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哲学カテに参加していて感じたことですが、論述の仕方には、大きく二つの方向があるようです。
(1)細部を削ぎ落として、事象の本質だけ、取り出そうというもの。
(2)様々な細部を混ぜ込んで、事象の多面的な様相を描き出そうというもの。
この二つを比べると、論理と説得の力では圧倒的に(1)の方が強いのです。しかし(2)の可能性もないだろうか?というのがこの設問の趣旨です。

両者ともに普遍的な認識に到達しようという同じ目的を有していると思われますが、その使い勝手は大きく異なります。(1)は枝葉のことは無視し、重要なものを特定します。そこから浮かび上がる答えはシンプルであるが故に、非常に明快なものです。また、あくまで個人的な見解と断れば、(2)ほどの準備がなくても、意見を表明することができます。
(2)は、その事象の全体像を描き出そうと愚直なまでに細部に注意し、何か特定の一箇所に本質があるとは考えません。多面性を描き出します。しかし最悪の場合、事実の羅列で焦点が見えません。整理するためには準備に時間がかかりますし、事象の全体を目配りするだけで、膨大な労力を要します。かくして論述という以前に、認識それ自体が常に未完(≒未熟)に留まり続けます。

日常的に暮らしていく分には、(1)の方に強みがあるのは明らかです。しかし何かを本質とみなすということは、別の何かを本質ではないとして排除することになります。つまりマジョリティに組し、マイノリティを排除するといういう危険と常に隣り合わせです。そして実際に、現代の社会では、何がマジョリティということは言えなくなってきました。かくして(2)には次のようなメリットが、あらかじめ見込まれるのです。
・現代の多様さに、直接、対応していること。
・あらかじめ多様性を認めているが故に、他との対立や葛藤がないこと。
・客観性という点では、より誠実な意見表明の仕方であること。
多様化した現代において、かくして(2)がむしろ「必要」となるのではないかという印象を僕は持っています。ただし(2)には多くの難点があるわけです。(2)の論述が成功するとすれば、どういう配慮によってなのか。あるいはどういう場面においてか。更に、意見を受け取る側である時、(2)の未完成なものをどう有効に受け止めることができるのか。

以上は哲学カテに参加して受けた印象なので、皆さんからのご意見を直接、頂けたらと思います。実際、ここでのやり取り全てが論述である以上、皆さんもお考えのテーマであるとも思っています。どうぞ、よろしくお願いいたします。

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A 回答 (21件中1~10件)

昔読んだことのある本の中で、フランスの確か高校の国語の教科書の最初に書いてあった、ある有名な方の手紙の文章が紹介されてありました。

曰く、

 今回、長い手紙を書いてしまい申し訳ございません。短い手紙を書く時間がなかったからです。

これは文章に関しての心髄を見ごとに凝縮しておりますね。貴方のいう2)の利点をもった文章を、簡潔に短く書くことは可能です。しかし、そのためには相当な時間と労力が要すると言うことです。

ただし、2)の部分で貴方の言う「あらかじめ多様性を認めているが故に、他との対立や葛藤がないこと」には同意出来ません。他との対立や葛藤は、新しい物を生み出すための重要な契機となることがしばしばあるからです。ですから、ここぞと言うときに対立を怖れずに緊張感のある文章を書くことは大切なことだと思います。

私は自分の所属する物理学の研究所の秘書の方から、突然、この一、二年当たりで出した私の研究成果を半ページで書くようにとの指示がお上から急にあったので、明日までに書くように、と言われたことがありました。そんな急な要求は前にも後にも、だだの一回だけでした。その秘書さんは、半ページだから直ぐ出来るでしょう、と付け加えました。その時私はその秘書さんに上で引用した文章を紹介して、秘書さんも成る程と、私に同情してくれたことを覚えています。

物理学の論文の種類には、所謂論文とレターという二つの形式があります。レターはどんなに長くても、例えばフィジカル・レビューとはいう世界的に有名な専門雑誌の場合、印刷されたときに1頁左右二段組みで、4頁を越える長さになると、内容に無関係にそれを受け取ってくれません。レターを出す理由は、短いが故に、論文よりも遥かに多くの人が読んでくれるからです。一方、論文は原則としてページ数の上限はありません。勿論、人に読んでもらいたいのなら、短いほどその可能性が高くなるので、皆さん何とか短く書こうと努力はします。

物理学の論文は、本当のことを言うと、書いている本人でも実は本当のところが解っていないと言うような代物です。そこが数学とは違うところです。自然科学のなかで最も単純は物事を対象にしている筈の物理学であっても、すでにその自然界の深みを理解するのに、現在の数学レベルでは解り切れない複雑な物を対象にしているので、止む終えないのです。

だから、物理学の論文を必要十分な文章で書くことほど、へた糞で読み辛い文章はありません。本当のところが解らないながらも、多分これが正しい方向なのだろうと言う自分の思い入れを、相手に出来るだけ誤解なく伝えなくてはならない。だから、誰が読んでいても自明な部分は淡々と書きますが、いよいよ山場に来たら、その自分の持っている思い入れやオーラを相手に伝えるために文章を工夫しざるを得なくなるのです。だから、どうしても文書が長くなる。それを短くして、さらにこちらの思い入れの本質を落さずに書くのは、大変な技巧が要求されるのです。

だから、短いレーターを書く方が長い論文を書くよりも、もっと時間と労力を要しています。それでも、論文の始めの部分に数行で要旨を書かなくてはなりませんので、その要旨を書くには多くの努力を払っています。

これは、論文もプレゼンテーションも同じなのですが、そこで何を書いたり話したりするかに悩んでいる人の文章や話しは、大抵の場合、相手に深い印象を与えることが出来ません。実はその反対に、何を書かないか、何を話さないかという部分で悩んで居るのです。その語られなかった部分の大きさが大きいほど、大抵の場合は、相手に感銘を与える表現が出来るのです。

私は若い頃、清少納言の『枕草子』の方が、吉田兼好の『徒然草』よりも良い文章だと思っておりました。ところが、物理の論文を書くことで散々苦労した経験の後でそれを改めて読み比べてみたら、何と、今では『徒然草』の方が良い文章に思えるようになりました。簡潔でいて、しかも貴方の言う2)の利点の条件を満たしている文章のお手本だと思います。

かく言う私がここに投稿して遊んでおりますが、折角のお遊びですから、勿論、短く簡潔になんて血のにじむような努力は一切しておりません。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。ご意見には頷くことばかりです。特に論文は長く書こうと思えば、いくらでも長く書けます。数行のために数年がかりで資料を集めていることはあるものです。

書かない方が、印象深いというのはおっしゃる通りだと思います。省略した表現をめぐる顕著な例は、ヴィンケルマンがラオコーン父子像を論じたものでしょう。この古代ギリシアの彫像は大蛇に絞殺される神官の姿を描いていますが、ヴィンケルマンによれば、ラオコーンは断末魔の悲鳴を上げるが、その奥には深く澄んだ精神性が見いだせるというのです。これは過剰に描写せず、抽象化を交えてシンプルに描いたための効果だと、この新古典主義者は考えるのです。

ところで先生の文章が上手い理由は、よくわかりました。先生は本質を見抜くように書くべきだと繰り返されていますから、(1)ではあるだろうと思っていました。しかし(1)のみで割り切れない文章の面白さがあります。これが不思議だと思われたのですが、結局、(1)では叙述できない対象を、(1)の形式にしようとする配慮をしているのですね。
つまり、あまりに複雑な事象を扱うと「多分これが正しい方向なのだろうと言う自分の思い入れ」で究極的には判断を下すしかできない。シンプルな答えが出たから、(1)の形式でシンプルに書いているということではないというわけです。ここには事象が複雑だからといって(2)の形式でお茶を濁すより、自らの立場を定めて事象にコミットする方が潔いという態度もあるのだろうかと受け止めました。複雑な事象を(1)のように書くべき理由は、そうすると、
・省略が印象を深くするから。
・結局、自分の思い入れで判断するしかないから。
さらに、
・「他との対立や葛藤は、新しい物を生み出すための重要な契機となる」から。

上の言葉、意義深く受け止めました。もちろんここでは、どうぞ気楽に書いてください。しかし「血のにじむような努力」で獲得なさった技術の片鱗は、十分に伝わってきます。

お礼日時:2011/06/21 00:44

zakky74でございます。



随分と遅い返信ですみません。今は前回に解答していた時の様な時間の余裕を持ちにくい状況がございますので、こんなにも遅くなってしまっておりますし、今日、お応えしたとしましても、次回はまたペースが遅くなってしまうかもしれないのですが、それで良ければお付き合い下さいませ。

>もう少し、僕の設問に引きつける記述をして下さらないと、ボールを返しにくいと感じるところです。

というところを受けて、kusa-muraさんの設問に引き付ける記述になっていないかもしれませんが、補足してお伝えし直させて頂きますと、

>両者ともに普遍的な認識に到達しようという同じ目的を有していると思われますが、その使い勝手は大きく異なります。

という箇所がありますが、ここに大きな見落としがある事をお伝えしています。両者ともに、普遍的な認識に到達する事がありません。有り得ない理由があります。

その理由として、判断基準の話を展開致しました。

それ故に前回の僕の回答の出だしには、『前提として、とても大切な事がございます。』と触れています。

そもそも、判断基準の問題性について熟知した状態で、その深刻さを理解していれば、判断基準の問題性を解消解決した状態とならない上では、

>両者ともに普遍的な認識に到達しようという同じ目的を有していると思われますが、

という点が、起こり得ないものです。それをお伝えしたつもりでおりました。繰り返しますが、判断基準の問題性を解消解決しないならば到達しえない目的です。
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この回答へのお礼

お返事遅くなりました。お詫び申し上げます。あなたのおっしゃることは、実はあらゆるコミュニケーションの前提となっていることで、とても重大なことではあります。が、議論のための議論であって、こういうことばかりにこだわるのでは、では、気の合う方同士でお話しなさってください、ということになってしまいます。おっしゃるように、途方もなく、時間がかかるからです。

お礼日時:2011/11/06 10:37

 夜分遅くに失礼いたします。

先日のNo.19に関して回答者の方と僕の間での齟齬及びNo.7からの問いに関しての説明をさせていただきます。
 先ずNo.19のimantarxさんが僕を横目で見ながら質問者様に僕の言葉である「言葉の職人」に対するご不満を申した事に関して。
 少なくとも僕は「職人」の方々を軽視するような目線で見ていた事はありません。マイスターとしての職人がプロである以上、仕事に対する技量と熱意そして誇りなくしては通用しない世界であることも承知し敬意を払っています。従ってプロは自らの仕事に対する責任を常に負わねばならない運命にある。その仕事の出来映えの善し悪しはあくまでも第三者としての「客」に委ねるしかない。この部分は僕も同様です。
 imantarxさんは僕が大学の研究室に常勤の形で勤めてる人間に映るかもしれませんが、僕の職位は選任の教員ではありません。特任教授として週に1日、土曜日のフルタイムで大学に詰めている以外は民間企業の従業員です。古い言葉でいうなら二足草鞋を履いている人間です。だからといって両方の仕事の何れかに重心を移すことが許されるほど甘い世界でもありません。
 会社では受注に基づいて量産されたソフトウェアに不具合が生じないか、マニュアルに記載の不備がないか等々、クライアントのガイドラインより更に厳しい基準の下でのチェックに忙殺される日々です。けれど末端のエンドユーザーからしてみればソフトウェアなど「正常に動いて当たり前。正常に動かないならばメーカーの責任」程度の存在です。トラブルでもあればメーカー相手の訴訟すらも起こされかねません。そうなれば僕の務める会社などは最悪、取引停止となり経営に支障を来します。それ位はサラリーマンの誰しもが心の何処かに少しは持っているプロとしての覚悟とも言えます。
 大学の教員とても同様です。世間のことなど何処吹く風の様に気楽な商売ではありません。大学の教員に対しての評価の材料を具体的に提示させていただくならば、それは形として残される論文や研究報告そして学生からの評価といった文書でしかありません。ましてや特認ならば世間で言う契約社員と同じです。イヤな言い方ですが一コマ幾らといった単位で自分を切り売り売りする商売です。でもなぜ僕がこの仕事を続けることができているのかといえば、学生をはじめ学問領域に属する多くの仲間達から様々な知見をいただくことが出来るからです。それによって歴史学に対しての僅かながらの恩返しも果たすことが出来る、との思いからです。
 imantarxさんからすれば「青臭い話」に聞こえるかもしれません。けれど少なくとも「現実を見てからモノを言って欲しい」ことには変わりはありません。「言葉ではなく、実際の物で評価するということが少なくなり、権威主義に惰し、長い物にまかれてきたのが役人天国である今の日本だと私は考えていますので「言葉の職人」は象徴的な言葉として受け止めています」これはimantarxさんの「主観」に基づく判断です。必ずしも全ての事実に対し短絡的に当てはめる事が許されるべきではない、と僕は考えます。なぜパンに対する評価と言葉に対する評価の間に識別するための線引きをする必要があるのでしょうか。ただ単に「キライだから」「いけ好かないから」との理由だけでは合理性のある説得力はないと考えられます。如何でしょうか。決して邪心や悪意のある方ではなく誤解に基づく言葉足らずなこともこれまでの文面からは察することが出来ますので、何処かでお目に掛かった時にはまたお話をうかがわせていただきたいと存じます。

【追記】
kusa-mura様からの「歴史を書くときの言葉」の問い掛けは改めて答えさせていただきたいと存じます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。一応、ひと段落ですね。歴史の問題はまた後に譲った方がいいかなと思ったりもします。タヌハチさんは最近、長い投稿をなさって、趣味という範囲を超えてしまっているでしょう。あと、「草むら」でいいですよ。みなさんも、どうぞ気軽にそうお呼びください。

お礼日時:2011/06/27 05:36

>#15お礼



まずいくつかの誤解について言明します。

「私のパンの評価」とは、当たり前にプラスマイナスある言葉だと思って使っています。私のパンの評価は、日々作るパンをお客さんが買ってくれて、お客さんがするものです。評価が高ければ次も来てくれるでしょうし、ダメなら二度と来てくれません。今日お店が賑わっているからといって、明日も賑わう保証は全くないのが商売と言うものでございます。これがなかなか一般のお勤めの人には解らないのかもしれない、と思いました。ですから「胸を張った」ととられるのだと思います。けれど実際は、私はパンを作り、粛々と評価を待つ立場です。いいときもダメな時もある。日々一喜一憂しながら、ひたすら評価を受け続けます。当然言い訳もできない。そしてまた、評価は己でするものでもあります。自分の理想と現実の作品と比べ、いつだって「いたらなさ」を抱えている。けど、そうでなければ「次はもっと良く」とは思えません。職人同士の評価も同じ。何を偉そうな事を言おうと、実際にできなければダメ。どんな年下だって、作る物が良ければ脱帽して技を盗むしかない。(「青二才」という言葉をよく使われて、私が使ったこともない言葉なのに、「どうせ『青二才』というのでしょうが」と言われますが、きっと大学ではそういう物言いで抑圧されているのだろうと考えています。)

そういうわけで、あなたが実際のパンのアレコレについて言うことがあるならば、私はきちんと聞くと思います。
そして、言葉ではなく、実際の物で評価するということが少なくなり、権威主義に惰し、長い物にまかれてきたのが役人天国である今の日本だと、私は考えていますので、「言葉の職人」は象徴的な言葉として受け止めています。またプロフィールの「学問バカ」はそうした権威主義的なエリート全般を差します。(プロフィールを読んでいただけるのは嬉しいのですが、スレッドで言及されるのはマナー上疑問です)

しかし、いずれにしても、
そうした思いを、この場で、あなたにぶつけることは、不適切でした。
不愉快な思いをさせたこと、礼儀をわきまえなかったこと、
深くお詫びいたします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。誤解としてあげてくださった「青二才」と「言葉の職人」は具体的にはタヌハチさんとのことですから、僕はコメントするべき立場にないといえます。僕としては「私のパンの評価」のみに言及させていただきます。この点はよくわかりました。そして、まとめの部分に書いてくださった謝罪を、少なくても僕は受け入れさせていただきます。前の設問欄の時に感じていたのですが、理詰めで返答する限り、受け止めてくださるのですね。僕は怒らせるのではないかと、かなり心配しましたが、建設的なお答えがいつも返ってきました。そういう意味で、僕としては言えば通じる相手ではないかと信頼もしていたのです。

また、あなたのプロフィールの「学問バカ」ですが、僕が驚いた気持ちはお察し下さるでしょう。しかし無関係であるとおっしゃるようですから、これは僕の深読みであったのかもしれません。お詫びいたします。ただし一言言わせていただくと、愚かしさの象徴として、イデア、学者云々と連発されると、ああ、これは僕の質問欄と何か関係あって言っているのかと思うわけです。
僕は別段、構いはしません。もう既に、別件で他の方に総攻撃されたこともあるので、OKWaveとはそういうものかと思ったりするだけです。そして僕はスレッドの主で、当初からあなたと話す立場にあるので、話がこじれても、まぁ自己責任かと諦めもします。しかし他の方は、基本的に僕と話をしようと参加してくださったわけですので、横から延々と批判されるのはたまったものではないでしょう。だから苦言を申し上げたのです。スレッドの主はいうなれば、サロンの主のような立場ですので、そこでトラブルが起きるのが心配なのです。

ともあれ、あなたを信用して、誹謗中傷ではなく、気持ちよく議論してくださるものと思うことにします。(もう氷解したものとみなさせていただくのですが)日本のパンのお話を、いずれさせていただけたら、楽しいだろうなと思います。そちらのスレッドに投稿し、僕はなぜあなたがパン屋さんなのか?と聞きました。お返事をまだしていませんが、僕自身は西欧の美学が専門です。日本の文化を好みながら、西欧のことをやっているという意味では似た下地があると感じます。もちろん、異なる点は多々あったとしても、また機会があったら、どうぞお話しいたしましょう。

最後に、僕からみて、タヌハチさんは大変繊細な方に思えています。ご意見が異なったとしても、どうぞお二人が爽やかな気持ちであるように、僕は祈るばかりです。タヌハチさんから何かあるかもしれませんから、もう少し僕の質問欄は空けておきます。

お礼日時:2011/06/25 09:27

私は以前高専の建築科に通っていたことがありまして、技術職には就かなかったのですが、そっちの方面に関心が無いわけではなかったのです。

まぁ自動車は門外漢ですが、乗ったことも無いフェラーリの凄さに感動して、こんな芸術品とも言うべき物を作れる技術者は並大抵の精神の持ち主じゃないだろう、なにか宿しているに違いない、と、このようなある種の憶測ではあるが確信を持ちつつ、前回は物を言ったのでした。

自分は描けないけれど、絵のよしあしはわかる、自分は作れないけれど、味のよしあしはわかる、素人にもそういった意味でオリジナルの発言はできえるのではないかというのが私の思うところです。作品を通して製作者を知るというのは、鑑賞者にとってはむしろ当たり前の道筋でもあり、自分の感想として発言を断定で述べるのに違和感を感じなかったのでした。

確かに自分の少し知っている分野については話し難いというのはありますね。むしろ知らないことの方が話しやすいというのは、困ったものです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ああ、そうか、なるほど。これで納得がいきました。いや、不思議に思っていたのです。僕がポンと拒絶したような格好になって申し訳ありませんでした。この前提のところは(匿名でやっている以上全部書く必要はないが)、少しは書いて下さらないと、議論に説得力が出ないのです。
・自分がやってみた時には、物凄く大変だった。
・しかしフェラーリは自分にできないことをやっている。
こういう書き方をしてくだされば、その感動がよく伝わってきます。ご意見に深みが出てくるのは、その人の経験と労力があると思えばこそですから。

話が少し変わって、絵の批評の方法ですね。ははは。難しいところに来ましたね。確かに誰もが絵は描けないが、割合、平気で批評していますね。野球でもサッカーでもそんなものかもしれません。元選手ならいざ知らず、やったこともないような人が、偉そーに語っている場合すらあります。しかし、皆、ウンウンと聞いている。まぁこういう話になりましたから、上目線で申し訳ないが、どうやって話せばいいのか、僕の知る範囲で、気前良くお伝えします。

問題は自分が好き勝手を言っているわけではないと、相手にわかってもらうことです。それにはどういう話方をしたらいいでしょうか。具体的に、まず、とある画家Aの作品Xについて語りたかったとしましょう。僕なら次のようにします。
・まずAの代表作を中心に据えながら、彼のこれまでの作品全般について、皆はどんな魅力があるといっているかを書く。
・その議論と比べると、作品Xはどんな共通点があり、どんな違いがあると論じる。
・その結果、Aという画家の魅力を自分は~~だと捉えなおしたと意見を書く。

もちろん、日常会話だと、最後の件のところだけをポンと言ってもいいでしょう。しかし、それは聞き手が、あらかじめ話相手のことを信頼してくれる場合です。全然未知の相手とやり取りする場合には、あらかじめ「私は適当なことを言ってるんじゃありませんよ」とお伝えする工夫が必要になります。
そこで、「皆さんが、何と考えるか、私は知っていますよ。ほら、先にまとめていい当ててあげます。しかし私は、皆さんが知らないことも知っていますよ」という話の仕方をするわけです。

ニュースで野球について語っているコメンテーターのオジサンも、基本的に同じようなことをやっています。置き換えてみましょう。
・まず野球選手Aの特性について、皆は何と言っているかを自分の切り口でまとめる。
・その魅力と比べると、とりあげるXという試合でのプレーは、よく出来ていたと言えるかを分析する。
・その結果、Aの現状を私は~~(良い・悪い)だと捉えていると論じる。

割合と身近にある話方だと気付きませんか。しかし、これは案外、難しいことです。まず「予想されるみんなって誰だ?」という話になりますから。学級新聞で社説を書くなら「みんな」というのは同級生です。二十代に向けたストリート系ファッション雑誌に寄稿するのなら、「みんな」は二十代のこの雑誌を買ってくれるであろう人です。専門家の間で発表するなら、「みんな」は博士らのことです。場合によりけりです。
そして「みんな」を想定した後、「私は何を知っているといえるのか」をいろいろと考えて整理しないとなりません。本当に真面目にやるなら、本を読んだり、インタヴューしたりすることになるでしょう。

さて、OKWaveでいう「みんな」とは誰のことなんでしょうね。誰もが匿名、年齢も経歴もバラバラ。だから一般的な「みんな」の基準をどこにとったらいいのかわかりません。しかも調べる暇もないから、あり合わせの情報でやりとりすることになります。だからこそ、創意工夫が楽しめるとも言えるわけですが。

少しモヤッとした気持ちが、解決したらと思って、お伝えしました。

お礼日時:2011/06/23 18:06

 こんばんは、暫時の冷却時間を頂きましたが、改めてimantarxさんからの宿題に、些かの怒りを覚えつつ答えさせていただきたいと存じます。


論点としては以下の項目でした。
(1)「今の材料に過去の道具で生命を吹き込み未来に向けて再現する」ための連続的な対話、の意味
(2)「再現」とはいったいどんな現象なのでしょう。「法隆寺を再現する」とは、色形の再現でしょうか?道具工法の再現でしょうか?それ以外に再現しなければならないものはあるでしょうか?
 この疑問の前提にあり、同時に現在もこちらの質問で示されているimantarxさんのスタンスに対する僕の個人的な見解を申し述べさせていただきます。
 先ず西岡棟梁とimantarxさんが理想とする「職人」は明らかに質の異なる存在である、と僕は理解しました。「職人」といえば「頑固職人」が世間の通り相場の印象が先ず思い浮かびます。けれども実際の「職人」は頑固ばかりではありません。頑固だけでは通用しないのが現実です。頑固とは対極にある「柔軟さ」を「同時に」持ち合わせている寛容な存在です。「職人」は還元すれば「Professional」です。「Professional(以後“プロ”の表記を使う)」は結果が全て、の世界です。「自分の中でベストを尽くしたからこれでイイ」というのはプロの仕事ではありません。「仕事の出来映え」を評価するのは他者の目です。当人ではありません。もし当人が「これが完成品」といって客に提供しても、客が「これじゃダメ」「美味しくない」と言われた瞬間にその仕事はゼロの評価を受け「プロ失格」を宣告されたのと同じです。
 西岡棟梁が鑓鉋を用いたのは斧で切り出された木を釿で割り裂き、荒削りした後行程として「仕上げ」を行うために鑓鉋を使うことを意識したのであって他意はありません。大断ちした木材を柱や板材にするにはどうしても鑓鉋が必要だった。しかも人の手が入っていない森の中から切り出した木材ですから曲がり・反りがあるのは当然です。そうした素材を最も効果的に加工できるのは台鉋ではなく鑓鉋であることを飛鳥時代の匠は既に知っていた。かつて自分達が造った大きな木製品として「船」があったが、それと同じ道具を使うことで斑鳩の地に「異国を模した空間」を再現できるのではないかとの経験が判断の指標となった。飛鳥時代の匠が建てた寺は、日本人がそれまでに見たこともない巨大で仰ぎ見るしかも異国の教えを伝える場として特別な空間だった。それだけでも後の世に残すだけの価値があった。飛鳥の匠と西岡棟梁が共に対峙していたのは「時の中にある記憶」です。古墳の中から出土する鑓鉋と絵巻物や古文書に記されている鑓鉋を当事者達が知るために知恵を求めたことに違いがありますか?。
 そして最後に「何を再現したのか」が不明との質問ですが、これもすでに答は出ています。飛鳥の匠も西岡棟梁も単なる建築物としての依頼を受けてこの仕事に従事したのではありません。聖徳太子と称される人物が法隆寺に託したモノはそれまでの部族会議による枠組みから国家としての枠組みを持つ日本へと変貌を遂げるための理念だと僕は思う。それは建築だけでなくそこに鎮座まします仏像もその姿を描いた壁画も、そこで講ぜられた教典も含めたトータルな存在だから『法隆寺』として存在する意味がある。

 そして「言葉の職人」に関しても「売文業者」として極めて限定的な決め方をされていますが、imantarxさんがイメージするのも僕がイメージするのも共に「職人」の側面を表していることには違いがありません。imantarxさんは「小説家や評論家」が言葉の職人としての「売文業者」であるとされますが、僕はその他にもジャーナリストや写真家そして音楽家や画家「言葉の職人」に含まれると理解しています。人に何かを伝えるのが「言葉」であるならば、受け取る側にしてみれば「言・異の葉」として刺激を受ける対象であり、受けた側は直接ではないにせよそれを介して「送った側」と対話する。この意味で学者も「言葉を紡ぐ職人」と定義しても不自然ではないと僕は思います。学問の世界でも多事争論の如く一つの事象に関して様々な見解が提起されることも不自然ではありません。寧ろ一つの事象を多面的に解することで全体像へのアプローチがより豊かなモノになる。少なくとも僕ら歴史学の世界では研究史として反証が繰り返され、こちらが事実の本質に近いのではないのかとしてスタンスを変更するケースもあります。
 これでも「形になっていないのだから職人とは言えない」と強弁するのでしょうか。尚「売文業者」との言葉は太平洋戦争下の日本で文筆業を生業とする人を称する「役立たず」の代名詞として使用されていた極めて侮蔑的な言葉でもありますので、このような公開の場で使用されるのは人格が疑われかねません。「職人」は知恵でも技でも素材でも良いモノであれば平然と受け入れますね(料理人の世界では当たり前の話です)?。
 
 最後に一言。imantarxさんは「あなたとエコノミックアニマルに関する議論を交わした憶えはない」としていますが、質問者様の問い掛けに寄せられた回答中「エコノミックアニマル」の表記を用いたのは後にも先にも僕だけです。よろしければ確認してみて下さい。「自分の言葉」に責任を持てないならば少なくともスルーするだけでよく、横槍を入れたり揚げ足取りをすることに何の意味があるのでしょうか。この様な言葉を返すと再び「青二才が何を言う」「現場を知らない学者風情の言葉など全く意味を持たない」と一蹴する光景も見えていますけれど。
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この回答へのお礼

タヌハチさんは相当、嫌な思いをされたのですね。僕が管理しきれませんで、ごめんなさい。パン屋さんは、そう悪い人ではなさそうだと思います。ときどき、正直ですから。以下の欄の僕の投稿への応答など、率直だなという印象です。
http://okwave.jp/qa/q6819267.html

これを読んだらパン屋さんは怒るかもしれませんが、逐一話を検討すると、彼の話には筋道だっていないところはあり、彼は自覚のないままに失言もなさっているのかなという気がします。またチラッと他の方との応答を読んだ範囲では、携帯電話で入力してらっしゃるとか。推敲にも限界があると思います。
何にせよ暴言が許されるわけではありません。ただ言葉の扱いに慣れてらっしゃるのは、どう見てもタヌハチさんの方です。大学院を出た者の方が言葉の扱いが上手いのは、当然過ぎることです。ましてやタヌハチさんは先生なのでしょう。プロがアマチュアに接するような余裕をお持ちでもいいかと思ったのです。

心配なのは、こんなにも労力を使って文章を書いて、タヌハチさんがお疲れになってしまうことです。議論は僕のところを使ってくださって構いません。しかし建設的であると思う限りになさってください。徒労感だけ残ってはいけませんから(何でも挑発に応答していくうちに、いつの間にか自己管理できなくなり、ネット中毒になるんだそうですよ)。彼の暴言については、僕が謝罪を求めようと考えてはいました。

お礼日時:2011/06/23 04:43

>短く書くのは、実はものすごーく大変で・・・回答者さんはどうですか?



短く書くときには、削りすぎてしまうということがあると自分では思います。自分の気持ちや主旨内容含め、文章を削りすぎて、結局肝心なことが伝わらずに終わってしまうというパターンですかね。本末転倒というやつでしょうか。簡潔に述べるのは中々スマートなことで、そういう文章を見かけたときには、おお、なかなかイケてるんじゃないの?などと思ったりしています^^。

>・情報の整理(論理の筋道)
>・文法のチェック
>・読む人の気持ち

上の三点で言えば、自分は読む人の気持ちはあまり考えれていないかなと思いましたね。自分には、簡潔に書く=わかりやすいだろう、という頭ごなしなところがあると思います。
柔らかく、しかも筋道の立っているというのがよいのかなと思いますが、簡単では無いですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。「わかりやすさとは何か」とは大きな問題ですね。前に僕は回答者さんの投稿にケチをつけたのですが、ズルいようですが、言わんとすることはわかりました。が、納得しやすい書き方ではなかったのです。断定しているけれど、根拠は何なのだろうなぁと思ったのでした。省略し過ぎてしまうとおっしゃるけれど、どの骨組みを残したらいいか、まだお迷いというところではありませんか。

上目線で勝手なことを言わせていただくと、自分の持っている情報を上手く見せるという配慮が大切かなと思ったりしました。一つ極端な例を出してみます。たとえば、僕はインドアー派で、魚釣りを数度しかしたことがありません。しかし突如思い立って、「釣り人とは~~に違いない」と語っていたら、魚釣りが趣味の人はムカッとくるでしょう。また普通の人も、「この人、やったことがほとんど無いのに、何がわかってんだろうねぇ?」という否定的な感想をもつでしょう。

こうやって不快感を示されるのは、ある種、当然なのです。というのも名人でもないのに、努力もしていないのに、好き勝手なことを言おうという方が、ムシがいいんですから。受け手の側の拒否感を予測して、だから、もし僕が魚釣りについて語るなら、こんな手順にすると思います。
・自分は魚釣りについて、実践はよく知らないと最初に断る。
・しかし魚釣りにどういう関心があるかを述べる。
・その関心に即していえば、~~という名人の発言は興味深いと根拠を示す。
ここまで来て、
・きっと~~という名人は、――ということを考えているんじゃないか。それについて僕も同意するところである。
こういう手順を踏めば、それは一つの意見として尊重されると思うのです。

これは読み手への配慮であり、論理を簡潔に整理する方法でもあります。というのも、よく知らないことに対して、「俺は~~だと思う」と断定すると、論理も大抵は破綻してしまうからです。

ただ僕にとっても、このよく見せる語り方は、物凄く難しいのです。自分を客観的に観察できないとなりません。魚釣りという僕にとって極端な例を上げましたが、ことに自分が少し知っている分野となると、自分を見極めるのは難しいのです。自分が「知らないということを知っている」という状態でないと、こういう話方はできないですね。

お礼日時:2011/06/22 18:44

>#11お礼、補足



暴論ととられたのは、言葉が足りなかったのでしょう。
「学者」を「恨んで」いるわけではなく、「学者を恨んでいる」と決めつけたり、「論文を書いたことがないあなたには解らない」といった権威主義的、差別的かつ非合理的態度を批判しているのです。

さて、
私が経験によって立論したのは、ダイアローグと囲碁は似ているということだけです。
「言葉の職人」に対してはあまりに常識的な事柄のため、結論から述べただけです。疑義は大きく2点あります。
まず「○○の職人」を比喩ではないとするならば、○○には作るものが入らなくてはなりません。比喩として使うのであれば、文脈との整合性が問われますが、実際の職人仕事を論ずる文脈では不正です。
次に、文章のプロといえば、一般的に作家や評論家かと思いますが、彼らが「言葉の職人」なる自称を用いた例を、寡聞にして知りません。彼らの良識が彼らに「売文業」という自称を与えているからです。
さらに幾つかの状況証拠を重ね、「言葉の職人」というのは、論述を比喩を乱用して飾り立てることを、無自覚にナルシスティックに表現しているのだ、と判断いたしました。
反証例として「論文の職人」「論理の職人」を挙げておきます。
そうした疑義を、質問者さまに哲学の枠を超えない範囲でぶつけてみたのです。
「気の毒?」とは何のことでしょう。
批判を受け付けないなど、非合理的すなわち非学問的な態度ではないでしょうか?

>自分と関係のないことについて横から口をはさんで暴言を吐いていることについては、ちゃんと謝罪してほしいと思っていますよ。

相手が否定している罪を認めさせ、謝罪を要求するには、立証責任がもとめられます。
私は議論において受けた批判に対して、謝罪を要求したことなどありません。
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この回答へのお礼

あくまでご自分は真っ当に「議論している」とおっしゃるわけですか。しかし「言葉の職人」という言葉は僕が使ったものではなく、僕の欄のやり取りで出てきた言葉です。したがって、あのような書き方をなさると、その言葉を最初に使った投稿者に対して、あてこすっていると読めます。まったくそのような趣旨はなかったと?

それから、回答者さんの理屈に筋が通らないと思うのは、同じことをご自分にあてはめられたら、どういう気がするかをあまりお考えでないらしいということです。たとえば

>「論文を書いたことがないあなたには解らない」といった権威主義的、差別的かつ非合理的態度を批判しているのです。

では逆に、商品になるようなパンを作ったことのない僕が、台所のオーヴンでパンを焼いたことがあるからといって、仮にパンのことに口出しして、「あなたのやっていることはくだらんことですねぇ」というような疑問を口にしたら、回答者さんは「お前に何が分かるんだい?」とお返事なさるのではないですか。問題があると感じて口をはさむにしても、相手に対して、まず最低限の敬意を払うのが普通でしょう。権威とか差別という御大層なものではなく、単にこれは礼儀の問題です。

それから「~~の職人」という言い方は、本質的な問題とは思えませんでした。慣用的に「小麦粉の職人」などという言い回しがないのは確かですが、もう既に言わんとしていることは伝わっているようです。加えて「の」が入っていますから、材料を当てはめて問題ないと思いますよ。「言葉職人」なら問題でしょうが、「言葉の職人」ですので、「言葉を使用する職人」という意味だと了解できます。

僕がいっているのは、同じ中身を議論するのでも、気持ちよく議論できたらいいのになぁということだけです。職人だとおっしゃるのなら、職人らしい気風のいいところを見せていただけませんか。プロフィールには「学問バカ」とまで書いている。これは批判ではなく、総力を挙げての誹謗中傷を展開しているとしか思えないのですが。それとも僕には険悪と感じられるこのような雰囲気も、回答者さんのパン職人の世界は当たり前なんですか。「私のパンの評価」と僕の前の質問欄で胸を張ったくらいなので、回答者さんは腕はいいのか知りませんが、食べる人の気持ちに配慮する繊細さが無いように思えてきましたよ。食べる人の気持ちを察するのも食べ物を扱う職人さんの大切な腕なんじゃないですかね?

お礼日時:2011/06/22 15:37

>ところで回答者さんは(2)が多いようだなと思いますが、その意図はどういうところにあるのですか。



経験談などを交えて回答すると、臨場感なども出て相手に言いたいことが伝わりやすいかなと言うのはありますね。後は、自分も思い出しながら語るので、自分自身、体験などを再咀嚼できるというのと、自己の体験が他者と結びつくような気がしてうれしいと言うのがあります。

(2)が適切な場合ですか。。当たり障りなく話に入り、当たり障りなく抜け出る、議論と言うよりはざっくばらんに話す時に向いている感じでしょうか。(1)では得られない話の切り口、斬新さ、拾い物、めっけ物、意外性などがありそうですね。話が退屈になってきたり、新しい展開がほしいときなどは(2)などが良いのでは。

>・現代の多様さに、直接、対応していること。
>・あらかじめ多様性を認めているが故に、他との対立や葛藤がないこと。
>・客観性という点では、より誠実な意見表明の仕方であること。

上の三点のどれも理解はできます。特に三つ目は、(1)の場合だと、客観性があらかじめ共通の概念や言語、あるいは専門の領域などで担保されているのに対し、(2)の場合は、都度都度に客観性を意識的に築き上げなければならないという点で、努力がよく見えるといったことはありそうです。

>今回は中々考えられましたね。

^^;今回は少し時間があったので、推敲する事ができたのです。前回もそれなりに考えて回答はしていますが、不十分なのを自分でも理解したままタイムリミットで投稿してしまったのでした。受け取られ方は色々ですね。短い文でも意外と時間がかかっていたりもします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。四分の一は、回答者さんを思い浮かべての質問でしたから、よかったです。柳のようにスルリスルリとかわしていくのは、エレガントですね。コンパなど、場が停滞した時に、その場を少し和ませるということなら、回答者さんのような方は重宝されるでしょう。でも僕は柳のようにとはいきませんが、普段は(2)なのです。両方使えるように、と思っていました。TPOがあるだろうなとは思うのです。

短く書くのは、実はものすごーく大変で、no2の猪突先生がその点をよく書いてくださっています。考えるのはいろんな項目があります。
・情報の整理(論理の筋道)
・文法のチェック
・読む人の気持ち
しかし僕の場合、結局一番苦心するのは、自分の気持ちが10あったら、全部書くのじゃなくて、そのうちの3つくらいを選ぶ気持ちの整理に時間がかかっているなと思います。回答者さんはどうですか?

お礼日時:2011/06/22 14:53

こういうものはケースバイケース、質問者のニーズに合わせて、、と言うことでい良いのでは無いかと思います。


 質問の方に、例えば具体例など示して回答くださるとありがたいですなどの添え書きがあるとか、すっきりとわかりやすくお願いします、などのお願いが添えられているだとかすると、より欲しい回答が寄せられることになるのでは無いでしょうか。
 特にそういった注文が無い限りでは、探り探り回答するか、自分のスタイルでとりあえず書くかなどするしかしょうがないかなと思います。

また、(1)の方法では回答に普遍性が伴ってくるのに対し、(2)の方法では回答者の個性が伴ってくるものであると思います。

私がこの質問で大事かなと思ったのは、目的についてです。質問の目的、回答の目的、論述の目的、それらの目的を、互いに知っておくことができれば、スムースな質疑応答が行われると考えました。
質問者には、こんなことが理解したいのだという質問の目的があります。回答者には、こんなことをわからしてあげたいと言う回答の目的があります。それぞれの目的にかなうように質問、回答、論述、或いはその他の弁、あるいはつぶやき等が為されるわけですが、この目的を伝えること、読み取ることが難しいのだなと感じています。
それには、それぞれ人の力量や個性というものがありますから、それをどのように推し量り、認めることができるのかというところも、スムースな質疑応答のための要点になるかと思います。

因みに私は今回の質問を、どのような回答スタイルが相応しいのか?というものだと捉えました。
議論を前提としたやりとりに関する回答では無い点で、質問者さんの意には沿わないかもしれません。
しかし議論を前提としたやり取りについても、議論の目的というものを定め見ることは、議論にとってとても大事なことである気がします。その場合は、議論参加者それぞれの目的を統合したか、あるいは共通で創出した大目的ともいうべきものをまず見出さねばならないような気もいたします。やりとりの途中で互いが見えてくるということもあるでしょうから、一筋縄ではいかないことかもしれません。

私からは概ね以上になります。如何でしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。今回は中々考えられましたね。確かに回答の問題に限定すれば、相手を見て、コミュニケーションするように記述をした方がいいのです。ケース・バイ・ケースでしょう。
ただし、ちょっと意地の悪言い方をすれば、それくらいは僕でもわかっているのです。だから、(1)か(2)を選べと聞いたのではなく、(2)の可能性はないですか?という問いのたて方にしています。二者択一の問いではないのです。聞いているのは、たとえば(2)が適切であるのは、どういう状況であるか?というような問題なのです。

ところで回答者さんは(2)が多いようだなと思いますが、その意図はどういうところにあるのですか。

お礼日時:2011/06/22 00:21

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