ここから質問投稿すると、最大10000ポイント当たる!!!! >>

江戸時代(幕末)、よく、幕府側として、「会津藩」の名前が出ます。
薩摩、長州、土佐・・・中国(毛利?)京都、大阪、金沢、名古屋(甲斐?)、江戸等々の地名は有名で分かるのですが、なぜ、あの東北地方の地理的にもへんぴな所の福島県の「会津」が登場するのかが、よくわかりません。
「河北」・・・東北の福島県の白河より、上は何もない・・・?ということを揶揄した言葉もありますし。
どうぞ宜しくご教授のほどお願い致します。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

幕末に会津藩の存在感が大きいのは、江戸幕府への忠節が他の藩に図抜けて高かったためです。



その理由は、会津藩の始祖、保科正之のおいたちにあります。
2代将軍秀忠の恐妻家ぶりは有名で、妻お江の方に外で子供を作った
ことをうちあけられずに、庶子として内密に育てたとあります。
そのため正之は身分低いまま幼少期を過ごします。

ところが、3代将軍家光は家督争いなどもあり、弟忠長を切腹させるなど、
孤独感を募らせていたところに、ひょんなところから腹違いの弟が
見つかったことを大いに喜び、正之を会津藩主にまで引きたてます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91% …

もともと会津は戦国時代から東北地方の要衝として、
戦略的な意味合いの強い土地柄でしたから、
その時もかなりの大藩でした。戦国期には上杉謙信で有名な上杉家も
この地を治めていたことがあるほどです。

正之の感激ぶりは、その家訓からも読みとれます。
http://www.tsurugajo.com/history/kakin.htm

要約すると、多藩の動向など関係なく、我が藩はなにがあっても
幕府のために最後まで尽くせ。そのため日ごろから質素倹約を心がけて
武技に励め。ということです。背くものは子孫とすら認めないと。

そういう背景の中で、割の悪い京都守護職などを引き受けたのが、
松平容保です。自腹で無法地帯と化していた巨大都市京都の
警察機構を引き受けたと考えるとわかりやすいでしょう。

最後は、総崩れした幕府軍の最後の砦として、
(他藩は徳川雄藩であっても投降したり寝返ったりした)
会津藩に官軍が攻め込みます。

少年兵であった白虎隊の悲劇などが
後世の人の同情を誘います。
http://inoues.net/club/aidu_byakkotai.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

大変、わかりやすいご意見・・・どうもありがとうございました。

お礼日時:2011/07/04 18:56

会津藩を有名にしたのは白虎隊や娘子軍などの悲劇が物語化されているためでしょう。


白虎隊が有名になったのは、全員自決した白虎隊士中二番隊の唯一の生存者、飯沼貞吉の後世の証言などによるものです。

会津藩としての悲劇は、親幕派の急先鋒だった故に、最後には延命を図る将軍家にも裏切られて、スケープゴートにされたことでしょう。しかも松平容保はじめ藩士たちは、自分たちこそが真の勤皇であると自覚していたでしょうし、またかつての賊軍から賊軍の汚名を着せられたということが、孤立無援になっても容易に降伏できなかった理由ではなかったのでしょうか。

会津藩の立場は皆様のご指摘の通りす。
会津という地域も、今でこそ東北の幹線から外れた一地方都市ですが、実はすでに記紀の時代から近世にかけてまで、東北の急所とも言うべき要衝の地だったようです。そんな天然の要衝に巨大な親幕派が残っていること自体、討幕派からはどんな犠牲を払っても叩き潰さなければならない存在だったのでしょう。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

なるほど。貴重なご意見ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/13 13:28

それは会津藩主 松平 容保(まつだいら かたもり)が幕末~王政復古の大号令(1862年9月24日~1868年1月3日)まで京都守護職(京都市中の治安維持及び御所・二条城の警護などを担う役割として設置)にあったからです。



また、傘下に京都町奉行・京都所司代・京都見廻役・京都見廻組・新選組がいました。

八月十八日の政変では長州藩の勢力排除に動き、孝明天皇から容保の働きを賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に下賜された。←これで長州藩に恨まれた(薩摩藩もいたが後で同盟したのでその分も受けることになった)。

また、傘下の京都見廻組が近江屋事件など、新撰組が池田屋事件などで多くの志士を殺害・取り締まったので討幕派に恨まれました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どうも貴重なご意見、ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/01 11:05

会津松平家の藩祖、保科正之は、二代将軍秀忠の隠し子\(^^;)で、


三代将軍家光から松平姓と会津城下二十万石を与えられました。

以後、会津藩は藩主以下、徳川一門親藩として佐幕の大藩として
活躍します。
 特に幕末の松平容保は、京都守護職として、藩士と、お預かりの新選組を率いて
京都で勇名をはせ、孝明天皇から尊王の念篤い武将として信頼されていました。
 政治的にも、同じ水戸一族の 一橋慶喜と、弟の京都所司代・桑名藩主松平定敬
と共に、いわゆる一会桑政権をつくり、倒幕派が台頭するまで、
京を支配してました。
 官軍に追われ、最後の将軍徳川慶喜が降伏した後も、薩長はじめ官軍と戦い
白虎隊など、勇敢な戦いは、会津武士の名誉を示しています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どうも貴重なご意見、ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/01 11:04

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代(幕末)、よく、幕府側として、「会津藩」の名前が出ます。

会津藩の歴史について:

戦国時代の慶長6年(1601)、上杉景勝に代わって、関ヶ原の戦いで徳川方に与した蒲生秀行が、再び加増の上入封(60万石)した。二代目の蒲生忠郷が寛永4年(1627)に若くして急死すると、無嗣により改易となる所を、母が徳川家康の娘であるため、同母弟の蒲生忠知を当主として伊予松山での減封(30万石)存続が許された。

寛永4年(1627)、蒲生氏と入れ替わりで伊予松山から加藤嘉明が入封した(40万石)。しかし二代目の加藤明成が、家中騒動の末(会津騒動)、領地返上を願い出て改易となった。

加藤氏改易の寛永20年(1643)に、出羽国山形藩にあった、二代将軍秀忠の子の保科正之(3代将軍・家光の異母弟)が、23万石で入封した。幕末までに内高は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の水戸藩より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。
保科正之は、家光の死に際し、家光より4代将軍・家綱の後見人に命じられました。
以後、幕末まで保科氏が会津城を守り、将軍家の親戚筋として、幕府軍として戦いました。
白虎隊の死は、飯盛山に敗走した20名は1人を除き全員が自害したが、これは、飯盛山から城下が燃えているのを城が炎上している・・・と勘違いをし、落城したのであれば、自分たちも生きているすべはない・・・と自決したものです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どうも貴重なご意見、ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/01 11:04

会津藩について


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5% …

ドラマ化もされている「白虎隊」の存在が「会津藩」を有名にしているのかも知れません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%8E% …

因みに東北で有名な大名に、仙台藩の伊達正宗がいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94% …
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q幕末の会津藩

歴史に詳しくない私は、単純に判官びいきで会津藩が好きでした。
ところが先日、歴史に詳しい知人から以下のような側面もあったと聞き愕然としました。
会津藩は幕末の最後の段階で政策を誤り、不義不忠?をして京都守護職のときの栄光を自ら汚した。
会津藩は薩長土のような広い視野を持っておらず、世界の現実や日本の将来が見えていなかった。
会津藩は長年、領民に対して差別意識が高く過酷な施策を採っていたので(京都守護の経費を賄う以前から?)、領民から恨みを買っており、会津戦争直後には領民から同情されなかったどころか政府軍を歓迎した領民が反藩政の一揆を起した。政府軍は一揆側の要求をことごとく容れた民主的な善政を敷いた。
戦死者の遺体放置の件は、会津側だけでなく政府軍側のそれも同様だった。
戦後の遺体処理の件は、それを取り仕切ったのは村役人や他の東北諸藩の役人たちで、薩長は誰も参加していないし関与していなかった。以前から藩当局や藩士たちに恨みを抱いていた領民による仕打ちの結果だった。(これは私には意味不明)
戦後、新政府、特に薩摩は会津に同情的で、改易することなく減封・転封処分で済ませた。また、会津藩の優秀な人材は新政府が重く用いた。普通なら会津藩がしてきたことは、藩主切腹、お家断絶、藩は取り潰しが当たり前だったのに。
これが本当なら、けっして会津藩が全て正しわけではなく、むしろ薩長のほうに分があることになります。
う~ん!ちょっと私には難しすぎるので、誰か解説してください。

歴史に詳しくない私は、単純に判官びいきで会津藩が好きでした。
ところが先日、歴史に詳しい知人から以下のような側面もあったと聞き愕然としました。
会津藩は幕末の最後の段階で政策を誤り、不義不忠?をして京都守護職のときの栄光を自ら汚した。
会津藩は薩長土のような広い視野を持っておらず、世界の現実や日本の将来が見えていなかった。
会津藩は長年、領民に対して差別意識が高く過酷な施策を採っていたので(京都守護の経費を賄う以前から?)、領民から恨みを買っており、会津戦争直後には領民か...続きを読む

Aベストアンサー

幕末の各藩の動きは大変複雑です、私の個人的主観を述べさせて
もらいます

(幕末の最後の段階~)
京都守護職をした松平容保(以降容保)は天下の情勢を充分に察知する
立場にあり、なおかつ慶喜が大政奉還をして新政府ができているのに
まだ無駄な抵抗で若者を殺した責任は重大である、幕府が江戸城開場
をして後は新政府に協力することも「義」をはたすことになると
思われます
(薩長士のような広い~)
藩士は充分な情報収集、分析ができないものが多く、容保についていく
しかなかったようですので、若者を死なせ自分は白旗をふり生き延びた容保の責任は重大です
(長年領民に対して~)
もともと会津藩は昔からの蒲生一派とあとからきた容保一派の対立
があり一枚岩でなく、特に農民は蒲生派が多く会津戦争ご農民一揆がおこり長年の不満が噴出した、鶴ヶ城をまくらに藩民がイッチ団結し
討ち死にという話も後世作られたものとおもわれます

(遺体処理)
遺体よりものを盗むのを防ぐため、新政府は会津兵 政府兵に触れないよう平等に命令をだした
(白虎隊について)
なにもわからない若者が盲目的に参加したもので、後世に美談として
伝わったが彼らを死なせない方法はいくつもあった

結論として戦争に善 悪は無く容保がうまく立ち回っていれば会津戦争は起き無かったと思われますが、沈みゆく泥舟に最後まで残るという考えも当時の武士の中にはあった思いかもしれません

参考になれば幸いです

(参考サイト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E4%B8%96%E7%9B%B4%E3%81%97%E4%B8%80%E6%8F%86

幕末の各藩の動きは大変複雑です、私の個人的主観を述べさせて
もらいます

(幕末の最後の段階~)
京都守護職をした松平容保(以降容保)は天下の情勢を充分に察知する
立場にあり、なおかつ慶喜が大政奉還をして新政府ができているのに
まだ無駄な抵抗で若者を殺した責任は重大である、幕府が江戸城開場
をして後は新政府に協力することも「義」をはたすことになると
思われます
(薩長士のような広い~)
藩士は充分な情報収集、分析ができないものが多く、容保についていく
しかなかったようです...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む


人気Q&Aランキング