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数年前のドラマ天地人を見たあたりから関ヶ原の西軍に興味が出てきました。特に歴史ヒストリアでも紹介された宇喜多秀家にひかれております。当初名前は知ってましたが何者か知りませんでした。豊臣のプリンスであり若くして西軍主力。同じく思い入れのある方やエピソードご存知の方教えて下さい。

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A 回答 (5件)

1.美童


宇喜多八郎(秀家)は大層な美童で、宇喜多家の人質
として織田信長の元に送るため、秀吉が会って驚いたそう
です。   信長も「備前から来たあの子、涼しげである。
格別だいじにしてやれ」と命じました。
信長が横死ののちは秀吉に特別に可愛いがられるなど
人に好かれる素質があったようです。
2.派手好み
伏見に五大老が伺候した際、秀吉が広間の刀架けにある
五腰(五本、五振り)の刀を見て、各刀の持ち主を間違え
無く言い当てた時、「秀家は美麗を好むが故に黄金を鏤
めた刀是なるべし」といったそうです。
  参考、景勝は謙信とおなじ長剣、利家は柄が革巻き、
輝元は異風をなせる飾り、江戸大納言(家康)は一剣を
頼む心なく普通の作りと話したとの由。
3.武勇にすぐれるが治政に弱い
豪姫の関係で前田家より来た重臣と、地元の重臣の不和
を抑えられず、双方に対する秀吉の取りなしでなんとか
もっていました。(秀吉の人使いの巧みさ)
秀吉の死後不和が爆発し、仲介を榊原康政に頼むと
引き受けてくれたそうで、他人に好かれる性格がわかります。
家康は敵方ともいえる宇喜多家の手助けなどとんでもない
と眉をしかめたが、康政は聞かなかったとの由。
仲介は不成功で、喧嘩別れで重臣の一派は宇喜多家を
離れたが、のちに八丈に流刑になったとき、この争いの
旧臣から米の援助を受けた。
4.武勇の関ヶ原
関ヶ原の時家康の着陣を見て、「敵陣があからさまに見える
いざ夜討ちをしよう」といったが石田三成にとめられ、のちのち
まで悔やんでいた。
関ヶ原の戦に大軍が集結したというが、実際の戦闘はその
一部の兵が行ったに過ぎないという話です。
大軍が戦うような広い場所がない。
西軍では宇喜多、石田、大谷位で、東軍も一部で家康の
直衛軍は後方でした。
宇喜多軍は勇猛で東軍は押されていました。
裏切り中納言が出なければ、勝敗がどうなったか。
西軍の敗走が始まっても、秀家は動かず、只一騎にても
敵陣に突撃するといい、家臣が取り囲み無理やり退却させ
たといいます。

先賢の前答と重複もありますが何か参考になれば幸いです。
    「常山紀談」などより。
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この回答へのお礼

若年ながら家康に挑む勇猛な人物ですね。葵徳川三代ではよく見ると香川照之さんが演じておりました。有り難うございました

お礼日時:2011/08/08 14:25

お尋ねの趣旨には合わないかもしれませんが、宇喜多秀家が活躍する時代小説を紹介します。


風野真知雄『幻の城』
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4396334966.h …
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この回答へのお礼

彼がメインの歴史小説があるんですねぇ!?主役はれる魅力がある人物なのかもしれません。有り難うございました。

お礼日時:2011/08/07 08:57

>エピソードご存知の方教えて下さい。



宇喜多秀家については、他の回答とかHP検索で多くがヒットします。
そこで、宇喜多秀家の子孫について・・・。
宇喜多秀家は、ご存知の様に八丈島に死を免じられて島流しにあいましたよね。
が、島では「優雅な暮らし」を行なっています。
多くの子孫に恵まれています。
幕府が倒れて明治政府になると、罪を許されて東京に帰還。
本家筋は「浮田」から「宇喜多」に氏名を変え、分家筋は今まで通り「浮田」を名乗ります。
関が原の戦いから明治維新まで、八丈島で家名を保っていたのですねぇ。
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この回答へのお礼

よく見ると宇喜多いい名前ですね。喜びが多い。エピソード有り難うございました。

お礼日時:2011/08/07 08:38

1.戦国最大の梟雄宇喜多直家の遺児。


直家、祖父能家が攻められて自害したとき6歳だった直家は浦上宗景の牛飼という軽輩からありとあらゆる手段で宇喜多家を再興。宗景の命で諸城を次々と攻略し実力を蓄え、義父の中山信正と祖父の仇、島村盛実が毛利に通じていると知ると中山信正を酒席に招いてその場で刺し殺し、宗景に『まだ謀反人がいるので盛実殿の助けを借りたい』使者を送り、主君の命でやってきた盛実を討ち果たした。美作に侵入してきた備中松山城主、三村元親を興善寺で遠藤又次郎、喜三郎兄弟に短筒の火縄銃で暗殺。明禅寺合戦で父の復讐に燃える三村家親の大軍2万を5千の兵で破る。1573年には独立。宗景の弟、金光宗高に謀反の罪を着せ滅ぼし、妹婿の龍ノ口城主の撮所元常を暗殺。ついには毛利の支援を受け信長と結んだ主君、浦上宗景を追放。しかし、1579年には毛利と手を切り織田信長と手を結ぶ。その際、中国方面軍司令官の羽柴秀吉と誼を通じ、秀家を秀吉の養子とまでする。1581年死去。

2.豊臣のプリンス
秀吉旗下の武将として戦功を重ねる。
天正13年(1585年)の四国攻めでは讃岐へ上陸し後に阿波戦線に参加。
天正14年(1586年)の九州の役にも日向戦線に参加。
天正18年(1590年)の小田原の役にも参加。
文禄元年(1592年)からの文禄の役には大将として出陣し、李氏朝鮮の都漢城に入って京畿道の平定に当たる。
文禄2年(1593年)1月李如松率いる明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共にこれを打ち破り、6月には晋州城攻略を果たすなどの武功を挙げた。
これらの功により、文禄3年(1594年)に参議から従三位中納言に昇叙した。
慶長2年(1597年)からの慶長の役では毛利秀元と共に監軍として渡海し、左軍を率いて南原城攻略を果たし、さらに進んで全羅道、忠清道を席捲すると、南岸に戻って順天倭城の築城にあたるなど活躍する。
慶長3年(1598年)、日本に帰国し、秀吉から五大老の一人に任じられた。そして8月、秀吉は死去した。

彼の妻は美貌で名高い秀吉の養女(前田利家の娘)豪姫。秀吉は彼女を溺愛しており、この婚姻は破格の待遇であった。また岡山城の大改修も許されており、秀家がいかに秀吉のお気に入りであったか判る、それは秀家が豊臣一門の中で群を抜いて優れた武将であったからである。

3.若旦那気質
若旦那然と育ったので、政治感覚に欠けていた、また貴族趣味があり、その遊興費が財政を圧迫。直家時代の重臣、岡利勝・長船貞親・戸川秀安在世時はよく治まっていたが、太閤の覚えめでたい長船綱直と豪姫付きの中村半兵衛の専横に家臣団に亀裂が走る。戸川達安・岡家利・花房正成・宇喜多詮家(坂崎直盛)ら宇喜多家を伸張させた重臣・一族が宇喜多家を去った。関が原敗因の一つである。

4.関ヶ原合戦
秀吉没後、後を追うように豊臣秀頼の後見役だった前田利家が慶長4年(1599年)に死去すると、豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化した。これに乗じた五大老の徳川家康が、豊臣家における影響力を強めることとなる。そして清正ら武闘派7将による石田三成襲撃事件が勃発した際には、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出した。

慶長5年(1600年)、家康が上杉景勝討伐のため出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ、打倒家康のために挙兵した。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。伏見城攻撃では総大将として参加し、関ヶ原の戦いにおいても主力(家康本隊を除けば、第2位の兵力である1万7,000人。西軍の中では最大)として積極的に戦い、東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。

小早川隊の裏切りに激怒した秀家は、「松尾山(小早川の陣)に乗り込み金吾(秀秋)を叩き斬ってやる」と叫んだと言われるが家臣の明石全登に制止され、やむなく落ち延びていった。

関が原戦後、豊臣家との関係が似ている金吾中納言小早川秀秋が、寝返りの功により、西軍でもっとも奮戦した秀家の旧領に収まるのは皮肉。

5.坊ちゃん気質で正義感
坊ちゃん気質で正義感が強い。主君としては困った男だが、大名連にはたいそう受けがよく。島津は2年間もかくまってくれ、東軍についた秀吉恩顧の大名連も助命嘆願があいつだため、罪一等を減じられて八丈島に流された。

6.人物
・関ヶ原を戦った大名の中では、最も遅くに没した人物である。
・容姿端麗で身長170cm[7]という美丈夫であった。
・秀吉は明を征服後、秀家を日本か朝鮮の関白にしようとしていた。同時に、明の関白は豊臣秀次、九州には豊臣秀勝をと述べている。[8]
・朝鮮出兵で悪化した財政を再建するために領民に重税を布こうとして重臣の反発を招き、御家騒動に繋がったとされている。
・板橋区立美術館には、古くから秀家が描いたと伝えられる「鷹図」が所蔵されている。秀家が絵を良くしたという史料は残っていないが、朝鮮出兵時に現地の絵を見ながら描いたともいわれる。
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この回答へのお礼

華々しい実績や豊臣での地位と比べるとプライベートが少し疎かになってしまったのでしょうか。私の印象は羽振りが良くて外面もよい。お坊ちゃんですね。しかしあまり悪気を感じない、憎めない印象受けました。天然!?大名たちにうけが良い好青年でしょうか。有り難うございました

お礼日時:2011/08/05 22:21

宇喜多秀家の関ヶ原合戦後の流人物語(ウィキペディア)



関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃れた後、変装して薩摩国の島津義弘などを頼って落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われた。このとき、秀家が琉球を支配しようとしたという伝説が残っている。しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。なお、身柄引き渡しの際に一緒についてきた家臣2名を島津家に仕官させるが、このうちの一人は後に本郷伊予と改名し、薩摩の日置流弓術師範の祖、東郷重尚の最初の弓術の師匠となる。

島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の懇願により罪一等を減じられて死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉される[3]。慶長11年(1606年)、同地での公式史上初の流人として伊豆諸島・八丈島へ配流となった。

八丈島では苗字を浮田と改め、号を久福と改め、妻の実家である加賀前田氏・宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて[4](初期には秘密裏に、晩年は公に隔年70俵の援助を得ることが幕府より許された)50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたという説がある。それでもやはり八丈島での生活は不自由であったらしく、「偶然嵐のため八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらった話」[5]や「八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話」(飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして妻子への土産にした説もあり[6])などの逸話が伝わっている。

明暦元年(1655年)11月20日、死去。享年83。このとき既に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世であった。

家康の死後、恩赦により刑が解かれたが秀家は八丈島に留まったという説もある。こうして大名としての宇喜多家は滅亡したが、秀家と共に流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝えた。

明治以後、宇喜多一族は東京に移住したが、数年後に八丈島に戻った子孫の家系が現在も墓を守り続けている。秀家が釣りをしていたと伝わる八丈島・大賀郷の南原海岸には、西(=備前国)を臨む秀家と豪姫の石像が建てられている。

法名:尊光院殿秀月久福大居士。
正室・豪姫は「樹正院殿命室寿晃大禅定尼」。
墓所:東京都八丈町大賀郷の稲場墓地、東京都板橋区板橋の丹船山薬王樹院東光寺。
墓所:石川県金沢市野町の宝池山功徳院大蓮寺。
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この回答へのお礼

島流しにされてからの人生の方がかなり長いですね。恵まれた環境からのギャップが大きいですね。有り難うございました!

お礼日時:2011/08/05 22:06

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