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カテが違っていたらごめんなさい。
私は健康を兼ねて、山城跡を訪問するのがすきです。この一年で100以上の山城を一人で攻略してきました。滑り落ちたりして、かなり危険な目に遭いました。そこで、何時も思うのですが、何故このような片道一時間も掛かる急な斜面の上に城を築く必要があったのでしょうか?
適からの攻撃を避ける為の堀切、土塁が設置しやすいメリットは有るでしょうが、敵側からすれば、食料の流通進路を遮断しやすいでしょう。つまり、兵糧攻めに遭った城は数多くありました。
又、城に仕えている武士は、毎日山の頂上に築いている城に登城していたのでしょうか?
まだまだ疑問は沢山あるのですが、この辺のところを教えてください。
宜しくお願いいたします。

A 回答 (4件)

rededitさんこんにちは!



すごいですね。山城を100も…!!
ほとんど城祉なのでしょうが、それって楽しそうですね。
わたしも城好きで、山城では小机城祉(横浜)と
一夜城祉(小田原)&岐阜城(岐阜)に行きましたが、
山城は兵(つわもの)の息吹が感じられていいですよね~。

すいません、話がそれました。

時代によって多少差異があるのですが、
山城の機能は、いわゆる城下町を抱えた大将のいる居城(本城)、
これを守る防衛拠点の役割が多かったようです。
ですから居住区は少なく、武具庫や兵糧倉庫が備え付けてあり、
籠城戦に適した築城がなされています。

そして敵軍が出発すると、山城に武具・兵糧を送り、
兵を分けて籠城部隊がこもります。
敵は山城をムリに落とそうとすると損害が出ます(いくさは高みに陣取る方が強い)ので
rededitさんがいうように兵糧攻めをしたりと事態は膠着状態となります。

上からの攻撃が有利なのは、落石攻撃や弓勢の強さがあります。
落城の名手武田信玄は、山城を落とすとき、
水の手を切る(井戸を使えなくさせるなど)作戦をよくやったようです。
つまり信玄でさえ、山城との正面攻撃は避けたんですね。

その間に攻められた城主は友好国に援軍を依頼したり、
あるいは大将軍(本軍)と、打って出た籠城軍による挟撃(きょうげき)も可能となります。
また軍(いくさ)を長引かせると、敵地にいる兵は厭戦気分となって士気が下がることもあるでしょう。

小国の城主ですと、平時は麓で家臣や民と共に住み、
敵が来襲するとみんなで山上の城に立て籠るという事も中にはあったようですよ。

また戦国期には、山城にも恒久的な建物を建てて、
長期の滞在ができるように備えたものもあります。
上杉家の春日山城・武田家の要害山城・朝倉家の一乗谷城・浅井家の小谷城など。

これらは谷間に城下町と居館としての下館を築き、
有事に備えて山頂に城郭や天守を築いていたようです。
(イメージとしては岐阜城…)

歴史の書を読むと、浅井長政親子が籠城した小谷城などは、
山全体が城だったようですね。(むむ…行ってみたい…)

という事で、
(1)   なぜ山に築城したか?
回答  攻めやすく守りやすい戦略上のため。
(2)   毎日登城していた?
回答  日々の登城は本城、あるいは下館で政務を行った。
     (山城の留守居は城に泊まっていたのでは?)

もう少し短くまとめたかったのですが…汗。。
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この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2011/05/27 18:42

山城って何よ?を考える


http://www.hb.pei.jp/shiro/
登録数:10,033城
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
総石高
1500万石 ≒ 人口 1500万人(太閤検地前くらいを想定)
村数 66、000

村の城という考え
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/8659872. …

平均 230名くらいの村の全員が一過性の戦乱を避けるために、近所に城を構築
→ 村の城
※ 城の登録数が10、000とありますが未発見とかを考えると 村の数程度城郭はあったのではないかという想定も妥当かと考えます。少なくとも ケタは一緒。


現存する山城の跡というものの主要なものが 村の城であると推定するならば、数日間の「山篭り」でOKなので、緊急時に数日分の手持ち食料をもって行ければいいのではないかと思います。

また、山城の目的として、主城に連絡をとるための情報中継所みたいないみもあったので、老状態制は不要かと思います、そういった城の場合。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございました。URLは参考になります。

お礼日時:2011/05/27 18:31

城跡巡りが好きなものです。



お城の歴史をみてみると、中世の山城、戦国前期の山城、そして
戦国後期の平山城、江戸時代の平地部の城と

城自体の立地が変わってきていることに気がつくと思います。

つまり、昔の山城は常時住むところではなく、
自分たちの領土に侵入された時に、平地で撃退できない戦力差を
時間稼ぎするために立て篭もるための城であったわけです。

この場合、時間を稼ぐことによって仕える大名などの
後詰め(救援)を期待でき、また、兵糧などは全て持ちこんでの
籠城になるわけです。

また、侵略者側からすれば、昔は、食料は自前、足りない分は
現地調達のとなるため、基本的には先に兵糧がなくなる
危険性があったわけです。

これが、食料生産性や武器の向上により、
兵糧が尽きるより、先に城を落とすことが容易になったため、
中世の山城は廃れて行ったと思われます。

戦国時代も終盤にさしかかると、日本全土レベルでの救援体制がないと、
籠城=敗北の図式が出来上がり、(秀吉の小田原城攻めなど)
その後の築城は、戦闘のためのものから、為政者のための居住を
意識したものに変わって、平地近くに降りてきます。
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この回答へのお礼

参考になりました。有難うございました。

お礼日時:2011/05/27 18:34

何故このような片道一時間も掛かる急な斜面の上に城を築く必要があったのでしょうか?


>攻めるに難く守るに易いからです。
ただ戦国時代も後期になってくると築城技術も発達していますから山城は築かれなくなっています。
なぜなら質問者様の指摘する通り食料の流通経路が限られてしまうからです。

>又、城に仕えている武士は、毎日山の頂上に築いている城に登城していたのでしょうか?
そういう事にならないために城主が山の麓に館を構えていたり家臣が城内に館を構えていたりしています。

最近では戦国史研究についての書籍も多数出ているので参考にされてもいいかと思います。
個人的には小和田哲男氏の書かれた書籍をおすすめします。
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この回答へのお礼

早速のご回答有難うございました。

お礼日時:2011/05/27 18:39

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