豊臣秀吉が「天下統一」をするにあたり、すごく徳川家康のことを気にしていましたよね。徳川家康は実力者だったということは理解できるのですが、なぜ家康は秀吉が死ぬまで天下乗っ取りを待ったのでしょうか。今回の大河ドラマからだとお互いの力はおんなじくらいで勝負は五分五分だったみたいな印象をうけました。

皆さんの見解や、俗説など教えてください。

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A 回答 (5件)

豊臣秀吉が「天下統一」をするにあたり、すごく徳川家康のことを気にしていましたよね。



というように、徳川時代になってから書かれた。
最後に権力を握ったものが、判断基準を付けちゃいますから。

家康は秀吉が死ぬまで天下乗っ取りを待ったのでしょうか。

No3の方が書かれていますが、実力差は圧倒的に違います。

今回の大河ドラマからだと

北大路欣也と岸谷五朗では役者の格が違いすぎますもの。

※ 緒方竹虎という政治家を知っているでしょうか?自民党の総裁になれなかった戦後の政治家です。実力的にはなってもおかしくなかったし、なれていたかも知れない。だが、戦後の政治史の中では扱いは小さい。だって総理大臣になっていないもの。
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この回答へのお礼

現在の戦国末期の歴史は徳川時代に書かれたものが主体なんでしょうか。明治には植民地政策を正当化させるため豊臣秀吉をしょい上げたということもきていますが。

確かに役者の格という問題もあるかも知れませんね。岸谷さんも悪くないし、結構いい味出していると思いますが、北大路さんは大御所ですから。個人的には北大路さんは「好きな男優」ではなかったんですが、今回の大河ですてきんだなぁと思いはじめました。

お礼日時:2011/07/11 00:07

 補足です。


 小牧長久手の戦いでは、豊臣方11万人、徳川・織田方2万人と、動員力に圧倒的に差がありました。
 戦が長引く中、秀吉としても、ここで懐柔し、臣従させた方が、もみつぶすより、他の大名を臣従させるために必要だと考えたと思います。
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この回答へのお礼

先ほどのお礼の中の疑問にも答えていただきありがとうございます。

お礼日時:2011/07/11 00:02

 圧倒的な実力差が原因です。


 徳川家康の石高は、250万石程度ですが、これは、家臣の分を含めての石高です。 
 天下統一後の豊臣家石高は、直轄蔵入地だけで、220万石、秀長等の親族、福島正則、加藤清正、石田三成等の直属家臣の分を合わせると、少なく見積もっても1600万石に迫るものでした。
 加えて、全国の金山銀山を一手に掌握し、更に商業の中心地である畿内を押さえているため、実力差は10倍以上で、動員兵力も隔絶していました。
 反抗しようにも、同盟者となってくれる主だった大名が豊臣家に臣従しているため、存命中に反抗することはまったく不可能であったと考えます。
 内部に食い込み、恩を売ることで、大名を味方につけ、豊臣家家臣を抱きこんではじめて天下取りへの道が開けたと思います。
 実際、関が原時点で徳川家の動員兵力は、秀忠に預けた10万人と直属の2万人程度。
 福島正則以下の豊臣家家臣団が離反していたら、あっという間に滅亡でした。
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この回答へのお礼

数字にするとそんなに違うんですか。知らなかったです。そうするとなぜ秀吉は家康をつぶしてしまわなかったのかと疑問が出てきます。

お礼日時:2011/07/10 23:59

家康は小牧・長久手の戦いで五分五分以上の戦いをしますが、政治的に秀吉にうまく立ち回られてしまいます。

ここで無理をするより、一回は臣従しても時間がたてば自然に自分に天下が転がり込んでくると読んだのだと思います。

家康は秀吉に比べて健康状態に絶対の自信があったんじゃないかと思います。待っていれば先に秀吉が死ぬと思ったのなら、五分五分の勝負をする必要は無いわけです。
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この回答へのお礼

なるほど、ありがとうございます。だから、なくまでまとうホトトギスなんですね。

お礼日時:2011/07/10 23:56

あの当時 名実ともに天下人は紛れも泣く秀吉だったんでしょうね。


家康が天下取りをしてしまうと 大義名分がないので確実に悪者になってしまいます。
その状態で天下を取ってしまったとしても 必ず秀吉派の連中が反旗を翻します。
それでは今までの世の中と同じ 争いのない文字通りの天下統一はできません
そこで秀吉の時代は五大老筆頭として発言力を高めてたんじゃないかと思います。
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この回答へのお礼

なるほど、「大義名分」ですか。確かに秀吉が力をつけたのは織田信長の後継者としての「大義名分」を掲げていましたし、家康が大阪攻めたときも「大義名分」をつけてましたね。納得です。

お礼日時:2011/07/10 15:30

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Q織田信長と徳川家康の関係

この時代のテレビドラマは、大河ドラマをはじめとして非常に多く製作されていますが、見ていていつも気になるのは、織田信長の時代に、信長は家康を厚遇しているような描写が多いことです。その頃、確かに信長と家康は同盟していたとはいえ、力や勢いでは信長の方がはるかに上で、足利義昭にもあれだけ不遜な態度をとっていた信長が家康にだけ賓客のように扱っていたというのが信じられないのですが(秀吉に対しては「さる」なのに、家康に対しては「家康殿」などと言っています)。このような家康の「持ち上げ」は、やっぱり後で幕府を開いたことによる製作者のご祝儀相場であると考えていいでしょうか?実際の信長は家康に対し、もっと偉そうな態度をとっていただろうと考えている私が間違っているでしょうか?

Aベストアンサー

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田家の敵であったわけですが、これは「戦国の習い」であり、致し方ないものとされたでしょう。

今川義元の死後しばらくして家康は今川氏真と手を切り、信長と同盟を結んで背後の憂いを経ちました。この時に家康が信長の居城である清洲城を訪問したといわれますが、ここで両者は約20年前の思い出を語り合ったと想像できます。この時期に織田と徳川が同盟し、信長の死までの20年間揺るぎなく同盟が継続したのも、「信長・家康の少年時代の良き思い出」があったからかもしれません。

その後、信長の娘の五徳姫が家康の嫡男の信康に嫁いで血縁関係が結ばれ、信長と家康は誠実に同盟義務を果たしあったと評価できます。

家康は朝倉攻撃(浅井の裏切りで失敗に終わる)や姉川の合戦で近江に出陣して信長を助けましたが、一方で家康は主敵である武田信玄・武田勝頼との抗争で少なくとも3度、織田からの援軍を得ています。

(1) 三方ヶ原の戦いの前後 (信長は、足利義昭が諸大名を扇動して形成した『信長包囲網』でがんじがらめにされていましたが、約3千人の援軍を出しました。この兵力は、家康が浜松城に篭城して信玄に対抗するのであれば大きな戦力となります)

(2) 信玄の死後、勝頼が遠江の高天神城を攻略した時 (結果として援軍は間に合いませんでしたが、信長自身が出馬しました)

(3) 勝頼が長篠城を攻囲した時 (信長の本拠地から近いこともあり、信長自身が大兵力を率いて出馬し、家康軍と共同して、長篠の合戦で大勝利を収めました)

長篠の合戦で武田軍が大損害を蒙った後は、武田と織田+徳川のパワーバランスが明らかに武田に不利になりましたので、武田が積極的に織田・徳川に戦を仕掛けてくることは減りましたが、長篠の合戦の後は家康が信長の合戦に援軍として参加することはなくなり、徳川が独力で武田の脅威を排除する(排除できる)ようになっていたようです。結果として、遠江から武田の勢力は次第に駆逐され、家康は三河・遠江の二国の太守となりました。

「信長が、家康の嫡男の信康と正室の築山殿の処刑を家康に命じた」
とされる事件ですが、近年の研究では
「信康と五徳姫の仲が悪かったのは事実のようだが、五徳姫が信康の非を父の信長に訴え、それが信康と築山殿の『信長から家康への処刑命令』につながった」
というのは俗説であるとする見方が有力になっているようです。

史料から伺えることは、
「家康と信康との間に対立が生じ、家康が自分の意思で信康を幽閉、次いで切腹させた。信長は『家康殿の思うように処置されれば良い』という立場であった」
ということのようです。

現に、織田と徳川の同盟は信康の死の後も全く揺らいだ形跡はありません。
これは私見ですが、
「『家康が嫡子である信康と対立して腹を切らせた』というのは、信玄の嫡子の義信に対する仕打ちと全く同じで人倫にもとり、外聞が悪い。『信長に命じられて止む無く腹を切らせた』とすれば、家康の名誉が守られる」
ということで、江戸時代になってストーリーを作ったのではないかと考えます。

また、信長の死後に、羽柴秀吉と対立した織田信雄を助ける形で、家康は小牧・長久手の合戦を戦っています。
後世から見れば、「家康の武略に秀吉が翻弄された」「羽柴と織田の対立を徳川が利用した」ようにも見えますが、実際の所、兵力では羽柴軍は徳川・織田軍より圧倒的に優位です。羽柴軍の戦いようによっては「圧倒的な兵力で徳川を押し潰す」ことも可能であり、家康はそれを覚悟して開戦した筈です。
「家康が、信長の死後も友諠を忘れていなかった」状況証拠となるでしょう。

家康が信長に対してどのような感情を持っていたのかは史料からはなかなか伺えませんが、状況証拠として、
「関ヶ原の戦いの後で家康が天下を取った後の、信長の子孫への待遇」
で推し量れるのではないでしょうか。

関ヶ原の合戦で家康に明らかに敵対し、剃髪して高野山に上った織田秀信は仕方ないとして、

信長の弟の織田長益(有楽斎)
信長の不肖の子であった信雄

の二名が、1600年現在で生き残っていた信長の主な近親ですが、家康はいずれにも「大名」の地位を与えております。

信長の縁者の江戸時代以降の状況については、ウィキペディアに詳細に書かれていますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E4.BB.A5.E9.99.8D
さしたる武功もなく、「積極的ながら西軍についた」者も少なくない中で、天下人となった家康は、信長の縁者を十分に優遇していると言えるのではないでしょうか。

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田...続きを読む

Q信長・秀吉・家康のホトトギス

上記三人の人柄をホトトギスを用いて表現した文句は有名ですが↓

信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」
家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

これらは彼らの人柄をわかりやすく例えるために後世に詠まれた、とこのサイト内の他の質問から知りましたが、これらを考えた「誰か」というのは特定の人物として存在するのでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

作者不明だそうです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/think/zakki_08.htm

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
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Qどうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。

当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。
そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。
どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう?
そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう?
結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。
しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。
自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。
自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。
そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に...続きを読む

Aベストアンサー

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまくいかなかったという説があります。
ちなみに彼が辞職するのは天正16年になってからです。私も知りませんでした。
関白も棚から牡丹餅でなったのです。それについては関白相論を見てください。
どのみち、実力で天下の覇者になった秀吉としては官位が高いほど自分の権威が高まって行くと考えているだけで、それほど執着はしなかったのでしょう。


豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
足利義昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

関白相論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまく...続きを読む

Q前田利家が後15年生きていたら?

NHKドラマで利家が諸大名より大きな人望があるように描かれていますが、秀吉末期の家康との位置づけはどうだったのでしょうか?又、仮に後15年前田利家が生きていたら、関が原、夏の陣など世の中が  どう変わっていたと思いますか?ご意見をお聞かせください。

Aベストアンサー

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
 前田利家が擁護派とならざるを得なかったのは、領地力差が大きく開いていたからと考えることもできます。
 もしも、家康と利家の領地をひっくり返していたら、利家は豊臣を擁護したのか、などなど。
 当時としては、力を失った主家に取って代わるのはあたりまえの考え方があり、私としては、もしも、家康より長生きしたとしても、徳川との実力差から保身に走ったと思います。また、擁護派を貫き、徳川を滅亡に追いやったとしたら、最大の実力者として豊臣の滅亡か無力化に奔走するということとなったと考えます。

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
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Q豊臣家が一代で(二代で)滅亡した理由は?

タイトル通りです。

天下統一をはたした豊臣家は、何故事実上一代で滅んでしまったのでしょう?

秀吉びいきの父などは「正室に子どもができなかったからだ」などと言っているのですが、養子や側室の子どもが跡を継ぐなんてよくあることだと思うし、これが原因とはならない気がするのですが…。

私が考えたのは
・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
・秀頼と淀君が無能だったから。

かなー。と思ったのですが、全く根拠はありません。感覚的な感想です。

歴史に詳しい方、詳細を教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

家康は多くの男子を儲け、彼らが「御三家」といった形で別家を立てて徳川家の権力継承をサポートしました。秀次の多くの男子(史実で死んだ時点で4人、その後もどんどん生まれたはず)は、長男以外は別家を立てて豊臣家の柱石となります。秀次の娘たちは、有力な大名の正室となり、その大名家と豊臣家との関係を深めます。要するに、家康や秀忠がやったことを秀次がやるわけです。

ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q織田信長は800万石、豊臣秀吉は220万石?

織田信長の直轄の版図は、北条、大友、宇喜多、徳川等の完全に又は半分以上従属したような大名の版図を抜かして計算しても600万石から800万石あったといいます。
対して豊臣秀吉の直轄領は220万石といいますが、この差はどこからくるのでしょうか?
豊臣秀吉は織田信長の後継者としてさらに版図を拡大させて人ですよね。

それと、織田信長の版図の600万石から800万石という話しですが、その間の200万石はどこのことなのでしょうか?
ご存じの方がいたら、あわせてお願いします。

Aベストアンサー

信長と秀吉の違い
現在の会社の感覚で言えば
秀吉は分社化したので、系列子会社(前田とか弟の秀長とか)とかは含まない。本社の単体計算。
信長は分社化する前なので、オール織田家。
という違いです。

信長600~800万石
早い話が太閤検地までは、正確な石高理解なんて無かった。
戦国時代の○○家■■万石というのも、太閤検地からの逆算ですので。
だいたい、石高制度ってのがまだないっす。信長の時代は。

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Qゴルフでシングルとはどういう意味ですか

ゴルフでシングルですという人がいますが、どういう意味ですか?
初心者です。

Aベストアンサー

ハンディキャップ
が一桁の人のことを言います。

だからといって二桁の人を「ダブル」とは言いません。

では、ハンディキャップ(俗にハンディといわれています)
とはな~に?
ということになります。

ゴルフのゲーム方法はご存知でしょうか?
一般的に言いますと
一つのゴルフ場に1番から18番まで18個のホールがあります。
一つ一つのホールは「ティーショット」という第1打を打ってからカップ(穴)に入るまでの基準打数が決まっています。
この基準打数を「パー」といいます。
1番ホールパー4とか言うのがそれです。

基準打数とは「熟練したプレーヤー」がカップにボールが入るまでに
必要とする打数です。単なるプレーヤーではなく「熟練した」がつきます。平均的プロと考えれば良いでしょう。
平たく言うと、一般プロが何回で入れられるか、というものです。

これを合計すると一コース(1~18番まで)でだいたい72回となります。
へたっぴは各ホールでボギー(基準打数より1打多い)だとか
ダブルボギー(2打多い)などたたきますので
合計すると90回も簡単に打ってしまいます。

簡単に言うと、
この人の腕前は頑張っても90回ですから
熟練した人と比べると18回も多いわけです。
これをハンディといいます。
(正確には何度もコースを回ってその平均を出して・・どうのこうのと
難しい計算がありますが簡単に言えばそういうことです)

その人が実力でプレーして一コースあたり、平均して72回より何打多く打ってしまうかがハンディです。

で、ゴルフがどのくらい難しいかというと
アベレージゴルファー(平均的にまぁまぁゴルフをやっていて
よく知ってるよ)という人がハンディで14~25くらいです。
月一(月に一回、年10回~12回)ゴルファなどはこの典型です。
まぁそれでも初心者から見れば結構上手かもしれません。

もちろんプロはハンディがありません。
テレビで見ていると5アンダーとか言ってるでしょ。
あれは72回より5回も少なくプレーしてきた人です。
したがってハンディがたとえ1という人でもハンディがあるという
ことはアマチュアの人です。

で、へたっぴはハンディで25以上の人です。
ゴルフ好きでも結構たくさんいますよ、そんな人。
30を超えるような人は初心者といっても良いかもしれません。
ほんとの初心者は120、130回とハンディが付かないほど多く打っちゃいます。

さていよいよシングルですが
シングルというとハンディが一桁ですから
少なくとも82回以内でラウンドしてくるような人です。
これはかなり上手です。相当やってないとこうはなりません。
年間、そうですねー・・30回~50回はやる人かな・・。

同じシングルでも「片手シングル」という人もいます。
こういう人たちはもっと上手で、週に最低でも一回、シーズン中(春や秋)は週2回~3回はゴルフやってる人です。
それも十年以上そういう生活をしてきてる人たちです。
金も暇もある人じゃないとこうはなれません。

このまえ、ハンディ2の人と一緒にプレーしたのですが
そのとき、週に3回くらいはやってるんでしょ?
といったらしかられちゃいました、
「冗談じゃないよ!週5回だ!」といってましたから
相当なもんです。
ここまでくると、家庭と友人関係を犠牲にしている人も人もいます。

しかし、一方で家庭もちゃんとやっている人はゴルフ仲間からは
尊敬されます。

なぜかというと、
シングル、それも片手シングル(トップアマといいます)になるにはゴルフに費やす時間が半端ではありません。
練習だけでなくコースにも年間百回近くあるいはそれ以上出ています。
中には200ラウンドする人もいます。
それだけゴルフができるということは金もなくてはなりません。
ということは仕事が順調だということです。しかもその仕事を
きちんとこなしているからこそ金が入ってくるわけです。
遊びほうけているわけはないと周りの人は考えます。
仕事が忙しくてもゴルフやるわけですから、それなりに仕事に渡りをつけてやってるわけです。
だいたいそういう人は会社のオーナー社長や自営業の人が多いですが
部下や、同僚、付き合い先とうまくやってるからこそできるわけです。
また、奥さん(家族)とも渡りをつけてくるわけですから
結構なやり手で人格的にも優れていると外からは思われます。

逆に学生のトップアマなんぞ何の尊敬にも値しません。
仕事もせず、家庭も持たず、親のすねかじって好きなだけゴルフやってるんですからハンディがシングルになるのは当たり前の話です。
難しいことでも何でもありません。ですのでなんら尊敬に値しません。

他に仕事を持ってしかもそれをこなして右肩上がりで稼いで、
家庭を持って円満で、その環境でのトップアマになるわけでですからそりゃたいしたもんなんです。

だいたい会社をつぶすような社長というのはハンディ8止まりです。
ちょうどそのくらいになるとそれまで遊んできたツケが回ってきて
会社の運営をないがしろにし、部下の信用のなくし、家庭の崩壊寸前
になりますから精神的にも参ってきて、そこでだいたい会社つぶしてしまいます。
そこから先は金もなくなりゴルフができないようになり、たまたま金が入ったときにやってももう実力はハンディ18くらいになっちゃってます。

上記からいえることは
シングルのハンディの人はいるがほんとにゴルフがうまい!
といえるのは5以下ということになります。
もちろん6~9の人だってうまいのですが
シングルとしては半端です。

もしあなたも5以下のシングルを目指すのなら
最低年間100回のラウンドができる環境づくりを
しなければなりませんので、ゴルフの練習より先に
それを作ってください。

以上、ゴルフシングル講座でした。

ハンディキャップ
が一桁の人のことを言います。

だからといって二桁の人を「ダブル」とは言いません。

では、ハンディキャップ(俗にハンディといわれています)
とはな~に?
ということになります。

ゴルフのゲーム方法はご存知でしょうか?
一般的に言いますと
一つのゴルフ場に1番から18番まで18個のホールがあります。
一つ一つのホールは「ティーショット」という第1打を打ってからカップ(穴)に入るまでの基準打数が決まっています。
この基準打数を「パー」といいます。
1番ホールパー...続きを読む


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