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私は「自我」という言葉をこのように解釈しています。 

自分ひとりで考えてきてしまったもので  別に矛盾とかは いろいろな体験からも無いと思えるのですが 皆様のご意見をお聞かせいただければと思いました。

視点が違えば こうした考えは それによってさらに豊かになるという期待もあります。

よろしくお願いします。

↓↓↓

私の人生(現在63歳ですが)からは 誰もが「自我」は、持っているという観察結果が 狭い視点なのかもしれませんが 出てきます。

しかも、それを 人と隔てる殻とすると かなり強固な殻として表現可能なものとして「自我」は存在してしまっています。
そこを 私はまず、 卵の殻ではなくて 鉄のような堅固な殻を持ったの球や円を 便宜的説明図として ここに想定させていただきます。

それは、まず そのへんをこのように考えるからです。

人を助けたいという気持も 多くの場合、 自分の満足や 自分の名誉  人から善い人と思われたい心からとか、 それによって信用されたいから あるいは感謝されるのが気持いいから あるいは見返りがいつかは期待できるからとか とか なんらか 自分のためであったりするところ  そのへんを冷徹に見つめるとなのですが、

自分をまず、大切にしたり 自分にまずゆとりを作らなければ どうせ人へのなんら助けにならないことからも   また さらには ほんとうに気持にも生活にもゆとりがなければ 人は 人を押しのけてでも まず自分の欲望を 人を助けることより優先します。

普通は こうして ゆとりさへあれば 自我の堅い殻の中にても、法律は守りますし、 人助けもします。  それが常識の範囲というものでしょう。

戦争のような極限状況で無い限りの 私たちの神経は 自分のためにも 平和を望んでいるからです。

しかし平和であっても この自我を知ってしまうと、 人の存在すら認めない考えの人も出てきます。

ただ のけものにされたくないから、いい人のふりをしているだけとなったりします。

善人でありたい 道徳心とかも強い人は多いですから これはとてもきつい冷たい見方でしょうが  私は まず このへんは冷徹に しっかりと 自我の構造を見つめておいて 真実の追及してゆくべきところと思えてしまっているということです。

そうすることによって それでも崩れない 他の人へのあたたかい思いやりの気持の所在はどこにあるのかをより明確にあぶりだしたい気持からの 冷徹さでもあると思っていただいていいところでもあるのですが、 ともかく 最初は この鉄のような硬い殻の ボールをイメージしてください。


次に、何故、 その殻は それほど硬いのか?  それは 欲望の存在がそのエネルギー 出発点では必ずその殻を持った円や球体のうち側のエネルギーを持ってしまい それに覆われるような形で その殻が形成されているからです。

そういう便宜上のイメージの話ですが、 そういうふうに表現することができると私はですが思っています。

「人はみなそれぞれ絶対弧」という哲学言葉があると聞いていますが それは又別の意味合いの「弧」の世界の表現でしょう。 むしろ人の存在を認めるからこその尊敬とう文字の裏返し その基点のようまものの表現であるのだろうと感じます。

そうではなくて、 死が絶対的別れであることを知る時のような深い奈落の孤独の世界が 見えにくくてはあっても そこには あるということです。

誰もが その「巨大な」とさえ言えてしまうような殻の硬さの中に置かれているという図、 しかも欲望が故という理屈、 ここまで 文意は理解できましたでしょうか?

これは 左脳(論理脳)で捕らえると そのようにも表現できるという意味合いでもあるのですが、ともかくまず 論理的には そのような図が考えられることを念頭の置いておいてください。

しかし 欲望は さまざまなニーズの総合、 その重複性の奥に 時に無意識的にかもしれなくても《幸せを願う》という究極へと向かいます。(ここも反論があるかもしれませんね)

幸せは 音楽への感動や この大地への感動 大自然への感動、その中での安らぎや新鮮な気持といったことを心に見出す時にやってきます。

ある意味欲望は そのへん ほんの薄皮をむけば その心の故郷と一体となった美の世界をともないます。(この欲望自体の構造については、 別に質問したいとおもっていますが)

いずれにしても  その「幸せ」感と一体となるようなエネルギーが希求の中に入り込むと(その実感が命に宿り始めると)その中からは 他の人の幸せも 自分と同じ様にせつせつと願う気持も 同時に生まれると私は思っているのです。

もっと単純な話が 人って ほんとうにうれしい事があると 人に伝えないではいられない気持になります。 そういう気持を知らない人はそれだけうれしいことがあまり無くて 記憶に残っていないからだと思いますが ともかく その延長線にある 人間性の必然だと思っていただけると解りやすいかと思います。

つまり ちょうど 磁力線のように それはなんと いとも簡単に 鋼鉄のように固い殻を突きぬけてしまいます。   それがどんなに硬くてもです。

別に それで 聖人とかになれるとか言いたいのではなくて、 かならず そこには、これも誰もが、少なくとも心の奥は 暖かい気持になってしまうということです。

これを卵に仮に例えるなら 黄身の部分がそれかもしれません。  偉いとかかいいとかのえらい違い^^は考えないで下さい。

自分のことのように 相身互いの気持にはなれるようになるということです。

この自我論が意味しているものは、 誰もが まあそんなものではないでしょうか、という大局的意味合いです。  誰を低くみたり 誰を英雄視したりすることもなく もっとみんなが 自分を見つめ 信頼し、  相手を認め 信頼しあい、 語り合えるようにするための図のつもりなのです。

しかし 私は わりと幼い頃から こうした人間についての考えを真剣に考えてきた者ですが、 本とかをあまり読む機会がないまま 忙しい人生を生きてきました。

他の人の心理学とか 哲学とかで すでにこうした自我論というのがあるのかないのかもわかりませんし、 他と比較できないので 自信とかも沸いてきません。

それは、それでいいのかもしれませんが、 やはり 対話は 勇気や力を私に与えれくれると思うのです。

もしよろしければ、 この考えの欠点、 間違っていると思える点、 感想、その他 ご意見をお聞かせいただけると ありがたいのですが、 

どうかよろしくお願いいたします

人生観から生まれた論の一つですので、この紙数ですべて書けるものでは無い論文となっているところ もしご意見をいだだけましたら そのつど お一人お一人に 補足文を書かせていただこうと思います。

よろしくお願いいたします。

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A 回答 (16件中11~16件)

 お考えは,自他の区別が前提となっています。

視覚に訴える模式図,鉄球殻は,イメージしやすい物理空間の表象です。それ故,自己の領域がはっきりと示されています。その上で,孤独なはずの自己と他者をつなぐ磁力線のようなもののアイデアであるのだと思います。

 しかしながら,区別のありかたは,物理空間の領域で示すに限る必要はありません。複数のテレビ局が電波を発して番組を放映していますが,1chと2chは区別されます。これは,空間領域を区別しているものではありません。複数局の電波が同じ空間に飛び交っています。

 ある人が1chであるとします。そして,他にも多くのチャンネルが存在しているのですが,搬送波(っていうんでしたっけ)の周波数の違いによって区別されています。いつもは違う番組を放映していますが,同じニュースを放映することもあります。

 放送電波は本質的には同じ現象です。ちょっとした違いは,搬送波の周波数と,信号波(放映番組の内容)です。まあ,後者は現象から内容に視点を移すと,大きな違いかもしれません。この喩えで自他を表現すると,自他の共鳴現象の可能性が見え,また,自他の境界に強固なものをおく必要もありません。

 人は自分と他人の扱いがえらく違うものです。それは(身体観念からくるのでしょうが)空間領域的な違いと,(放映番組で喩えた)意思内容の違いに,認知上のバイアスがかかっているからなのでは?という疑念になるのですが・・・,身体や意思内容こそが自己の本質であると規定すべきなんでしょうかね。

 私は自他の,本質的に同一の部分(喩えでは,電波として表現される物理現象)を自我とみなそうとしています。対人間関係に留まらず,他者を広義にとらえて対自然とし,一切の現象を表現の形式でとらえ,その表現内容においてはさまざまですが,無制約な自己を制約のある姿に限定して表出する,同じ類のもの,すなわち我=自然,自然一体であると。

 若干自己主張がありましたが,構造の見えない本質の認識が,比喩表現の内容の構造に左右されるのではないかという意見です。

 

この回答への補足

》人は自分と他人の扱いがえらく違うものです。それは(身体観念からくるのでしょうが)空間領域的な違いと,(放映番組で喩えた)意思内容の違いに,認知上のバイアスがかかっているからなのでは?という疑念になるのですが・・・《

のところの 特に( )内の

 》(身体観念からくるのでしょうが)《

のところなのですが、

たしかに 

》自分と他人の扱いがえらく違うもの《 となる原因の 最初の基点としても、直接の原因としても  

私たちが生物でもあるという身体をもつ特性からも、 その事実への人間特有の観念からも  その限界性は、 大きな その利己性の引き金となりますよね。

生物としての苦しみの深さは 脳を持つが故の相乗効果をも生み出して人間を苦しめている、 おそらくもっともせつせつとした問題だと思います。

恐怖や不安 その経済面とかも ここにおいて無視できるような簡単なものではなくなります。

誰もが とくに極限状態には こうして道徳もなにも無くなり 自分を守るだけとなってしまうわけですが、 またそのような神経にやがてなっていってしまうものだと思いますが、

その生物としての弱さを それなりに 平和時に克服してゆく道も これまた 身体観念の内にあるかと思います。

(実は 「身体観念」という用語は始めて聞くのですので 解釈にズレがあるかもしれませんが、

身体から来る弱さとかだけでなく 人間の脳の作り出すさらなるその辺の弱さというのも 思い浮かび そのへんのところを「身体観念」と書いてくださったのではと 簡単に解釈しております)

というのは、 その次のくだり

》他者を広義にとらえて対自然とし,一切の現象を表現の形式でとらえ,その表現内容においてはさまざまですが,無制約な自己を制約のある姿に限定して表出する,同じ類のもの,すなわち我=自然,自然一体であると《

のあたりも 自称舞踊家として心にひっかかっての質問なのですが、

ともかく この身体自体の中の感覚が 深まることで、 たとえ話で話すと、
道端の小さな花に、体中で感動できるよな「幸せ」感が 生まれたとすれば、  大邸宅の庭への夢はいらなくなります。

経済的に 人と闘う必要は その分消えてゆきます。

動中静の 安定した精神とかも、 実際に 私たちの行動に《ゆとり》をうみだします。

》我=自然《 というところを 実際の自然への感動の中で解釈できるとすれば それは 私の脳内では、 それこそ 「現代社会に必要な藝術」というふうに考えることとなります。

一切の現象を表現の形式でとらえ、 という事は、 その「現代に必要とされる藝術表現」というふうに解釈してもいいのでしょうか?

そうすると、

舞踊家としての私にも その次の

》制約のある姿に限定して表出する《

というあたりが、 技術と藝術の心の世界の描写に解釈できて 、とても参考にもなりはげましともなります。

私の場合は、 このへんをも身体観念としてとらえてしまうので、 どこか このへんにまた ズレがあるかもしれないですね。

もし よろしければ この「身体感覚」というところだけ もう少し説明してください。

お忙しいところ さらに、たぶん、少しややこしい齟齬関係とかになっているかと思いますし

もしお時間があればでけっこうです。

ただ もしこのあたりもご興味が深ければ 是非また よろしくお願いしたいしだいでもあるのです。

よろしくお願いいたします。

補足日時:2011/09/10 17:16
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この回答へのお礼

鋭く かつ丁寧なご指摘ありがとうございます。

一応 図で表現する限り シンプル・イズ・ベストを追求しての便宜的たとえ話のつもりでしたが、

比喩表現は、まだまだこの広い複雑な世の中を捉える シンプル・イズ・ベストの比喩にはなっていないようですね。

また一応は これは、論理脳(左脳)で考えると このような図が浮かび上がってくると断り書きを質問文自体にいれていますが、

文章化する以上は  外に向かう 磁力線ならぬ 慈力線のあたりの 説明ももう少しくっきりとさせておくべきところかと思えてきました。

視点の違いは、常に生まれつつあるという認識の上には それはさらに時間とともに その違いは積み重なるようにしてさらに大きくなる場合が さまざま想定されます。

》身体観念の違い《 という そちらの書いてくださった言葉に対しては 少しだけ補足質問させていただきたいと思いますが、

この身体観念の違いといったこと自体が 自他の扱い違いを生み出す基であると同時に  視点の違いの始まりの基点ともなったりするかと思います。

しかし、 それは、 さらに その電波量が増えることで そには量から質への転換も起こりえるところとなるかと思います。

このへんを右脳左脳で説明しますと、左脳(論理脳)だけでなく 右脳(感性脳)でも考える「ゆとり」が 生まれてきて、それこそ、》自他の境界を強固なものとおく《必要はなくなってくるると思われます。

また、右脳が発達しなくても、 論理的にも たしかにあらゆる視点を豊かに脳内に理解することでも  気持が明るくなり 人と自分との差はなくなってくるものと思います。

ですので、 そこを逆の この私の図のように 便宜的に強く主張するのも、 その視点からの知識量をより豊かにするのも、 実は この便宜的に想定しておいた自我の殻の硬さとか巨大さとかを 消していってしまう 背反理論がなりたっていくことにもなるわけです。

つまり たしかに その殻は 「硬いけれども 感性さへ深まれば、いとも簡単に 人へのあたたかい心は通過してしまうもの」とのみ 自我の殻あるいは 愛の世界を、なるほど限定しないでもいいわけですね。

そのへん、私も考えていないわけではなかったのですが、 大切なところを 別な豊かな表現で指摘してくださり ありがとうございます。

たいへん 参考になりかつ 明るい豊かな気持になれるご回答だと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/10 16:28

自我を、自己の認識のようにお考えのようですが、


たとえば「自我の目覚め」とは、自己の発見ではなく、
環境の発見です。
人は、どうやっても「自己」の中身を見る事などできず
(中身を見れたら死)、意識の発生とは、環境認識の
成立を意味するのです。

しかし一方で、そうした「環境」も、実体として脳内の
現象に過ぎず、「我々は脳の中しか見ていない」とも
言えます。
それは、最新の量子論的世界像における、「存在的
有限性は、観察される事によって二次的に派生する
(認識性を除外した絶対化は無限不確定性=無への
発散)」という事実に通じます。
無=無限不確定性の潜在としての認識可能性の
時系列化=自我仮説(時間的流れ=記憶=過去)と、
時空仮説(空間的広がり=予測=未来)の対発生。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

しかし そちらの今回のご回答のような アカデミックなおそらく最近の哲学の流れからの言葉を 解説無に使われた回答文ですと、

その言葉の意味合いを知らない一般人の視点や視野の世界との間には いかんともしがたい溝が生まれてしまうと思います。

自我を 欲望という自分向きのエネルギーの束の 外側の円として認識することは、 それも自己認識の一部ではあるでしょうが あくまでその自我の殻の部分の認識のつもりですし、 その殻を 簡単に通過してしまう私たちの心の内の 世界を 自我の性格のうちとして捉える自我論も、 それも確かに自己認識の大きな一端となりえるかもしれなくても  あくまで 私の方としては  自我とはということの説明のひとつとして書きました。

ですが、 もちろん 自我を 自己認識の大きな力となるような論理としても 書いてはいます。

次の「自我の目覚め」というところなのですが、この言葉自体にも 私には慣れ親しんでいるところがありません。

この場合の 「目覚め」という言葉の意味合いもよくはわかりませんが  ふつうに 気づき といった意味合いで解釈してみますと、  「自我」という言葉が 「自分」とか「我」という文字通り
言葉の意味合いとしてなら 通じる気がしてくるところです。

「自分」とは何か「我」と何か? ということへの気づきの世界です。

そうすると 確かに 自己の発見というよりも 環境の発見、 つまり 「私たち」の中に「我」も存在することの発見となり 気づきとなり「目覚め」と言えるようなものとなるかとは 思えてくるのです。

しかし 次の文からは 私には さっぱり理解できなくなっていってしまいます。

そして また 上記までの解釈すら 自信は無くなっていってしまうのです。

そのまま かってに解釈を進めてゆくと とんでもないような 難しい話へと進んでいってしまいます。

》「我々は脳の中しか見てない」《  

人間の脳の限界を 仮に脳の中つまり脳の内、とすれば その外から見ることあるいは観察することは もちろん人間の領域でななく 神か何かの能力領域の世界となるわけです。

でしょうけれども  もしそれが 最初の文の 

》人は、どうやっても「自己」の中身を見ることなどできず(中身を見れたら死)《 の説明と重なるところだとすると、  なんとなく通じる気にはなりますが、  

やはり、書き方が難しすぎます。

》死《 って神の能力領域の世界とかいうことですか??

ともかく 解りにくいです。

》意識の発生とは、環境認識の
成立を意味するのです。《

この文自体 わかりにくいです。

確かに 睡眠中の夢のようなボケねたイメージによる意識も なんらかの環境認識の反映ではあるでしょう。

しかし そこは イメージの世界と 「私たち」の存在する関係性の環境の世界とは区別する必要が 同じ脳内の現象ではありつつ 大事な区別として 発生してくるのではないでしょうか?

こうした すれ違いは  》最新の量子論的世界像《を知らないところから来る齟齬によるものでしょうか?

不勉強は反省すべきところかとは思います。

しかし 忙しい一般社会人の脳の世界との 交流のあたりももう少し同じ存在内の「友」として 噛み砕いて 理解してくださり、 もう少し解りやすく説明していただけるとありがたいところです。

》「存在的
有限性は、観察される事によって二次的に派生する
(認識性を除外した絶対化は無限不確定性=無への
発散)」という事実に通じます。《

私たちの脳内の認識力の範囲でも 「その意識によって観察されたというその時間その時間においての意識事実無しには 存在の有限的世界というものは 無に等しい」ということを、 その量子論的世界像でも その専門用語を通して語っていますよ ということでしょうか?

もう 半分以上お手上げ状態なので、 それ以後は、 もう頭が働かなくなってしまいました。

これですと 補足質問も どのように書いたらいいのかも解りませんし、  どうしようもなくなるので、

これは、 私に暇が出来て その最近の量子論的世界像なり 最近の哲学なりを学習できて後に、 再考できるなら 考えてみたいと思います。

レベルの低い人に回答してしまったのかもしれません。

だとしたら すみません。

にもかかわらず、わざわざ 真剣なご回答、ありがとうございます。

勉強意欲だけは失わないでおこうと思います。


ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/10 15:45

踊りで例えると、巧く踊ろうとして筋肉が緊張するに近いと思います。


自我の強化もストレスに対する本能的なものでしょう。
そして、分かっていても自動的な仕組みですから、作為的意識的であるほど強化されるでしょう。
対処法としては、謙虚、感謝、今に集中というところでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

今回何度かあったのですが、 忙しい中でお礼とか機関銃のように^^書いている中で、 「確認する」のボタンの次の「お礼する」のボタンの方を押し忘れていました。

こちらのお礼も もうとっくに書いたはずのところなのです。

気が付かないで申し訳ありません。

お礼遅くなりました。

確か こちらへのお礼では、 一文一文に 感想を述べさせていただいたところだったと思います。

まず

》踊りで例えると、巧く踊ろうとして筋肉が緊張するに近いと思います《

というところは、 私自身が実は舞踊家の端くれ(プロではないのですが、舞踊の心の面を40年以上も追及してきた者です)なもので、 「なるほど^^」といろいろ想像してしまいます。

補足質問ということではありませんが、 なんらかの踊りを習っていたのですか?

これ、逆に、 私の場合 メチャクチャなほどに楽しく踊ることで、その頃のディスコでのリズムの自在性の世界を捕まえたところなのです。

このへん面白かったですよ^^。

「えっ 巧い下手なんて関係なく 音楽をメチャクチャ楽しむだけで  うらやましくて見ていただけだった私が うらやましかった人より、 もっと軽やかにリズミカルに踊れるように アッというも間になっていた???!♪ 」  ^^ という感じでした。

それからしばらくして ある生バンドでのディスコで、踊りのコンクールがあったところに 知らないで紛れ込み 気が付いたら私が優勝していました^^。

緊張との真逆の現象世界でしょうか(笑^^)

その逆に、 長年踊っていて まったく踊れなくなってしまったときもあります。  そのへんが自我と関係するということなのでしょうね。

そちらのご回答文は、 変です^^。

変なほどに面白いとも言えます。

一文一文が 短いのに 内容がそれぞれあると思えてしまうからです。

次にいきます。

》自我の強化もストレスに対する本能的なものでしょう《

この場合の》自我《というのは 私の質問文の中で書いている《自我》とは 別な意味合いで使われているのでは と思ったところなのですが、

よく考えてみると いざ、たまごの黄身の部分の人間味あるいは「幸せ感」を獲得した後には、 自我の殻そのものが質が変わりますよね。

人間としての誇り とか 庶民の誇りとかいったふうな人間として何か胸を張れる様な何かの色合いが 内向きの欲望が作り出す自我の硬さの世界を変質させる形です。

たしかに。

それですと、 ストレスに対する闘いの本能としても 私たちの希求の中になんらか最初から含まれているでしょうね。

あるいは、 しあわせ感がまだ熟していない段の つい偽善にも陥りやすい道徳意識からも その自我の質はせつせつと求められて至りもすると思います。  でも、その場合は、 求めるほどに不安定な場合がでてきます。

ありがとうございます。  その段は そんなことを考えさせてくれたところです。

そうして 

》そして、分かっていても自動的な仕組みですから、作為的意識的であるほど強化されるでしょう《

という段に続いているわけですが、

まさに その道徳的希求もそうなのですが、 作為的意識的であるほどなるほど、 かえって、不自然な壁 不自然な緊張が生まれてしまう時もおおいでしょう。

私の自我論で、 落としているけっこう大事な観点に気が付かせてくれているところです。

ありがとうございます。

最後の

》対処法としては、謙虚、感謝、今に集中というところでしょう《

「対処法」についてなのですが、

このへんは 応用スポーツ心理学でも言われているところです。

実は 踊りの観点から今とあるスポーツブログを書いているの者なのですが、 そこでも「応用スポーツ心理学」は取り上げています。

まさに 過去(直前も含む)の失敗にとらわれず、未来への不安にもとらわれないで、 また回りの未来への期待(たとえば金メダルとかの)とか 逆に過去の失敗への非難にとらわれないで  明るくリラックスして》今《とそちらが書いてくださったことと同じ意味合いだと思うのですが、

まさに「今」に集中することの必要を スポーツが鍛えてくれる点を 応用して社会に役立てようというのが応用スポーツ心理学の世界です。

その時にまた 実は 周りのすべてへの「感謝(尊敬の念のともなうことも強調されています。 これは上から目線が無い必要があるということです)」が なんと その時のリラックスへの最高の要素として取り上げられているのです。

そして》謙虚《  

これこそ 常に上を目指す スポーツ精神そのものでもあるわけです。

MOG56222さんは スポーツも何かされているのですか?

ともかく 最近のスポーツの世界は(日本ではマスコミ騒ぎの中で見落とされていたりもしますが) 馬鹿にできないです。

的確な そして端的な ご回答、 ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/11 20:26

 こんにちは。



 ★★ ~~~~
 なぜ そんなに、 複雑に考えるのでしょう?

 さとりって、複雑に考えないでも済む静かな平和な新鮮な呼吸(赤ちゃんみたいな)の世界をニルバーナとして その心境に進むことができるなら それでいい世界なのじゃないですか?
 ~~~~~~~

この回答への補足

ありがとうございます。

お礼文とは 別に すこし補足質問させていただきたいことがあります。

もしよろしければ、 そのへんもご回答おねがいできればありがたいところです。


動中 あるいは 人生の厳しい山坂の渦中にて そんな中でも赤ちゃんみたいに静かな呼吸でいられたら、 (ニルバーナとかはもっと深いのでしょうが)  まわりの雑音(非難とか 誤解とか批判とか、その嵐とか^^とかとか)にも 過去の栄光にも過去の失敗にもとらわれずに、 いつも明るく では どうしてゆこうかとの未来への勇気と工夫のみに打ち込めるかと思います。

そして それは この人生では あたりまえに大切にすべき心の世界と思います。

そこを 仏教などの悟り?の世界となると ?

実は 自分は悟りを開いたと言う人に なぜ 踊りや歌でわかりやすくその境地を表現してくれないのですか? と実際に聞いたことがあるのですが、

「あなたは 誤解しています。 悟りと一般の世界とでは無限層の開きがあるので 踊りや歌の世界では とても表現できないのです」うんぬんという答えがかえってきたのです。

無限に違うのなら なんで 言葉で何かを話すのjかな?とおもいましたが  それ以上質問する気になれなくなっていました。

実際にお会いしていれば また別の話となっていたでしょうがネット文上の対話ですので これ以上対話は無理と思いました。


それ以来なのですが、

さとりって この世に必要なのかな? と思うようになってしまっています。

それが この補足質問とかに飛び火してしまったことなので 申し訳ないのですが、

ほんとうは、 今の私は 「さとり」ということ自体 あまり信用していないのです。  

もっと当たり前のことで 大切なことがいっぱいあるじゃないか。
 
といった感じになってしまうのです。

とてつもなく深い境地なのかもしれませんが、 もし その悟った人が  私たちの苦しんでいる世界のその苦しみの深さをすっかり忘れているのなら、(あまりにも幸せすぎて?)  本気で  医療や そのゆとりのための予防医学や スポーツといった当たり前の世界なんか くだらないと思っているのなら、

それは ただの役立たずです。  能無しと同じです。

どんな難しい言葉をどんなに操っても 私たち弱い庶民にとっては 無意味であり お釈迦な話だと思います。

buragelonneさん、 さとり なんて  いらないのではないでしょうか?

そのへん どうおもわれますでしょうか?

もしよろしければ そのへんだけ 再回答おねがいいたします。

よろしくおねがいいたします。

補足日時:2011/09/10 13:54
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この回答へのお礼

お礼文、すでに 補足文の前に書いたのですが、 最後の「お礼する」のボタンを押す前に 先に補足文の方へと進んでしまったようです。

ありがごうございます。

機転と センスのある 面白いご回答(秘密の部分^^ですが)ありがとうございます。

自分では慣れている思考 例えば 私は図は、 キャドでの設計図とかでも慣れていて  今回の図は シンプル・イズ・ベストを求めつつも、 簡単におもえてしまいます。

自分の慣れは しかして、 他の人に解りやすいかどうかは、又別でしょうし、、  慣れには長短もありましょうが、 その短所の部分は、、 精一杯は、 そのへんは さらにわかりやすくしてゆく努力が必要なのところでしょう。

そのへんをもっと わたしこそ自戒してゆきたいとおもいます。

ありがとうございました。

なお その文のなかの「さとり」とい言葉は、 実は私自身が疑問視している言葉を使っているところ、  そのへんだけ 補足質問させていただいております。

よろしくおねがいいたします。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/10 17:54

人生の大先輩へ。

私はあなたの子供くらいの年齢の者です。

人はもともと利己的なものですが、大人になるに従い、(大抵はゆとりがあればという条件つきかも知れませんが)本当に見返りを求めぬ親切もするものだと思います。人によっては自分が死にそうでも人の命を助ける事もあるでしょう。
小さい子供を連れて歩くと、見知らぬ人の親切をよく受けるもので、善良な人は多いものだと思います。

おっしゃる通り、皆で平和に暮らし、不満を持つ人が少なければそれだけ回りまわって自分も平穏に暮らせるものですから、そういう事も外堀としてあるのかも知れませんけれどね。

人の体に顔があり手足があるように、心にも本来あるべき一般的な形というのがあると思います。
その中に、人とつながりたい、人と幸せを共有したいという欲求もあらかじめ含まれている。
それだけじゃないかなって思います。

食欲などと同じように、人とのつながり欲があるんですよ。
損得とかを考える間もなしに、やっちゃうんです。
それが存在する部分が卵の黄身のイメージなら、そうお思いになって良いのではないかと思いますが、こんな答で良いでしょうか?

この回答への補足

》ひとはもともと利己的なもの《 ≒性悪説

》人と幸せを共有したいという欲求もあらかじめ含まれている《≒性善説

とした場合、

uekidoさんは 両方とも 最初から含まれているとして、

どのような割合で どのような形で含まれているとおもいますか?

性善説と 性悪説は、 両方とも 歴史的にはかなり奥深い考えで生まれていると思います。

そして 実は 両方ともその限りあまり矛盾していません。

その欲望が強ければ その欲望のために 人は他の人を押しのけます。  それが じゃまされたり、 長い期間押さえ込まれたりすると、爆発して 大きな悪にまで結びつき 世の中を乱し始めます。

これ誰でもそういう状況においこまれれば そうなってしまう強い傾向が 生物としての弱さからもっているわけです。

だから 社会には 秩序を求めるところからも 人間をそういう弱い存在(悪を犯してしまいうる存在)として 道徳教育や 法律を最初から しっかり考えておくべきだ というのが性悪説の誕生時での 考え方、

一方 性善説は、そうではあっても 人間は誰も反省する能力もあり、他の人の喜びを喜ぶことも出来 他の人を助ける気持も最初からその人間の性格自体の中に持っている存在。

弱い人間なので 法律による安定や 道徳教育で それを能力やその人間特性を伸ばす必要はあるが この視点も重要だ というのが性善説の誕生時の思想。

同じ人間社会の発展と安定を願っての 別な側面 別な視点からの補い合いのような感じです。

が、今では 人間はもともと悪心を持って生まれてくる。だから教育で善をおしえこまなければならない。というのが性悪説で

いや人間はもともろ善の性格をもって生まれてくる。 だから悪いことを教え込まれなければ みんな善人なのだ。 というのが性善説で対立してしまっていると思います。

uekidoさんは  人間の重複的な心理を理解しておられますので おそらく 歴史的成立のあたりの重みのある先人の知恵と同じ考えでしょうが、

もし 現代のその論議で 性悪説か性善説かを聞かれた場合 どちらを指示しますか?

その割合でもいいです。  どんな割合だとおもいますか?

また その理由はなんですか?

突っ込んだ派生再質問ですので  興味が惹かれた場合でけっこうです。 もしよろしければということです。

よろしくお願いいたします。

補足日時:2011/09/10 13:12
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

》こんな答で良いでしょうか?《

とんでもないです。 ありがとうございます。 

心に響きますし、私の自我論で抜けている部分にも気が付きましたし、 考えさせられる視点もあります。

年齢についてですが、 少なくとも 文章が書ける年齢には すでに 私なら私の知らない人生を歩んでもいるわけで、 そこから生まれる言葉には なんらか私とは別視点があるかと思います。  よく読むと はっと気がつかされたり 新しい思考展開が生まれたりします。

なぜか 後段からの感想になりますが^^、 

》食欲などと同じように、人とのつながり欲があるんですよ。《

ここが 私の自我論には欠けていたところと気がつきました。

このへんで 思い出したことがあります。

まず子どもの頃ですが かなり重症の肺炎に何度かかかったことのある中で、 右の肺胞が全滅し左の肺胞があと少ししかなくなり あと三日の命ですよ と医者が告げているのを そんな苦しい中で聞いてしまったことがあります。

すでに どんなに何を思い出して苦痛を耐えようとも耐え切れない状態の中、 それでも 私は  その時 その苦痛以上に死にたくなかった気持が強かったことを憶えています。

そんな中では 死が絶対的孤独の奈落に見えてくるからです。

その逆、 孤独を癒したい心というのは そんな時には 死の苦痛すら越えた何かであることがあるということです。

》人とのつながり欲《 おもしろい言葉ですね^^。

でも これだけですと、 それもまた自我の内といううがった見方も出来てしまうかと思います。

そのような視点は存在しうるということです。

ところが、 もう一つ こんな体験を思い出しました。

とある寒村でのことです。

実は 私は 舞踊の心の世界を求めてきた人間ですので、 その農場を手伝っていた時に ある隙間風の吹き込む掘っ立て小屋に一人で暮らしていたのですが、

一日中、外で働き 体中がすでに凍えきっている中で その小屋にあった五右衛門風呂に氷が張っているのを見て、 

ふと その氷の張った水の中で踊ってみたら 何か新しいことが解るかもしれないと思ってしまったことがあったのです。

若かりし頃の情熱のなせる技 ドバシャシャンと飛び込んだまではかっこよかったのですが^^。

その途端私は 無意識にそこを飛び出していました。

みじめにも 床を 布団に向かってはいずりながらです。

布団に入いれば一時間もしない内に疲れで寝入ってしまうのですが、 布団に入っても 寝入るまで少しも体が温かくなるわけではない環境の中でです。(朝方だけ あたたかくなっているので 布団から抜け出すのがまた地獄です^^。 泣いてるつもりはないのに目から涙がポロポロこぼれてくるのです)

それでも 私は その時 その布団に向かって 土間のようなところを 蛇のようにはいずっていました。

敗北ですよね。 明らかな敗北ですよね。 たったの一瞬も踊れかなったのですから。

でも  私の心は      

何かのうれしさで泣いていたんです。

ああ すごいや、 すごいや  生きてるって凄い世界だったんだ。    人がいる世界

あたりまえに人と人とが ふつうに思いやる世界 心と心が当たり前に通じ合う世界、  それがどんなに いとおしく 豊かで重みのある世界か。

いや 言葉では、上手く語れないのですが、 ともかくその時
実は 私は 勝利者みたいだったんですよ。

》損得とかを考える間もなしに、やっちゃうんです《

この》やっちゃうんです《というのが意味深^^ですが、 詮索はしません(笑^^)

でも 生きられた文章、 これこそ 私が質問に求めるご回答の豊かさの世界の一つ。   

そうです そんな平凡な中に  宇宙みたいに大きな心の宝が隠されてるのだと思います。

》つながり欲《 大事になさってください^^。

(「欲望」については また別に質問させていただくことのなるとおもいます)

その上でのことなのですが、

》人はもともと利己的なものですが《

というところと

》人と幸せを共有したい欲求もあらかじめ含まれている《

というところとは

一見矛盾しているかに見えます。

ご回答では 》含まれている《という含みのあるご回答文ですので、 そのへんが 私の重複的心の世界(二重人格とかではなく^^)と同じで、 ほんとうは矛盾していないと 私も思うのですが、

このあたりから派生してくる 性善説や性悪説の あたりを uekidoさんはどう思われておられるでしょうか?

そのへんを 補足質問で もう少しお伺いしたくなりました。

もしよろしければということでいいのですが、

よろしくおねがいします。


参考になるご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/10 12:43

ぼく(中2)は



全宇宙の中心。

こんな、考えです^^;
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「私」も「あなた」も その位置に、つまり「そこ」や「ここ」に生きていて意識をしているので 、 「そこ」や「ここ」から見たら 「そこ」や「ここ」が宇宙の中心です^^。

そして そこに生きている「あなた」や「私」は、 過去ブラックホール以前から 未来永劫まで 他には何処にもいない存在です。

そんな存在として、 「私たち」は、 「ここ」(位置です^^)や、「そこ」に生きています。

「ここ」や「そこ」からのいろんな視点を持ち、 その視点の積み重ねを記憶に いい意味でも悪い意味でも影響されながらです。

この視点の違いから来る豊かさが 私が質問する時に求めていることの一つです。

視点の幅が増えすぎると それによって思考は複雑になりがちとなります。   そこを まとめるための格闘で しかして より豊かで有効な哲学が生まれてゆくと思っていますし そういう対話を基とした表現の世界を大切にしています。


しかし、今書きました視点からの》宇宙の中心《 という捕らえ
方は いつしか気が付いてみたら意識されていたこの共通の大地、を基にした科学や物理をともなう位置からの視点です。

この視点こそ 今までのアカデミックな哲学を止揚した新しいい哲学基盤となるべきだという考えの哲学者もおられたりします。

「横井哲学」と検索すると その基礎の部分の筑波大での講義の映像とか出てきます。

基礎の基礎のようですので、 大学での講義ですが そのへんは中学生にもわかるかと思います。

参考になさってください。

しかし、 《全宇宙の中心》という言葉のニュアンスには、 自分の考えしか認めないよ という意味合いが出てくる場合もあります。

簡単に睡眠中の夢のイメージに例えると、  その夢がどんなリアルなイメージであっても それは個人のうちわがのイメージなので、そこで友だちに出会っても それは その「友だち」がこの大地に生きていることとは 関係ないその個人の中のイメージの世界にすぎないわけです。

夢が色つき 音つき、痛みつき つまり五感のすべてにリアルであったとしても  それが夢と 現実との違いであるわけです。

つまり 現実という 私たちが生きている世界には「友」という概念の存在が 存在するということです。

そんな中、に 私たちは いつしか気がついたら生まれてきていて たしかに誰もが 》宇宙の中心《^^に いるわけですが、

この夢 という他人がいないイメージの世界と同じ様な イメージの中の他人しか認めない思考をする人がいます。

それは言葉上 想像上 イメージの中の理論構築としては 確かに可能です。

けれども、 その中に閉じこもった思索で《全宇宙》をとらえても、要は 自閉症の中の思索^^。    自閉症というのが そういう思索の持ち主とういうことではないですが、 意味合いは解ってもらえると思います。

今 中学2年生なのですか。

どうか 彼方のような若い人たちが、 多くの視点をまとめあげ、 いつか この日本や 世界を助けることが出きるような 夢にまい進していってください。

そういう夢を抱くことこそが  睡眠中の夢を見ない しっかりした生き方だということだと私は思います。

「友」がいる、 人を「友」として 尊敬し 感謝して生きる生き方こそが 大地を生き抜くということだと思います。

がんばってください。 

期待していますよ。

ありがとうございました。
  

お礼日時:2011/09/10 11:08

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