ついに夏本番!さぁ、家族でキャンプに行くぞ! >>

船の進水式での現在のシャンパンを舳先にぶつけて割る儀式ですが、大昔には生け贄として生まれたばかりの赤ん坊を投げつけて航海の無事を祈っていたというのを聞きました。

シャンパンへは生け贄の血の色をしているワインから置き換えられた。さらにその前のバイキング時代には捕虜が使われたというのは調べて分かりましたが、この赤ん坊の部分は本当のことでしょうか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

日本財団(=昔の日本船舶振興会)のHPですので、まずは正しいかと思う情報です。



ちなみに、No1の(1)の話は、日本書紀で日本武尊が、東京湾の湾口を渡って、房総半島に行くときに、嵐に遭い、「女子を乗せてはいけないのに、乗せたために 海の神がお怒りなので」と、尊の彼女が自ら身を投げた・・・というのが 有名です。

参考URL:http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/ …
    • good
    • 1
この回答へのお礼

詳しいサイトを教えていただきありがとうございます。
赤ちゃん云々の話はないみたいですね。

お礼日時:2003/10/22 16:48

「赤ん坊…」の件は知りませんが、日立造船の方に聞いた話では


(1)以前は、航海中にひどい嵐などに出会うと海の神様が怒っているため、これを静めるため生きた人間を「いけにえ」として海へ投げ入れた時代があったそうです。
船も小さくどうせ全員死ぬなら、という考え方からだそうです。
(2)進水式の考え方はその後に生まれたもので、生き血に似た赤ワインをぶつけるのも、その名残りだそうです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

海へ投げ入れた時代があったんですね。
ほんと、今で考えられないほど野蛮ですよね。

ありがとうございました。

お礼日時:2003/10/18 16:08

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q遊戯王で反転召喚後の生贄はOKですか?

反転召喚してリバース効果を発動した後、そのモンスターをそのターンに生贄にすることはできますか?

Aベストアンサー

リバース効果発動後の生贄は可能です。

Qセンター世界史・現在5割→本番8割とりたい

高3の受験生です。
私は世界史がとても苦手です。
マーク模試は5割いかないくらいです。

良い時でも6割、悪い時だと3割以下も少なくないです。
問題を解く以前に
全然知識が頭に入っていないんだと思います。

今から8割以上ねらうには
これからの80日間を、どのように勉強していけば良いでしょうか?

教科書を読む→声に出しながら書きなぐる
という方法を母からは勧められたのですが、どうでしょうか?
教科書よりも、まとまっている参考書を使うべきでしょうか?
もっと他の勉強法にすべきでしょうか?

国公立大を目指していて、世界史を避けて通ることはできません。
どうしてもセンターで高得点とりたいです。

アドバイスよろしくお願いします。

Aベストアンサー

教科書を読む→声に出しながら書きなぐる……という方法はお薦めできません。教科書は正しい文章が並んでいるのであり、センター試験は正誤問題であって、間違いだらけの文章が並んでいるのです。センター試験は間違い探しのテストです。4択のうち3文が間違いなのです。ほとんどが「正しい文章を選べ」という問い方であり、正しい文章をどれだけ読んでも、この間違い探しに強くはなれません。
 この間違い探しに強くなるための方法は過去問をできるだけたくさん解くことです。そこにある間違いのあり方を知っていくとです。このことに気がつかないといつまでたっても進歩は望めません。間違いが分からなかったら教科書をカンニングし、確かめつつ解いていくことです。この2ヶ月で解ける量ののった過去問集を買い、直前まで解きつづけることです。
 解き方の一例は次のサイトにあります。
http://www.ne.jp/asahi/wh/class/09cq_1.html

 第2に必要なことは、年代を覚えることです。年号の数字が出ていなくてもセンター試験の3分の1、ないし4分の1は、実は時間差を問うている問題です。17世紀のインドの出来事に該当する文章はどれか、という問い方です。これは実際に過去問にあたってみらた分かるはずです。『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード)が覚えやすいので推薦します。

教科書を読む→声に出しながら書きなぐる……という方法はお薦めできません。教科書は正しい文章が並んでいるのであり、センター試験は正誤問題であって、間違いだらけの文章が並んでいるのです。センター試験は間違い探しのテストです。4択のうち3文が間違いなのです。ほとんどが「正しい文章を選べ」という問い方であり、正しい文章をどれだけ読んでも、この間違い探しに強くはなれません。
 この間違い探しに強くなるための方法は過去問をできるだけたくさん解くことです。そこにある間違いのあり方を知っていく...続きを読む

Q黒猫ブームは来ていますか?

やっぱり、黒猫ブームは来ていますか?

最近、街に黒猫が多いです。

黒猫の子猫はカラスに襲われ難いのだとか。

ますます、黒猫ブームが加速しそうです♪

ゲームするなら、魔法使いと黒猫のウィズ♪

ピグライフ、ピグアイランド、ピグワールド、ピグカフェ♪

ライター猫ちゃん(=^・ェ・^=)♪


mama&croud
http://mpse.jp/cacrowd/v.p?002ciXrfFVA

Aベストアンサー

黒猫ブームはまだ到来しておりません。先達のヤマトが善戦いたしておりましたが、最近は何かと佐川なるものどもに押されておる機運のようであります。
また街の黒猫ちゃんは可愛いがやさぐれており、愛嬌に乏しく長丁場の戦いにおいては全くの不利と相候。
またその無垢なる漆黒の体毛より漂いし悪臭も常なり。
ところが巷では黒猫の何とやらがゲームで登場するなり、広く金を集めているとの噂が立っておりまして、そろそろ黒猫が紙面に躍る日も遠くはないのかもと思ってます。

Q生前香典の儀式、またはそれに準ずる儀式について。

 時代劇の子連れ狼を見ていたら『生前香典の儀式』というのをやっていまして、それで気になったので質問します。

 この儀式は、昔本当にやっていた儀式なのかという事と、似たような儀式(西洋、東洋問わない)はあるのかを知りたいです。
 
 よろしくお願いします!

Aベストアンサー

『子連れ狼/生前香典の儀式』の内容自体を把握していませんので、
見当違いなら御容赦下さいm(_"_)m

「生前香典の儀式」を広い意味での「生前葬」と捉え、
あと『子連れ狼』の時代設定が明暦・万治・寛文期頃までとするなら、
当時、可能性の有り得たお話と言えるのではないでしょうか^^

キーワードは「逆修」。
逆修…生前に、自分の死後の冥福のために仏事をすること。
予修。逆善。逆修善。

「生前香典の儀式」までは定かではありませんが、
「逆修」については、下記論文などが参考になるかも知れません。

『大手前女子大学論集6/大手前大学・大手前短期大学/1972』(147-165頁)
◇「逆修信仰の史的研究/川勝政太郎」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000046384
『印度學佛教學研究57(2)/日本印度学仏教学会/2009-03-20』(687-691頁)
◇「中世日本禅宗の逆修とその思想背景/伊藤良久」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007131119

逆修を歴史的にたどると、わが国では平安時代中期以来、
貴族の仏事として華やかに行われたが、
一方大衆を対象とする法界衆生逆修のあったことも無視できない。
鎌倉時代に入って、貴族の風習にならう武士層や名主層などの富裕階級が、
盛大な仏事よりも記念物的な逆修石塔などの造立に熱を加えて行ったが、
石塔の造立は死者の追善や法界衆生の平等利益などが中心であった。

南北朝時代に至ると、逆修塔はようやく数を増すが、
室町時代になると急に様相がかわって、
小石塔、小石仏の増加が庶民の手によって行われ、
その大部分が自身の逆修のための造立という状態になってくる。
民間庶民信仰的な色彩がこくなり、十王信仰、十三仏信仰、
月待信仰などと逆修信仰がむすばれて、
すべてが逆修に塗りつぶされるような錯覚をさえ抱かされる。

しかし、江戸時代はじめからおとろえて、
寛文ごろまでの実例を私は見ているが、
その後はほとんど終息したように思われる。
従って現代の多くの人たちは、私どもの祖先の信仰の歴史の中に、
逆修というものが、長い間行われていたことを知らない。

昔の人が逆修を行うことが盛んであったことは、
寺や僧との結びつきを強いものとし、
寺や僧も人々の生活に直結したのである。
寺が墓を守るものとなって行ったのと、逆修の歴史が終るのと、
時期を同じくすることは偶然ではないようである。

「逆修信仰の史的研究/川勝政太郎」七.結語より

以上少しでもヒントになれば幸いです^^

『子連れ狼/生前香典の儀式』の内容自体を把握していませんので、
見当違いなら御容赦下さいm(_"_)m

「生前香典の儀式」を広い意味での「生前葬」と捉え、
あと『子連れ狼』の時代設定が明暦・万治・寛文期頃までとするなら、
当時、可能性の有り得たお話と言えるのではないでしょうか^^

キーワードは「逆修」。
逆修…生前に、自分の死後の冥福のために仏事をすること。
予修。逆善。逆修善。

「生前香典の儀式」までは定かではありませんが、
「逆修」については、下記論文などが参考になるかも知れません。
...続きを読む

QMTG初心者です。

MTG初心者です。
MTGの焚書について質問なのですが
「この効果は呪文の対象になったプレイヤー以外が6点ダメージを許
容しなければ対象になったプレイヤーは6枚ライブラリーから捨てる」

のかそれとも

「対象になったプレイヤーに6点ダメージか6枚捨てさせるか強いる」

のかどちらでしょうか?それともどちらでもないのでしょうか?
Wisdom GuildとMTG Wikiで参考にさせてもらったのですが少しわか
りずらくてどなたかご教授お願いします。

Aベストアンサー

《焚書》の解決時に先ず、現在ターンを進めているプレイヤー(通常《焚書》を唱えたプレイヤー)が
ダメージを受けるかどうかを選択し、次に対戦相手がダメージを受けるかどうかを選択し
ダメージを受ける事を選択したプレイヤー全員がダメージを受けます。
その後、誰もダメージを受ける事を選択しなかった場合にだけ
対象になったプレイヤーのライブラリーを6枚墓地に置きます。

Q中世の天皇の儀式について

 平安~鎌倉期の天皇の儀式についてお聞きしたいことが3つほどあります。

(1)崩御された天皇の大喪の期間はどれくらいあったのでしょうか。
(2)崩御された天皇への追号は誰が決めて、崩御後どれくらい経ってから贈られたのでしょうか。
(3)新天皇の即位式(大嘗祭ではありません)は践祚の後、どれくらい経ってから行われたのでしょうか。

 勉強不足でおかしな質問をしているかもしれませんが、ご返答頂ければうれしく思います。

Aベストアンサー

1)戦後の皇室典範によれば(天皇が崩じたときは大喪の礼をおこなう)としか書かれていません。
実際に(大喪の礼)についての具体的な規定はなく、
天皇の崩御があった場合にのみ、(大喪の礼委員会)で協議することになっています。天皇、太皇太后、
皇太后、の大葬儀は新天皇が皇后の場合は皇太子が
喪主をつとめるのが原則になっています。
2)崩御された天皇の追号(諡号ともいう)は明治天皇以来、その皇位いた元号をつかうのが通例、明治に
入り1世1元制度(天皇の在位中にはおなじ元号を使い
改めない)が確立してから自動的に諡号がきめられた。また天皇が崩ずると(追号奉号の儀)という儀式
を経て諡号が一定期間公示されてから決定される、それまでは(大行天皇)とよばれる。
明治以前については、いろいろなケースがありd定まっていなかった、といわれています。
3)不明です

以上天皇の本(学研)より

Qインドの殺人宗教

映画「インディジョーンズ魔宮の伝説」のモデルにもなっているらしいのですが、
昔、(イギリス統治時代)インドには人間を生贄とする殺人宗教があって、何万人もの人が犠牲になったらしいのです・・・
この宗教についての詳細な情報、又はHPがあれば教えてください。

Aベストアンサー

恐らく「サグ」のことでしょう。。。
「暴漢」と言う意味の英単語thugはこの宗教団体の名前から由来しています。
この宗教団体(というより強盗殺人団体)は、ヒンズー教の神の一人である「破壊と殺戮の女神カーリー」を崇拝し、その生贄の為に200万人を超えるインド人を殺した(1550年から1853年までの間)といわれています。
また、その信者には最低年間一人の殺人を強制していました。
中でも、1840年に絞首刑となった信者ベーラムは一人で931人もの人を絞殺したとされています。

日本語のページは無いようなので「Thug,Buhram,Kali」などのキーワードで検索されると良いと思います。

参考URL:http://asylumeclectica.com/morbid/archives/morb1196.htm

Q鉄鋼船と亀甲船

いつもお世話になっています。
文禄の役の制海権について教えてください。

1・信長が九鬼氏に造らせた鉄鋼船は文禄の役に出陣しなかったのでしょうか?(そもそも秀吉は鉄鋼船をまだ造っていたのでしょうか?)
2・出陣していた場合、制海権は互角ぐらいにはなっていたはずなのにボロ負けしているのはなぜ?
3・その文禄の役で、李舜臣率いる朝鮮水軍に亀甲船なるものが登場し、日本軍を打ち負かすのですが、予め日本の侵略対抗策として用意していたと考えてよいのでしょうか?急造したとは思えませんが。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

1) 信長の作らせた鉄甲船は、玄界灘を渡れるような航洋性を持ちません。あくまで、瀬戸内海専用の軍船です。

構造的には、欧州の地中海で軍船として使われていた櫂で漕いで進退する喫水の浅いガレー船に、巨大な上部構造を載せたようなものとされています。海上での機動力はほとんど無視して「浮かぶ要塞」として使われたものでしょう。櫂で動かせる限度を超えた重さと大きさと思われますので。

上部構造が鉄の板(数ミリ)で覆われているため、当時の海戦で敵の船に火をつけるために多用された火矢を跳ね返すのが最大の威力です。さらに、数ミリの鉄の板が硬い木の「装甲」に裏打ちされているため、合成するとかなりの強度があり、火縄銃の弾も跳ね返したはずです。

信長の水軍(伊勢水軍主体)と戦った瀬戸内海の毛利水軍は、火矢と火縄銃以上の攻撃力を持ちませんので、鉄甲船を攻撃する手段を持たなかったことになります。

志摩の海賊大名である九鬼氏が建造して熊野灘を経由して大阪湾に回航したという話もありますが、果たしてどうでしょう。熊野灘回航は、上部構造を取り付けない船体だけの状態で行なったのではと個人的に考えます。それでも、竜骨のない日本式の船舶ですからかなり困難な回航になりますが。

2) 仮に玄界灘を超える鉄甲軍船を作るとすれば、
* 西洋式の竜骨を備えた構造でなければ、上部構造が重い鉄甲船は玄界灘を渡れない。
* 櫂で人力で動かすのではなく、西洋の帆船と同様に風力で動かすのでなければやはり玄界灘を渡れない。
となり、当時の日本では建造不可能です。日本で建造された最初の西洋式帆船は、江戸時代になって、イギリス人ウィリアム・アダムスが浦賀付近で建造したものです。徳川家康の求めによるものです。

朝鮮出兵当時に日本と接触していたポルトガル人やスペイン人は、西洋帆船の売却も建造技術の提供も一切拒否していました。ついでに言うと、大砲の売却や大砲鋳造技術の提供も一切拒否していました。日本が大砲を装備した西洋帆船を持てば、東洋の両国の植民地(フィリピン、マカオ等)があっという間に日本の手に落ちてしまうからです。

私は、玄界灘を渡った日本水軍の軍船や兵員輸送船がどのようなものだったのか非常に疑問なのですが、その中に鉄甲船が入る可能性はゼロです。

3) 日本水軍と朝鮮水軍の戦いは、文禄の役の最初は日本の方が優勢でした。だから、物資や兵員を無事に朝鮮に渡して快調に進撃できました。

「文禄の役で、李舜臣率いる朝鮮水軍に亀甲船なるものが登場し、日本軍を打ち負かす」と質問者様はお考えですが、そもそも日本水軍はそんなに弱くなく、「李舜臣の朝鮮水軍が日本水軍を打ち負かした」という話はかなり朝鮮側に有利に誇張されたものです。

李舜臣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%88%9C%E8%87%A3

質問者様が重視しておられる亀甲船が具体的にどのようなものだったのかは明らかではありませんし、どの程度の威力があったのかも良く分かりません。伝説の中の存在であり、韓国文化の常として、史実とは関係なく誇張して伝えられていると考えた方が良さそうです。

亀甲船
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B2%E8%88%B9

信長の建造させた鉄甲船については、外国の宣教師が現物を見てローマに報告した手紙がありますので、「当時のヨーロッパにも存在しない、鉄で装甲した軍船が実在し、ヨーロッパ人の目で見ても強力な(強力に見える)軍船であった」のは確かです。

1) 信長の作らせた鉄甲船は、玄界灘を渡れるような航洋性を持ちません。あくまで、瀬戸内海専用の軍船です。

構造的には、欧州の地中海で軍船として使われていた櫂で漕いで進退する喫水の浅いガレー船に、巨大な上部構造を載せたようなものとされています。海上での機動力はほとんど無視して「浮かぶ要塞」として使われたものでしょう。櫂で動かせる限度を超えた重さと大きさと思われますので。

上部構造が鉄の板(数ミリ)で覆われているため、当時の海戦で敵の船に火をつけるために多用された火矢を跳ね返す...続きを読む

Q生贄の風習とか昔の伝説とか過去の事件なんかが背景にある小説を教えてください。

生贄、伝説、事件の設定は、もちろんフィクションでいいんですけど、過去に起こりえたかもしれない悲劇なんかが感じられる作品がいいです。こういう部類の小説はあまり読んだことがないんでよくわからないんですけど、ホラー小説とかミステリー小説とかにチャレンジしてみたくて質問しました。ゴーストハントの迷宮の話とか、ゲームの零作品とか、アニメの地獄少女1期の最後らへんとかが好きです。普通の小説でもライトノベルでも構わないんでよろしくお願いします!

Aベストアンサー

有名どころですが、京極夏彦作品は如何でしょうか。
私も零や地獄少女が好きなのですが(ゴーストハントは読んだことがないのです、ごめんなさい)古本屋の探偵が活躍する「京極堂シリーズ」はややレトロ味が入ったホラーミステリーといった感じで、質問者様の言われる「生贄や伝説、悲劇などを背景に」といった点にあっているように思います。
舞台は昭和です。旧家の風習・少女・美しい女性・彼岸と此岸・旧字体・錯乱や異常事件等…がキーワードになると思います。幻想的で耽美的な雰囲気もあるなと感じつつ読んでいます。
もしまだ未読で、ご参考になりましたら、是非。

Q平安時代末の法要(仏教儀式)

平安時代末の法要(仏教行事)がどういう形で行われたのかということを調べたいのですが、
いつも利用する図書館の蔵書検索をかけても、あまりはかばかしい結果が出ません。
ネット上の検索も、言葉を足したりひいたりして色々やってみたのですが、これ!というものにたどりつきません。
情報にたどり着くための方法を思いつく方、あるいは検索の達人の方、お知恵を貸していただけませんか?

Aベストアンサー

まず参考文献について。
もうご覧になったのかも知れませんが芳賀登『葬儀の歴史』、これは名著ですが、しかし包括的でカバーする範囲が広いので、ご期待される内容部分についてはあまり詳細とはいい難いと思います。むしろ、天皇と平安貴族の葬送儀礼については、新谷尚紀『日本人の葬儀』(紀伊国屋書店)、勝田至『死者たちの中世』(吉川弘文館)、水藤真『中世の葬送・墓制』(吉川弘文館)、などをご覧になるほうが具体的なイメージが掴みやすいと思います。
それぞれ重点の置き方は少しずつ違っていて、例えば新谷は11世紀初頭に没した一条天皇の例を引きながら民俗学者として現代につながる習俗の視点で分析していたり、勝田は院政~鎌倉にかけての天皇・貴族の葬送の様子を葬列や葬場の詳細をあげながら概観しているなど、少しテーマが異なりますが、およそ質問者氏の期待されるものはカバーされているのではないかと思います。

葬送についてごく簡単にアウトラインを書き出すと、以下のようになると思います(上記文献に書かれていないところは注を施しました)。

まず、貴人の病床の時点では快癒を祈って真言による加持祈祷が盛んに行われたほか、天皇の場合には大赦や造仏・造塔なども行われました。

(注:大赦は既に律令時代から行われていた歴史のある行為で、当初は一種のアニミズム的感覚にもとづくものでした。つまり死刑の執行など生命を毀損することが農作物の成長を阻害し、ひいては潤滑な国家運営に悪影響をもたらすと考えられたために、鎮護国家と不殺生が結びついて、特定の時期には刑が執行されなかったり、軽減されたりしたのです。ただ、時代が下ったこの時点での大赦は、寺の建立などと同じで権力者にとっての一種の宗教的滅罪のため、と考えたほうが良いと思われます。仏教的作善によって罪穢を落とし、病苦を除こうとしたのでしょう)

死亡が確認されると加持祈祷は終了します。死亡の判断はこの僧侶によって行われるのが専らでした。陰陽師との相談のうえ、入棺の日時や山作所(やまつくりしょ、葬場兼荼毘所のこと)など葬送の詳細が決定されました。枕直しなど一定の儀礼を経て沐浴・入棺が行われます。葬送当日は地鎮が行われ、若干の読経を経て葬列は夜間に屋敷を出発します。これにあたっても塀をこわして出るなど、近年までの民俗事例に通じる、恐らく霊の帰還を怖れたためと思われる儀礼がありました。
棺は左右に高欄を設けるなどした輿や車に乗せられ、松明や香、幡などを手にした者たちと共に、山作所へ向かい、棺を垣や幕などで隠した中で読経・呪願が行われ、荼毘に付されました。火葬にせず、玉殿と呼ばれる施設を設けてここに封印する葬法もありました。宅での読経などよりも、葬場、火葬に際しての読経真言のほうが重視されたのはひとつの特徴です。

(注:日の吉凶や山作所造営の方角の是非など、諸々の占を問うのはかなり重要なことでした。またタブー意識の極度に発達した時代ですから、誰にどの程度忌がかかる(=ケガレを被る)のか、従っていつどこでどのような禊をすべきかなど、関係者にとっては切実な問題だったようです。
喪の一報を聞くと、挙哀(ミネ)などと呼ばれる一定の儀礼が関係者個々に行われることが律令時代から一般的で、内容ははっきりしませんが、服喪の開始にあたり悲しみの儀礼的な表現を行ったようです。ミネは発哭などとも書かれますから、儒教の「礼記」に説く「哭」が形を変えて取り入れられていたのでしょう。出先で遅れて崩御の知らせを聞いたときなど、いつから発喪なのか、どうミネすればよいのかなども大問題だったようですが、既に平安後期には、遺詔によってこれを行わない場合も多かったようです。
火葬以外の葬り方は、古代の殯(モガリ)という伝統的な風葬型の貴人の葬法にならったものでしょう。喪屋を設けて舞楽や供膳などの奉仕を行うモガリは、蘇生を祈った行為、とする学説もありますがこれは実態にそぐわない解釈で、長い場合には何年にもわたりました。貴人の間で火葬が行われ始めるとすたれるのですが、平安末期でもまだその精神的伝統は残っていたと思います)

余談にそれるかも知れませんが、平安時代は「臨終」が重視されるようになった点が重要だと思います。臨終の正念が極楽往生の肝要な条件とされたために、最期まで正気を保てるよう臨終の苦痛を取り除くことが重要になり、勢いそれ以前から写経や誦経など平生の功徳が重視され、逆修(預修)と言われる生前修行が大事になっていったからです。
宗教民俗でいう擬死再生(一旦死んだことにしてそれまでの罪穢を落とす)と通じるものですが、平安時代にはもう大勢の貴族を集めて寺で48日間の講経などをした逆修法要の記録があります。「地蔵本願経」の説くところによって、死後の功徳を生前に積んでおこうとしたものですが、こういう感覚が広まったことは、結果として追善供養、つまり「他人による、死後の作善」を後押ししたことでしょう。

また、最大の功徳ある行為として、臨終の病床での出家が広まったこともとりわけ重要です。
聖武天皇などのように「三宝に帰依」し、生前に出家した天皇の先例は多いのですが、病床での剃髪授戒、つまり出家は(当初祈祷的意味もあったでしょうが)貴族も含めてこの時代にかなり一般化します。やがてこの出家が間に合わず逝去直後に行われることになるのですが、これが儀礼として根づいて「葬儀のなかでの出家」として定式化し、後の鎌倉時代以降の「葬式仏教化」の下地を準備したからです。

以下は追善供養について。
平安後期だと、天皇・貴族の間で一般的だったのは一周忌までの供養でしょう。律令の服忌令では、父母の忌は近親者にとって重服と呼ばれ1年間の服喪となります。これが元となって一周忌までが重視されました。
しかし、だいたい平安時代の中後期頃より、それまでの呪術的な慰霊や霊威への対抗儀礼から、徐々に追善儀礼としての先祖供養のウェイトが高まってきます。これに従って、平安時代もかなり末期の頃になると、いわゆる十仏事の法要が導入されて、仏教主導型の死者供養が行われ始めるようになってくるのです。

十仏事というのは、仏教の中陰(これはあまり正統な仏教思想ではないのですが、中国で確固たるものとなります)に百日目、満1年、満2年の法要を加えたものです。この十仏事は、基本的には儒教の考え方と、地蔵信仰と関係がある「十王生七経」という偽経(中国で創作された経典)に説く世界観をベースにして生まれたものです。
この経典では、冥界の亡者は死亡から七日毎に7回、さらに百日目、1周年、3回忌と合計十回の定められた場所にそれぞれ異なる王のもとに出向いてその審判を受けること、それから審判にあたっては遺族の追善の度合いも斟酌される、ということが記されていて、この経典が中国における追善思想に決定的な役割を果たしたと考えられます。
実際、儒教でも百日、満1年、2年はそれぞれ卒哭、小祥、大祥と呼ばれて重要な節目です(元もとの儒教は「いずくんぞ死を知らん」ですから現実重視でしたが、体系化されてからの儒教では亡者のための祭礼という「孝」が天地の道理と位置づけられたのです)。

その後、鎌倉時代のうちにさらに7、13、33回忌が加わって、15世紀頃には十三仏事が成立します。これが徐々に民衆にまで広まっていくのですが、その成立は、寺院側による教化的、経済的な理由による積極的な働きかけだけが理由ではなくて、むしろ民衆の側の心情によって広まった部分も大いにあります。
詳細は避けますが、結局人々が無意識に信じるところの「死霊から祖霊へと転換していくための期間」が、ちょうど33回忌にマッチするなど条件が合致したために日本では長期の死者供養が根づくことになりました。江戸時代中期までには、17回忌や25回忌も設けられ、「多すぎて負担が大変」などという反省や批判も起こりつつ、追善供養は全国の庶民にも一般化していきました。

天皇・貴族に対し、庶民の葬送儀礼は史料が少なく、不明の点も多くあります。ただ概していうと、葬儀はじめ、儀礼的なことはほとんど行われなかったでしょう。
例えば圭室諦成『日本仏教史』(法蔵館)などによれば、念仏結社であった二十五三昧講などが発展して無常講などという名前で庶民組織が生まれ、庶民の間でいわゆる互助的な葬儀が行われるようになるのがせいぜい室町初期の頃です。追って真言宗ら密教が葬儀に乗り出したとされます。
また禅宗では、私の手持ち史料では、僧でない在俗者の追善のために拈香法語(上堂という説法の際に、香を焚き法語を述べて特定の亡者を追善する)が行われるようになるのがせいぜい14世紀のことです。

現在ある寺院のおおよそが実質的には中世後期以降の成立で、惣村などという一種自立的組織の成立をまって、庶民の葬祭仏教受容が始まったといっていいわけです。従って、平安後期ではやはり僧侶がタッチする庶民の葬儀はまだ行われず、よく言われるようにあまり儀礼を伴わずに死体遺棄に近かったというのが現状でしょう。河原や山すそで、「餓鬼草子」に描かれるような一見かなり粗雑な風葬、場所によっては水葬が行われたわけです。
空也などの系列をひくような半僧半俗の遊行僧、何々聖(ヒジリ)と呼ばれたアウトサイダー的仏教者たちが、鳥辺野など都近くの葬場で供養を散発的に行っていたことは事実です。しかし庶民が仏事を強く相求めたわけではなさそうですし、いわゆる不浄の感覚から庶民の葬祭に関わる僧侶が一部蔑視されたりしたのも歴史的事実です。
(以前に、死体の扱いを含めて墓について簡単に回答していますので、宜しければご参照ください:
http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=448694 
「お墓の歴史」。また、前掲『死者たちの中世』には死骸の溢れる都市の様子、さらに後代の「坂非人」らが死体運搬など葬送に関与するようになってくることでその死骸が整理されていった、という論考もあります)

長くなったのでこの辺でもうやめておきます(笑)。仏事の歴史も体系的に理解することが大事だと思いますので、是非上記参考図書をご一読なさることをお勧めしたいと思います。

まず参考文献について。
もうご覧になったのかも知れませんが芳賀登『葬儀の歴史』、これは名著ですが、しかし包括的でカバーする範囲が広いので、ご期待される内容部分についてはあまり詳細とはいい難いと思います。むしろ、天皇と平安貴族の葬送儀礼については、新谷尚紀『日本人の葬儀』(紀伊国屋書店)、勝田至『死者たちの中世』(吉川弘文館)、水藤真『中世の葬送・墓制』(吉川弘文館)、などをご覧になるほうが具体的なイメージが掴みやすいと思います。
それぞれ重点の置き方は少しずつ違っていて、...続きを読む


人気Q&Aランキング