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木曽義仲について、生い立ちや挙兵前は何をしていたかなど詳しく教えてください。

また、彼についての参考図書があれば教えて頂けると嬉しいです。

A 回答 (3件)

源義仲(久寿元年(1154年)~寿永3年1月20日(1184年3月4日) 享年31)



生い立ち

河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。母は遊女。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県嵐山町)とする伝承もあるが、義賢が居住していた上野国多胡郡(現在の群馬県多野郡)の可能性もある。
 <<源義賢>>保延5年(1139年)、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)と呼ばれた。長兄の義朝が無官のまま東国(関東)に下った後、重要な官職に補任されており、この時点では河内源氏の嫡流を継承すべき立場にあったと考えられる。


『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父義賢は伯父源義朝との対立により大蔵合戦で源義平に討たれ、当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳母父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄の源仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。

諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。


挙兵前

治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。八条院蔵人となっていた兄仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死している。同年9月7日、義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう。2ヵ月後に信濃国に戻り、佐久郡依田城にて挙兵する。上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは藤姓足利氏と衝突することを避けるためと言われている。


木曽義仲関連出版物一覧
http://www.rr.iij4u.or.jp/~komao/syuppan.html
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はじめまして



私は木曾義仲こそ中央から平氏を駆逐した真の功労者であり
頼朝や後白河法皇に翻弄され噛ませ犬にされた哀れな犠牲者と思っています

義仲は源義賢の子で武蔵国大蔵館で生まれました
幼名は駒王丸、宮菊という妹もいました
しかし義仲が三歳の時、父義賢の兄義朝の子で悪源太こと義平に大蔵館を奇襲され父義賢は討ち死
父が討ち死した後、乳母の夫であった中原兼遠が幼い義仲を抱いて信濃国木曾へ落ちのび義仲をそこで養育します
この中原兼遠の息子たち、後の今井兼平、樋口兼光、落合兼行と娘、後の巴御前らと兄弟同然に育てられ武芸に勤しみ
彼等は義仲挙兵時に絶つことの出来ぬ固いきづなで結ばれた力強い側近武将となるのです

書籍では
『木曾義仲のすべて』鈴木彰、樋口州男、松井吉昭編 新人物往来社

サイトでは
www.amy.hi-ho.ne.jp/gehen/japanese/start.htm
が良いと思います


長文失礼致しました
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木曽義仲は、木曽谷(現在の木曽町日義)で育ったという説と、松本平(現在の松本市や塩尻市辺り)で育ったという二つの説があります。



参考URL:http://kiso-yoshinaka.com/
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