豊臣秀吉が「天下統一」をするにあたり、すごく徳川家康のことを気にしていましたよね。徳川家康は実力者だったということは理解できるのですが、なぜ家康は秀吉が死ぬまで天下乗っ取りを待ったのでしょうか。今回の大河ドラマからだとお互いの力はおんなじくらいで勝負は五分五分だったみたいな印象をうけました。

皆さんの見解や、俗説など教えてください。

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A 回答 (5件)

豊臣秀吉が「天下統一」をするにあたり、すごく徳川家康のことを気にしていましたよね。



というように、徳川時代になってから書かれた。
最後に権力を握ったものが、判断基準を付けちゃいますから。

家康は秀吉が死ぬまで天下乗っ取りを待ったのでしょうか。

No3の方が書かれていますが、実力差は圧倒的に違います。

今回の大河ドラマからだと

北大路欣也と岸谷五朗では役者の格が違いすぎますもの。

※ 緒方竹虎という政治家を知っているでしょうか?自民党の総裁になれなかった戦後の政治家です。実力的にはなってもおかしくなかったし、なれていたかも知れない。だが、戦後の政治史の中では扱いは小さい。だって総理大臣になっていないもの。
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この回答へのお礼

現在の戦国末期の歴史は徳川時代に書かれたものが主体なんでしょうか。明治には植民地政策を正当化させるため豊臣秀吉をしょい上げたということもきていますが。

確かに役者の格という問題もあるかも知れませんね。岸谷さんも悪くないし、結構いい味出していると思いますが、北大路さんは大御所ですから。個人的には北大路さんは「好きな男優」ではなかったんですが、今回の大河ですてきんだなぁと思いはじめました。

お礼日時:2011/07/11 00:07

 補足です。


 小牧長久手の戦いでは、豊臣方11万人、徳川・織田方2万人と、動員力に圧倒的に差がありました。
 戦が長引く中、秀吉としても、ここで懐柔し、臣従させた方が、もみつぶすより、他の大名を臣従させるために必要だと考えたと思います。
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この回答へのお礼

先ほどのお礼の中の疑問にも答えていただきありがとうございます。

お礼日時:2011/07/11 00:02

 圧倒的な実力差が原因です。


 徳川家康の石高は、250万石程度ですが、これは、家臣の分を含めての石高です。 
 天下統一後の豊臣家石高は、直轄蔵入地だけで、220万石、秀長等の親族、福島正則、加藤清正、石田三成等の直属家臣の分を合わせると、少なく見積もっても1600万石に迫るものでした。
 加えて、全国の金山銀山を一手に掌握し、更に商業の中心地である畿内を押さえているため、実力差は10倍以上で、動員兵力も隔絶していました。
 反抗しようにも、同盟者となってくれる主だった大名が豊臣家に臣従しているため、存命中に反抗することはまったく不可能であったと考えます。
 内部に食い込み、恩を売ることで、大名を味方につけ、豊臣家家臣を抱きこんではじめて天下取りへの道が開けたと思います。
 実際、関が原時点で徳川家の動員兵力は、秀忠に預けた10万人と直属の2万人程度。
 福島正則以下の豊臣家家臣団が離反していたら、あっという間に滅亡でした。
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この回答へのお礼

数字にするとそんなに違うんですか。知らなかったです。そうするとなぜ秀吉は家康をつぶしてしまわなかったのかと疑問が出てきます。

お礼日時:2011/07/10 23:59

家康は小牧・長久手の戦いで五分五分以上の戦いをしますが、政治的に秀吉にうまく立ち回られてしまいます。

ここで無理をするより、一回は臣従しても時間がたてば自然に自分に天下が転がり込んでくると読んだのだと思います。

家康は秀吉に比べて健康状態に絶対の自信があったんじゃないかと思います。待っていれば先に秀吉が死ぬと思ったのなら、五分五分の勝負をする必要は無いわけです。
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この回答へのお礼

なるほど、ありがとうございます。だから、なくまでまとうホトトギスなんですね。

お礼日時:2011/07/10 23:56

あの当時 名実ともに天下人は紛れも泣く秀吉だったんでしょうね。


家康が天下取りをしてしまうと 大義名分がないので確実に悪者になってしまいます。
その状態で天下を取ってしまったとしても 必ず秀吉派の連中が反旗を翻します。
それでは今までの世の中と同じ 争いのない文字通りの天下統一はできません
そこで秀吉の時代は五大老筆頭として発言力を高めてたんじゃないかと思います。
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この回答へのお礼

なるほど、「大義名分」ですか。確かに秀吉が力をつけたのは織田信長の後継者としての「大義名分」を掲げていましたし、家康が大阪攻めたときも「大義名分」をつけてましたね。納得です。

お礼日時:2011/07/10 15:30

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逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。
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kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまくいかなかったという説があります。
ちなみに彼が辞職するのは天正16年になってからです。私も知りませんでした。
関白も棚から牡丹餅でなったのです。それについては関白相論を見てください。
どのみち、実力で天下の覇者になった秀吉としては官位が高いほど自分の権威が高まって行くと考えているだけで、それほど執着はしなかったのでしょう。


豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
足利義昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

関白相論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまく...続きを読む

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文禄3年、西暦で言うと、1594年5月3日。
黒田長政の仲介により、徳川家康と出会った柳生宗厳が、家康の前で「無刀取り」を披露したことによって、兵法指南役に迎えたいと家康より申し出を受けました。
しかし、宗厳はその当時で、すでに66歳。
代わりに、五男の柳生宗矩を指南役として押しました。

Q織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が行った事、功績を教えて下さい。

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サイトなどを見ても難しい言葉ばかりでよく分かりません。
簡単に分かりやすく詳しく3人を比較して書いてくださると嬉しいです。

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質問者様の意思を尊重して回答します。あいまいですが、ご了承ください。

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貿易の自由化、楽市楽座は大変な功績です。
能力主義で人材を登用した功績。⇒秀吉の登用。

☆豊臣秀吉
私的には、あまり功績は無いと思います。
基本的に、信長の遺志を引き継いだ人物。
子(後継者)に恵まれなかったのが、短命政権となってしまった。
やはり、家康の存在が大きすぎました。

☆徳川家康
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愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
父親については、「木下弥右衛門」という人だとされていますが、この「木下弥右衛門」については、詳細が不明なんです。一般的には「百姓」と伝えられていますが、この当時、「百姓」にもいろいろな「種類」があり、どのような百姓であったのかは分かっていないんです。
きょうだいについては、姉、弟、妹が1人ずついたとされています。
姉は、同父同母のようですが、弟と妹については異父であるという説の方が大勢ですね。
この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる武将のうち、「福島正則」と「加藤清正」は、「豊臣秀吉」と親戚だったと言われています。

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

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