火垂るの墓で、清太さんと静子は飢え死にしてしまいましたが、後に宮崎駿が、

「戦時下に海軍士官の息子が餓死するなどということはありえない。上官同僚部下、海軍共同体が草の根分けてでも探し出して保護する。海軍とはそういうものだった。そして、海軍共同体に縁故なき平民の子が餓死した。」

という趣旨のことを語っていたみたいですが、実際にこのような体験を見聞きした方がいらっしゃれば、教えてください。

よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

原作は未読ですが


実は私、ジブリの火垂るの墓をはじめてみたときに「なんだこれ?」って感想だったんです
いまだにどうして評価が高いのかが、わかりません

理由は漫画「はだしのゲン」(実話)何度もを見ていたから

ゲンは親戚で辛いめにあっても、その後の浮浪者まがいの生活を強いられても
我慢して我慢して我慢したあげく
母親や、弟にうり二つの孤児のために懸命に耐えては生活していました
親戚では最終的にとびだしてしまうけれど、うけた嫌がらせのレベルはハンパないです
読めば納得、よくあそこまで耐えたもんだと感心します

でも火垂るの墓だと、あの兄貴くん親戚の家で
まったく手伝いすらしません。あの時代、子供とはいえ家の手伝いをすることは当たり前です

さらには、あの程度の小言で妹連れ出したあげく
栄養失調で死なせてしまってます


たしかに可愛そうなんですけど
たとえば東日本大震災の被災者のみなさんだって、悲しんでいる場合じゃないって
驚くほど、直後から頑張っていたじゃないですか

戦時下の場合もそうなんですよ
はだしのゲン読む限りだと、みんな守るべき家族のために子供だって逞しく生きている

でも火垂るの墓の兄ちゃんときたら…

創作話だから、リアリティにかけるんだと思います
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この回答へのお礼

なるほど!

確かにはだしのゲンはとても強いです。
お父さんたちは目の前で死んでしまうし、けどその後被爆者のウジをとったりしてお金を稼いでいたのを覚えています。

お坊ちゃんと庶民の違いでしょうか!

ありがとうございました!

お礼日時:2011/05/27 17:45

>火垂るの墓で、清太さんと静子は飢え死にしてしまいましたが



これは、終戦後の食糧難時代の「戦争孤児」の場合ですね。

>戦時下に海軍士官の息子が餓死するなどということはありえない

当然です。戦時下では、将校クラスの軍人遺族は食料・金困る事はありません。
清太さんと静子の場合は「おばさんが、ネコババ」している描写ですよね。

>上官同僚部下、海軍共同体が草の根分けてでも探し出して保護する。

これは、「眉+唾」です。
草の根を分けて捜す事は、ありません。確かに、探す事は探すでしようがね。
あくまで、上官・下士官間の「親睦会」です。
海軍特別攻撃隊に出撃命令を下した本部は、パイロット遺族の生活の面倒は見ていません。
海軍特別攻撃隊に出撃命令を下した本部は、「人間魚雷・回天」乗組員遺族の生活の面倒は見ていません。
他の海軍特別攻撃隊(ベニア板の船に爆弾を積んで体当たり。人間の体に爆弾を巻いて、人間が体当たり)も同様です。
(陸軍では、蛸壺作戦があったとか? 爆弾を持った兵隊が穴に入り、戦車が上を通過する時に自爆)
何も、終戦末期だからではありません。近所に住んでいた駆逐艦乗組員から聞いた話です。
終戦後、海軍は「戦争責任逃れ」を画策しています。(NHKでも、特番を組みましたね)
海軍は、戦争に反対していた。海軍は、紳士的な集団だ・・・。
全ては「陸軍が悪い」とね。筋書き通り、極東軍事裁判でも陸軍・陸軍大臣・首相の責任となりました。
どうも、海軍は「美化」されているように思いますね。

戦争の小説・漫画は、ノンフィクションはありません。
「火垂るの墓」「はだしのゲン」「少年H」なども、色々と脚色しています。
昭和が遠くになるに連れて、色々と明らかになるでしよう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

おっしゃる通り、昭和が遠くなるにつれて、いろいろ明らかになることもあれば、美化されること、逆に必要以上に悪く言われることが増えてくるんでしょうね。

戦前までの日本に興味があるので、本当のことが知りたいです。

お礼日時:2011/05/30 09:47

本当かどうかわかりませんが、軍神 山本五十六の奥さんが、戦後食うや食わずの生活をしていて、発見した黒島亀人(真珠湾奇襲作戦計画立案)が泣いて詫びたという話を読んだことがあります。



まして戦時中は、目が届かないのでは?
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

わたしも、戦後黒島亀人が職種は忘れましたが、山本五十六の奥さんを自分の経営か主催する会社の理事みたいなものに雇い入れたと言うのをみたことがあります。

お礼日時:2011/05/27 19:04

作者も言ってますが、この内容は事実を元にしたものではなく、創作なのだそうです。


実際どうだったか ではなく、物語 人の心をゆさぶる芸術作品として 作られたものだそうです。

それを知らない頃は、現実このようなことが起こったと思っていました。

「清太は馬鹿だ、親戚の指示通りに動いていればよかったのに。妹を殺したのは清太だ」と憤慨していたのですが、事実を基にしていないとわかり、 騙された気に・・・


で、戦争を生き抜いた人の話を聞いたことがあります。
戦争中ではなく戦争後。
焼け野原の状態で、親戚とか縁故のいない人たちを、養っていた人たちがいたそうです。
仕事を探してきて与えたりして、血縁関係に無い無縁の人たちを助けている人たちがいた。
無縁同士の共同体。

他の人がその人の仕事を邪魔しようとしたら、文句いいにいって邪魔させないようにするって世話役 の人が出現したそうです。

それが ヤクザの原型なのだそうです。


警察も機能せず、自警団みたいなのができあがり、守られない人たちを守る人が出現し、政府の役人からの仕事を請け負い、囲った人たちに仕事として与え、日本がだんだん復興し 高度成長していき、仕事の奪い合いで、ヤクザ同士がケンカして、、、ってなったので、建設会社の成り立ちはもともと。。。。 。


だから阪神大震災のとき、ヤクザが助けにいったってわけです。
共同体から助けてもらえる人は、共同体が助けるが、無縁の一人暮らしで誰のつてもない人を救済するってのが、救世軍みたいな役割を戦後してきたヤクザ。
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この回答へのお礼

確かに昔のヤクザは、情があるイメージです。

戦争で孤児になった方もたくさんいて、亡くなられた方も、強く生きた方もいたんですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2011/05/27 17:37

食糧不足が深刻になったのは「戦争中」ではなく、「戦争直後」です。

あの映画でも清太さんが死んだのは「戦争後」の表現になっていた筈です。
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この回答へのお礼

そうですね、太平洋戦争前後のことに興味があって、調べていたら、戦中より戦後の方が食べ物に苦労したということを知りました。で、戦時中末期軍人や特権階級の人たちはどうだったのか気になっています。
ありがとうございました!

お礼日時:2011/05/27 17:34

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四民平等とは、あくまで民を指します。
特権階級であるその他を除きます。

当時、戦争とは武士の物。
こう言う反対を押し切り、万民徴兵を行いましたが、
当時の軍隊の幹部や、警察幹部は特権階級の独占であったようです。

兵から幹部への道も開かれてはいましたが、
所詮、今で言う係長への出世であり、
課長、部長への昇進は、狭き門であったようです。

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しかしこれでも戦後20~30年は染み付いた差別と言う個人の概念は消し去る事が出来ませんでした。
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四民平等とは、あくまで民を指します。
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Aベストアンサー

平民宰相は当然のことですが、総理大臣になってから言われたことで、それ以前は「平民政治家」と言われています。
原敬の家は南部藩の家老職を務めた家で、上級武士の家柄でした。また、本人もそれが誇りであったと言われています。しかし、戊辰戦争では南部藩は奥羽越同盟に加盟し、朝敵とされ降伏しています。そのために薩長藩閥政権には敵愾心を持っていたと思います。ですから、原敬にとっての平民とは、第一に薩長藩閥に対する平民であったと思います。原敬以前の総理は、薩長肥及び公卿の維新の元勲及びその亜流で占められ、藩閥以外の総理は原敬が最初でありましたから。そのように考えると原にとっての平民は、第2に一つの政治的なスタイルで、心の内から平民と思っていたのではないと思います。上級武士でありながら朝敵の汚名を蒙ったことからくる複雑な心情。一時爵位を内々に求めたのは、それが実現することにより、朝敵の汚名からの脱却を考えたとも思います。(詳しくはウィッキーの原敬の項を)
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さて、原敬が大をなす過程で、伊藤博文の創立した政友会に参加し、ここで力をつけていきます。桂園時代には政友会の最大の実力者として藩閥勢力との妥協しながらも政友会の勢力伸長を図ります。この過程で、山県有朋との関係は両者の史料から見ても何とも微妙な関係で、原敬にとっては藩閥勢力を利用しつつ、その力を徐々に削いでいく過程でもあったと思います。そこが原敬の政治家として最も優れている点であり、漸進的な変化の人であったと思いますが、逆にそれが大正政変以来の大正デモクラシー下の民衆の求める改革のスピード感との乖離につながり、平民宰相が平民によって暗殺されるという東京駅の悲劇に行きついたのではと思います。
原敬自身は清廉な政治家で、力量のある政治家でしたが、長らく政友会の幹事長・総裁として、政友会の勢力伸長を図る過程で、政官業の癒着に至る財閥・政商と結びつく金権体質、利益誘導と選挙の集票のリンク、自己に有利な選挙制度の強行など現在の政治の問題点の源流となっていきます。
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原敬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
戊辰戦争殉難者50年祭
http://blog.goo.ne.jp/hardsix/e/7e25c71edafb33d22bce0ceb1f5c0b72


以上、参考まで。

平民宰相は当然のことですが、総理大臣になってから言われたことで、それ以前は「平民政治家」と言われています。
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Aベストアンサー

 こちらでも失礼します。
 一般論として聯隊長までと考えてよろしいかと思います。歩兵科で大佐、騎兵科で中佐です。
 陸軍大学は「陸軍大学条例」で、その目的を設立当初には「将来の参謀職に堪ゆべき者を養成」と定められていました。その後、条例は数度改正され、
「高等兵学を教授し、将来参謀官、高等司令部副官及び教官に充つるを目的とし並に高等職務に堪ゆべき学事上の基礎を修習せしむ」(明治19年改正)
「高等兵術を教授し、参謀其他枢要の職務に充つべき者、または高等指揮官となるべき者を養成する」(明治24年改正)
「高等用兵に関する学術を修めしめ、併せて軍事研究に須要なる諸科の学識を増進せしむる所とす」(明治29年改正)
と、一貫して高等用兵を教え、参謀官、高等指揮官を養成することを目的としていたからでしょう。
 実際、陸大未卒業者の将官昇進は、平時では1%に満たなかったそうです。ちなみに、陸大卒業生は、その内少将昇進80%弱 中将50%強 大将10%強だそうです。
 また、士官学校の卒業成績がその後の昇進のスピードに係ってきますが、陸大を卒業すると、過去の成績に関わらず自動的に士官学校卒業時の成績序列の上位に位置し、その期の進級時期に来ると未卒業者を追い越して一斉に進級したそうです。

 こちらでも失礼します。
 一般論として聯隊長までと考えてよろしいかと思います。歩兵科で大佐、騎兵科で中佐です。
 陸軍大学は「陸軍大学条例」で、その目的を設立当初には「将来の参謀職に堪ゆべき者を養成」と定められていました。その後、条例は数度改正され、
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