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無の境地を求める仏教徒がいるとゆー。
悟りを開き無の境地に至るためだとゆー。
なぜ彼は無を求めるのか。
人は死ねば無になるではないか。
無を求めずともそのうち自然に無になるではないか。
なぜ今無を求める必要があろー。

無を求める者が飯を食うのは何故か。
飯は無なのか、有なのか。
飯を食うのは生きるためではないのか。
すると生きることは無を求めることなのか。
果たして無を求める者はその答えを備えているのか。

もし無を求めるのであれば何も要らないのではないか。
無を求めるものがお経など唱えてどーするのか。


 

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A 回答 (7件)

無とは、思考を止めて、自分の魂とひとつになることです。



自分の魂とひとつになると、いろんなことがわかります。

それを、今度は思考をつかって、体験できるように自分の人生において具現化していくのです。

無の境地は、難しく、限られた高尚な人間しか体験できないというものではありません。

一日15分くらいの瞑想などの習慣をもてば、誰でも簡単にできるものですよ。
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およそ生ずる性質のものは、すべて滅する性質のものである。



諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽

無も空もへったくれもない。

色即是空 空即是色

これは厄除けのオマジナイ。意味のあるはずもなし。

食事は托鉢でしょ。
「この世をも、かの世をも、望まない。」
死に急ぐこともないのだから。
いただいた分だけ食べる。なければそれまで。
やがて静かに死をむかえる。

基本的に人の道は正しい。
アルケーを語らなければ。
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武道やスポーツでは その修行やトレーニングの中 また、実践や試合の中で、 最後は武道なら活人剣、スポーツなら最高に力を引き出しあうライバル関係の中で、  



無心な境地を常に 求め続け 磨いてゆくことが必要とされてきたと思います。

この場合の無心な気持というのは、過去(一瞬前も含め)の失敗や、人の評価(罵倒など)にいっさいとらわれずに 目の前のやるべきことに無我夢中になれる精神、 といった意味合いです。

そして 実は この精神を 実際の生活の中で、さらに生かし、磨いてゆけないかとう気持が 古今東西いろいろな人の心の中に 求道心としてはあったと 私は思います。

しかし、実人生は、時としてあまりにも過酷 一方では真逆にスポーツのように常に上をめざしていなくてもいい気楽さがあったりもする中、 長い長い長丁場でのその求道の魂(たましい)は 薄らいだか曲がっていくことが多かったことも想像されたりします。


その中で 私が、疑問に思うのは 私が無知であるからかもしれませんが、 仏教などでいう「無」とか「空」とかいう言葉です。

私の想像の中での その言葉の由来は こんな感じのものとなっています。

あくまで 私のかってな想像の中でのことですので 一解釈ですらないことを断っておきます。


抽象的言葉というのは、たしかに時にはほんとうに力強いです。  実際にも勇気付けられたり また方向性が具体的にも見えてくる大きなヒントになったりもします。

しかし、抽象的言葉は、 ちょうど雲の上の飛行機から見た世界を描写したり表現したりした言葉と例えることができます。

小さな具体的 身近な問題群すら 視野が狭い世界で模索していては何も解決しない時があります。

まして 巨視的問題群が 狭い視野で解決するわけがありません。

そこを 雲の上から  大きな視野からということですが もしくっきりと全体を見渡せるなら、 その問題の様相も その問題を解く方向性も かなりしっかりと 検討し、端的に 道を示す言葉を 人に語れたりするでしょう。

 その端的さが 抽象的言葉の力強さを物語るところかと思います。

しかし、 真逆に  雲の上からでは 視界がくっきりとしていない時もあるわけです。

文字どおり 雲が覆っていたら 何も見えないか 雲しかみえなかったりするわけです。

あるいは なんとか見渡せるのだけれど、 視界ははっきりしない上に 霧がかかってきたりするかもしれません。

ここは まあ これ以上説明は いらないでしょう。

でありつつ  宗教は 歴史において、ちょうど道徳や規律のための権威を必要とした時代に生まれてしまったいきさつがあるかと思います。

宗祖の多くは 権威とか権力など関係なく、あるいはそんなこと考える暇もなく、それこそ無心に真実を語り続けただけだったのでしょうし、 それこそ無心さや 自然な真心を 道徳や規律以上に大切にした賢者たちは多かったはずです。

しかし かの阿頼耶識論ですら、 途中で 時代の流れの中でいろいろ改ざんされ、 大筋は変わらなくても、 7識あたりから 新興宗教みたいな^^宇宙エネルギーとか スピリチュアルな世界とかが混ざっていってます。

権威化の大きな波が そこにはあり したがって、 そこには 

抽象的言葉群で、 多くの人が何を言っているか解らないことを活用して 宗教的権威を高めた歴史は 仏教に限らす、これも古今東西 存在している あるいは宗教の中に紛れ込んでいるのではとおもうのです。

「無」 とか「空」」  私にも 全く解らない言葉ですので、 つい これこそ その抽象的ごまかし言葉なのではと思えてしまうということです。


つまり なにも、 生活に役立つ 大きな展望も 見通しも 語っていないのに、、 雲しか見えないのに その雲が むしろ 広大に覆っているところを 描写してみせて  「灰色 おお灰色、 なんという広大な世界か!」と  そんな言葉にすぎないものを 権威化しているように思えてしまうということです。

よく はるか広大な世界から見れば 私たちの生活はなんてちっぽけなことか、 くよくよするな という意味合いで「空」とか「無」とかを 無理やり意味づけすることがあり それはよく見かけたことがあるのですが、

はるかに 権威ある言葉として あいかわらず使われていたりします。

それに たしかに くよくよしないことは大切ですけど、  そんなことを言う人たちには  あなたは本当の病苦を じっくり知ったことがあるのですか? あなたは本当に 寒さの地獄の世界を 一瞬の冷蔵庫の中でとかではなく 味わったことがあるのですか? といったことが言いたくなります。


そんな中でも 明るく働いていたり 死に物狂いで闘っている人はいますが、  上記観念など 極限状態の中では 糞の役にもたちません。

これは あくまで 私自身の 想像の中の「空」や「無」の世界です。

でも、  私のような庶民に解るように説明した説明が無いのでは、 これ多くの人にとって もし本当に深いものであっても やはり何の役にも立たないところ、  なぜ、そんなすぐれた人たちが、こんな長い歴史をくぐっても それをわかりやすく説明できなかったのでしょう?

ニルバーナ(涅槃)は確かに深いと思います。  また そのように捕らえただ謙虚に受け止めることが出きる言葉です。  

しかし それは理屈で説明されてはいない世界です。

あの わざわざ膨大な心理描写(メチャクチャな分類ですが)を基盤にしての 阿頼耶識論でも 最後の仏界は そのニルバーナそのものです。

言葉でそれ以上語ろうとはしていません。 が 中味は確実に存在し、かつまさに最高の人間の境地の可能性の世界です。 はっきりとそのように信頼することが私には出来ます。

しかし、「無」とか「空」という言葉には 中味が私には感じられないのです。

まるで =ただの雲、 あるいは広大な霧、あるいは広大なゴミ あるいは広大なばい菌、 でも同じに

その広さから言えば 私たちの苦しみとか悲しみなんて 一瞬にすぎないと語ってられる  そんな言葉にどうしても思えてしまうわけです。

すみません、 私の視点,とその視点からの視野がおかしいのかもしれません。


》無を求める心は何処からやってくるのか《

もしこの、もしかしたら 極端に狭い視点視野から見た「無」という言葉が 実際に正しいのであれば、
それは 権威に過ぎない世界に盲目的になってしまうような 非理性的信仰が  この長い歴史の中でまかり通ってきてしまったからかと思えます。

が、 最初触れました《「無心」という意味合いも使われる「無の境地」を求める心がどこからやってくるのか》という意味合いであるのならば、

真逆に これほど せつせつとして真剣な 生活のハザマから生まれた「言葉」はなかなか無いと思える生きた言葉であり、

それは 民衆の 幸せへの祈り 熱いその魂(たましい)からやってきた言葉であり 熱き本物の人間的求道心の世界だと私は思います。

ただし、 私は「悟り」ってなんだか解りません。

どんな失敗(大きな失敗)にても 明るくたくましく ではどうしてゆこうかと次の手だけを工夫し続けることができるような、 動中静の静かな呼吸を得ることで その「無の境地」を 役立てることはできても、 
それが何で 「悟り」なのかは解りませんし その向こうになんで「悟り」が訪れるのかも解りません?

ですので、

もしかしたら、 まったくトンチンカンな回答をしてしまったのかもしれませんね。

でしたら 無視してください。  私は私で 私の視点からの回答は書いてみましたので。
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色即是空 空即是色 



これを理解しなくちゃいけないのだよ。

無は空の一部でしょ。

この回答への補足

 
>無は空の一部でしょ。

つまり、 無 ⊆ 空 ゆーことか、

しかし、 無 ⊇ 空 かもしれん、

この辺り、坊主はちゃんと理解しておるんかな。
 

補足日時:2011/09/08 10:27
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この回答へのお礼

 
色即是空 空即是色、

早い話がパナカラーじゃ、

あ~、昔こーゆーのやっとったなー

色即是空 空即是色とは、つまり色を追い求めること、
早い話がノーパン喫茶の世界ゆーことになるなー、
肉食世帯の坊主がこれに憧れるのも無理はないなー、

あ~、ノーパン喫茶
あ~、
 

お礼日時:2011/09/08 10:07

空しいと言えば


それは虚しいだろうと言い

心はそら
自然を反映してるだろう
自然は宇宙を反映し

自然は真空が嫌い
あるけー


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この回答へのお礼

 
     アルケーを思ふ詩

アルケーは近きにありて、遠きにあるもの
そして永遠なるもの、深遠なるもの
よしや
たとえ全知全能なるアルケーであろーとも
決して願い祈ってはならぬもの
ひとり海辺の星空に
アルケー夢見て思い描くもの
その心もて
アルケーと共に歩みたし
アルケーと共に生きたし
あ~、アルケー
あ~、

お礼日時:2011/09/08 08:16

仏教徒が無を求めておるんかい? なんか違うと思うな。



仏教徒は空の存在を理解し、一切皆苦を自覚するうことで、心の平安を得ようとしておるのじゃろうが。
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この回答へのお礼

 
無であると言えば空であると言い、空であると言えば無であると言う・・・

無を求めるのではなく空を求めると言い、いや空を求めるのではなく無を求めるとゆー・・・

恐らくは何を申しておるのか、ゆーておる本人とて判らんのであろーと察するが、・・・

空は、空しいと読むが、

こんなんで心の平安が得られたら、メデタシメデタシや、

あ~、哀れ仏教、
あ~、
 

お礼日時:2011/09/08 00:33

やることがないからであろう


人間やることがないと、ろくなことを考えん
まさにこのことと思う
有りもしない無を永遠に求めるのが宗教である
いつまでもやってろ
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この回答へのお礼

>人間やることがないと、ろくなことを考えん
まさにこのことと思う

無を求めるゆーこの仏教、2千年続いたのであるが、
無が何か語れる者は未だ一人もおりません。

あ~、哀れ仏教、
あ~、
 

  

 

お礼日時:2011/09/08 00:42

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