本になっているかどうかはわからないのですが、
村上陽一郎の”科学技術のポスト戦後”を探しています。
アマゾン・Webcat等で検索したのですが、
見つけられません。

ご存知の方、教えてくださいm(_ _)m

A 回答 (1件)

そのタイトルでの著作は発刊されていないようです。


村上陽一郎氏のHPには、雑誌に執筆された原稿も含めて、全著作があげられていますので、参考になさってください。

参考URL:http://subsite.icu.ac.jp/sts/

この回答への補足

’97年の学習院大(法)入試で使われていた、
というとこまでたどり着きました! が、
そこには、
(村上陽一郎「科学技術のポスト戦後」の一節)
とだけ記載があります。
どこそこ所収、とも何も書いてない…
うーん…(-_-;)

補足日時:2003/10/18 10:23
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました!
早速、著作リストの全てを探したのですがありません…(涙)
もう一度頑張ってみますp(^-^)q

お礼日時:2003/10/17 18:26

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Q河合隼雄と村上陽一郎の文章について

今、受験で現代文に取り組んでいるのですが、私は村上陽一郎(敬省略)の科学哲学の本をしばしば読んでいるのですが、河合隼雄が村上陽一郎の人間科学の研究の仕方を批判されていました。
河合隼雄をは人間の科学が真の分析法で、哲学は誰が学んでも同じ答えが出てくると解説されました(○ゼミ講師に)
哲学とは本当にそういうものなのでしょうか?
低次元な質問ですみません。

Aベストアンサー

 
  実は、わたしは村上陽一郎については、何も読んだことがありません。ただ、彼の方法についての批判というようなものは、少し耳にしたことがあります。他方、河合隼雄の方は、かなり本を読んでいて、彼の立場は或る程度分かっているつもりです。村上氏について何か著書を読んでいましたら、この質問に答えることができたのですが、読んでいないので、回答はできないと思ったのです。ただ、どういう批判を河合氏が行ったかは、ほぼ予想が付いたとも言えます。
 
  補足回答を読みまして、「哲学とは何か」というような大問題についての、ごく短い簡単な私見を述べさせて戴くこととします。
 
  >> 哲学とは本当にそういうものなのでしょうか?
 
  と尋ねられていることからも、哲学とはどういうものでしょうか、という広い意味の質問を、村上氏の「科学哲学的人間科学」に対する河合氏の批判を具体的きっかとして尋ねておられるとも解釈できるからです。
  
  そこで、まず知らない方の村上氏ですが、氏は「科学哲学」の立場に立ち、「人間科学」の研究をしているとのことですが、科学哲学とは何かということです。これは、「科学的な哲学」ではありません。村上氏の場合は、あるいはそうなのかも知れませんが(はっきり分かりません、というか知りませんので確認できません)、「科学哲学」というのはわたしが理解する処では、科学の哲学的基礎付けを行う「哲学の範疇」のことのはずです。フッサールの哲学は、現象学と普通言われ、科学哲学とは言われませんが、フッサールは、元々科学者で、「真理」の客観的基礎付けはできないのかと考え、現象学的還元というものを提唱し、現象学的還元によって、「真理」を人間は把握できるようになるはずだとの構想で思索し研究したのですが、結果は、「真理」を客観的に基礎付けることはできない、ということになります。
  
  ポパーの「反証可能性」を科学の条件とする科学哲学が、科学の哲学的基礎付けとして、現在では、有効とされているのだと思います。
  
  しかし、科学哲学と呼ばれるものは非常に多様であり、またニュートンの物理学が立てられたのが17世紀ですが、その頃すでに、あるいはそれ以前から、科学の哲学的意味や、科学の論理的構造などについての研究や考察はあった訳です。20世紀であれば、ラッセル・ホワイトヘッドの大著 Principia Mathematica は、数学を論理的に基礎付ける試みであったのですが、これはまた、「論理」とは何かという問題の現代的提起にもなります。ホワイトヘッドの科学論や、ヴィトゲンシュタインの言語の分析は、「論理実証主義」という20世紀の哲学の一つの潮流を生み出し、これが20世紀の科学論・科学哲学において大きな位置を占めているとも言えます。しかし、20世紀には、論理実証主義だけではなく、それとは立場を明らかに異にする、ディルタイやベルクソン等の「生の哲学」があり、またハイデッガー等の「実存主義哲学」があり、ソーシュールの言語学に源を発するとも言える、「構造主義」もあり、それぞれが、相応に科学の哲学的意味というものを提示しようとしたのも事実です。マルクス主義は、科学的唯物論哲学だと称し、総合的な科学と哲学の連関の展望を描こうとしましたし、カトリシズムは、また科学に対し、独自の深い考察を行ったとも言えます。
  
  村上氏は「人間科学」だそうですから、人間の存在についての「科学哲学的解明」を目指しているのだと思えます。しかし、人間科学は、「人間についての《科学》」である訳で、科学であるという条件を前提にしたものと言えます。その場合、村上氏の立場は、「科学としての心理学・行動主義的心理学」にも近いものではないかと推測されます。村上氏の人間科学では、人間の行動を扱うだけではなく、その心理や、また、人間の大脳構造の大脳生理学的・神経生理学的知見を元とした、「人間の存在・意識や思考力/認識や知覚」の構造解明が主要な課題になっているのではないかと思います。このような大脳生理学や神経生理学による科学的知見は、いわば、人間を考える上での基礎資料・データとなる訳で、しかし、それをどのように人間存在の論・基礎付けと解明に位置付けるかは、研究者の立場や方法や思想で多様となります。
  
  河合氏が、「人間の科学」をむしろ強調したのは、「科学」である前に、「人間についての学」は、「生き方 way of life」の問題であり、「人間の存在」は、近代/現代科学的分析の対象として、没価値的・(擬似)客観的に把握できるものではないという認識を示したものでしょう。大脳生理学や神経生理学や行動主義的心理学や比較心理学の知見を元に、何を「人間」について描くべきか、何を人間について把握し了解すべきか、それは、人間は、人間的交通(human communication)のなかで、「誰であるか」が了解されるもので、誰でもない人間についての「何であるか」の科学は、現代科学の方法として、妥当であるかも知れないが、人間を「科学の対象」として分析できるとする考えがむしろ、傲慢なのであり、間違っており、科学の検証にも配慮した「人間の学」または「魂・心の学」が本来の人間存在の研究方法であるというのが、河合氏の主張であり、考えなのではないでしょうか(これを、「人間科学」に対し、「《人間》の科学」と河合氏は述べたのでしょう)。
  
  これについては、「心理学とは何か」という質問に答えた、わたしの回答のなかで、「科学としての現代心理学」と、「心・魂の学としての心理学」という二つの心理学について説明しました。以下のURLにその文章があります。
  http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=173615
  
  「哲学とはどういうものなのか」については、以下に、或る質問の回答として準備したものの、回答として出さなかった文章での、「哲学と科学」について、わたしなりにまとめた形の短い説明があります。(こんな大問題を、簡単に勝手な言葉で説明するわたしは、かなりいい加減なのだと思いますが)。
 
======================================================================
 
  まず、「哲学」とは、philosophia ですが、これは元々「愛智」の意味で、このような用法は、「魂への気遣い」を述べたソークラテースから始まっているとも言えます。ソークラテースは、「人間にとって善とは何か」ということを考えつづけた人です。ソークラテースは、「言葉嫌いになるのはよそう」と述べたと、プラトーンが伝えています、この場合、「言葉」は、ロゴス(logos)のことで、これは理性とも知性とも、ものごとの理(論理・原理)とも言える概念です。つまり、「論理嫌いにならないようにしよう」と、ソークラテースは言ったのです。
 
  逆に言うと、「論理」や「知性」が哲学においては重要であるということになります。哲学はその原義、その起源から言えば、世界をいかに把握するかという方法において、論理や知性に基づいて探求するという面と、善とは何か、従って、人はいかに生きればよいのかの二つの大きな柱があるとも言えます。哲学は、自然現象の観察とその理性的・論理的解釈=把握である「自然学 Physica」と、アリストテレースの書物の呼称からその名が来た、世界や人間、存在者の存在の根拠や、ありようの機構を超越的に求める「形而上学 Metaphysica」と、人間の生き方を尋ねる「倫理学 Ethica」の主に三つの基本主題から成り立つことになります。
 
  哲学とは、従って、世界把握の論理的方法であり、形而上学的問題把握を持ち、また倫理学的な問題把握を持つということが分かります。これがとりあえず哲学です。
 
  次に「科学 science, scientiae」とは、元々分科学の略ですが、西欧の言葉の起源からいうと、これは「知識の学」となります。「知識」とは何かというと、scientia(スキエンティア)であり、これはサピエンティア(sapientia)の対語ともされ、サピエンティアとは、智慧・叡智的知識で、善とは何か、共同体と個人の関係の理想は何かなどの智慧に属する知識の謂いです。サピエンティアは、哲学における原義「愛智」に対応し、これを問題にするのが哲学であるとも、特に、善を尋ね、人の行為の規範を求める倫理とは何かを問うのは、「倫理学」になります。しかし、科学は寧ろ、「自然学」に近く、先の哲学の三つの主題の一つである自然学分野を扱うものだとも言えます。科学は、客観的に(複数の人のあいだで、そうだと)認められる現象を元に、世界の像を部分的に築き、これらの部分像の総体として、世界のありようと科学的本質=原理を提示する学問となります。ポパーは科学の定義を立てましたが、それは客観的に検証可能な、現象についての理論であり、「反証可能性」をクリアーしている理論となります。哲学の三つの主要主題の一つである「自然学」は、科学が今日では扱い、更に倫理学の課題であった部分を、法学・社会学・経済学・政治学などが部分的にカバーしているとも言えます(哲学の主題を科学が囓り取ったとも言えます)。
 
======================================================================
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=173615

 
  実は、わたしは村上陽一郎については、何も読んだことがありません。ただ、彼の方法についての批判というようなものは、少し耳にしたことがあります。他方、河合隼雄の方は、かなり本を読んでいて、彼の立場は或る程度分かっているつもりです。村上氏について何か著書を読んでいましたら、この質問に答えることができたのですが、読んでいないので、回答はできないと思ったのです。ただ、どういう批判を河合氏が行ったかは、ほぼ予想が付いたとも言えます。
 
  補足回答を読みまして、「哲学とは何...続きを読む

Q科学技術が発展するとは?

科学技術が発展するとはどういうことなのでしょうか。
なるべくわかりやすい回答お願いします。

Aベストアンサー

>科学技術が発展するとはどういうことなのでしょうか

普通「進歩」と対になって「科学技術」の進歩発展などと言われることが多いです。

発展に的を絞れば、やはり技術の進歩に伴って、その応用が多岐に分かれ、より広い分野に広がって、盛んになっていく現象のことだと思います。

近年の科学技術の進歩発展はめざましいものがありますが、それらの状況は単なる技術の進歩ではなく、進歩が枝分かれして多様で多面な分野に広がり、それぞれがお互いに刺激し合い競合しあって更に進歩を重ねていくといういはば面的な、立体的な進歩である「発展」によって世界全体の急激で壮大(量的に)な変革が実現して生活改善がもたらされた面が大きいと思います。

結果的に改善ではなく、単なる量的な変化と取れる場合もあり、それらが世界の自然全体に大きな負荷をもたらした面もあるとは思いますが。

Q村上陽一郎の…

本になっているかどうかはわからないのですが、
村上陽一郎の”科学技術のポスト戦後”を探しています。
アマゾン・Webcat等で検索したのですが、
見つけられません。

ご存知の方、教えてくださいm(_ _)m

Aベストアンサー

そのタイトルでの著作は発刊されていないようです。
村上陽一郎氏のHPには、雑誌に執筆された原稿も含めて、全著作があげられていますので、参考になさってください。

参考URL:http://subsite.icu.ac.jp/sts/

Q科学技術の進歩は必ずしも人間を幸せにしないのではないか?

暇人の質問をお許しください。

私は、今、数学や物理学、機械製図の勉強をしている者ですが、最近、人間の幸せは科学の進歩とはイコールではないのではないかと強く思っています。

1、例えば、自動車を開発して人間はA地点からB地点 まで早く移動する事が可能になったはずですが、排気 ガス、交通事故、車社会のために子供たちが外でのび のびと遊ぶ自由を奪ってしまったなど考えられないで しょうか。

2、また、パソコンの開発により、人間は大量の仕事を 効率よく短時間で処理する事が可能になった。本来な らば、その余った時間は自分の時間を得られるはずな のに、逆に仕事量が増え、トータルで考えれば、以前 より仕事量は変わらないか、以前より増えたのではな いか?

3、イネの品種改良で、害虫や寒さに強いイネを作り出 して、以前より人間の飢えなくなったことは多分幸せ な事だと思いますが、その結果、人口爆発によって地 球上の人類全員分の食糧を供給できないのでは?

4、僕はイヌ、ネコの方が人間より幸せそうに見えるの ですが、だとしたら人間が作り出した科学技術や哲学 や文明は何の為だったのでしょうか。

科学技術の進歩で幸せになるのならば、21世紀より20世紀の人間の方が不幸であり、20世紀より19世紀の人間の方が不幸だったのですか?そんな事は無いと思います。

科学技術の進化は功罪いずれもありますが、功<罪ではないかとの思いにとらわれています。
しかし、今、僕が利用しているインターネットも科学技術ですよね。

長文すみません。
僕は、気楽に哲学や科学を語れる友達がいないのです。

皆さんの率直なご意見、ご批判を是非お聞かせください!

暇人の質問をお許しください。

私は、今、数学や物理学、機械製図の勉強をしている者ですが、最近、人間の幸せは科学の進歩とはイコールではないのではないかと強く思っています。

1、例えば、自動車を開発して人間はA地点からB地点 まで早く移動する事が可能になったはずですが、排気 ガス、交通事故、車社会のために子供たちが外でのび のびと遊ぶ自由を奪ってしまったなど考えられないで しょうか。

2、また、パソコンの開発により、人間は大量の仕事を 効率よく短時間で処理する事が可能に...続きを読む

Aベストアンサー

 こんにちは。

 人間の幸せは科学技術の発展とイコールではないのではないか、ということですが、もちろんつながりません。正確には、第1に、物質的豊かさは満たされることは、精神的豊かさを満たすことにはならないということです。
 第2に、科学技術の進歩には、たえずマイナスの要素がつきまといます。具体的側面でも、思想的側面でもそうです。こういうのを専門的には、「逆機能」と呼びます(社会学)。

1、例えば、自動車を開発して人間はA地点からB地点 まで早く移動する事が可能になったはずですが、排気 ガス、交通事故、車社会のために子供たちが外でのび のびと遊ぶ自由を奪ってしまったなど考えられないで しょうか。

 自動車の開発によって、移動が効率的にできるだけでなく、ヒトとモノの輸送がスムーズにおこなえるようになった結果、経済的発展だけでなく、人々の可能性が拡大されている。これは順機能です(つまりメリット)。
 しかし、みなが便利さを追求した結果、車は大衆化し、大量の排気ガスをはき出しました。結果はご存じのように、環境破壊・交通事故など人災を創造するなど、逆機能(デメリット)をもたらしています。


2、また、パソコンの開発により、人間は大量の仕事を 効率よく短時間で処理する事が可能になった。本来な らば、その余った時間は自分の時間を得られるはずな のに、逆に仕事量が増え、トータルで考えれば、以前 より仕事量は変わらないか、以前より増えたのではな いか?

 このことは情報社会化と名付けられた現象です。順機能はあなたのおっしゃる通り。結果的には、経済・政治・文化的領域において、さまざまなメリットがもたらされています。インターネットのネットワークの力は、国家や企業などが有力な情報を独占していた事態から救っただけでなく、さまざまな世界市民が結びつき大きな勢力となっているというのは事実としてあります。
 逆機能については、説明はいらないでしょう。いろいろ思いつくはずですから。


3、イネの品種改良で、害虫や寒さに強いイネを作り出 して、以前より人間の飢えなくなったことは多分幸せ な事だと思いますが、その結果、人口爆発によって地 球上の人類全員分の食糧を供給できないのでは?

 これは農業の産業化と関わっています。品種改良という市場は、いまや大企業のものです。
 農業系企業は、品種改良しては地元の農家へと売り込み、必死に営業しています。基本的には、ファッションのブランド戦略と何ら変わりないと思います(笑)
 品種改良の重点は、たしかに育てやすさ(害虫などに
強い)という点もありますが、もう1つは「おいしさ」にあります。企業では、トマトであれば、トマトの甘さを数倍にすることで、おいしいトマトを作り上げてしまいます。正直なところ、人間の舌の感覚でおいしいものに作り上げているので、普通のトマトはこれにかないません。ですから、歯止めはききません。
 ただ食糧供給危機は、すでに発生しているといえるでしょう。とりわけアフリカではそうです。品種改良の問題は、遺伝子組み換え大豆がそうであったように、元々自然であったものを改変するわけですから、健康上の害を及ぼすような逆機能は生じるでしょう。
 とはいえ、この場合は明らかにわれわれの感覚では、順機能が大きいですね。


4、僕はイヌ、ネコの方が人間より幸せそうに見えるの ですが、だとしたら人間が作り出した科学技術や哲学 や文明は何の為だったのでしょうか。

 極端な動物学者たちは、イヌ・ネコをはじめ、動物園という存在を忌み嫌っています。それは、本来動物たちには動物たちが生きるべき空間の広さというのが、あるはずだからです。大草原をかけめぐるべきトラは、檻のなかに閉じこめられ、彼らの身体に影響を及ぼしていないはずがない…と。
 実は、人間もこれと似たような状況です。人間自身もおのおのが生きるべき空間や時間というものがあったはずです。しかし、人間をはじめ動物には、高い適応能力があります。少々の環境の変化には動じないというものです。
 科学技術の発展は、人間の社会的環境をめまぐるしく変化させました。かつての哲学者・科学者は、進歩という「大きな物語meta-narrtive」に大きな夢を抱き、その可能性を信じていました。しかし、そうしたhumanism(人間中心主義)は、たとえば「環境」という視点に欠如していました。結果はご存じのとおり。
 こういうことを、かのカール・マルクス(社会主義思想の根本的提唱者)は「疎外」と呼びました。疎外とはいくつか意味がありますが、その1つは、「人間自身は、自らの生み出したものに対して対立する」ということです。
 たとえば、核爆弾です。これは、人類と科学技術が生み出した最強の兵器です。いまや人類を崩壊させかねないものを、人間自身が生み出してしまったのです。核に関しては、ご存じのとおり日本においては悲しい歴史があります。人間が人間自身が生み出したものによって、自滅する。なんともバカらしい話です。
 

→ 科学技術の進歩で幸せになるのならば、21世紀より20世紀の人間の方が不幸であり、20世紀より19世紀の人間の方が不幸だったのですか?そんな事は無いと思います。

 こうした観点は、さまざまな呼び名がありますが、一般的にはダーウィン思想を起点として「進歩史観」といいます。つまり、「野蛮から文明」へ、「宗教から科学」へ、などなど、世界が悪いものから、より良き方向へと移っていくという考え方です。
 今では、これはほぼ否定されていますが、ほんの少し前まで、過去においてはこれはきわめて有力な発想でした。マルクスは封建制→資本主義→社会主義という時代のパラダイム転換があると本気で考えていました。しかし、マルクスは産業化がもつ多大な影響力を十分に分かっていなかったのです。つまり、科学技術の進歩。
 それは無理もなく、20世紀以降の急激な科学技術の進展など誰も予想していなかったといういうべきでしょう。
 また日本においても、福沢諭吉は日本は野蛮から脱して、西欧の文明化へと早急に到らなければならないと述べています。これは植民地化されることへの懸念でもありました。
 ある意味で、科学技術の世界的進歩は、自衛の強制でもあったかもしれませんね。
 こうした進歩史観は、今ではほぼまったく否定されるか、改変されています。


 時代は、「科学技術の進歩」という大きな夢を抱くときから、「いかに科学技術をもちいるか」という再考のときへと移っています。
 世界は、近代への反省を求められ、修正せざるをえなくなっています。功罪はありますが、だからといって基本的に科学技術を捨てることはできないのが現状です。
 
 ある論者は、科学の進歩は、人間の進歩を意味するのではなく、退化であるとしています。というのは、かつての全生活を担っていた人間のほうが、肉体的にも精神的にも高い能力をもっていたからです。今われわれが用いている科学技術のなかで、どこか人間は進化したように見えるのですが、実際はより高度な人工物が溢れているだけです。

 科学技術を捨てることができないのは、われわれが退化したがゆえであるともいえます。社会は、いまや巨大な科学技術とそれに基づいた市場なくして、生きられないのです。都市が突然機能停止するなら、人間は暴走し収奪しあうでしょう。彼らには、作物を育てる技術も、木の実をとる技術も、火をおこす技術もありません。

 とすれば、やはり科学技術の放棄ではなく、科学技術の利用について、より正しい方向性を考え、導いていくほかないといえます。

 こんにちは。

 人間の幸せは科学技術の発展とイコールではないのではないか、ということですが、もちろんつながりません。正確には、第1に、物質的豊かさは満たされることは、精神的豊かさを満たすことにはならないということです。
 第2に、科学技術の進歩には、たえずマイナスの要素がつきまといます。具体的側面でも、思想的側面でもそうです。こういうのを専門的には、「逆機能」と呼びます(社会学)。

1、例えば、自動車を開発して人間はA地点からB地点 まで早く移動する事が可能になった...続きを読む

Q「叙勲」のお祝いの言葉は?

「叙勲」とは「国家や公共事業に功労のあった人に勲等を授け、勲章を与えること。」となっています。
とすれば「勲章」を受けた方に「この度は叙勲おめでとうございます。」
では 日本語としておかしいですよね?
「叙勲」をお祝いする言葉として どのような言葉遣いが適切でしょうか?
教えてください。

Aベストアンサー

○○章ご受章、誠におめでとうございます。
この度は叙勲の栄に浴され、誠におめでとうございます。
栄えあるご受勲、心からお祝い申しあげます。
栄えあるご受勲を祝し、謹んでお喜び申しあげます。

以上、電報文例より。

Qポスト構造主義・ポストモダンとはどういう意味??

ポスト構造主義とかポストモダンという言葉をよく目にするのですが、簡単に言うとどういうことなのでしょうか?又、両者は同義なのでしょうか?

Aベストアンサー

> 簡単に言うとどういうことなのでしょうか?
短く簡単に述べると抽象的になり
簡単かつ具体的に述べると非常に長くなり、と
実は非常に難しいご質問です。
でも、頑張ります。

「ポスト」はラテン語で「後に来る」とか「次の」といった意味です。
「ポストモダン」とは「モダン(モダニズム=近代主義)の次の」という意味で
思想・哲学・建築・文学の分野で使われる用語ですが
ここでは思想・哲学に限定しましょう。

西洋史上、「近代」は概ねルネサンス、大航海、宗教改革以降の時代
特に市民社会と資本主義を特徴とする時代を指します。
そういう意味では現代も「近代」の延長上にありますが
1900年代後半から近代主義を批判する文化上の運動が活発化し
これ以降の時代を「ポストモダン」と呼びます。

思想・哲学史上における「ポストモダン」の代表的なモノに
1960年代に流行った「構造主義」があり
構造主義の流行が去った後の、構造主義の成果や反省を踏まえた次世代の思想を
「ポスト構造主義」と呼びます。
ちなみに現代は思想史上では「ポスト構造主義」時代にあたります。

このように、ポスト構造主義とかポストモダンというのは
時代区分の一種であって、その流れに属す思想は実はいろいろあります。
それゆえに一言で言うのは難しいのですが
共通する特徴として
●近代の行詰りを克服すべく、近代をいろいろな角度から反省している
●なかでも「形而上学」を反省しようとする態度が大きい
といったことが挙げられると思います。
ちなみに、ポストモダンの条件』を著した哲学者リオタールによれば
「ポストモダンとは大きな物語の終焉」だそうです。
何のことやら、よく分かりません。

形而上学というのは西洋哲学の主流の思想で
古くは古代ギリシャのアリストテレスによって始まり
「我思う故に我あり」で有名なデカルトによって一旦の完成を見た
(と教科書で教えられた筈の)ものです。

さて、以下、大胆に自己流に解釈します。
形而上学とはぶっちゃけ「理性」を武器に「絶対的に正しいものは何か?」を
言葉によって問うて来ました。
その到達点が「我思う、故に我あり」から始まる難解な思想なのですが
19世紀も終わり頃になると、まあ世界大戦勃発だの何だのと暗い世紀末だったので
思想的にも大反省期に入る訳です。
その中でも、大きくメスが入ったのが「言葉」で
ソシュールの「記号論」なんかが有名ですが
簡単に言えば「人間は言葉でしか物事を考えられないが
言葉には限界があり、よって思考にも限界がある」といったことを訴えたのですね。
これは例えば「日本語しかしゃべれない日本人は日本語でしか物事を考えられないので
日本語にない概念については語ることが出来ない」と言えば
何となくお分かり頂けると思います>翻訳できない言葉とかって結構ありますよね。
このように言葉の構造を探ることで言葉の限界を考察したのが記号論ですが
この記号論を発展させて、思考やら文化やらの構造を考察したのが「構造主義」で
メルロ=ポンティなんて人が有名です。

OKWaveにも「○○って、どういうことなのでしょうか?」といった質問が沢山寄せられますが
このように「ひとつの正解に還元できる」という考え方は実は非常に形而上学的な発想で
構造主義的に答えると「ひとそれぞれ、いろいろな考え方があります」
みたいな発想から入り、それぞれの偏見みたいなことを考えていきます。
なので、ときに「相対主義」だと批判されます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3

> 簡単に言うとどういうことなのでしょうか?
短く簡単に述べると抽象的になり
簡単かつ具体的に述べると非常に長くなり、と
実は非常に難しいご質問です。
でも、頑張ります。

「ポスト」はラテン語で「後に来る」とか「次の」といった意味です。
「ポストモダン」とは「モダン(モダニズム=近代主義)の次の」という意味で
思想・哲学・建築・文学の分野で使われる用語ですが
ここでは思想・哲学に限定しましょう。

西洋史上、「近代」は概ねルネサンス、大航海、宗教改革以降の時代
特に市民社会...続きを読む

Q生きて叙勲を受けた人は如何なる事があっても取り消されると言うことはない

生きて叙勲を受けた人は如何なる事があっても取り消されると言うことはないのでしょか。
知人で叙勲を受けている人に騙されてお金を貸して欲しいと頼まれて貸して以来、返してくれないそうです。贅沢な生活をしていて騙し取られたのが馬鹿だと嘆いていますが、お金が返らなくてもそのような人間が叙勲を受ける資格はないと思うのいです。その人と署名活動でもして僅かな反撃でもしたいと思いますが、叙勲の取り消しとかは絶対に無理なのでしょうか。ご存知の方が居られましたら教えてください。取り消しが無理でも何か一矢報いる事が出来ればとも思っています。

Aベストアンサー

ご友人の事情などはコメントしませんが、

一般論として、勲章を取り上げることは当然あり得ます。
本邦に置いては勲章褫奪(ちだつ)令
http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=3&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%A0&H_NO_GENGO=M&H_NO_YEAR=41&H_NO_TYPE=4&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=M41CO291&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1
にその定めがあり、
第一条勲章ヲ有スル者死刑、懲役又ハ無期若ハ三年以上ノ禁錮ニ処セラレタルトキハ其ノ勲等、又ハ年金ハ之ヲ褫奪セラレタルモノトシ(引用者後略)
第二条  勲章ヲ有スル者左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ情状ニ依リ其ノ勲等、又ハ年金ヲ褫奪シ外国勲章ハ其ノ佩用ヲ禁止ス
一  刑ノ執行ヲ猶予セラレタルトキ
二  三年未満ノ禁錮ニ処セラレタルトキ
三  懲戒ノ裁判又ハ処分ニ依リ免官又ハ免職セラレタルトキ
四  素行修ラス帯勲者タルノ面目ヲ汚シタルトキ
となっています。

浅学にして、適用条件や前例などは知りませんが、ま、既定があることだけは確かです。

ご友人の事情などはコメントしませんが、

一般論として、勲章を取り上げることは当然あり得ます。
本邦に置いては勲章褫奪(ちだつ)令
http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=3&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%A0&H_NO_GENGO=M&H_NO_YEAR=41&H_NO_TYPE=4&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=M41CO291&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1
にその定めがあり、
第一条勲章ヲ有スル者死刑、懲役又ハ無期若ハ三年以上ノ禁錮ニ処セラレタルトキハ其ノ勲等、又ハ年金ハ之ヲ褫奪セラレタルモノトシ(引用者...続きを読む

Q哲学の人文科学及び社会科学の中の位置づけについて

哲学を学ぶということは、人文科学の諸分野を支える根幹的な思想を学ぶということに等しいですか?
例えば、自然科学の中で数学を学ぶというように。数学のあらたなる真理の扉を開けるのは、至難の技にしても、数学は数学以外の自然科学の諸分野の基盤や基盤以上の物を提供しているように。つまり数学が自然科学の諸分野・土台を支えてるいるのとイコールのように、哲学を人文科学・社会科学の研究の諸分野を支える根幹的なものと認識についての是非を教えてください。私のこの議論が全くもって的外れなら、どれ位的外れかまたどのように的外れで実際はどうなのかをご教授ください。

もう一つだけ追加でお願いします。自然科学において真理の扉を開けるということは、その当該分野のフロンティアをまた一つ新しく開拓したと言えると思うのですが、哲学におけるそれは何をもってそれ(学問分野のフロンティアを開拓するという事象)を定義付けるのでしょうか?また、フロンティアの開拓ということ自体、哲学の学問分野にとってはさほど重要度は高くないものですか?

よろしくお願いします・

Aベストアンサー

時間があるので脱線しないように 真面目に答えてみようと思います。

まず前提として
日本では学ぶということが真剣に語られていません。

「真面目に学ぶ」が強調されすぎ、それ以外が 疎かになっています。

非効率的学習プロセスが主流になっているということです。

今 定年になろうとしている人たちは
 
勉強しなければいけなかった総量=絶対量が 圧倒的に少なかった。

日常的にそのことついては 自覚がありますが 

いざ他人の評価となると 
勉強をしなくても基本ができればいいのだとか 
いい大学を出たのはいいやつだ とかと
いうことをいいだし

 「いい加減=適正ということは=俺に従うことである」 を 基準として持ち出してきます。 

学の基準が その担当者の主観のみに左右されるということです。

つまり 質問者様の述べる 根拠 が 老人中心の身勝手な根拠 と なっていることに 問題があるのです。

本題に入ります。

科学の諸分野を支えているのは ひとです。

2000年に入ってからこの方、序文に掲げた理由で、著しく信頼関係という大事なものが破壊され続けています。

しかしそのすきを見て蔓延している害毒があります。 

『科学の諸分野の根幹をなしているのは思想であり、 
根幹的思想とは 「哲学的経済学である」 という 迷信』です。

まさに はびこっています。

たとえば 日本の哲学は 哲学学である と えらそうに いうひとがいますが、 

その根幹をなす思想は、 (学)は経済学が根幹でありその根幹は 哲学であり 
その根幹が わたくし である 

という 刹那的・唯物論的 部分意識です。匿名キリスト教の「論理的・間接的」布教です。

究極的には 学問は俺よりバカである 俺のほうが偉いという理論です。

唯一絶対の神のまえでは どんぐりの背比べである みんな馬鹿だ
という 傲慢です。

底に横たわっているのは キリスト教的 物質論=燃料資源 と 言語論理=ivGotです。

あたまのわるいおれさまも iGotをおさえていれば 基本をおさえている
どうだ!
もってるか? という のが 

基本として ひつようとされる 行動だ というわけです。

つまり 数学・哲学の素養がない人間の それでも俺様は偉い といいたいがための 言い逃れが

「(アカウントの)所有」である

という現状です。

(布教が失敗した例として セカンドライフ を あげると 
日本人はそこまで馬鹿ではなかった ということもできましょうが・・・)

つまり 簡単に表現するとすれば、

所属と思想 という 中世的思考が 今の世の中では 所有と偶像崇拝 に とってかわられたのです。

書面としては ドグマが 神学から 情報科学 へと移りました。

そういう意味で 質問者様が感じ取った 他人を弾圧し、加害者側となって阻害されないための教義
そして
その根本はどこにあるか という 点では 的を射ているということができるでしょう。

しかし その数学は 情報科学としての 数学 であり

哲学も 情報科学としての 哲学です。

中世では 1教会 2キリスト教 3聖書(神学) であったものが
形を変えて 存在し続け
現状としては
1 SNS 2 端末教 3 WIKIぺ
(情報科学 別しては自然=数学/人文=哲学/社会=経済学) に 変化しました。

新たな真理とは いまでいうと
表現的焼き直しです。

馬が車に 書物がデータに 変わった というだけの 言語的・論理的修正です。

忘れてはならないこととしては
支えているのが「底辺」であり、
上記IT三学
(情報工学としての数学・
ネットオントロジーとしての哲学・
社畜管理のための経営学)を修めているのは

WASPシンパの指導者たちです。

なにも支えてはいません。

「B層には なるな」ということだけが最低限の教訓として存在します。

時間があるので脱線しないように 真面目に答えてみようと思います。

まず前提として
日本では学ぶということが真剣に語られていません。

「真面目に学ぶ」が強調されすぎ、それ以外が 疎かになっています。

非効率的学習プロセスが主流になっているということです。

今 定年になろうとしている人たちは
 
勉強しなければいけなかった総量=絶対量が 圧倒的に少なかった。

日常的にそのことついては 自覚がありますが 

いざ他人の評価となると 
勉強をしなくても基本ができればいいのだとか 
いい大...続きを読む

Q叙勲者に対してのどんな祝いがいいのか

 先般の叙勲に私の叔父が該当していました。
我が家系で叙勲なんか無縁と思っていましたが、たまたま公務員だったことで、11月5日勲記勲章の伝達後11月12日皇居に参内し、「危険業務従事者叙勲」の栄誉に浴したようです。
 叙勲後に叔父から上記の案内があったのですが、晴天の霹靂のこの事実に対し祝意を顕したいのですが、この場合お祝いとはどのようにするのが社会通念として妥当なのでしょうか。
 よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

おめでとうございます。

うちの会社の会長も叙勲をいただきました。(いただく、で合ってるのかな・・?(-_-;)

当日から胡蝶蘭&花束&祝電が山のように届いてます。

会社関係ではなく親戚ですので、お祝いの品(花かお菓子か品物か)を持って会いに行かれてはどうでしょう?
年上の親戚ですからあまり高価なものでなくていいと思います。
お祝いの気持ちが大切だと思いますしね(^o^)丿

都合が悪く直接会うのがムリならご自宅に送るのがいいと思います。あと電話でお祝いの言葉を伝えて。
今からですと「お祝いが遅くなってすみません」と付け加えるといいと思います。

あまり参考になるかわかりませんが・・・m(__)m

Q【幸福の科学って創価学会の教えのパクリでは?】 創価学会の教えを参考にして幸福の科学は出来てますよ

【幸福の科学って創価学会の教えのパクリでは?】

創価学会の教えを参考にして幸福の科学は出来てますよね?

両方、幸福はどのように実現するのか?という人生の問いに答えを出すための宗教ですよね。

Aベストアンサー

「創価学会の教えを参考にして幸福の科学は出来てますよね?」
→それは、あなたの勉強不足でしょう。
ご質問には、具体的な内容が書かれていませんが、それらのほとんどは幸福の科学、創価学会でなくても一般常識として当たり前のことなのです。


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