古代史専門家、ファンのみなさん、どう思われますか?
 関 裕二氏がよく著書の中で「~は、…だった」とよく述べています。昔は、そんなバカな・・・、という感じでみていました。聖徳太子と蘇我入鹿は同一人物。天武天皇は蘇我入鹿の子。ここまで来ると、いかがなものか・・・。だれも見たことのない時代の話ですから、
「100%ありえない」とは言えないにしても。
 一笑にふしてしまえば、いいのですが、あまりにも氏の自信に満ちた姿勢に戸惑ってしまいます。
 みなさんは、どう思われますか。お聞かせください。

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A 回答 (2件)

わたしも tenten7 さんとまったく同感です。


特に最後の部分に共感しました。
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専門家には専門家の意見があるのでしょうが


普通に本屋さんで本を買って読んでいる一般の人なら
「断定的に言い過ぎていやだ!」と思ったら
読まなかったら良いのだし、
「こんな考え方もあるんだね!」と思えるのなら
面白い読み物だと思って読んだら良いのでは?

著者の考えに100%賛成できなくても
なるほどねぇと思える個所があるのなら
それはそれでなかなか読み応えがありましたと思えば良いので
読者におもねるように書いてない読み物だからといって
戸惑う必要は無いし、世の中いろんな考えの人がいて
研究者の数だけ説もあるんだなぁと思えば
なんて言うことは無いのです。

聖徳太子と蘇我入鹿は同一人物、その本は読みましたが
こんな考え方の人もいるんだなぁと思い
なかなか面白い御説拝読させていただきましたという感じでした。
あなたにはあなたの考えがあるのだし、
彼にも彼の考えがあり、食い違ったり
受け入れられないと思ったからといって
一笑に付したり、戸惑う必要は無いのでは?
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>それは自主的なもの?強制的なもの?(誰によって?)でしょうか?

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>そして、それは何時頃でしょうか?

6~7世紀。ちょうど、乙支文徳や淵蓋蘇文と同時代です。

>「創氏改名」に対する反対運動や民衆の反発は無かったのでしょうか?

新羅においては、国の存亡がかかっていますから、王自ら率先すれば、さほどの反対は無かったかと・・・。
百済・高句麗においては支配者である新羅に逆らえば、殺されるだけだったでしょう。

同じ朝鮮半島でも、『新羅』と『高句麗』・『百済』とでは、状況が少し違うように思います。

新羅は、高句麗と百済に挟み撃ちされる形で、常にどちらかの国から攻撃を受ける位置にあったために、『遠交近攻策』により『隋』・『唐』と接近したことから、高句麗や百済と比べると、早い時期から『金春秋』というような中国風の名前が使われています。

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