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今日、教材の中で「(夏草や)兵どもが夢のあと」という文が載せてあります。これは私の母国語から訳されている文かもしれません。私はどうしてもこの日本語の表現が覚えられません。日本人である皆さんは、この「(夏草や)兵どもが夢のあと」という文は理解できますか。もし理解できなかったら、私はこの文の暗誦を諦めることにします。。。

A 回答 (17件中1~10件)

これがを知らなくて、出てきていきなり判るかといわれればらわかりません。

が、知っているので判るという感じです。
俳句なので、表現方法とか、意味とかは、説明されないとわかりません。
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この回答へのお礼

早速ご回答して頂いて、ありがとうございました。

お礼日時:2003/11/06 02:21

訂正



これがを知らなくて→これを知らなくて
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言うまでもなく、杜甫「春望」の


「国破山河在、城春草木深」が土台としてあります。

この回答への補足

BIGMACさんは中国語も出来る方だと思います。教科書の中の中国語は「今朝夏草从生,昔日干城何在」です。でも、これはBIGMACさんの書いた杜甫の春望のあの文の雰囲気にもピたりような気がします。

補足日時:2003/11/06 02:11
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この俳句が詠まれた背景を知らないと、意味を理解することは難しいと思います。


この俳句は、俳人・芭蕉が平泉という古戦場を訪れた際に詠んだものです。「昔は栄えていた地方だが、今は雑草が生えている。戦った者たちの夢のあとだ」と。むなしさのようなものを感じたのかもしれません。

この回答への補足

これは松尾芭蕉さんの俳句でしょうか。恥ずかしいことに、日本の俳人のなかで、松尾芭蕉さんしか知らないです。この俳句が詠まれた背景を丁寧に教えていただいて、どうもありがとうございました。大変いい勉強になりました。

そういえば、「夏草」というのは「雑草」の意味でしょうね。私はこの俳句について、もうちょっとお聞きしたいんですが。この俳句の意味は「雑草と勇敢な兵士はみんなただの美しい思い出だっただけ」でしょうか。ちょっと理解できません。「勇敢な兵士はみんなただの美しい思い出だった」と理解したら大丈夫だと思いますが、「夏草(つまり雑草)なんかも美しい思い出だったと理解したらちょっと理解できません。「夢のあと」というのは普通プラスのことを言うべきですね。もう一度教えていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

補足日時:2003/11/06 02:09
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外国人の方ですか?これは、大抵の日本人が知っている


有名な俳句です。ですから、外国語からの翻訳ではありません。
分かりにくいと思われるとしたら、それは多分助詞「が」の
使い方のせいでしょう。
現代語ではこんな言い方はしません。古文特有の言い方で、
現代語に直せば「兵どもの夢のあと」とほぼ同じです。
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この回答へのお礼

わざわざもう一つの言い方を書き換えていただいて、ありがとうございました

お礼日時:2003/11/06 01:51

ほかの方々が書いているとおり,有名な俳句なので,たいていの日本人は(この文を)よく知っています。


蛇足ですが,

「兵どもが…」は「つわものどもが…」と読みます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
「つわもの」という読み方は教材の中にちゃんと書いてあります。とても覚えにくく感じがします。。。

お礼日時:2003/11/06 01:47

芭蕉のこの俳句が、現代の日本人に受けているのは、8月15日が終戦記念日である事と関係します。



杜甫「春望」も同様に、徒労に終わった戦争を、一瞬のうちに回帰している心情が、当時1945年の日本人の心に響いたわけです。

なお、「夢」が、将来の夢・・・私はこうなりたい!というような、ポジティブなイメージを持ったのは、明治以降、西洋文化を吸収してからです。

本来の日本人にとっての「夢」は、魔物の一種です。

ですから、江戸時代の芭蕉にとっては、この歌は、かなりおどろおどろしい物となっています。

夏草という、精気の満ちるものの中に、昔の戦争で死んだ霊気が垣間見える・・・といったものになっています。

参考URL:http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/okun …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
それに、素敵なURLを提供して頂いて、ありがとうございました。「当時に、松尾芭蕉さんの目で見た景色、正しく言えば、彼の感じだ世界はこういうような雰囲気なんだ」も少し分かるようになりました。本当にいい参考になりました。

お礼日時:2003/11/06 19:16

fine_dayさんのおっしゃったように俳人・芭蕉が平泉という古戦場を訪れた際に詠んだ時に。




今自分の立ってる「ここ」はかつて、壮絶な争いがあった場所だ
、、そして、今ここに、雑草が生えている、
今は雑草だらけになっているこのただのなんてことない場所にみえる「ここ」は
そういう事が確かにあったはずなのに、
今は「何も無かったかのような、」場所にすぎなく見える。
しかし、、、確かにあったのだろう、
時の流れとは、、
芭蕉や利久は禅宗をやっています。
「一期一会」という事を両名ともいつも頭にいれているはず。
「一期一会」とは、せっかく今回会ったのだから、その機会を大事にして、よろしく、、、なんて意味に使われがちだが、全く違う。

(1)「今ここに、この瞬間自分と出会っているこのまわりの総てのもの(つまり、この場合はこの雑草の場所)
は、それぞれさかのぼれば、いろいろな事があって、今ここに、自分と出会っている。」
すべてのモノは自分も含めありとあらゆるものは
「縁」によって、今ここに出会っている。

(2)そして、また仏教では「諸行無常」も根本思想です。
つまり、あらゆるものは変化し、同じ姿をとどめる事はない(出来ない)

(1)と(2)を心に置いて
雑草の生えるこの場所に立った作者は
かつてここに二大勢力を争った激戦などなかったかのように、「何事もなかったかのような」この地を見て永い時の流れと、そしてうつろゆくこの「自然」の
わびしさ(わびしさとは、そういう事)を感じ
どうしようもない自然の「時間」と人間のはかなさと
「そこまでやった事(激戦)も、、今やなにもなかったかのようにすらなってしまう、「人間の存在感」
、、あらゆるものすべては、時間が過ぎれば、このように「何もなかったかのようになってしまう」
それなのに、人はいつも争い、欲望を膨らませ、必死に他者と比べ生き急ぐ。
それがいったい何になるのだ、何になったというのだ。
、、という意味でしょう。

日本人がかつて第二次世界大戦でやってしまった過ちも、今まさにある「欲望のかたまり」の「損得」だけで気が狂わんばかりになってしまったこの国のいじましさも、またアメリカの気狂いじみた独裁行動も、
ヨーロッパの右往左往も、アジアの必死の経済のあがき、世界中の宗教、経済にがんじがらめになっている事も、学校や会社、家庭、国、で、「見栄、」「権力」「地位」「欲望」などに、ぐちゃぐちゃになって
自分を見失いそうな時代です。
しかしこれもまた、「たかが人間の考える事、やる事、欲望」に過ぎず、時間が過ぎてしまえば、、、
たとえば1000年もすれば、
もはや、「今この時」など歴史の授業の暗記する事柄にも入らないささいな事にすぎず」また、いつか
太陽の核融合が尽きた時、この地球もろとも消え去り、この広大な宇宙に地球が存在していた事すらだれも知らなくなっている、(人類がいないのだから)ような時がくれば、あらゆる事は「無かったも同然」かのような事になる。
なのに、人間は、なぜこうも自分の我欲に必死にとらわれるのか、、、。
この雑草は、そんな事何も知らないまま、
あるがままに自然にただ生えているというのに、、、。

って、、まあ、今芭蕉に説明させれば、このようになるかと(^.^;)
長々と御静聴ありがとうございました(笑)

この回答への補足

marinfishさんの素晴らしいご返事を拝読しました。大変いい勉強になりました。日本語を勉強するとともに、日本の文化とか、歴史とかも勉強しなければなりません。今自分の勉強不足と痛感しました。

失礼しますが、私の日本語はまだ下手なので、marinfishさんのご返事の中で、ちょっと分からない文があります。

芭蕉や利久は禅宗をやっています。
「一期一会」という事を両名ともいつも頭にいれているはず。
「一期一会」とは、せっかく今回会ったのだから、その機会を大事にして、よろしく、、、なんて意味に使われがちだが、全く違う。

「一期一会」という言葉は私にとっては、初耳でした。gooの国語辞典辞書を調べてから、意味がわかりました。marinfishさんのお書きになった「全く違う」のは「一期一会」の普通の意味と全然違う意味でしょうか。この普通の意味と「全く違う」ことはどういうことでしょうか。また、「芭蕉や利久は禅宗をやっています。」とどんな関係でしょうか。ちょっと困っています。もう一度教えていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

補足日時:2003/11/06 20:10
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#5さんも書いていますが、「兵どもが」の「が」は、


現代語の「の」と同じ意味です。
現代の話し言葉で、この用法を使うことはほとんどありません。
しかし、短歌・俳句でよく使われるので、理解はできます。

それにつけたすと、
「夏草や」の「や」は、単語を並べるときの「や」(←例:「赤や白や黄色」)とは違います。
これは短歌・俳句特有の「切れ字」という技法で、
ここで文章は一旦終了します。
意味としては「…である」「…がある」となります。
さらに、詠嘆の気分を表します。
また、俳句の途中の場合、
切れ字の前後が「なんとなく関係がある」という雰囲気を表現します。

「夏草や 兵どもが夢のあと」
を、現代の用法に直すと、
「夏草がある。兵どもの夢のあとだなあ」
という意味になります。

切れ字には他にも「かな」や「けり」などがあります。
いずれも意味としては終止形であり、同時に詠嘆を表します。

「名月を取ってくれろと泣く子かな」(小林一茶)
「やさしくもあやめさきけり木曾の山」(正岡子規)
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この回答へのお礼

文法上に丁寧にご説明して頂いて、ありがとうございました。とても助かりました。短歌・俳句特有の「切れ字」という技法ですね。この文の中の「や」をやっと分かってきました。

お礼日時:2003/11/06 20:19

古典に詳しいわけではありませんが、ご質問や皆さんのご回答を興味深く読ませて頂いているうち、ご質問者さんが、#5さんのおっしゃるように、「兵どもが」の「が」の意味と、「夏草や」の「や」の意味をかん違いしていらっしゃったためにそもそも理解が難しくなっていたのではないか、と。



「夏草や」の「や」は、「~と」「~とか」の(英語のandのような)並列の意味ではなくて、よく俳句などで「詠嘆」「感嘆」の気持ちを表すためにつける助詞ですね。

つまりこの句は、「夏草や兵ども」とつながっているのではなくて、「夏草や」のところで意味的にいったん切れています。(こういうふうに、俳句などの中で、意味をいったん区切る役割をするこの「や」のような言葉を「切れ字」と呼んだように思います。)

芭蕉が、古戦場に草が生い茂っているのを目の当たりにした瞬間、様々な思い(杜甫の詩も含めて、下の方々が書いていらっしゃるような、歴史的、宗教的な背景なども踏まえたあらゆる感情)がわき上がって来たのを、その「夏草や」の一言がみごとに表している、と日本人なら取るでしょう。

しかしそれは、この「や」が、詠嘆や感動を表す時の表現であるとか、「が」が主語を表すのではなくて現代語では「兵士たちの~」という意味である、などといった、中学高校で習う日本古典文法、および歴史などに関しての知識があってできるようになることです。
(うちの小学生の子供にこの意味を聞いたら、たぶん「??」でしょう(^_^;))

なんだかんだ言いながらも自分はいちおう「日本人としての常識」みたいなのを教育されて来てるんだなー、とご質問によって改めて考えました。その私も外国語に関しては日々精進の身です。お互い頑張りましょう(^^)
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この回答へのお礼

文法上に丁寧にご説明して頂いて、ありがとうございました。「や」も「が」もやっと分かりました。

幼いときから、語学の勉強が好きです。なぜかというと、外国語を身につけたら、いろんな国の人と交流できるからです。その交流から、それぞれの国の文化、風土人情などを知ることができます。それに興味を持っています。

これから、一生に頑張りましょう。
p(^-^)q

お礼日時:2003/11/06 20:40

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