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現象学における
本質観取(Wesensanschauung) と 仏教、
相容れないところ、相通じるところはありますか?

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A 回答 (25件中1~10件)

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> 現象学を齧る人のなかにも“虚無主義”に陥る方がいるんですよ。何だかここが共通点みたい。

 そうだったのですか。愚生も、竹田(当時はまだ一文芸評論家に過ぎませんでしたが)を読んだときには、確かに陥りかけたことがございます。仰られますような傾向が少なからずあるのかもしれません。

> 精神現象の〈典型〉を見出していこうという、やっぱり医学が健康体を見据えておくのと同じようなスタンスなんですが、客観主観を棚上げしてしまうところに気を取られると虚無主義に陥るんでしょうね。それだけ対象の現前に依存しているということですね。

 なるほどそうでしたか。仰るとおりかと存じます。客観なるものは、おそらく人々の“拠り所”、“楔”のようなものなのかもしれません。その存在が不明瞭ともなりますと、虚無主義に陥ってしまうものと察せられます。おそらく、ひとは客観なるものを無自覚に求めているのかもしれません。特に自己に対してでございますが、例えば、◯△資格、学歴等いろんなものに対しまして、自己を決定づけようとしているのかもしれません(あくまで愚見でございます)。

> 幾度もありがとうございました。

 いえいえ。こちらこそ、愚生の駄文をお読みいただきまして、厚くお礼申し上げます。

 それでは、アマガッパ様の益々のご活躍をお祈りしながら・・・
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この回答へのお礼

退会されたのですね。療養なさると書いてあるのを拝見しました。がんばっては禁句ということになっていますが、浅薄な意味でもなくまた目先の意味でもなく、がんばっていただきたいと思います。

お礼日時:2011/11/06 02:24

 やはり、天川河童に投稿してよかった。


 この良かったには少し意味深長な含みがあるのですが。

 ANo.22
 そのとおりです。生身も生身執着も、生身での欲望も、生身次元も出ないといけない。
 その技法がSelf-Realization Fellowshipのクリヤというラージャのヨーガでして。
 同じ事を書いたものがあります。
 .com/qa7064140.htmlのANo.3です。
 説得も何もしません。まぁこんなものもあるんだなぁということのための、ご参考です。
 いうまでもなく未熟な私は、こういう世界があるんだという瞥見と、完全にこういう世界があるんだという展望です。
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この回答へのお礼

意味深長なのですか。
わかりませんが、
しばらくは展開形式で生ずる映像のほうに生きてみたいと思っております。
運動形式の大いなる不毛な持続のほうには、またの機会にと思っております。
参考にいたします。

お礼日時:2011/10/13 03:49

 こんばんは、ひどっち でございます。

ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。


> 龍樹が空見を戒めるのは表象をさらに対象化するのを食い止めるものとして穏当かと思います。
空という言葉が空を指して説かれるとき、すでに概念と化して物象を結ぼうとしてしまいますね。


 はい。仰られる通りかと存じます。実体性の否定のはずが、概念化してしまい、物象として結実してしまう危険性がございます。


> そうですか。ありがとうございます。空間相関的ですね。


 はい。以下は、経典からの引用でございます。

「空である結果はどうして生起するであろうか。空である結果はどうして消滅するであろうか。空である結果もまた不滅であり不生であるということになる。」
 中観 第二十章 十八詩 中村元訳

> 対象認識行為をめぐって“空”を引いていただきましたが、フッサールが対象の思考を回避して意識の「持続」にスポットライトをあてた点に鑑みるなら、仏教で対象認識と非対象化を込められたともいえる空について、これを対象化して見るのではないとされる意識のほうが焦点になるのでしょうめ。その持続や瞬間がどのように扱われるのかが。


 はい、ここが対照的なところかと考えております。対象化を進めてしまいますと、物象化もそうでございますが、ついつい、それに対します”執着”が生じてしまうからだと思われます。
 ですが、この”空”を誤解してしまい、中観派の人達の中にも”虚無主義”に陥る方も少なからずいたようでございます。

> 仏教の観自在として自由であるということに繋がっていると思うのですが、過去や未来や現在は、ただ執着しないことにおいて縁起の世界に置かれるのかなと思いました。意識はある意味広がりとして世界に先んじているのかもしれませんね。

 はい、愚生もそのように解してございます。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

現象学を齧る人のなかにも“虚無主義”に陥る方がいるんですよ。何だかここが共通点みたい。
精神現象の〈典型〉を見出していこうという、やっぱり医学が健康体を見据えておくのと同じようなスタンスなんですが、客観主観を棚上げしてしまうところに気を取られると虚無主義に陥るんでしょうね。それだけ対象の現前に依存しているということですね。
幾度もありがとうございました。

お礼日時:2011/10/13 03:39

 21のご回答とは盛会ですね。



 /qa7055040.htmlにおける天の川河童さんのご回答のあとにも投稿しました。
 本質観取ということが中心のことで、仏教とか現象学というのはそれらが扱っているから出したのだろうという勝手な解釈をして、また投稿させていただきます。

 現象界とか此の世とかは、所詮はカント分析を待つまでもなく、時間という空間、空間という時間。これは人間の知覚力とか思考力とか、判断や紡ぎ力ともいえるでしょうし、現出させ力とも言えると思います。

 従って本質観取にはこの有なるこの世、つまり時間・空間という自己の世界を出たときにその本質存在になり、自己という不変にして普遍なる存在と知覚・経験になる。
 これはあの世とか此の世とかもいえますが、あの世が有の意識のままの眠りというあの世もあります。
 無というあの世の知覚・経験、そういう無の存在が本質観取となる。
 という経験です。
 どうぞ更なるご精進が自己存在の本質へとつながりますように。
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この回答へのお礼

> 現象界とか此の世とかは ..... 人間の知覚力とか思考力とか、判断や紡ぎ力ともいえるでしょうし、現出させ力とも言えると思います。

そう思います。

> 自己という不変にして普遍なる存在と知覚・経験になる。

これしか機能していると言えそうなものがなく、普遍的システムであるような自己の知覚と経験の枠組みを見つめるところから、日常的な意識のほかに、持続の流れを作る意識(経験には拠らない)を問題とすることになるのですが、しかし、その先の難しいお話をくりやさんから賜ったと思います。

> あの世が有の意識のままの眠りというあの世もあります。
> 無というあの世の知覚・経験、そういう無の存在が本質観取となる。
> という経験です。

たぶんここで仰る意識というのも、日常的経験的な意識のことではないでしょう。
持続した意識体で生(なま)に触れるようなのを、無の経験と呼ぶのかどうか、
堂々巡りの深淵のような、大いなる不毛と無産の運動形式のような、
表層から何処にも出られない、折り重なりの上を持続していくことを。

お礼日時:2011/10/11 02:00

 こんばんは、ひどっち でございます。



 まずは、お忙しい中、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。


> 二重の象体(でいいかな?)にさいなまれてしまいます。

 仰られるとおりかと存じます。


> カントが、きわめて主観的な経験の形式によって認識と対象の発生を描いたときには、物自体という謎が浮上しました。他方、ボルツァーノ、ブレンターノ、トワルドウスキという、フッサールになくてはならない客観主義の論理学者たちにおいては、無対象の想念とは何なのかが追求しきれずいました。


 トワルドウスキ、そして、ブレンターノに師事したマイノングとの交流が、フッサールに影響を与えたことは耳にしたことがございます。
 もちろん、フッサール自身も諸問題を解決し切ったかと言われますと、疑問ではございますが、フッサール以前と以降では顕著な発展が見られたかと存じます。


> そうしてフッサールは、物自体のなんとやらであれ、想念の仮象のなんとやらであれ、志向的な“記述”とし、経験の"記述的差異"の構成であるとします。カントから100年の間の主観と客観の定義の移り変わりは難解でわたしにはよくわかりません。ただフッサールが「対象」を棚上げしたのは大きな仕事であったと思います。

 愚生もこの時代の哲学史には明るくはないのですが、ドイツ観念論の系譜の中でも、結局は形而上学的存在が内包されているようでございます。A. ショーペンハウアーも、物自体は現象界の根底に存在している、としていたかと記憶しております。その点におきましては、フッサールの果たした役割、またその後の影響を鑑みますと、大きな仕事であったかと存じます。



> しかしこんな曖昧で便利な語を廃棄してわたしたちが語りうるかは心もとないこと極まりなく、ひどっちさんもこの曖昧さを抱えているのでしょうか、、、 仏教が「対象を把握する」ものであるとの見解から出発されつつ、執着しないところのそれへと、空観をとおしてお話しされています。まさにこれが、わたしの問いの焦点だといえます。仏教は「対象をどうするのか」ということを、時間の経過や、経験の位相変化を含めて、伺いたいなと思っています。


 これは愚見でございますが、確かデリダにより批判を受け、少なくとも愚生が学生時代(ポストモダニズムが全盛期の頃です)、フッサールはあまり重要視されていなかったかと記憶してございます。つきましては、フッサール果たした役割等は再確認すべきかと思っております。

 なお、”空”につきましては、”空見”を龍樹(ナーガルジュナ)は以下のように表現し、空を見る(認識しようとする)ことを戒めているようでございます。つまり、”空”なる対象は見ようと務めてはいけない、としているようでございます。これは、おそらく、執着を生み、諸法無我に反するからかと考えております。

「一切の執着を脱せんがために、勝者により空が説かれた。しかるに人がもしも空見をいだくならば、その人々を「何ともしようのない人」とよんだのである。」中論十三章八詩 訳:中村元 からでございます。



> やはり精神医学への応用としてのフッサールにおいては、むしろこのように考えていると書き添えます。
「“不完全に貶められたイデア”的な経験対象は“普遍的な構築”による意識作用である」


 ご教授賜りまして厚くお礼申します。とても勉強になりました。



> ついでに書き添えれば、こうした“普遍的な構築”が、縁起や空観と、もしかすると過程では似ているかもしれないし、といっても瞬間的であるとともに持続的であるような事柄を考えることに仏教は応えないかもしれない、という疑問があってこの質問をたてました。

 そうでございましたか。”空”は、「生じる」、もしくは「滅する」という概念ではなく、縁起、つまり諸々の相互依存的なものと、考えられているようでございます。その意味におきましては、時間的な概念は含まれていないものと思われます。



> ひどっちさんのお教えでは、空観は、四苦を滅するがための脱執着という意義が重要であるとわかりますから、現象学が対象という発明物を虚にしようとした意義とちがって、仏教が心や感情の拠り所であることの重みを忘れてはいけないなと噛みしめました。

 ご参考としていただきましたこと、光栄に存じます。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

> なお、”空”につきましては、”空見”を龍樹(ナーガルジュナ)は以下のように表現し、空を見る(認識しようとする)ことを戒めているようでございます。つまり、”空”なる対象は見ようと務めてはいけない、としているようでございます。これは、おそらく、執着を生み、諸法無我に反するからかと考えております。

龍樹が空見を戒めるのは表象をさらに対象化するのを食い止めるものとして穏当かと思います。
空という言葉が空を指して説かれるとき、すでに概念と化して物象を結ぼうとしてしまいますね。

> ”空”は、「生じる」、もしくは「滅する」という概念ではなく、縁起、つまり諸々の相互依存的なものと、考えられているようでございます。その意味におきましては、時間的な概念は含まれていないものと思われます。

そうですか。ありがとうございます。空間相関的ですね。
対象認識行為をめぐって“空”を引いていただきましたが、フッサールが対象の思考を回避して意識の持続にスポットライトをあてた点に鑑みるなら、仏教で対象認識と非対象化を込められたともいえる空について、これを対象化して見るのではないとされる意識のほうが焦点になるのでしょうめ。その持続や瞬間がどのように扱われるのかが。
仏教の観自在として自由であるということに繋がっていると思うのですが、過去や未来や現在は、ただ執着しないことにおいて縁起の世界に置かれるのかなと思いました。意識はある意味広がりとして世界に先んじているのかもしれませんね。

お礼日時:2011/10/10 12:36

 こんばんは、ひどっち でございます。



 ブロック解除を賜りまして、厚くお礼申し上げます。
 また、愚生の不徳の故、ご心証害されましたこと、深くお詫び申し上げます。

 早速、本題に移らせていただきます。
> 相容れないところ、相通じるところはありますか?

 認識論的手法に関しましては、共通点は確かに見受けられると考えております。主観を中心として、対象を把握すること、 原則、”客観”は認めないこと(ただし、現象学では
間主観性により、成立可能としてございますが)、等でございます。
 ですが、”本質取得”に限って申しますと、どうしましても、「意識作用から“普遍的”な”イデア的”対象を構築する」という概念が愚生にはつきまとってございます。従いまして、これはあくまで愚見でございますが、仏教との共通点はほとんど見られないと考えております。
 すべてのものは「空」となります。つまり固有の性質をもたないという訳でございます。従いまして、実体性をもたず、恒常的でないとしますと、そのもの[空]への”
執着”は虚しいものになるということになります。そして、「空」自体への執着は避けるべきと説かれます。つまり、本質的なもの(イデア的なもの)に対しては、存在しないし、またそのようなものは求めない(執着しない)、ということとなります。
 そしてそもそも、仏教は心の作用に焦点をあてているものかと考えております。

 なお、空観思想は、龍樹により深化されましたが、そもそも釈尊の言葉でもありました。因に、上座部からの引用を以下に示しております(大乗仏教程には空を重要視していないようです)。 

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」スッタニパータ 1119 訳:中村元


 そもそも、なぜ釈尊が出家したのか? 
 この問いにつきましては、一般的に、「四門出遊」(以下に示してございます)に拠るとされています。つまり、”苦(四苦)”からの解脱という意味合いが強かったと考えられます。
 そして、四苦を滅する方法としまして、”四諦八正道”を説いていきました。また、これは大乗仏教の”般若心経”にもその思想(成果)が見て取れるかと存じます。

「四門出遊」:
 釈迦がカピラヴァストゥ城の東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感 じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった
Wikipedia 釈迦 からそのままの引用です。

「般若心経」 から抜粋でございます
「乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩多 依般若波羅蜜多故 心無圭礙 無圭礙故 無有恐・・・」 
(迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。このような境地ですから、菩薩は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。 心に妨げがないので恐れもありません。・・・)

 つまり、極論を申しますと、

> 能動性と受動性をめぐって、仏教でのお考え

 につきましては、受動的と考えられます。”生老病死”の経験から生じる”苦”、”恐怖”につきましては、積極的には関わらず、”空(縁起。実体性、本質性、自性がないもの)”
の中に私達が生きているため、 そのようなものにとらわれる(執着する)必要はないという訳でございます(さらに申しますと、”苦”、”恐怖”なるものは、自分が心の中で勝手につくり出したもの、となります)。

> 僧侶や、仏教研究家には、現象学から見た仏教とか量子力学から見た仏教などという、分析的思考を駆使する方が散見されるものです。

 以下のようなサイトのことを仰ってられるのでしょうか?
 これは、”空”という独特の概念を説明したいがための、例えのように見受けられるのですが・・・

http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2007/0 … 

> 一切皆空。。。
実在と空は反駁するでしょうか。
肉体が実の在でないとするならその横で、心って実の在なんでしょうか。

 原則、「実在と空」は相入れないものと考えております。
 一方、「心の実の在」となりますと、おそらく、認められているかと考えております。

 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。さっそく冒頭で重要な問題が切り拓かれたように思います。
 > 認識論的手法
 > 対象を把握すること
という語句をいただきました。たぶん西洋哲学は対象を有することに取り憑かれているのでしょう。対象は認識されたり表象されたり判断されたり、あるいは認識そのものであったり表象そのものであったり判断そのものであったりと、二重の象体(でいいかな?)にさいなまれてしまいます。
カントが、きわめて主観的な経験の形式によって認識と対象の発生を描いたときには、物自体という謎が浮上しました。他方、ボルツァーノ、ブレンターノ、トワルドウスキという、フッサールになくてはならない客観主義の論理学者たちにおいては、無対象の想念とは何なのかが追求しきれずいました。
そうしてフッサールは、物自体のなんとやらであれ、想念の仮象のなんとやらであれ、志向的な“記述”とし、経験の"記述的差異"の構成であるとします。カントから100年の間の主観と客観の定義の移り変わりは難解でわたしにはよくわかりません。ただフッサールが「対象」を棚上げしたのは大きな仕事であったと思います。
しかしこんな曖昧で便利な語を廃棄してわたしたちが語りうるかは心もとないこと極まりなく、ひどっちさんもこの曖昧さを抱えているのでしょうか、、、 仏教が「対象を把握する」ものであるとの見解から出発されつつ、執着しないところのそれへと、空観をとおしてお話しされています。まさにこれが、わたしの問いの焦点だといえます。仏教は「対象をどうするのか」ということを、時間の経過や、経験の位相変化を含めて、伺いたいなと思っています。

 > 「意識作用から“普遍的”な”イデア的”対象を構築する」という概念
とおっしゃるのは、そういう読み方が可能なのかどうか畑違いのわたしから言い切れることは何もございませんが、やはり精神医学への応用としてのフッサールにおいては、むしろこのように考えていると書き添えます。
「“不完全に貶められたイデア”的な経験対象は“普遍的な構築”による意識作用である」

ついでに書き添えれば、こうした“普遍的な構築”が、縁起や空観と、もしかすると過程では似ているかもしれないし、といっても瞬間的であるとともに持続的であるような事柄を考えることに仏教は応えないかもしれない、という疑問があってこの質問をたてました。

ひどっちさんのお教えでは、空観は、四苦を滅するがための脱執着という意義が重要であるとわかりますから、現象学が対象という発明物を虚にしようとした意義とちがって、仏教が心や感情の拠り所であることの重みを忘れてはいけないなと噛みしめました。

お礼日時:2011/10/07 02:43

訂正です。



×自分で理解できるたなら

→自分で理解できたなら


 理解できたら説明してくださいネ。間違ってもよいですよ。まずは試みてみることです。
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追記です。



>次は、質問への答えを用意してから、おいでになりますようお願い申し上げます。

 「カッパ哲学」というものがどのようなものであるのか、自分で理解できるたなら質問の答えは自然とわかると思います。

 解らないなら、黙っていればよろしいかと?
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私の個々の回答をすべてつなげてのお礼文のようですね。



それで「カッパ哲学」とはどのようなものであるのか。自分で理解できていますか?

自分で理解できていないなら。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7029049.html
この質問のNo.2の「おばさん……」より始まる文章を参考にしてください。ヒントがあるはずです。




すいませんが、キャッチボールをするつもりはありません。

コミュニケーションをとるつもり「も」ないので。。。
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>人間にいろいろあるとする観点からすれば、哲学にもいろいろあると言えます。



 「カッパ哲学」とはどのようなものなんでしょうか、教えてください。。

>人間は似たものを理解し、掛け離れたものを誤認するのです。

 離れればよく見える。違うから理解できる。という考え方もあるような気がしまっす。

>似ていないものを理解したと思うことはたいへん容易です。

 似ている・似ていない などと勘違い(誤判断)することもたいへん容易なんでしょうか。
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この回答へのお礼

キャッチボールとしての応答能力が低いようですと困ります。思いだして下さい。先の貴方の回答は以下です。

> No.4
> 回答者:10MillionVolts 回答日時:2011/09/16 23:31
>
> 太った醜いおばさんと哲学は相容れない。
>
> のだろうか。
>
> ダメージはどのくらい?

「人間にいろいろあるとする観点からすれば、哲学にもいろいろあると言えます。」とは、貴方の観点によって「太った醜いおばさん」等のカテゴリを人間に充てるときは哲学にも多様なカテゴリを見出されてはどうか、すなわち、そのような人物には「太った醜い哲学」が相容れるであろう、ということです---〈philo grasse et laide〉なかなか笑える表現です---。例えば、アドルノの思考がアドルニーレと呼ばれ嫌われる場合があるように、特定の視点から見ると、削ぎ落されない思考、醜悪な筋運びであるとみなされる哲学があるでしょう。
そしてまた、「人間は似たものを理解し、掛け離れたものを誤認するのです。」とは、貴方の言うような太った醜いおばさんは、太った醜い哲学を理解し痩せた綺麗な哲学---〈philo maigre et belle〉も面白い言い回しですね---を誤認するのだ、という意味です。しかし今、貴方はわたしと逆を主張しています。すなわち以下のとおりです。

> 離れればよく見える。違うから理解できる。という考え方もあるような気がしまっす。

特定であるわたしの返信に対し逆を採択されるのですから、「太った醜いおばさんだからこそ、痩せた綺麗な哲学を理解できるという考え方もある」というのがあなたの主張です。もちろん初めにことわったとおり、貴方がこのカテゴリ分類による観点を持つとすればという条件です。

それから、

> 似ている・似ていない などと勘違い(誤判断)することもたいへん容易なんでしょうか。

とありますが、似ている似ていないはいったい誰が判断するのでしょうか。わたしが述べたのは、理解しているものごとは(理解しているという判断主と)似ていることであり、誤認しているものは(理解しているという判断主と)掛け離れたものである、ということです。似ている・似ていないは述語であり、それ以上でもそれ以下でもなく話者の立言において真であることです。つまり、貴方の命題「太った醜いおばさんと哲学は相容れない。(改行)  のだろうか。」においては、似ている・似ていないとは、あなたの立言に含まれる述語です。この述語が、カテゴリ分類したものと哲学を「と」で結んだあなたの行為に含まれているとみなして、わたしは前回の返信を寄せているのです。

次は、質問への答えを用意してから、おいでになりますようお願い申し上げます。

お礼日時:2011/10/02 04:30

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