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現代(第二次世界大戦後)の日本社会に単一の宗教が根付かなかった理由は何だ、と思われますでしょうか?

確かに大日本帝国憲法でも信仰の自由が認められていたそうですが、基本的には「『国家神道』への信仰」が重視されていた、と思われますので、終戦後に帝から【神格性】が剥奪された途端に、信仰の対象の必要性が感じられなくなったからなのか、と私が勝手に考えてきました。

でも、それに酷い誤解が含まれていますと、勿体無いですから、
宗教的な価値判断を為さらずに、教科書的な回答を頂けませんでしょうか?

A 回答 (6件)

伊勢神宮に仕事関係の奉納行事として2度行きました。


感じた事ですが、ここには暗さというものが無いように思いました。
大きな自然の中に、悠久の時の流れが静かにある、といった感じです。
こうした感覚は、日本仏教の聖地といわれる場所にも見受けられるようですが、やはりどこかしら違うもののようです。
なぜ違うのでしょう?

信仰の面から見てゆけば
仏教の場合には、内部空間へと入っていったところに信仰の対象が存在します。
その中心には仏像という疑似人間的な精神的象徴があります。
それはまた、生死の暗さを超えた存在の象徴として信仰の対象ともなっているものです。
空間的にも、精神的にも、内へ内へと入って行ったところに本質的なものがあるといった感じです。
外部空間の荘厳は二次的なもののようです。

神道の場合には、自然を含めた外部空間の広がりそのものが信仰の対象となっている場合が多いようです。
神そのものの直接の象徴は、幣束という白い紙だけのごく簡素なものだけです。
そこには偶像というものは無く、また必要ともされていない場合が多いようです。
神域における清浄感が、神の存在を示しているようにも感じられます。
建築を含めた空間の広がりにおいて、本質的なものが暗示されている、といってもよいと思います。

無常を嫌った仏教は、内へ内へと入って行ったところに無常の無い安らかな世界を求めていったのでしょう。
神道の場合は、移り変わりゆく大きな自然そのものの中に安らぎを得た世界、といった感じがします。
この二つの宗教の流れは、共に、日本人の心に広く受け入れられてきたのだと思います。
どちらも日本人にとって必要であったのかもしれません。
また別な見方をすれば、人の心の暗さや明るさの反映といったものも、そこにはあるのでしょう。

宗教的な理念や信仰に基づく文化遺産には、日本人の感性が表われていますし、素晴らしいものが多く見受けられます。
それらに接した時の印象は忘れ難いものだと思います。
宗教の本質は理解できなくとも、そうした形の面から大切に受け継がれてきたのかもしれません。
宗教が生んだ文化遺産が、さらに宗教を守り伝えていくといった面があるのでしょう。
そうした流れは、今日まで続いてきたものですし、これからも続いていくものと思います。

仏教は外来宗教ながらも、人の生死の暗さや苦しみの解決といった面から必要とされて伝えられてきたものですし
神道は古来の自然や神への信仰が広く受け継がれてきたものです。
そこには、二つの宗教というものが伝えられてゆく内面的な必然性があったのだと思います。
そうした内面的な必然性に加えて、上記のような文化遺産を守るという外面的な働きがあって、今日に至っているのではないでしょうか。
宗教の内容をどう見るのかはいずれにせよ、この二つの宗教が今も確かにあるという事実には、日本の歴史の重さがあるといっても過言ではないと思います。
以上、参考にしてください。

この回答への補足

有り難う御座います。

日本では、古来から【無心】が尊重されているからこそ、『神道への信仰の自覚』が日本人には乏しい、という認識は可能でしょうか?

補足日時:2011/05/31 08:05
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この回答へのお礼

たとえ神格者を見失いましても、『文化遺産への信頼』が現代の日本人達の多くを『部分的に』助けてくれているのかも知れませんね。

お礼日時:2011/06/01 01:13

>現代(第二次世界大戦後)の日本社会に単一の宗教が根付かなかった理由は何だ、と思われますでしょうか?



「日本社会に単一の宗教が根付かなかった理由」を解明するには、「現代(第二次世界大戦後)」の社会事情に限るのでなく、もっと歴史を遡って考えた方が良さそうな気がします。
なぜなら、たとえば、江戸時代、明治~戦前、戦後等の各時代をそれぞれ比較しても、「単一の宗教が根付かなかった」歴史的、社会的事情となると、さほど大きな違いを見出せそうにないからです。

>「『国家神道』への信仰」が重視されていた、と思われますので

この点については、逆に、戦前の国家権力があれほど徹底的な宗教的統制、露骨な国家神道への誘導をしたににもかかわらず、同時になぜキリスト教の布教や仏教への弾圧をほとんどしなかったのか?(明治維新直後の一時期を除く。)と考えた方がより興味深いとは思いませんか。

ところで、和辻哲郎『風土』は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教等の一神教が厳しい気候風土(砂漠)という条件下で生み出されたことや、日本古来の多神教(八百万神)信仰が日本の気候風土(モンスーン)が育んだ精神構造と無縁でないことを説いていますね。
また、ユング派の河合隼雄『母性社会日本の病理』は、「母性社会日本」にはそもそも強力なリーダー(父性、絶対神)を生み育てる歴史的、社会的必然性が欠落していたことを分かりやすく説明しています。

で、私としては、日本語が、公文書においてさえ、漢字(古代外来語)・ひらがな(倭語)、カタカナ(近代外来語)という3種類もの文字を平気で使い分けるという、世界でも類例のないユニークな書記言語であるという点にこそ、実は「単一の宗教が根付かなかった(根本的な)理由」が潜在しているのではないかとひそかに思っています。

たとえば、同じ大漢帝国の周縁に位置する衛星国、日本と韓国を比較しても、文字をハングルに統一した韓国の方がキリスト教徒の比率が高いというのも興味深いところです。
もしかして、日本の天皇制そのものが、ひらがな(倭語=呪術性、身体性)と漢字(中国語=政治性、観念性)とカタカナ(西洋語=模倣性、無自性)を最も典型的な形で象徴し、このことが日本の「単一の宗教が根付かなかった(根本的な)理由」と通底するのではないか、と。

その意味では、日本人が、たとえ象徴的レベルであるにせよ、原始的な呪術・祭司の長であると同時に、大漢帝国の衛星国(倭国)や擬似近代国家の政治権力の長でもある天皇を戴いている限り、どんなに信仰の自由、布教活動の自由が保障され、かつどんなに各キリスト教団が頑張っても、この日本で他国ほど信徒の数を増やすのは容易ではないような気がします。

なお、カトリック作家の遠藤周作が日本でのキリスト教弾圧を題材にした『沈黙』』は、「日本で単一の宗教が根付きにくい根本的な理由」についての、遠藤ならではの解釈を示そうとした小説と解することができるかもしれません。

なお、その点、神社では神意を映し出す《鏡》がご神体として祀られているのも興味深いですよね。
こういう日本だからこそ、唯一絶対の神を崇拝するキリスト教より、我・法の《空性》や《無自性》を説く仏教の方が抵抗なく受け入れられやすかったのではないでしょうか。

この回答への補足

質問文の主題に即した回答を有り難う御座います。

帝から神格性が剥奪されていましても、
象徴に相応しい影響力が「天皇制」に残っている、
という可能性を見落としていました。

補足日時:2011/05/31 08:01
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この回答へのお礼

ベストアンサー選びの際に冷静な判断が出来ていませんでして、
失礼を致しました。

「統合の象徴」という見方を失念してはいけませんので、
関連事項をスピンオフさせましたから、もし支障が御座いませんでしたら、畏れ入りますが、下記のページでも御教授を下さいませ。
http://okwave.jp/qa/q6780739.html

お礼日時:2011/06/02 10:51

都市化の問題じゃないですか?


平成狸合戦なんかと同じで?

今でもちょっと田舎では、自治会で氏子の役を振られるところありますよ。

正月だって
初詣だって
節句だって
七五三だって
お祭りだって
地鎮祭だって
商店の神棚だって
みんな神道(陰陽道込)でしょ。

この回答への補足

有り難う御座います。

都市化だけでは駄目でしょうね。

海外には、無神論の信奉が法的に許されていない国家さえもが存在しています。

補足日時:2011/05/31 07:56
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日本人の宗教ですが、文部科学省によると


神道=1億1千万、仏教=9千万
ということになっています。

日本古来、独自の宗教というのは神道のことです。
国家神道は戦争の為に神道を借用しただけのことで
本来の神道とは異なります。

本来の神道は多神教で、教義も教典もありません。
動植物を初めとする森羅万象総てが我々人間の仲間であり
ご先祖様が敬おう、というだけのはなはだいい加減な
宗教なのです。
これは日本の自然が豊かで、優しく、至る所
生命や魂が感じられた環境に起因するものだと思っています。

日本のこの神道のお陰で、仏教も、儒教も神道的に
変容されて受け入れてきました。
そのため、仏教も儒教も、インド、中国のそれとは
大幅に異なったものになっています。
その為、宦官や纏足は朝鮮では真似されましたが
日本では受け入れませんでした。
自然を尊ぶ日本人は、あのような不自然な風習を
嫌ったのです。

キリスト教もしかりです。
ああいう教義が明確で体系だっている宗教でも
日本に来れば、神道の八百万神々の一つに過ぎなく
なるのです。

ちなみに、この神道てのは、信者であるという自覚は
必要ないとされています。
自然を仲間とし、先祖を想っているだけで、立派な信者
だそうです。
それで、日本人のほとんどは神道の信者とされて
いるのです。

この回答への補足

有り難う御座います。

信者としての自覚が求められていない、
という発想は凄く日本的ですね。

補足日時:2011/05/29 13:26
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宗教は、社会性の乏しい自我の強い文化において、社会性を強要


する側面がありました(中世において宗教と政治は癒着していた)。
ところが、もともと集団主義的な稲作農耕圏+島国文化な日本には、
そのような拘束衣は必要でなく、冠婚葬祭の儀式宗教になりました
(一方で集団主義の「一億総家族」は、時に国家神道を被りました)。
神が何であれ、生きる指針は「皆がやっているから」ていう。
日本人が真に宗教を必要としはじめたのは、バブルがはじけて、
そうした生きる意味(お金や出世)が色あせてからでしょう。
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回答としては間違っていますが一応私の考えとして。


日本の人口の約75パーセントが仏教徒とされているそうです。仏教の行事はしますし、それほど根付いていないわけではないと思っているのですが・・・
ただ、仏教のそれぞれの宗派が自由に変化していった(結婚できるし)ので仏教徒だーっていう意識が薄いのかもしれません。私も仏教徒ですが戒律知りませんし。
元から無意識に根付いていて、戦争中は忘れていても、戦後にまた復活したのだと思います。

でも質問者様の考えも勉強になりました。ありがとうございます。こんな宗教について考えることがそうないものですから。


戦中、信仰の自由は認められていたけれど、実際は神道以外の宗教は強い監督・統制がとられていたみたいですね。というか、神道は宗教ではないってどんな屁理屈なんでしょうね。

この回答への補足

有り難う御座います。

深い意図を盛り込んだ質問ではないのですが、ふと気になりましたから、回答への御協力を賜れまして、嬉しく思います。

因みに、参考ページは是です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6% …

補足日時:2011/05/29 13:22
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