痔になりやすい生活習慣とは?

「都」を使うかどうかは、主語の人数の多さではなく、
対象がその母集団で占める比率の大きさに拠ります。
と教えてもらいました。では、下の文を見たとき、

(1)この「都」は、全て日本に行かない。と訳すのか?

(2)比率が多いので、「都」をいれているなら、全員行かない訳ではないと、どう見抜くのですか?

(3)比率が多いので、「都」を使っているとしても、日本語に訳すとき、その「都」は
  とりあえず、ほぼ日本に行かない。と「ほぼ」という言葉にしてしまって訳すのですか?
 「ほぼ」や「大体」なら、別の単語があります。

他们都不去日本。

この彼らの人数しだいで、勝手に厳密には、全員でないので、「全て」と訳さないパターンだろうと、
こちら側で適当に、全員ではない事にしたり、全員にしたりしていいのですか?

仮に、この彼らが、中国人全員のことを言っているとするなら、
厳密には、全員ではないだろうと、勝手に判断して、本当に全員日本に行かない。
と言っているのに、
都合よく「全て」という意味の「都」ではないと判断してもいいのですか?

それに、「全て」という意味でなかったとしても、
この「都」は、無視して訳さないのですか?
それとも、「ほぼ」や「大体」という意味に変えて訳すのですか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

> 他们都不去日本。



「ずべて」と訳します。
比率の問題ではなく、「すべて」です。

「彼らはみんな日本には行かない。」と「話者が決めている」のです。
もしかしたら例外がいるかもしれないが、話者の知っている限り全員です。
あるいは実際には行くつもりの人が何人かいたとしても、話者にとってはそんなことはどうでもよいのです。(問題外、あるいは眼中にないのです。)

前回のご質問でお答えしたように、事実を述べている文章や正確さが必要な記事の場合は、「論理的に全部」であり、もしも例外があったとすれば「ほぼ全部」「大多数」という表現をする方が「適切」でしょう。
しかしながら、会話の文章などでは、話者がどう思っているのかということがすべてです。
聞いた側は話者の言うことをすべて信用するとすれば、「全部」であると理解するほかはありません。

> (1)都は、「すべて」「みんな」と言う意味の副詞です。
> 全てと言わないなら、入れてはいけない。まずこれが基本である。

前回のご質問で上記のようにお書きになられた通りです。
どう考えても「すべて」ではないと聞く側がわかっていたとしてもですね。

これは中国語という言語、言葉、文法の規則の問題ではなく、その背後にある文化、考え方の問題と言ってもいいでしょう。
日本語(日本)では、なるべく相手の側に立って話をするという一種の美徳があります。
間違っているかもしれないこと、例外があることに関して、相手が誤解しないように言葉を加えることはごく当たり前に行われます。
しかしながら、外国語(外国)では、自分の意見や主張を表現することが第一であり、他人から見て間違っていようが、自分の意見や主張を表現する場合に遠慮はしません。

まあ、日本でも「みんな(そうしているよ)」などと言い切ってしまうことはありますが。(笑)
このように「みんな(そうだよ)」と言われたことはありますよね?
本当に「みんな」でしょうか?違うこともありますよね。でも、「みんな」と言うのです。
中国語では、特にこの種の言い切りだとか、強調が多いのです。
そういう場合には「都」、「也」、「就」などが頻繁に使われますが、時に日本語には訳しにくくなります。

前回のお答えでは、「都を使っていても、必ずしも論理的に全部を意味しない」ということであって、「都をすべてとは訳さない」とは申しておりません。
ほかには「ほぼ」「大体」については、そのように訳するとも申しておりませんし、回答内に使用しておりません。
似たような語を使っているのは、「都を使うときの気持ち」を説明している部分で、

「ほっとんど、みんな、そうしているんだよ」、「いつでも(どこでも)そうなんだよ」、あるいは「みんな、もうそうしているよ」「とっくだよ」という気持ちで語る場合には、「都」はあるのが当たり前

という部分です。

話者が仮に頭の中で感じているのが「アバウト」であったとしても、ひとたび言葉で「都」と言った時点で「すべて」だと言い切っているのですから、聞いた側は「すべて」と訳すしかありません。

他には人数にこだわっておられるようですが、二人でも三人でも「みんな」であれば「都」は用います。

ということで、前回と今回のお答えが疑問点とずれていて、単純に文法的な回答をお求めの場合は、「都=すべて」とだけご記憶になられて学習を進めていただいた方がよいでしょう。
いつか、中国語の言葉の裏だとか、表現の特性を知りたくなったり、単純に文法規則で解釈できなくなった場合に思い出してください。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ようやく「都」の謎が解けました。
学習の最初の頃に出てきた「都」は、本当に「全て」
の方で訳しても大丈夫な文でしたので、今回は困りました。
結局は、日本語の「みんな」と同じ感覚ということですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/15 11:48

中国で生活していました。

(日本人です)

結論から言うと、そこまで考えなくていいと思います。
「他們都不去日本」は「彼らはみんな日本に行かない。」
で、「みんな/全員」でいいでしょう。
強調の意味をあらわすこともあります。


以下、現代漢語虚詞詞典の説明です。
「都」だけで5ページ分(1ページB6サイズ)の説明があります。一部だけ例を挙げます。
※この辞典は虚詞に関して(中国語で)細かい説明がしてあります。

1.表示总括.总括的对象或范围在“都”的前面.
2.总括的对象在“都”的后边,口语色彩较浓.
3.表示强调。强调的对象在“都”的前边,一般重读。常用“连······都······”的格式。
1)强调到夸张的地步。
肺都气炸了 | 腿都跑细了 | 连人影都没见到
4.强调的对象在“都”的后面。被强调的词语一般重读。
都十二点了,还不睡觉 | 老了,都七十五了

辞書ではそれぞれの項目がもっと細かく説明され例文が挙げられています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
今回が今までの中国語の質問で一番スッキリしました。
迷うことなく、「都」を日本語の「みんな」と同じ感覚で使えます。

お礼日時:2011/06/15 11:51

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q「好的」と「是的」の違いについて

最近中国語の勉強を始めました。
はい、イエスを意味する言葉として「好的」と「是的」がありますが
この使い分けはどうすれば良いのでしょうか?

Aベストアンサー

まず、「好的」は良い・OKなど、了承を表す意味を持ちます。

例:「明天9点半在学校門口見面、好ma?」→「好的」
(明日9時半に学校の校門前で待ち合わせでいいですか?→いいです)


「是的」は、その通り・合っているなどの肯定を表す意味になります。

例:「ni是日本人ma?」→「是的」(あなたは日本人ですか?→そうです)


あと、正反疑問文の「好不好?」「是不是?」で聞かれた場合は、その動詞に対応して回答します。

・「好不好?」→好/不好     ・「是不是?」→是/不是

ご参考までに。

Q中国語の「もし」(要是、如果、・・・話)

「もし・・・なら」という意味の中国語(普通話)は、
ぱっと思いつくだけでも
要是
如果
・・・話
があります(日中辞典によれば、もっとあります。)が、
この意味・ニュアンスの違いを教えてください。


如果・・・話
の代わりに
要是・・・話
という言い方は可能ですか?
可能なら、意味・ニュアンスはどう変わりますか?

Aベストアンサー

 こんばんは。

 まず、「・・・話」ではなく、「・・・的話」のように覚えましょう。

 それから、「もし・・・なら」という意味の中国語と言えば、次のような言い方は全部ありえます。意味は同じで、言葉の硬さぐらいの違いなので、お気軽に考えてください。

書き言葉、話し言葉
1.如果      

話し言葉
2.如果……的話  
3.要是      
4.要是……的話
5.……的話     

 「如果」はちょっと硬い感じの言葉なのですが、それでも会話でしばしば使われます。

「もし明日雨が降ったら、私は行きません。」

1.如果明天下雨,我就不去。
2.如果明天下雨的話,我就不去。
3.要是明天下雨,我就不去。
4.要是明天下雨的話,我就不去。
5.明天下雨的話,我就不去。

 硬さを順に並べると、1>2>=3>4>5のようになっていると思います。また、条件節を受ける働きとして、よく二番目の文節に「就」が来ます。

 ちなみに、「明天」を「如果」と「要是」の前か後ろか、どちらに置いてもかまわないのですが、「我」を「就」の前に置くべきです。つまり、このようなことです。

○如果明天下雨,我就不去。
○如果明天下雨的話,我就不去。
○要是明天下雨,我就不去。
○要是明天下雨的話,我就不去。
○明天下雨的話,我就不去。

○明天如果下雨,我就不去。
○明天如果下雨的話,我就不去。
○明天要是下雨,我就不去。
○明天要是下雨的話,我就不去。
○明天下雨的話,我就不去。

×如果明天下雨,就我不去。
×如果明天下雨的話,就我不去。
×要是明天下雨,就我不去。
×要是明天下雨的話,就我不去。
×明天下雨的話,就我不去。

×明天如果下雨,就我不去。
×明天如果下雨的話,就我不去。
×明天要是下雨,就我不去。
×明天要是下雨的話,就我不去。
×明天下雨的話,就我不去。

 こんばんは。

 まず、「・・・話」ではなく、「・・・的話」のように覚えましょう。

 それから、「もし・・・なら」という意味の中国語と言えば、次のような言い方は全部ありえます。意味は同じで、言葉の硬さぐらいの違いなので、お気軽に考えてください。

書き言葉、話し言葉
1.如果      

話し言葉
2.如果……的話  
3.要是      
4.要是……的話
5.……的話     

 「如果」はちょっと硬い感じの言葉なのですが、それでも会話でしばしば使われます。

「も...続きを読む

Q中国語 ”不可以”と”不能”の違い

中国語で ”不可以”と”不能”はどうちがうのでしょうか?
たとえば、「日本可以 ロ乞 鮮魚片。」の否定文は
「日本不能 ロ乞 鮮魚片。」ですが、
「日本不可以 ロ乞 鮮魚片。」といえるのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。私も単なる中国語の“いち学習者”ですが、大変懐かしい疑問でしたのでお答えします。
可以と能、そしてもうひとつ“会”の使い分けは、日本人の中国語学習者なら、必ず一度は通る関門なのですよ。えぇ、私だってこの2つには大混乱しましたとも!(^^)

例えば同じ『食べられない』という事を言う時、日本語であれば どんな場合も『食べられない』という言葉を使い、では何故食べられないのかを説明する時には、先に理由を述べてから表現します。つまり…

(1)この刺身は私のものではないので ←理由を述べて → 食べれない 
 = 中国語は一言 不可以口乞 と表現(食べようと思えば食べられる)

(2)今日は魚を買い忘れたので刺身は ←理由を述べて → 食べれない
 = 中国語は一言 不能口乞 と表現(物理的に食べるのは無理)

…と言うようにです。(1)と(2)の日本語、違うのは前の説明文であって、結局は どちらにも同じ『食べられない』を使っていますね。
ところが中国語では『出来る・出来ない』という表現方法が何種類も用意されているのです。ここでの話ならば、日本には1つしかない『食べられない』が、中国語では3つも4つもあるのですね。この辺はお分かりでしょう。
最初は面倒に感じるでしょうが、慣れてしまえば日本語のように長々と理由を述べなくても、一言で意志を伝え理由を理解出来るのです。その表現方法の代表が可以と能(会)です。


初めて納豆を見た中国の人が あなたに食べられますか?と聞く時も、その方が 能口乞ma? とあなたに聞いたとすれば、それはあなたに『これはそもそも食べる事が出来るものか?』とか『中国人の私にも食べられるものか?』というニュアンスの『食べれるか?』です。

一方、可以口乞ma? と聞いた時、それは単にあなたに食べる許可を求めているという事になります。

…難しいかな? (というか説明も難しいんです)(^_^;)
残念ながら、これは自分で色んな場面を考えて、この場合は可以かな?能かな?と考え、慣れて行くしかないと思います。
今後は さらに会という表現、また~得(不)了とか ~得(不)下 などの出来る出来ない表現も出てくるでしょうから、まずはシッカリ可以と能の使い分けを体得しましょう。
頑張って!!

こんにちは。私も単なる中国語の“いち学習者”ですが、大変懐かしい疑問でしたのでお答えします。
可以と能、そしてもうひとつ“会”の使い分けは、日本人の中国語学習者なら、必ず一度は通る関門なのですよ。えぇ、私だってこの2つには大混乱しましたとも!(^^)

例えば同じ『食べられない』という事を言う時、日本語であれば どんな場合も『食べられない』という言葉を使い、では何故食べられないのかを説明する時には、先に理由を述べてから表現します。つまり…

(1)この刺身は私のものではないので ←理由を...続きを読む

Q「会」の使われ方がよくわかりません

中国語を独学している初学者です。

中国語で以下の文章を書いたところ、日本語を勉強している中国人の大学生からいくつかの添削が入りました。
いずれも、“会”の使い方がダメらしく、文中“ ”でくくったように“会”についてたくさん間違いを指摘してもらいました。
どうしてここに“会”が必要なのかが、よくわかりません。

#1 自分の故郷が舞台になっている映画について書いた一節:
所以看了这部电影,我就经常"会"想起我故乡。
(だから、この映画を見ると、私はいつも故郷を思い出してしまいます。)

#2 友だちが、クリスマスにホームパーティーに招待してくれた時のエピソードの一節:
每年她的丈夫都"会"为(/给)我们做许多晚会的料理,我"会"提供几瓶日本酒,而别的朋友也"会"提供几瓶葡萄酒。
(毎年彼女の夫が私達の為にたくさんの料理を作ってくれます。私は何本かの日本酒を、別の友達は何本かのワインを提供します。)

“会”そのものの意味の他、たぶん、自分は中国語的な文章のつくり方・発想が理解できていないのだと思います。
日本語に、意訳でなく、直訳していただけるとその発想の違いが感じ取れるのかもしれません・・・。
どうぞよろしくお願いいたします。

中国語を独学している初学者です。

中国語で以下の文章を書いたところ、日本語を勉強している中国人の大学生からいくつかの添削が入りました。
いずれも、“会”の使い方がダメらしく、文中“ ”でくくったように“会”についてたくさん間違いを指摘してもらいました。
どうしてここに“会”が必要なのかが、よくわかりません。

#1 自分の故郷が舞台になっている映画について書いた一節:
所以看了这部电影,我就经常"会"想起我故乡。
(だから、この映画を見ると、私はいつも故郷を思い出して...続きを読む

Aベストアンサー

「就」や「都」などの副詞や「会」、「能」などの助動詞(能願動詞)は、日本語に慣れているとなかなかうまく使えませんね。
語気助詞を含めて、ニュアンスを出す話法は、本場の会話で雰囲気をつかまないとなかなか頭では理解できても使えません。

まず、#1 の「会」は、英語の「must」で考えるとわかりやすいかもしれません。
「~しなければならない」の方ではなく、「~に違いない」「~のはずだ」の方です。
「当然、そうだ」という場合の「会」で単に辞書にある「可能性」よりももっと強いものです。
可能性よりも必然性と言ってもいいでしょう。必ずそうなるのです。

なお、否定したときの「不会」には「できない」以外に「~はずがない」という用法があります。

つまり、淡々と「いつも思い出す」のではなく「本当に(←就)いつも、必ず(←会)思い出す」のです。
このようにして、自分の言いたいことを誇張気味に話すのが中国語の特徴です。
相手に伝えたいことがある以上、控えめなんてことはありません。(笑)

#2 の用法では、#1 と同様に「当然のように~する」という意味があります。
辞書にも「~するものだ」という意味が出ていると思います。
それ以外にも「会」には「上手である」という意味もあります。
つまり腕前を強調しているので、単に「毎年恒例なので当然~する」以上に「うまくこなせる」「手馴れている」という意味にもとれます。
「会」がはいっていないと単純な習慣の事実を記述しているだけですが、「会」が入ると、毎年やっていて生き生きとした動作と楽しげな雰囲気が感じられるようになります。

以上、個人的な解釈が多分に含まれていますので、文法的な正解を踏み外しているかもしれませんが、それが言葉と言うものだと思っています。

「就」や「都」などの副詞や「会」、「能」などの助動詞(能願動詞)は、日本語に慣れているとなかなかうまく使えませんね。
語気助詞を含めて、ニュアンスを出す話法は、本場の会話で雰囲気をつかまないとなかなか頭では理解できても使えません。

まず、#1 の「会」は、英語の「must」で考えるとわかりやすいかもしれません。
「~しなければならない」の方ではなく、「~に違いない」「~のはずだ」の方です。
「当然、そうだ」という場合の「会」で単に辞書にある「可能性」よりももっと強いものです。
可能性...続きを読む

Q太好了の意味を教えてください

「太好了」の意味を教えてください。
それと、一言でもコメントに対するお礼の言葉を添えたいので、一例をあげていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

「とても良い」の意味です。もともとは「良すぎる」ですが。

口語では「そりゃ良かった!!」って感じで使います。

A:那天diu的東西zhao到了ma?(こないだなくしたものは見つかった?)
B:昨天zhao到了(昨日見つかったよ)
A:太好了(そりゃよかった)


こんな感じですかね。口語でしかもけっこうくだけた感じで使ってるような気がします。

Q(中国語)就是について・勉強方法もおしえてください!

今、中国語の勉強のために中国の方のインタビュー記事を
読んでいます。その中に「就是」という単語がよく出てきます。

なんとなくは分かるのですが、これは日本語でいう「まあ」みたいな
あまり意味のない言葉として捉えていいのでしょうか。
それとも、ないと文法的におかしいのでしょうか。

例えばこんな感じです。
「~有一点舒服、可是就是唯一就是朋友都不在。」
 ~快適だったが、唯一(寂しかったのは)友達がいなかったこと
 です。

といった具合にこんな短い文の中に2つも就是が入ってくるのです。
中国人のように喋りたい!と思って勉強しているのですが
自分ではこんな風には喋れないだろうな~と思うのです。

「就」とか「就是」を会話の中で自然に入れてみたいのですが、
どうすればいいのでしょうか。
(不是~就是などの構文は使うことは出来るつもり…)

あわせて勉強方法も教えていただけたら嬉しいです。(中級者)
今はこのインタビュー記事を聴き取り、内容を理解し
暗記しようとブツブツつぶやいています。
でもつい就是のような細かい(?)部分が気になって
先に進まないというか…。
気にせずにどんどん暗記したほうがいいのでしょうか。
これから中国語スクールにも通う予定です。

どれかひとつでも構いません。
アドバイス等よろしくお願いいたします。

今、中国語の勉強のために中国の方のインタビュー記事を
読んでいます。その中に「就是」という単語がよく出てきます。

なんとなくは分かるのですが、これは日本語でいう「まあ」みたいな
あまり意味のない言葉として捉えていいのでしょうか。
それとも、ないと文法的におかしいのでしょうか。

例えばこんな感じです。
「~有一点舒服、可是就是唯一就是朋友都不在。」
 ~快適だったが、唯一(寂しかったのは)友達がいなかったこと
 です。

といった具合にこんな短い文の中に2つも就是が入っ...続きを読む

Aベストアンサー

この場合の就是は、日本語の「ほんとに、やっぱり、まさに」と言った意味の使い方ですね。すっごく強調したい、まさにこう言いたい。
意味は違いますが、英語だと「you know」というのがありますが(「まあ」、「えーと」、「あのー」の語感)、こちらは、あまり知的とは受け取られません。
有名人の真似をするのは、そういう趣味の世界では楽しいですが、会話の中で、こんなに入れる必要もないと思いますよ。
きちんと、意味のある場所に的確に使うのでないと、変に流行り口調にかぶれてるだけだとか、あまりよい印象はもたれないのではないでしょうかね。

>でもつい就是のような細かい(?)部分が気になって
と書かれているように、変に入っていると、聞きにくいですよね。(笑)
こういう表現は、本当に自分の感覚に馴染まないうちは使わない方がよいです。(勘違いして使ってしまう恐れもありますから。)
そういうわからない点、あいまいな点を除いたら、「気にせずにどんどん暗記したほうがいい」と思います。
そして、ある程度馴染んできたら、少しずつ取り入れれば、会話にリズムが出てくることでしょう。

この場合の就是は、日本語の「ほんとに、やっぱり、まさに」と言った意味の使い方ですね。すっごく強調したい、まさにこう言いたい。
意味は違いますが、英語だと「you know」というのがありますが(「まあ」、「えーと」、「あのー」の語感)、こちらは、あまり知的とは受け取られません。
有名人の真似をするのは、そういう趣味の世界では楽しいですが、会話の中で、こんなに入れる必要もないと思いますよ。
きちんと、意味のある場所に的確に使うのでないと、変に流行り口調にかぶれてるだけだとか、あまり...続きを読む

Q「知道了」と「明白了」の違い

どちらも「わかりました。」という意味だと書いてあるものと、「知道了」は、
「知っています。」と書いてあるものがありました。使い分けをおしえてください。

Aベストアンサー

明白了とか、知道、あるいは了解については、なかなか難しいですね。
まあ、雰囲気的にすっきりした、はっきりした場合の「わかった」が「明白」で、知らなかったことがわかったのは「知道」ですかね。
こんな記事もあります。↓
http://blog.mag2.com/m/log/0000118755/105369720.html

「知道了」は「知っています」というか「知りました=わかりました」ということですね。
「不知道」を日本語にするときに「知ってない」という表現には、よく出くわします。(笑)
(通常は日本語としては「知っていない」と言う方が違和感がありません。)

以上で、明白了[ロ馬]?

Q「お疲れさま!」を中国語で何と言いますか?

今、職場に中国からの研修生が来ていますが、退社時の皆の「お疲れさまでした。」という挨拶に興味があるようです。
彼とは英語でコミュニケーションを図ってますが、英語にはそのような言葉はありません。
彼は「日本と中国は似ているから、同じような言葉があるはず。」と知りたがっています。
「お疲れさまでした。」の解説の仕方、また中国語に置き換えるとどういう表現をするか教えてください。

Aベストアンサー

ほぼ直訳ですが、

辛苦了!  (シンクーラ?)
でいいかもしれません.

私は上海に仕事で何年間か往ったり来たりしていましたが、十分通じました.
意味は「疲れたね・・・。」とか「ご苦労様・・・。」に近いかな.

Q中国語の「里」の用法

「我还在家」「我还在家里」

これはどちらもOKですか?

名詞を場所化する場合、「里」をつけることがありますが、
つけなくてはいけない場合とそうでない場合がよくわかりません。

明らかに「~の中で」という場合はつけると思うのですが、
日本語であえて「~の中で」と訳さなくても中国語ではつけなくてはいけない場合がありますよね。

ちなみに小学館の中日辞典初版によると、固有名詞(“北京”、“复旦大学”、“北海公园”など)は「里」をつけなくても場所を示すことができ、また機関・公司の名や“图书馆”“办公室”“工厂”などは「里」を省略できると書いてあります。
ならば固有名詞の“○○公园”ではなくてただの“公园”ならば必要なのでしょうか。

たとえば「このレストランには30人の客がいる」の場合、「这个餐厅里有三十个客人」になると思うのですが、
「このレストランには中華料理はない」の場合は「这个餐厅没有中国菜」で「里」は必要ない気がします。

教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「名詞を場所化する場合には方位詞を付ける」のは基本です。
一方、もともと場所を示す名詞にはその必要がありません。(あってもなくてもいい)
地名は場所そのものですし、餐厅などの建物は「もの」でありかつ「場所」とも言えます、公園なども場所です。

つまり、ご質問にあるような「里」が付くような名詞は、もともと場所を表すことができます。
ですから、早い話、わざわざ場所化する必要がありませんから「里」はなくてもいいのです。
そこで「里」を使うと、場所の内側、内部が強調されます。

「我还在家里」では、自宅(の敷地内)にいるということを示していますが、「我还在家」では、自宅にいることが「屋内(あるいは自宅周辺)にいること」かもしれませんし、場合によっては「未婚でまだ家にいたり、実家から独立していないこと」かもしれません。
「里」があれば、居場所だと限定されますね。

「这个餐厅没有中国菜。」は、No.1 さんがおっしゃるように場所自体ではなく、レストランというサービス提供者(店)が料理を提供していないということですから、「場所にものがない」ことを表現していません。
「このレストランには客がいない」であれば、「这个餐厅里没有客人」というような表現になるでしょう。

「名詞を場所化する場合には方位詞を付ける」のは基本です。
一方、もともと場所を示す名詞にはその必要がありません。(あってもなくてもいい)
地名は場所そのものですし、餐厅などの建物は「もの」でありかつ「場所」とも言えます、公園なども場所です。

つまり、ご質問にあるような「里」が付くような名詞は、もともと場所を表すことができます。
ですから、早い話、わざわざ場所化する必要がありませんから「里」はなくてもいいのです。
そこで「里」を使うと、場所の内側、内部が強調されます。

「我还在...続きを読む

Q中国語の「読む」の念。 读。 看。の違いについて

ネットでこの3つの違いを質問したところ、簡単にまとめると下の3つの違いになりました。

(1)我念书。 声を出して読む。 音読。「勉強する」という意味もある。
(2)我读书。 声を出して読む。 音読。「勉強する」という意味もある。读书の方がやや硬い表現。
(3)我看书。 声を出さずに読む。黙読。雑誌や趣味の小説などを読む場合。勉強で本を読むではない。

では、参考書を読む場合は、どうなるのですか?
参考書は勉強で読むので、念、读を使います。
しかし、参考書を読む時に声に出して読んだりしません。
あえて、声に出して参考書を読む場合は、問題ないです。

参考書でも、声に出さずに読む場合は、看を使うのか?
それとも、念、读を使うが、黙って読む。のように中国語の「黙って」という単語を入れるのですか?
念、读を使ったからと言って、必ずしも声を出して読まなければならない、訳ではないなら大丈夫ですが・・・

(1)念、读でも絶対に声を出して読む訳ではないのか?
(2)それとも、声を出さない場合は、勉強で本を読む場合でも、看を使うのか?

細かい部分ですが、知っている方がいれば教えてください。

ネットでこの3つの違いを質問したところ、簡単にまとめると下の3つの違いになりました。

(1)我念书。 声を出して読む。 音読。「勉強する」という意味もある。
(2)我读书。 声を出して読む。 音読。「勉強する」という意味もある。读书の方がやや硬い表現。
(3)我看书。 声を出さずに読む。黙読。雑誌や趣味の小説などを読む場合。勉強で本を読むではない。

では、参考書を読む場合は、どうなるのですか?
参考書は勉強で読むので、念、读を使います。
しかし、参考書を読む時に声に出して読んだりしません。
あ...続きを読む

Aベストアンサー

中国語学習経験者です。

「我念书。」は音読、「我看书。」は黙読、「我读书。」は音読黙読どちらにも使えるんだったけどうだったっけ、と覚えていました。
そこで、中国で出版されている基本的な辞典「现代汉语词典」でご質問の3つの単語を調べてみました。

まず「读」から。
意味が4つ載っていました。原文で書きます。
(1)看着文字念出声音 (文字を見ながら声を出して読み上げる)
(2)阅读;看文章 (閲読;文章を見る)
(3)指上学 (学校で学ぶことを指す)
(4)(この質問には関係ないので省略)

次に「念」。
2つ意味が載ってまして、(1)は「读」(1)に同じ、(2)は「读」(3)に同じです。

最後に「看」。
たくさん意味が載っていますが、この質問に関係あるのは
 使视线接触人或物 (視線を人や物に触れさせる)
です。

まとめると
★「念」は必ず声を出して読む
★「读」は音読する場合(意味1)と黙読する場合(意味2)とがある
 #读(2)に「默读」という用例が載っていました
★「看」は「見る」ことであって「声を出す」という意味はないので本を読む動作に使うときは黙読の意味になる
となります。

また「读(书)」や「念(书)」は上の读(3)にもあるように「勉強する」というよりは「学校に行く」というニュアンスです。
家などで自習する場合には使わないと思います(その場合は「学习」を使う)。
大昔に中国留学経験がありますが、そのとき「学校に行く(通学する動作を指すのではなく学校で学ぶことを指す)」という意味で「读书」という表現をよく聞きました。

なので、勉強のために参考書を黙読するのは
「我看参考书。」
という表現でいいと思います。
質問文で書いていらっしゃるように一般的には参考書は勉強する目的で読むので、動詞「看」には「勉強する」というニュアンスはありませんが「看参考书」という表現で「勉強のために参考書を読む」と普通の人は理解すると思います。
「勉強のために」というのを強調したいのであれば
「我为了学习看着这本参考书。」
と表現すればいいでしょう。
逆に、楽しみのために参考書を読む(黙読)のであれば
「我为了取乐看着这本参考书。」
と言えばいいでしょう。

中国語学習経験者です。

「我念书。」は音読、「我看书。」は黙読、「我读书。」は音読黙読どちらにも使えるんだったけどうだったっけ、と覚えていました。
そこで、中国で出版されている基本的な辞典「现代汉语词典」でご質問の3つの単語を調べてみました。

まず「读」から。
意味が4つ載っていました。原文で書きます。
(1)看着文字念出声音 (文字を見ながら声を出して読み上げる)
(2)阅读;看文章 (閲読;文章を見る)
(3)指上学 (学校で学ぶことを指す)
(4)(この質問には関係ないので省略...続きを読む


人気Q&Aランキング