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伊勢の神宮鎮座の由来についていろいろ知りたいので、どなた様か詳しく教えてください!!
回答お待ちしております。

A 回答 (2件)

こんにちは。



伊勢神宮には天照大神に関わった豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)、または、倭姫命(やまとひめのみこと)は初代の斎宮(さいぐう=斎王・さいおう)とされたいる。

「日本書紀」にはさらに第12代景行天皇の20年に五百野皇女(いおののひめみこ)を遣わして天照大神を祀らせたとあり、しばらくは斎宮に関する記事はないが、第21代雄略天皇の元年にある稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)は、
「伊勢大神の祠(やしろ)に侍り」
という記述があることから、確実性のある記録かと思われる。

やがて制度化された斎宮とは伊勢神宮にて奉仕する未婚の内親王、または、女王のことで、基本的に新天皇の即位に伴い占いによって決定された。

斎宮という名称の本来は斎王の住む宮のことであるが斎王その人のことをも指す。斎宮に定められた者は宮中内の初斎院(しょさいいん)に入り、次に宮中外の潔斎(けっさい)を一年続け、そして伊勢に向かい多気郡(たけぐん)の斎王宮に入る。

第96代後醍醐天皇のときの祥子(しょうし)内親王を最後に途絶し、詳細不明を含めて歴代76人の斎宮が立った。

慣例化される最初の斎宮は、第40代天武天皇の皇女の大来皇女(おおくのひめみこ)であったと言われている。
天武天皇紀の2年には、
「大来皇女を天照大神宮に遣侍さしむとして、泊瀬宮(はつせのいつきのみや)に居(はべ)らしむ。是は先づ身を潔めて、稍(やや)に神に近づく所なり」
とあり、この天武天皇または次の持統天皇の時代に伊勢神宮に関する制度が定まり始めた。
第31代用命天皇のときの酢香手姫(すかてひめ)内親王以来、およそ90年ぶりに天武天皇が斎宮を派遣したことの直接的な理由は、壬申の乱に勝利したことにあると思われる。
天武天皇紀元年6月、天皇は「朝明郡(あさけぐん)の迹太川(とおかわ)の辺」にて天照大神を遙拝(ようはい)したとある。
迹太川は現在の朝明川で、伊勢湾をはさんで真南に伊勢神宮が位置している。

また、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は「万葉集」に収められた高市皇子(たけちのみこ)への挽歌の中で、「渡会(わたらい)の斎の宮」(伊勢神宮)からの神風が戦勝をもたらしたことわ詠んでいる。

20年に1度の式年遷宮(しきねんせんぐう)については、持統天皇の2年(690)に内宮、6年に外宮(げぐう)に初めて行われたという。そして、この制度についても、「二所大神宮例文」によれば天武天皇の「御宿願」によったものとされている。
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この回答へのお礼

成る程!
回答ありがとうございました!!^-^

お礼日時:2011/09/02 00:52

第十代崇神天皇の御時、国内に疫病の流行などがあったため、御神威を哀れて御鏡を皇居外の神聖な地に遷してお祀りする事になり、天皇は豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に命じて御鏡を皇居から大和の笹縫邑へ遷されました。

更に第十一代の天皇の任務を引き継がれた倭姫命(セトトヒメノミコト)は、より良い祭祀の地を求めて諸国を巡歴し伊勢に至った時、天照大御神から「神風の伊勢の国は常世の浪の重浪よする国なり、傍国のうまし国なり。この国に居らむと思う」という御神託が下った事により伊勢の五十鈴川の川上に神殿を造営して御鏡をお祀りしました。これが由来です。
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この回答へのお礼

成る程!
回答ありがとうございました!!^-^

お礼日時:2011/09/02 00:52

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