目になるかを大変旨く説明していました。その方曰く、

「そもそもなんで皆が東大に入りたがるのか。それは、何とかして旨い汁を吸いながら世の中渡って行きたいからでしょう。」

言い得て妙ですね。
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この回答へのお礼

#5さんの補足、新しい時代についてのお話、ありがとうございました!

お礼日時:2011/05/22 21:13

十数年前までは変ではありませんでした。



それは、悟りに対するイメージが曖昧で抽象的で、日常に応用活用が不可能だったからです。どれだけ頑張ってみても、2500年前のお釈迦さまが悟りを得た時の抽象的な悟り、イメージが曖昧な悟りレベルで留まっていたからです。

ですが、今ではその時代が明確に変わっております。
今では、悟りはイメージが明確で具体的で、日常に応用活用が可能です。
悟りは、科学であり、論理とイメージにて確認できる世界となりました。

その観点からお応えしたいと思います。

人間の姿を観音菩薩の化身だと考えるというのは、イメージが曖昧で抽象的であったからこそ、そのレベルで良かった訳でございます。例えるならば、理解の単位がメートルだけで構わない場合は、センチメートルやミリメートルは切り捨てても構いません。

今、僕のいるところからコンビニまではどれくらいの距離ですか?という問いに対しては、大体の範囲で何メートルと応えれば問題はない訳ですので120メートルくらいだよ・・・という応えで構いません。ここで、120メートルと20センチメートル、それからもうちょっと行って7ミリメートルね・・・という応えは、あっても良いのですが、そこまではあまり必要とはしません。

ですが、僕のいるところからコンビニまでの距離に対する問いではなく、今使っているノートの行間がまったく同じものを購入すると言った場合には、ノートの行間に対する問いとなりますので、ミリメートルまでが必要となります。

それで、世の中のパラダイムや社会プレートが、今いるところからコンビニまでの距離だけを問う様な状態でしたら、ミリメートルの情報は要りませんし、そもそもそのパラダイムや社会プレートが出来上がっておりません。

しかしながら、もしパラダイムや社会プレートが変わる時には、今度はメートルの情報はとても荒すぎますし、何も整理が起きない状態となります。

十数年前までの状態では、悟りに関してもそこまで緻密なパラダイムや社会プレートではございませんでした。ですので、ボロボロの身なりの老人(浮浪者)を見た後で、フッと「あれは観音菩薩の化身だったのでは?」と思い、そこに対して悪口も何も言えなくなるという事は、特に変ではありません。

ですが、欲しい情報が行間ですのに、メートルのみで応えようとする事と同様に、今では悟りに対してもパラダイムや社会プレートが移行している最中でございますので、その状況下では変となってしまいます。

悟りに対するイメージを明確に出来る時代です。

悟りに対するイメージが明確であり具体的であり科学である時に、zkjfさんの考えには時代遅れですし変だと言えますでしょう。すなわち、人間がどういう存在なのかも分からず、悟りが何であるかも分からず、考えが何であるかも分からず・・・その状態で、人間を観音菩薩の化身だと考えるのは少しおかしいと言いますか、変でございます。

そもそも分からないんだ・・・という状態だから、変ではありません。
ですが、明確に分かる・・・という状態では、変です。

もっとイメージを明確にしてから、全ての仕組みを理解してからご質問に立ち返ってみますと、いったい何がどういう事なのかが明確になります。それをおススメ致します。
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この回答へのお礼

今は、悟りのイメージを明確にできる時代なのですね。

大変参考になりました。御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 21:18

#3です。



ワープロって恐いですね。拝死体なんて字が出て来た。それ、「拝したい」って読んで下さいね。「金送れ頼む」が「金をくれた飲む」になっちゃあ大変ですからね。
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この回答へのお礼

私もよくやります笑

ありがとうございました!

お礼日時:2011/05/22 21:21

別に変じゃないですよ。



斎藤月岑の『武江年表』の「寛永年間記事』に、寛永の頃、大伝馬町の豪家、佐久間某が家の婢女たけといふもの、慈悲の志し厚く、食べ物を乞食に施し、自らのは残り物と流しの隅に網を釣って留まりし物を食し、絶えず称名していた。武蔵野国比企郡の行者が出羽の湯殿山に参詣し、生身の大日如来を拝死体と願ったところ、江戸の佐久間某の婢女たけを拝めという霊夢を蒙り、お竹を拝した、とある。お竹はその後念仏三昧で大往生を遂げたが、佐久間の親族で馬込某が大日如来の像を造らせて湯殿山黄金堂に納めたから、これを世間では「お竹大日如来と云ふ」と記している。

http://homepage2.nifty.com/inutomononohu/otakeid …

室山原三郎著『江戸川柳謎解き』、教養文庫によると、

  右の肩あらはしお竹流しもと    

「右の肩あらはし」は『観世音菩薩普門品』の「偏袒右肩、合掌向仏」の偏袒右肩だ。

  仏に飯を炊かせたは佐久間なり

  知らぬが仏竹とこき使ひ

  お竹が来たでこの頃犬が痩せ

  お竹めは無慈悲なやつと犬仲間

  知らぬが仏頼むわなお竹どん       

と口説くの奴もいる。

  お竹殿どうだと凡夫つめるなり

  知らぬこととて大日へ這って行き

  口説かれて仏頂面をお竹する

大日様も観音様もときどき生身で娑婆に出て来て下さったようです。



     
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この回答へのお礼

知らなかったです。日本橋へ行ったら、ぜひ足を運んでみます!

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 21:24

観世音菩薩を念じて敬うと怒りから離れられる


という言い伝えがあったと思うのですが、
それに照らしてまったく理に適ったお話と思えますので、
変ではないと思います。
「憎むことができなくなる」とおっしゃるところですが、
まさにそういうことをもたらす菩薩ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

観世音菩薩を念じて敬うと、怒りから離れられる、という言い伝えがあるのですね。「憎むことができなくなる」というところが、まさにそうですね!

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 21:28

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