『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

江戸時代までのキリスト教のことを勉強していて疑問に思いました。

質問1 島原の乱の直前の頃、西日本、もしくは九州のクリスチャンの割合は何%くらいでしたか?

質問2 戦国~江戸初期に、九州とかで急激にキリスト教が普及したのはなぜですか?
     大名は南蛮交易が目的の場合も多かったと思うけど、
     一般庶民にとっては利益はあまりないように思います。

質問3 今の日本のクリスチャンは、1~6%くらいだそうです。
     江戸時代初期にはあんなに普及したのに、
     禁教令が解かれた明治以降では、浸透しなかったのはなぜですか?

質問4 韓国は25%らしいです。
    中国や台湾は2%くらい。
    東アジアの中で韓国だけ異常にキリスト教が流行っているのはなんでですか?

全部に答えなくてもいいので、教えてください。

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A 回答 (4件)

http://hukusis.cool.ne.jp/iin/hama/kiriistan5.html

江戸初期の最大値で 40万人程度
人口が 1000万人から1500万人と推定されていますので、 4% ~ 3% 程度

Q1 島原とかの一部で 数割 というのをどこかで読んだ記憶がある。

Q2 一向宗を信じることの利益も キリスト教を信じることの利益も 同値
キリスト教を、印度伝来の仏教の一種と捉えていた人もいた。
寺内町などで商人層などが一向宗を信じたのは、経済的利便性
京都の法華宗も京都の町衆の団結のために信心とも言われています。

キリスト教だけ取り上げて、云々という方がおかしいと思う
どの宗教にも、経済的利便性や、精神的安逸を求めるものだと思う

Q3 現在のキリスト教の普及度と江戸時代初期は同程度
日本は戦国末期から江戸初期に、脱宗教というか、宗教と世俗の分離が行われました。
宗教と世俗の分離以前では、たとえば、加賀の国ではみなさん一向宗やら、京都の町衆は法華宗というように、世俗的な集団と宗教的な集団は ほぼ同値。エリアごとの普及は 0 OR 100 という感じになります。
明治期に再度日本に到来したときには。キリスト教も宗教と世俗の分離がなされ、宗教は個人問題になりました。

なので、急速な宗教転換(集団転換)というのは起こりづらくなった。

Q4 20世紀に入って、いろんな宗教がよーいドンした結果、韓国ではキリスト教が成功した。
戦国末期に日本は、世俗と宗教の分離のための、血みどろの戦いがありましたが、朝鮮ではそういった動きがなかったので、個人問題とのしての宗教への信心は、朝鮮王朝の崩壊後に始まります。
儒教という、宗教のような単なる祖先崇拝のようなものがメインだったので、個人問題としての宗教に関しては朝鮮はサラ地だった。
中国は、民間信仰では道教があり、浸透しづらい面がある。
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この回答へのお礼

Q3の説明がわかりやすかったです。
昔は、地域ごとに0か100かで特定の宗教を信じていて、今は、信仰は個人の問題になったから、ひとつの地域でもまちまちなんですね。

お礼日時:2011/05/27 18:18

質問3と質問4について答えさせていただきます。



回答3 江戸幕府が導入した「寺請け制度」が明治以降も「檀家制度」として残ったためだと思います。
下記のリンクに詳しく書かれています。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/ep …
http://ameblo.jp/t-ka/entry-10360874566.html

回答4 下記の本を一読されることをお勧めいたします。
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88 …
http://homepage3.nifty.com/taejeon/book/book04.htm
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この回答へのお礼

檀家制度が、今まで影響してきたことがよくわかりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/27 18:19

>島原の乱の直前の頃、西日本、もしくは九州のクリスチャンの割合は何%くらいでしたか?



最大で70万人と言われているらしいです。当時の日本の人口は1300万人。
ですから全体の割合だと5%くらい。
西日本・九州の細かい人口は分かりません。
正確な統計が無いでしょうから、詳しいことは分からないでしょう。
大昔ですし、当時は調べる意味もないでしょうから。

>今の日本のクリスチャンは、1~6%くらいだそうです。

日本は1%前後です。ここ数十年間は変わっていません。
ただこれも正確には分かりません。誰も統計を取らないし必要も無いですから。

>禁教令が解かれた明治以降では、浸透しなかったのはなぜですか?

徳川幕府の政策の名残かなと思います。
つまり、キリスト教は邪教だと言うことの名残が、今現在も有るのではないでしょう。
テレビドラマなどで少女がキリストに祈るシーンが良く見受けられますが、
なぜ、あんなシーンを作るのか私には理解できません。
日本人の99%がキリスト教徒ではないのに。

質問者さんは高校生でしょうか?
私(おじさんですが)も以前(高校生ぐらいの時)同様に感じたことがありました。
深く掘り下げて考えませんでしたが、これを機会によく調べてみましょう。
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この回答へのお礼

全体で5%程度なら、昔もそんなに普及していたわけじゃないんですね。
具体的な数字を教えてくれてありがとうございます!
ドラマに出てくるのは、結婚式を教会でやる人が多いのと同じ感じで、ファッションだと思います。

お礼日時:2011/05/27 18:16

仏教の教えには、聖書やキリスト教から取られたとしか思えない言葉や儀式が、数多くあります。


一例を上げると高野山の灌頂(洗礼)や十字を切る事。ペルシャ教・・斯波教(景教)の卒塔婆や薙刀等
諺の七転び八起き(義人は七度倒れても起き上がる)聖徳太子伝記の太子誕生説話のイエス誕生の話と酷似。日本書紀や古事記の中の話、草薙の剣(海薙の剣=モーセの杖)神社とエルサレム神殿の幕屋の酷似と取り上げるときりが無い。

中国大陸で行われたペルシャ教の慈善事業を、聖徳太子や光明皇后が行っている。
仏教の僧が、光明皇后の行いを仏教徒としてはやり過ぎだと批判している。
光明とはペルシャ教の用語です。


九州や山口の寺社の僧侶の改宗も多いのは自分達の学んできた事柄の原点がキリスト教にあることを正しく認識した為だと思われます。
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この回答へのお礼

ペルシャ教ってゾロアスター教ですか?
聖徳太子や古事記の話は、仏教とは直接関係ないような・・・
でも、仏教が日本にまで伝わってくるまでに、キリスト教とかゾロアスター教とかの影響を受けていたんでしょうか。

お礼日時:2011/05/27 18:13

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Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

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Qどうして日本はキリスト教を弾圧してきたのか?

日本でのキリスト教は
織田信長は保護
江戸幕府(家光以後)は禁止⇒踏み絵等で弾圧
明治初期は禁止(五傍の掲示)で欧米の反発で削除
ですよね
どうして弾圧されるのですか?
仏教には身分があってキリスト教は身分が無く平等だから駄目だと聞きましたけど仏教も平等ですよね?
キリスト教派は大名などにも大勢いたのでは?

Aベストアンサー

キリスト教が植民地支配の先兵であることが分かったから
例:南米、フィリピン

Qキリスト教が布教活動が盛んだったわけは?

キリスト教が布教活動を海外まで広めていたのは、なぜですか?
なんで、そんな過ちを犯してしまったのでしょうか?

Aベストアンサー

海外というのはヨーロッパ以外という意味でしょうか? 一応そういうつもりでお答えします。

過ちだったかどうかはさておき・・・
ヨーロッパの外への布教に熱心だったのはキリスト教の中でもカトリックだけです。
プロテスタントは布教活動自体には消極的な宗派が多いです。

というのも、16世紀~17世紀にかけて、ヨーロッパでは宗教戦争が巻き起こっていました。
この間、たくさん戦争がありました。結果としてカトリックからプロテスタントが分離します。
これで困るのはローマ教皇庁です。
戦争とプロテスタントの独立でカトリックの信者は激減して、教会の収入も激減、そしてカトリックの体制も空中分解してしまいそうなかなり危うい状態にありました。

そこで信者を増やすために、積極的にヨーロッパの外へ出て行きました。
時は折りしも大航海時代が終わりを迎えて、世界中に交易路が確保される時代です。
宣教師たちはどんどん世界中に散らばっていきました。
日本にはザビエルが来ましたね。

また、非キリスト教徒の土地を占領するということは、同時にそこの住民を教化してしまうか、無理なら殺してしまうか、ということとセットになっていたようです。
統治する上ではそれが合理的だったのでしょう。
海の向こうの土地を占領したスペインやポルトガル、ドイツの東の異民族の土地を占領したドイツ騎士団もこういったことをやっていたようです。


最後に蛇足ですが参考までに。

ヨーロッパにキリスト教が広がったのはローマ帝国の時代です。
もともとキリスト教はローマ帝国の宗教にそぐわなかったので最初のうちは弾圧されました。
ですが信者が増えていって、最終的にはローマ帝国の国教になってヨーロッパ中で信仰されるようになります。
どうやら、弱者救済というのが女子供、老人に人気があったようです。
こういう経緯を考えると、一神教というのは多神教にはないしたたかさがあるかもしれないと、私は思います。

海外というのはヨーロッパ以外という意味でしょうか? 一応そういうつもりでお答えします。

過ちだったかどうかはさておき・・・
ヨーロッパの外への布教に熱心だったのはキリスト教の中でもカトリックだけです。
プロテスタントは布教活動自体には消極的な宗派が多いです。

というのも、16世紀~17世紀にかけて、ヨーロッパでは宗教戦争が巻き起こっていました。
この間、たくさん戦争がありました。結果としてカトリックからプロテスタントが分離します。
これで困るのはローマ教皇庁です。
戦争とプロテスタ...続きを読む

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。

Qなぜ日本ではキリスト教の普及率が悪いのか?

 ありきたりですが、気になるのでよろしくお願いします。もともと仏教だから、といった紋切り型の理由ではやはり説明できそうに思えません。まず、韓国の爆発的な普及、台湾や中国など。日本人はキリスト教の福音活動の話を聞こうともせず、はなから拒絶するのに対し、彼らは一応耳を傾ける傾向があります。これはオウム真理教などの影響もありそうですが・・・しかし、占いなどや細木和子は信奉できるというのも、不思議に思います。
 できる限り、感情的返答は避けていただきたいと思います。できれば、学問的に宗教社会学・哲学などの手法で、お答えをいただきたく存じます。

Aベストアンサー

 むしろ、何故、韓国や台湾でキリスト教が人気があるかを考えるべきです。

 各国に昔からある宗教というのは、支配者によって人々を支配するために利用され、そのように歪められた歴史を持っています。韓国や台湾では、歴史的に中国本土の支配者の圧政を受け、社会構造的に、国民は、伝統的な仏教は自分たちに何もしてくれなかった、自分たちを支配してきた、という思いが強いのではないでしょうか。従って、自分たちを、より自由にし平等に扱ってくれそうな、外来のキリスト教を理想化して期待しているのだと思います。

 しかし、西洋では、キリスト教は、実際には、当初(ローマ帝国時代)から支配者によって人々を支配するために創作され、歪められ、利用され、戦争の原因でもありました(現在も)。「三位一体」、聖母マリアの処女懐胎、最後の審判、も創作されたものですよね。

 日本は、国際法に反してキリスト教国のアメリカから原爆を落とされ、アメリカはそれをいまだに正当化しています。欧米のキリスト教では、非キリスト教徒の日本人を対等な人間と見ていないでしょう。・・・日本人にはキリスト教に対する不信感があります。そのような尊敬すべからざるキリスト教徒に自らなろうとは思わないのではないでしょうか。日本人は、キリスト教国の経済的な豊かさにあこがれているだけです。

 キリスト教は昔から福音活動に熱心ですから、日本人はその内容を皆おおかた知っていると思います。しかし、上述のように、キリスト教も、支配者によって人々を支配するために利用され、そのように歪められいますから、イエスキリストの教えが、どの程度、聖書にもとのまま残っているかは、分かりません。日本人はそのことを知っているのです。欧米のキリスト教の多くの研究者でさえ、聖書の大部分が事実でないと考えます。

 キリスト教の神を信じれば悪人でも天国に行くことができ、信じないものは善人でも地獄に落ちる・・・そのような、日本人の長い歴史にわたって体験してきた因果応報の法則に反し非常識で不道徳な教えは、日本人には通じないのだと思います。

 また、日本人は、元々、自然を崇拝し、多神教でしたから、人間のように嫉妬する尊敬できない絶対的唯一神に強い違和感を持つのだと思います。

 今や、ニューエイジの時代です。質問者様、キリスト教にこだわることなく、「プレアデス+ かく語りき」バ-バラ・マーシハニック(太陽出版)、「テオドールから地球へ」ジーナ・レイク(たま出版)、「シルバーバーチの霊訓」アンドゥーリー(潮文社)、「神との対話」ニール・ドナルドウォルシュ(サンマーク出版)をお読み下さい。日本において、なぜキリスト教が浸透しないのかを、より深くご理解いただけると思います。

 むしろ、何故、韓国や台湾でキリスト教が人気があるかを考えるべきです。

 各国に昔からある宗教というのは、支配者によって人々を支配するために利用され、そのように歪められた歴史を持っています。韓国や台湾では、歴史的に中国本土の支配者の圧政を受け、社会構造的に、国民は、伝統的な仏教は自分たちに何もしてくれなかった、自分たちを支配してきた、という思いが強いのではないでしょうか。従って、自分たちを、より自由にし平等に扱ってくれそうな、外来のキリスト教を理想化して期待しているのだ...続きを読む

Q日本のキリスト教徒の正確な数を知りたい。

日本のキリスト教徒の正確な人数を知りたいのですが。

国民の1パーセント、200万人、100万人など、いろいろな説があるようです。

私は、これまでの人生でキリスト教徒の人に仕事や私生活で接したのは2人の弁護士だけです。実感では、とても1パーセントもキリスト教徒がいるようには思えません。現代版隠れキリシタンでもいるのでしょうか。
正確な人数を知っている方がいらしたら教えてください。ネットで調べましたが、よくわかりません。また、こと宗教に関しては政府の統計や宗教団体の資料もいい加減なようです。

例えば、神道と仏教を合わせると2億人になるのだそうです。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

今回つけたカトリック中央協議会の資料12ページに出てくる「教会学校」とはいわゆる普通の学校ではなく、教会の設けている子供たちのための公教要理の(キリスト教について教える)クラスのことであり、その教会に所属する信者の子が主体です。又13ページに出てくる「学生」は神学校の学生で聖職者をめざす学生ですから当然みんな信者です。

でも一般のミッション系の学校の生徒・学生の中の信徒の比率はさほど高くありません。確かに信者の子弟が入る可能性は高いですが、非信者で、そのネームバリューや教育方針に引かれて入学する人たちも沢山います。そして皆が皆洗礼を受けるかというとそうではありません。最近ではどのミッションスクールもただの進学校になってしまい、親や本人が信者であっても、あまり受験に有利に扱わず、斟酌しないという信者の皆さんの陰口が聞こえてきそうです。

キリスト教の中でも特にカトリックは、外部の人をあまり教会のなかに引き入れるために積極的に働きかけようとしません。「来るものは拒まず、去る者は追わず」という態度を貫いているように見受けられます。ですから、ミッションスクールの学生に対しても、信者になることを強要しません。自然にその気になるのをひたすら待つのです。時にはこういったやり方が冷たい、という風に目に映ったこともありました。あまり外に声をかけずに仲間内だけで仲良くしようとしている、排他的だと感じたこともありました。

ですから、結果的に、執拗に熱心に布教をする多くの新興宗教のように信者数も伸びません。日本はクリスマスや欧米社会のキリスト教の影響をさんざん受けながらも尚且つ信者数が伸びないので、キリスト教にとっては誠に割の合わない風土なのかもしれません。それでも、少なくても日本では、こういった押しつけがましくないやり方を変えようとする気配は今の所感じられません。

こういった鷹揚な、さりげない態度こそがカトリックの強みであり、又弱みであり、又広く知識人に支持される態度だと思います。(プロテスタントは又少し違うと思いますが)

私は、このようなカトリックのある意味での「いい加減さ」が大好きで、更に図に乗り、他宗教(仏教・神道・・・)に対しても寛容で親近感を持つ者です。質問者様は、こういった態度を「日本のキリスト教徒に疑惑を持っています。」とおっしゃりたいのでしょうか?
しかし、私は世界中の人が束になって、このような多神教的ともとれる宗教感に対して批判してきても、断固としてゆるぎません。

この問題について語ると長くなりますし、大変大きな問題なので、出来れば、この場は適当な所で締切り、新たなスレッドで質問して頂ければと思います。

今回つけたカトリック中央協議会の資料12ページに出てくる「教会学校」とはいわゆる普通の学校ではなく、教会の設けている子供たちのための公教要理の(キリスト教について教える)クラスのことであり、その教会に所属する信者の子が主体です。又13ページに出てくる「学生」は神学校の学生で聖職者をめざす学生ですから当然みんな信者です。

でも一般のミッション系の学校の生徒・学生の中の信徒の比率はさほど高くありません。確かに信者の子弟が入る可能性は高いですが、非信者で、そのネームバリューや教...続きを読む

Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む


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