フーコーの原理を学校の教科書でみて、実際に試してみたいのですが、教科書になるべく近いように実験をしたいんです。
そこで、800回/sの回転鏡を用意したいのですが、それはなんと言う実験道具でしょうか?実際に家庭のものでも作れたりしますか?
あと、光源にはどのようなものを用いればいいでしょうか?
最後に、回転鏡と固定鏡の距離を20mにしたいのですが、この場合、回転鏡と光源の距離はどのくらい離せばいいと思われますか?
質問ばかりですいませんが、教えていただきたいです。お願いします

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

はい。



光源と回転ミラーの間にハーフミラーを入れて戻ってくる光を望遠鏡で観察します。
このとき、望遠鏡でみて光点が見えている時間というのは光が向こうの鏡に到達して、また回転ミラーで反射されて戻ることが出来る時間のみです。
実際には動く光点が右又は左から現れ、中央部で強度はつよくなり左又は右に消えていくわけです。
(望遠鏡の角度がずれていると視野内に見えなかったり強度の強いところが中央部とはかぎません)
つまり横に流れる軌跡が見えるわけです。

で、回転速度が速くなると光が戻ったときには回転ミラーの角度がずれているため、今度は軌跡が横方向にずれて見えます。
つまり強度が一番強いところや、光が見え始めるところ、光が消える位置がずれるわけです。

そのずれを測定すれば光の速度がわかるという仕組みです。

デジカメで撮影して、回転が十分遅いときと早いときの軌跡をスローシャッターで撮影して、パソコンで処理して軌跡のずれを計算するという方法も取れるかもしれません。
(画像の軌跡のずれを抽出するのにプログラムを書いたほうが正確な数値になると思いますが。これはbmpファイルを扱うプログラムを書けばよいだけなので簡単でしょう。)

実際にやるには、お金はあまりかからずに出来ると思いますが(なにせ家庭で手に入るようなものだけで作れるので)、その分試行錯誤と、工夫と、地道な調整・試験が必要と思います。

まぁ、面白い題材だとは思いますね。
自分も子供が大きくなって光の速度に興味があったら実験して見せてあげるかもしれません。
ではご検討お祈りします。
    • good
    • 0

はい。

補足にお答えします。

動きを観察するほうの望遠鏡の口径と同サイズにするのが一番よいです。
それより大きいと光は無駄になります。逆にそれより小さくなっていくとだんだん観察できるスポットサイズが大きくなってきます。

大雑把には、
スポットサイズ=120秒/D[mm]
(Dは直径)
ですから、いま5秒のスポットの動きを見たいとするとせめてスポットサイズは5秒以下にしたいですよね。すると、D=25mm以上には広げないといけません。

では。

この回答への補足

もう少し、質問いいですか?
よく考えたんですが、望遠鏡を使うことによって、動きを観察するというのは主にどのように観察すればいいでしょうか?

補足日時:2003/10/18 21:30
    • good
    • 0

ひとつ書き忘れました。


レーザーポインタの光は拡大してください。
そうしないとスポットが大きすぎて動きがよくわかりません。
一番簡単なのはもうひとつ望遠鏡を用意することです。
あるいは焦点距離5mmくらいの望遠鏡用の接眼レンズ+200mm位のカメラの望遠レンズを組み合わせても出来ます。

では。

この回答への補足

お返事ありがとうございます^^
質問なのですが、レザーポインタの光を拡大というのはどのくらいでしょうか?
まだ、そういうのを使ったことがないもので・・・。
よろしければ教えてください^^

補足日時:2003/10/17 15:15
    • good
    • 0

フーコーの光速度測定試験のことですね?この方法はフーコーが初めに試みた方法ですね。

光の波動説を裏付ける有力な証拠の一つになりました。
(フーコーの原理とは普通は言いませんが、、)

さて、用意する物は、
 ・洗濯機のモータ(1000rpm程度の回転数が得られるもの)
  (もし軽く作れるのであればラジコン用のモータが10000rpm以上出ます)
 ・レーザーポインタ
 ・回転させるミラー
 ・20m先におくミラー
 ・回転ミラーとレーザポインタの間に置くハーフミラー(無ければガラス)
 ・望遠鏡
 ・NDフィルタ(一眼レフ用)数種類(光量を下げるため)
 ・望遠鏡に取り付けるCCDカメラ
 ・CCDカメラからの画像を処理するもの
こんな所です。

1000rpm、20mの条件だと戻ってくる光は0.028mrad(5.76秒)ほど角度が変わるので、その分ずれて見えるはずです。
ちょっとまともな望遠鏡であれば1秒以下の分解能はありますので、一応わかるわけですね。

CCDを用意したのは、直接目でレーザ光を見るのは危険だからです。気を付けて下さい。

では。
    • good
    • 0

こんにちは。

800回/sの回転鏡や固定鏡から連想されるのは、普通、光のスピードを測る実験ですが?それを言うなら、最初に回転歯車で成功したフィゾーとか、回転鏡ならマイケルソンの実験と呼ぶのが普通です。フーコーはフィゾーの後追い実験で水中では空気中より遅い事を発見したようですが、フーコーの原理って何でしょうね?
後学のため、よろしければ教科書名と、前後の文章を紹介して戴けませんか。
教科書でフーコーと言えば普通は地球の自転と振り子の話ですよね。

参考までに「回転鏡と固定鏡の距離を20m」を光が往復する時間は40m/299792458m=133ナノ秒です。この逆数が周波数で約7.5MHzです。この通り鏡を回すと毎秒750万回転(苦笑)。なおマイケルソンの初期の実験は山頂と山頂約70kmとあるので往復467マイクロ秒、約2.1kHz。1回転で2回測れる鏡(ハーフミラー)なら毎秒1000回転ほどなので、「800回/Sの回転鏡」はこれの可能性がありますが。後に8面鏡(ポリゴンミラー)を使って距離を1/4にしたが面の角度の精度は0.01秒近い超高精度とあります。

「家庭のもので」うーーん・・・
CDROMの最外周って確か、一周1Mビット近いデコボコがあるのでは?毎秒10回転で約10MHzになるからフィゾーの歯車のような方法を考えられないでしょうか。

この回答への補足

すいません。
原理じゃなかったです^^;
普通に光の速さを求める実験としか書いてませんでした^^;
返信ありがとうございます。
ハーフミラーなどを使ってまわすとき、そのまわす機械の名前というのは一般的になんというのでしょうか?
普通に回転鏡で通じますか?
よろしければ再度お返事ください

補足日時:2003/10/17 15:12
    • good
    • 0

フーコーの原理


ジャイロと振り子しか知らないのでどのような実験かわかりませんが、制御屋の視点から一言

800回/Sが、800回転/secの事なら、超高速回転です48000rpmになります。
鏡を載せて48000rpmを実現するには生半可な機械系では不可能になります。

読み違っていたらごめんなさい。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どうもありがとうです^^
そんなに回転数が必要なんて・・・。
結構辛いです;;
でも、なんとか頑張ってみます^^
お返事ありがとうございました

お礼日時:2003/10/17 15:18

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qフーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院

先に同著についての関連質問が存在しており甚だ恐縮ではありますが、質問内容が若干異なりますので、お伺いしたいと思います。

国家権力の最たる政治的な機構である「監獄」というモチーフをフーコーが用いた同著を、20数年ぶりに本棚から探し出し懐かしく読んでおります。

ふと思ったのですが、その「身体性」における権力のメカニズムというものは、何も近現代の「監獄」「Panopticon」ならずとも、例えば、中世キリスト教世界における修道院にまで原型として遡ることができるのではないか、ということです。
これをある種の「政治権力」とするのはおかしい発想なのでしょうか。

当時の修道院はhospis、hospitality、hospitalというニュアンスの本源的な存在であった、と若干ではありますが理解しております。
また、「神への信仰」という点など、近代法治国家の「監獄」とでは、まるでその存在理由や目的意図が決定的に異なります。

ですが、神の名のもとにおいて「信仰の力を用いて」ローマ教皇を頂点としたヒエラルキーの中に存在した修道院も、ある意味、フーコーの指すところの人間管理の装置であるPanopticonだったと考えることはできないでしょうか。

厳しい規律・戒律を自発的かつ強制的に自身に強いて働かせ、自らが嬉々として絶対服従を誓う担い手となる。
時に厳格な処罰の対象となり得る状況。
つまり、自分自身が監視し、監視される存在であるという人間管理という点においては、修道院長や修道僧、監獄の囚人、病院の入院患者など、いずれにおいてもほとんど大差ないように思えてならないのです。
そして個々人が相互において見えない権力によって行使せずとも縛られている、そんな状態であったと考えるのは発想がズレているのでしょうか。

『監獄の誕生』105頁にこう記してあります。
「最も確固たる帝国(つまり、人間支配)の揺るぎない基盤は、やわらかな脳繊維のうえに築かれる。」と。

何らまとまりがなくてお恥ずかしい限りではありますが、ご教授のほどよろしくお願い申し上げます。

先に同著についての関連質問が存在しており甚だ恐縮ではありますが、質問内容が若干異なりますので、お伺いしたいと思います。

国家権力の最たる政治的な機構である「監獄」というモチーフをフーコーが用いた同著を、20数年ぶりに本棚から探し出し懐かしく読んでおります。

ふと思ったのですが、その「身体性」における権力のメカニズムというものは、何も近現代の「監獄」「Panopticon」ならずとも、例えば、中世キリスト教世界における修道院にまで原型として遡ることができるのではないか、ということ...続きを読む

Aベストアンサー

> ふと思ったのですが、その「身体性」における権力のメカニズムというものは、何も近現代の「監獄」「Panopticon」ならずとも、例えば、中世キリスト教世界における修道院にまで原型として遡ることができるのではないか、ということです。
> これをある種の「政治権力」とするのはおかしい発想なのでしょうか。

二つの観点から回答ができると思います。

ひとつには考え方の枠組み、ということです。

たとえばわたしたちの遠い遠い祖先は、なんで服を着るようになったか。多くの人はばくぜんと「寒さやケガから身を守るため」と考えているでしょう。けれども、三浦雅士の『身体の零度』という本には、服というのは「しるし」として始まったのではないか、という知見が紹介されています。人間が、「ここまでが自分だ」という境界を、痛みによって確かめながら、入れ墨やピアスをする、ひもをまきつける。衣服というのは、その延長上にあるものではないか。寒さや外界からの刺激を感じるようになったのは、逆に、服を着ることによってではないか。

同様の知見は、木をこすりあわせて火を起こすことをどうやって発見したか(ここでの三浦のメタファーからの推測は興味深い)、矢はなぜあんな形をしているのか、など、いくつも明らかにされていて、大変おもしろい本なのですが、わたしがここでなぜそんなことを書いたかというと、
原因「寒かったから」
結果「服を着た」
というのは、わたしたちが作りだす「物語」である、ということが言いたかったからです。わたしたちがどのような「物語」を作るかは、時代や地域に制約されるものです。あらゆる「出来事」は、時代や地域が変われば全然ちがう「物語」として読まれていく。わたしたちは「寒かったから服を着るようになった」と考えますが、逆に「寒かった」というのは「服を着た」ことによる結果ではないのか。

ひとたびフーコーを読んでしまったわたしたちは、フーコーが「パノプティコン」というメタファーによって示した「権力」のありようを、さまざまなところに見いだすことができるでしょう。あそこにも、ここにも、というかたちで「発見」することができるはずです。当然、歴史のなかにもフーコーの用いた「パノプティコン」の「物語」を当てはめてしまうことは不思議はありません。

ですから、質問者さんが「中世キリスト教世界における修道院」が持つ「規律訓育」という側面に着目して、そこに「監獄」のアレゴリーを見いだしたとしても、それはおかしなことではないと思います。

ところがもうひとつフーコーが重要視するのは、「時間の断絶」ということです。
わたしたちは「歴史」ということを単一的で直線的な時間の流れ、というふうにみなしています。「人類の進化」という絵は、類人猿っぽい生き物が、徐々に背中を伸ばして立ちあがり、最後はいまの人間の形になって、颯爽と歩いていますが、それは進化のプロセスを「単一で直線的な時間の流れ」としてとらえたからにほかなりません。

けれどもフーコーは、人間の認識というのは、そんなものではない、と考えます。あるひとつの認識の装置が形成され、つぎの認識のありようが現れるときには、根本的に断絶があるのではないか。

たとえば中世の騎士物語を読みすぎたドン・キホーテは、17世紀初頭の世の中を「中世」の眼鏡を通して見ようとします。彼の目に巨人として映るものが実際には風車であったように、「中世」の認識と、「古典主義の時代」の認識というのは、そのくらい断絶のあるものでした。

フーコーは、中世、古典主義の時代、近代と、大きく認識のありようが変わっていった時代ととらえます。どうしてそんな見方をするのか。「歴史」を「全体」としてとらえると、あることがらについて考えるとき、あたかもひもをずるずるとたどっていくように、その「起源」や、当時それが起こった「目的」「理由」にたどりつける、ということになってしまいます。「人類の進化」を逆にたどる、それは過去を粗野で原始的で無知な時代、ととらえることにほかなりません。

けれど、たとえ中世の科学が近代科学に否定されたとしても、中世の科学にくらべて近代の科学の方が、無前提的に「正しい」と言えるのか。いま「正しい」と考えられていることも、技術的条件や、社会的なシステムが変わっていけば「誤った」ことになっていくかもしれない。つまり、何が「正しい」かは、その時代の枠組みのなかでしか決定することはできません。

つまり、フーコーが同時にそのような思想家であったことをふまえるとすると、「監獄」の「起源」を中世に見いだそうとするのは、ちょっとちがう、ということになるのです。

ああ、長くなっちゃいましたね。ここからは簡単に行きましょう。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4846778.htmlでもふれたように(※この質問では、わたしが回答しやすいように#4で回答してくださってありがとうございました)フーコーは「中世キリスト教世界」のことに関しても考察を行っています。

中世のキリスト教の世界では、「牧人」と「羊」は、個別的な絆を結び、個人的な服従関係に入っていきます。従属は「徳」であり、それ自体が目的です。羊は四六時中導きを受け、そこから離れると、かならず道に迷ってしまいます。

人びとを「牧人」として統治するという考え方は、中世の教会のなかで、重要な理念として受け継がれていきます。

そうして、牧人支配が可能になるような経済的条件、そしてまた一定の文化水準に、支配する側ばかりでなく、「群れ」の側も達し、政治的構造がそれを可能にした「近代」という時代に、このことは規律訓育型の権力ではなく、人びとの生命を統治する権力として現れていったのだ、と考えていくわけです。

以上、長くなりましたが。
あと、三浦雅士の『身体の零度』(講談社メチエ)はおすすめです。質問者さんでしたら、きっと興味をもたれるのではないか、と思います。もちろん『監獄の誕生』にもふれられています。

> ふと思ったのですが、その「身体性」における権力のメカニズムというものは、何も近現代の「監獄」「Panopticon」ならずとも、例えば、中世キリスト教世界における修道院にまで原型として遡ることができるのではないか、ということです。
> これをある種の「政治権力」とするのはおかしい発想なのでしょうか。

二つの観点から回答ができると思います。

ひとつには考え方の枠組み、ということです。

たとえばわたしたちの遠い遠い祖先は、なんで服を着るようになったか。多くの人はばくぜんと「寒さや...続きを読む

Q光が届く距離と光源が見える距離の違い

ライトなどの光が物を照らせる距離に限界があるのはなぜですか?
また、その距離の外からでもライトが光っているのがわかるのはなぜですか?

Aベストアンサー

…照らして見えるためには往復なので。

 光源が光っているかどうか分かるためには片道ですが、照らしたものが見えるためには往復で、しかも照らされた物体の反射率が関わってきます。光(を含む電磁波)は距離が2倍になると強度が1/4になりますので、100%反射したとしても直接光源を見る場合の1/4の明るさでしか戻ってきません。

QM.フーコーの英訳(Alan Sheridan訳)で、Descipli

M.フーコーの英訳(Alan Sheridan訳)で、Descipline and Punish:The Brith of the PrisonのThe Carceralの章を読み始めたところです。和訳の参考にと思って『監獄の誕生―監視と処罰』(田村叔訳、新潮社、1977年)を、みたら該当する章がありません。どなたか該当する和訳の著書名を教えて頂けないでしょうか?

Aベストアンサー

The Carceralは、第四部の第三章に該当していますよ。

Q2枚の平面鏡を互いに60°の角で向かい合わせ、2枚の鏡から等距離の点P

2枚の平面鏡を互いに60°の角で向かい合わせ、2枚の鏡から等距離の点Pに小物体を置く。小物体の像はいくつできるか。



という問題で、解答を見たのですが、言ってることがよくわかりませんでした。Pを光源だと思って、鏡に反射させてまたPに戻ってくる線を引いてみて、QRSTの像は出来るのは理解できるのですが、Uがどうやってできるのか全く分かりません。詳しく教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

添付図のような目の位置から鏡越しにPを見る時、
P点から出た光線は、赤線の経路を通って、鏡面で3回反射して目に至ります。

目からは Pの像(4)が鏡面Y-Y'に写ってできた像R(3)、
     そのR(3)が鏡面X-X'に写ってできた像T(2)、
     そのT(2)が鏡面Y-Y'に写ってできた像U(1)
を逆順の(1)→(2)→(3)→(4)の順に鏡の中の像からくる光線、見ている事になります。
もちろん像の元は物体Pだけです。

目の位置とPから出た光線の鏡面で反射する経路と鏡の中の虚像との位置関係を正しく理解できるように添付図をみてよく考えて見てください。
それが理解できるようになれば、目の位置を変えた時、物体Pから出た光線が、どんな鏡面での反射経路を通って目に到達するかを作図できるようになるでしょう。光線が鏡の表面で「入射角=反射角」となる光線経路を通過していることに注意してください。

Q啓蒙思想とパノプティコン

18世紀末にパノプティコンをベンサムが具体化したそうですが、啓蒙思想の中でどのようにこの発想がされたのですか。どうか教えてください。

Aベストアンサー

「啓蒙」をたとえば英語で言うと、Enlightenmentですよね。この言葉をみてもわかるように、「啓蒙」には「光」(light)が重要な意味を持っています。「光」を照らすことによって、見えなかったものが、「見える」ようになる。これが、「蒙を啓(ひら)く」ことの本質的なイメージなのです。「理性」「知」=「光」によって、「世界」が一望に「見渡せる」ようになる、というわけです。
(だから、「啓蒙」の思想には「見る(見える)」という意味が一貫して付きまとっています)

さて、「パノプティコン」はご存知のように、日本語で言えば「一望監視装置」ですね。普通は囚人などを監視するわけですが、「一望(一目)」で「見える」ことがその本質的な機能です。だからこそ、「啓蒙」の「光」によって「見る(見える)」という一貫した志向性の、延長にあるものと理解できるわけです。

とりあえずはこんなところでどうでしょうか。
なお、詳しくお知りになりたい場合は、新潮社等から翻訳されているミシェル・フーコーの著作をお読みになるとよいでしょう。

Q変な質問を実際に実験することになりました

以前「卵を高いところから落として卵の殻を割らずに落とす方法」を聞きました。
数多くの回答を貰いましたが、今回は実際にそれを実行し、成功する方法をお聞きしたいのです。問題はこうです。(以前と少し変わってます)

目的:卵を私たちの学校の最上階から落とし、殻を割らないようにしましょう。

使用してはいけない物:卵のスピードを落とす物(バンジー卵、パラシュート、棒、すべり台)。地面につく前に何かに触れてはいけない(マット、水、など)。

これは実際に実験するので、本当に成功できる方法を教えてください。
自分でも考えてみた結果、一番可能性が高いのは「地面をやわらかくする」です。砂や芝生を落下地点に置くのは上記の「地面につく前に何かに触れてはいけない」に反するかもしれませんが、地面に生えていたり、地面が砂場だったら問題ないと思います。

他にも良い方法ありましたら教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

楽しい実験ですね。ちょっと考えてみました。
卵を、何かでコーティングしちゃうのは、どうでしょう?ひびが入っても割れないかもしれないですよ。
粘土でくるむのは?衝撃吸収の意味もあるし、卵の変形も防げるし、良いかもしれませんね。バレーボール大になるくらい、たっぷりくるんだら、大丈夫じゃないかな?
どちらの場合も、落ちるスピードは裸の卵と変わりませんよね。
実験結果、ぜひ報告してくださいね!

Qフーコーは歴史家か哲学者か?

フーコーは歴史家か哲学者か?

Aベストアンサー

はじめまして。

フランスでは「哲学者」と分類されています。

ご参考までに。

Q数研出版の物理1の検定教科書を読んでいたのですが、「実験&観察」という

数研出版の物理1の検定教科書を読んでいたのですが、「実験&観察」というコラム欄があるのですが、それで「せっけん水で光の散乱を観察しよう」というタイトルの文章がありました。

ペットボトルなどの透明で細長い容器に少し白濁した石けん水を入れ、暗い部屋の中で容器の上から懐中電灯で照らしてみる。
光源に近い場所と遠い場所で石けん水の色の違いを観察し、なぜそのような色になるかを考えてみよう。
また、懐中電灯の光を、石けん水を通して反対の位置から見るとどのように見えるだろうか。

教科書にはペットボトルを横から見た写真は添えてあり、上が青く、下が赤くなっています。
これは青空と夕暮れと同じ関係ということで、原理も理解できました。
が、下から見るとというのは答えが載っていなく、考えてもわかりません。
あいにく実際に試す道具もないので、結果とその理由を説明していただけたらと思います。

私の予想としては、水の中を長く走るわけですから、波長の短い青が分散されて、やはり横から見た下側と同様、赤く見えると思うのですが・・・。(ひっかけかも、と。)

Aベストアンサー

夕陽(空気中を長く通った光)は赤いですね。
それと同じで光源が赤く見えます。

Qフーコーの表象論について教えてください

 美術史を専攻していますが、最近の専門書の中で、よくフーコーの表象論という言葉を見かけます。
 いきなり「これはパイプではない」を読んでみたのですが、今ひとつよくわかりませんでした。
 フーコーの表象論、あるいは表象論というものについて、教えてください。
 また、初心者にもわかりやすい、表象論を論じたフーコーの著作や解説書なども教えていただければ幸いです。
 よろしくお願いします。
 

Aベストアンサー

 「これはパイプではない」だけを読んでもわからないと思います。『ドン・キホーテ』第二部を論じた箇所やベラスケスの絵画を題材に論じた箇所を読んでみれば、共通した構図が見て取れるでしょう。といってもフーコーの『言葉と物』などは難解で、いきなり取り付いても脳味噌ねじれてしまいますね。

 美術史のご専攻ということなら、ベラスケスの関係で「フーコーの表象論」という言葉に出くわしたのではないでしょうか。おそらくそうだと思いますので、これで話します。
 が、ベラスケスの『侍女たち』について話す前に、対比材料として「ふつーの絵画」を思い浮かべていただきたいと思います。フランドル派みたいな、わりと写実的な絵画です。

 風景画の場合、絵画の画面はいわば「透明なガラス板」です。画家は風景をキャンバスに写し取り、鑑賞者は写し取られた風景を、画家が見たのと同じ視線で眺めます。画家の「視線」と鑑賞者の「視線」は重なり、透明な画面を通して「見られる風景」と関係しあっています。
 人物画だともう一つの「視線」が加わります。モデルの視線です。モデルは画面から画家/鑑賞者を見返しているかもしれません。または、画面内で別の何かを見ているかもしれません。が、前者の場合でもモデルと鑑賞者との間には「見る・見られる」関係があり、それは画面の内と外との間での関係です。いずれの場合にも、鑑賞者と画家は画面の外にいます。
 風景画の場合でも人物画の場合でも、「見られる絵画」と「見る・見られる」関係の中で関わりあう別の項、「見る者」「描く者」は「画面の外にいる」。このことをご確認ください。これが対比のポイントです。

 では、17世紀スペインの宮廷画家、ベラスケスの『侍女たち』です。
 絵画を言葉で説明するのは難しいのですが、kunstさんはおそらく図版をお持ちでしょうからご覧になりながら読んでください。図版をご覧になれない他の読者も、上に書いた「ふつーの絵画」と対比すれば何が問題かはわかると思います。
 で、画面ですが、宮廷の一室です。人物は都合11人。それと犬一匹。
 注目点はいくつかありますが、まず第一に「画家自身が登場している」ことが挙げられます。ベラスケスらしき画家自身が、画面左手に、絵筆とパレットを手にしてまっすぐこちらを見ています。「鑑賞者を見ている」ということです、いちおう。…「いちおう」と言ったのは、この画家が取り組んでいる絵画もまた画面に描かれているからです。画面左端に、大きく。ただしこちらから見えるのは裏側です。表側は当然画家の方を向いています。だから鑑賞者には見えません。しかし画家が何を描いているかは察しがつきます。これが注目の第二点です。
 画面のほぼ中央、部屋の奥の壁に鏡がかけてあります。その鏡には二人の人物が映っています。スペイン国王フェリペ(4)世とマリアーナ王妃です。画家はこの二人をモデルに絵を描いているのです。そのモデルである国王夫妻は、実に「鑑賞者と同じ位置に」立っていることになります。
 そして第三点。その鏡のやや下に、こちらを見ている王女マルガリータ姫が描かれ、彼女に視線を向ける若い侍女がその両脇に。画面右端にはオバサン侍女と子ども。オバサンはまっすぐこっちを見ています。ここで、王女マルガリータとオバサン侍女は「こっちを見ている」と書きましたが、彼女らが見ているのは「国王夫妻」です。「ふつーの絵画」なら「画面の外」にいる画家や鑑賞者を見返すはずの視線が、ここでは画面内に(反射して)登場している国王夫妻に向けられているのです。
 さらに第四点。「鑑賞者」までもがこの絵画には描き込まれています。画面中央の鏡のすぐ右に開いた扉があり、この扉のところで一人の男がこちらを見ています。描かれた空間の一番奥から、こちら方向を見ているのです。すなわち彼だけが、描かれた空間全体を一望のもとに視野に収めているのです。「国王夫妻の肖像画を描いている現場の様子をちょっと見に来た男」として。

 フーコーはこの作品を分析して「代理表象の体系によって自己完結している」と評しています。この絵画を描いているベラスケス自身は「絵筆とパレットを持った画家」として「表象」され、真のモデルである国王夫妻は、本来なら画面の外にいるはずの鑑賞者の位置を占めつつも「鏡」に反射する形で「表象」され、国王夫妻に場所を奪われた鑑賞者までもが「様子を見に来た男」に代理「表象」されて画面に描かれています。
 上記の「対比のポイント」を想起していただければ、フーコーが何を言いたかったのかはおわかりいただけると思います。すなわち、「ふつーの絵画」ならば画面の外にいて、描かれた事物・人物と「見る・見られる」関係を取り結ぶ画家や鑑賞者が、「代理表象」される形で画面の中に取り込まれてしまっている、ということです。絵画を成り立たせている制作・作品・鑑賞というすべての諸関係が画面の中にある。そういう意味で「自己完結している」のです。

 フーコーが何のためにこんなことを言ったのかについても軽く触れておきます。
 鏡を2枚、向かい合わせに立てて、その間に立って鏡を見るとどうなりますか。「自分の姿」が無限に連なって見えて、とても不思議な気分になりますね。これと似たようなことなのです。つまり、「見る自分が見られる自分であり、見られる自分が見る自分である」というこの関係が、無限に連鎖している。この例では「前と後ろ」という二方向一次元でこういうことが起こっていますが、現実社会では多方向多次元でこういうことが起こり、その網の目が「主体」や「知」や「権力」を成り立たせているのだと、彼は議論しています。「見られること」で主体が成立し、その主体が「見ること」で他の主体を成り立たせる。こういうふうに相互に表象しあって映じているのが「世界」だということです。

 ちなみに『ドン・キホーテ』の話も構図は同じです。『ドン・キホーテ』第二部には、なんと「第一部を読んだ」という読者が登場してくるのです。「ふつーの小説」では本来作品の外にいて、作中人物と「読む・読まれる」関係を取り結ぶものであるはずの読者が作中に取り込まれて、作品を「自己完結」させているというわけです。

 なお、関連書籍ですが、講談社新書の『フーコー』が安価で手に入りやすいと思います。著者は中山元さんだったと思います(すんません、どっか行っちゃって)。ただ簡潔すぎてわかりにくいかも。同じく講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズで『フーコー』というのもあります。kunstさんが直接必要とする部分ではないでしょうが、「フーコーが何のためにこんなことを言ったのか」という背景を押さえるにはよいかと思います。
 美術史関連ですと、絵画と鑑賞者の関係の変化を追ったものとして『闇の光 -近代芸術とニヒリズム』(石原達二・剄草書房)が面白かったです。が、基本的に専門外ですので、こんなところでご勘弁ください。

 「これはパイプではない」だけを読んでもわからないと思います。『ドン・キホーテ』第二部を論じた箇所やベラスケスの絵画を題材に論じた箇所を読んでみれば、共通した構図が見て取れるでしょう。といってもフーコーの『言葉と物』などは難解で、いきなり取り付いても脳味噌ねじれてしまいますね。

 美術史のご専攻ということなら、ベラスケスの関係で「フーコーの表象論」という言葉に出くわしたのではないでしょうか。おそらくそうだと思いますので、これで話します。
 が、ベラスケスの『侍女たち』に...続きを読む

Qコマの初速度?初めの回転数?を一定にして実験を行いたいんですが何かいい案はないでしょうか。 一度同じ

コマの初速度?初めの回転数?を一定にして実験を行いたいんですが何かいい案はないでしょうか。

一度同じような内容で投稿しましたが自分の言葉足らずでうまく伝えられなかったのでまた投稿しました。

Aベストアンサー

う~ん、考えてみたんですが、学校にあるような機材では無理かも知れません(。。;)
そこで、発想を少し変えてみたらどうでしょう?
まず、コマを回すと歳差運動(コマの軸が首振り運動する事)が生じる場合があり、これが絡むと難しいので、
コマの軸が傾かないようにしてしまいます・・・要するに、コマの軸を支えるんですね。
支える構造は、「地球ゴマ」とうい玩具ありますので、それを参考にするといいかも知れません・・・Amazonでも売ってますよ(^^;)
初めの回転数を一定にするのは難しいので、コマの回転数を数える工夫をします・・・軸が支えられていれば、いろいろなアイディアが浮かぶのではないでしょうか(^^)
回転数を数える工夫をしたら、いろいろな構造のコマで、回転数がある一定の値になってから、
止まる、または、ある値に回転数が落ちるまでの時間を計測します。
これで、コマの構造と回転の持続の関係がある程度分かると思います(^^v)

参考になれば幸いです(^^)
・・・あ、コマの最初の回転数を一定にするアイディアを思いついたら教えて下さい(^^;)


人気Q&Aランキング

おすすめ情報