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 (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

 (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。

 (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。

 (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。

 (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。

 (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。

 (7) この虚構のからくりは 次のようである。

  (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。

  (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。

  (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。

  (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。

  (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。

  (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。

  (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。

  (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。

  (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。

 
 この哲学を問います。よろしくどうぞ。

教えて!goo グレード

A 回答 (14件中1~10件)

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> ☆ こうなりますと 見方がふたつに分かれるのかも知れません。
 ○ 片や 「自分を裏切らない」という困難性を捉えるばあい。そして片や 誠心誠意のことばを発したはずが 覚えずみづからがみづからを裏切ってしまったことにおいて 言わばお手上げとなってむしろ おふざけとも呼ぶべき振る舞いであったと見るばあい。

 了解致しました。

> ☆ わたしには 後者のばあいも キリスト・イエスにつながっていると見えます。ふところに抱かれているとさえ見えます。その情況といったことを問うてみたかったです。

 誠に申し訳ございません。“虚偽の”キリスト・イエスということなのでしょうか?
 愚見を申しますと、「自分を裏切らない」と思いつつも、現実は必ずしもそうはいかない。そう考えましたときに、ただただ、神のふところに抱かれるしかない、と非力な愚生は考えております。

> ★ ~~~~
 ただ、一つだけ、気になるところがございます。それは、贖罪の問題でございます。以下に考えられうるものを列記してございます。
 ~~~~~~~~
☆ けっきょくこの主題についても イエスの出現するまでの旧約の時代に 大いなる虚構をあてはめて 原罪とそのあがないを捉えることにならないでしょうか?

  “原罪とそのあがないを虚構”としてしまいますと、神学が成り立つのかどうかの疑問が沸いてきてしまいます。
 そして、(皇帝ネロ当事)幾多の殉教者を出したときのリーダー的存在でもあるパウロは、冷酷な独裁者になってしまうと思うのですが、いかがでしょうか。
 仮に幻想であったと致しましても、贖罪がなされたという錯覚を信徒達に与え、人間としての希望を与えた功績は認められるかもしれません。しかしそれにしましては、犠牲者の数が多すぎると思われます。
 減らず口をたたいてしまいまして、誠に申し訳ございません。

> そのばあい イエスよりあとの世界史は 存在論にとってのひとつの基礎として 依然としてわが心のへそを曲げ得てあやまち得るところの自由意志を持ちつつ その自由意志に対する養育係としての倫理規範である律法が その枠組みとしては取り払われた(つまり 原罪があがなわれたゆえ)というあたらしい舞台の上に繰り広げられることとなった。こう見ます。

 たとえ、でっち上げであったと致しましても、上述ことは成立するものと考えられます。

> 原罪がちゃらになったということの周知徹底が たとえばこのニ千年のあいだおこなわれた。という見方にみちびかれると考えます。民主制のグローバル化が すすめられたという内容とほぼ同じですが。

 お恥ずかしながら、贖罪思想につきましては、あまり明るくはないのですが、原罪がちゃらになったと、人々がそう思えるようになったとき、新天地を築こうと考えたのは、理にかなっていると考えられます。

> ちょっと飛躍しているかも分かりません。

 いえいえ。この度のbragelonne様の円月殺法には、ただただ愚生はクラクラしてはおりますが・・・

> 原罪がことさら持たれず意識されなかった時代ないし地域においては おそらく倫理規範の有無・その有効性いかんが 問題となって来たのだと見ます。言いかえると 自由意志の可謬性のもんだい つまりは 意志の自由選択においてみづからが答責性をおびるという現実が問われているものと考えます。

 意見を等しく致します。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ★ ~~~
 > ちょっと飛躍しているかも分かりません。

 いえいえ。この度のbragelonne様の円月殺法には、ただただ愚生はクラクラしてはおりますが・・・
 ~~~~~
 ☆ そうですか。考えてみれば そういう方向をも視野に入れて思考実験をしてみたものです。
 
 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 イエスからあとの時代そしてあるいはクリスチアニズムが 社会のならわし(文明)として持たれなかった地域 これらの時代と地域にかんして イエス・キリストあるいはいま 原罪の問題は どう扱われるか? こういう問いの立て方です。
 言いかえると クリスチアニズムの陣地にそのような言ってみれば《異邦人》を招き入れるというかたちではなく 異邦人のそのままの世界にこちらが入って行って どう話を説き起こすか? こういう問い求めの仕方です。

 すなわちたとえば イエスが出たからには 原罪はすでにあがなわれています。しかもじつは そのあと宣教のつとめが果たされたのではあるのですが もはやイエスの神を人びとにおしえることはないと書かれてもいます。

 ▲ (ヘブル 書8:7-13) ~~~

    ・・・
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (エレミア書 31:31-34)

 →【Q:ヘブル書に引くエレミア書の《新しい契約》とは?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3807611.html
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ですから 要するに現代日本人にとっては
 ★ 原罪がちゃらになったと、人々がそう思えるようになったとき、新天地を築こうと考えたのは、理にかなっていると考えられます。
 ☆ という状態になっていると考えられるのです。一たん 原罪(ないしおのれの自由意志のあやまちが 言わば取り返しのつかないほどのあやまちだという規律性の自覚)の問題に注目する必要があるようには思えますが そのあとは アダムから第二のアダムまでの原罪や律法の問題がもうなかったかのように振る舞う。そう振る舞ってもよいと 上のヘブル書は 基本的に言っていると思えるのです。


 ★ ~~~~
 “虚偽の”キリスト・イエスということなのでしょうか?
 愚見を申しますと、「自分を裏切らない」と思いつつも、現実は必ずしもそうはいかない。そう考えましたときに、ただただ、神のふところに抱かれるしかない、と非力な愚生は考えております。
 ~~~~~~
 ☆ 究極の言い方をしますと 神が・そしてイエスもキリストとして 当時のユダヤ人たちに反発を呼び起こし 弟子たちにも裏切るという行為をさせた。こういう見方です。
 弟子たちも イエスがキリストつまり神であるということが分かっていなかった。その限りで イエスに最後までしたがうと言っていたとしても その力はあたえられていなかった。つまり 裏切った。
 《わたしを見る者は 父つまり神を見る》とイエスが言っても 弟子たちすら そのことが分からなかった。つまり《虚偽のキリスト・イエス》だと思っていた。(意識としては そうではなかったはずですが)。
 すなわち
 ★ 「自分を裏切らない」と思いつつも、現実は必ずしもそうはいかない。
 ☆ という事態を神なるキリストに対する場合として捉えるならということです。この場合はです。
 
 キリストのことが分からなかったのだ。裏切らないと言っていたとしても キリストのことが分からなかったその状態では 裏切る・裏切らないということの内容をほんとうには知らなかった。知りようがなかった。分からなかったからこそ 去って行ったあと キリストであったと分かった。のだと。
 視点が 一段高められた。のではないでしょうか?

 生前のイエスは ウソだった。あるいは ウソであってもよいほどだ。という地点に 死後には 立たされた。


 ★  “原罪とそのあがないを虚構”としてしまいますと、神学が成り立つのかどうかの疑問が沸いてきてしまいます。
 ☆ 神学がウソであってもかまわないという地点に 弟子たちは・そしてパウロも またわれわれ神の子らとされた者たちも 立たされているのではないでしょうか?


 ★ そして、(皇帝ネロ当事)幾多の殉教者を出したときのリーダー的存在でもあるパウロは、冷酷な独裁者になってしまうと思うのですが、いかがでしょうか。
 ☆ といった話が起こされるようなことが 歴史に実際に起こったのですが。つまりこれが イエスのあとの時代にも起こったのですが たとえばこのイエスのあとのニ千年 この時間というのは 時間差がはたらいたというごとく イエス・キリストの出現についての人びとの心の整理に当てられたのかも知れません。エレミヤの預言によれば イエスの去ったあとただちに このイエス後のニ千年という今の世界の状態になってもよかった。

 そんな想像の国での思考実験ですが いかがでしょう?

お礼日時:2011/09/28 23:57

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> この質問は 根はまじめですが どこかふざけています。
 聖書をふざけて捉えることしかしない人びとも大勢いますから そのような場合に合わせた問い求めの仕方になります。


 はい。根本的なところは極めて真剣なものと拝察しております。


> でも ペテロにしたところで けっこうふざけていませんか? 自分の言葉を裏切ってしまうわけですから。


 自分の言葉を裏切る、確かにそのように考えられます。では「自分を裏切らない」という困難性は、おそらく誰もが実感しているものとも思えるのですが、いかがでしょうか。

> しかもこのように見る見方は イエスが十字架上に去って行ってしまうまでは 弟子たちにさえも あたかも目隠しの魔法がかけられていて イエスがキリスト(神の子であり神)であるとは分からないようにされていたといった冗談話をもみちびくかと思います。


 福音書を読む限りにおきましては、仰られるとおりかと存じます。飛躍ではないものと考えられます。


> ☆ 去らなければ パラクレートでしたかその聖霊は この世につまり弟子たちを初めとする人びとという人びとに送られて来ないのだと。


これは、一般論でございますが、“殉教者”の存在というのは大きい影響をもたらすことは事実かと考えております。
 では、ゴルゴダの丘での処刑がなければ、どうなっていたか? さらには、いき続けていたならばどうなっていたか? もちろん、答えはわかりません。ですが、断定は出来かねますが、人類史上最大の特異点とはおそらくなりえなかったかと思われます。

 
> ですから イエスは 自分が神であるとウソをつかなければならなかった。その虚構が 虚構こそが じんるいのための聖霊のたまものをよみがえらせた。ウソこそが 現実に人びとの心の燈心に火をともすことになった。
 

 この問題につきましては、参考とするものがないため、何とも申し上げられない、というのが実情でございます。
 ただ、一つだけ、気になるところがございます。それは、贖罪の問題でございます。以下に考えられうるものを列記してございます。

・そもそも原罪というものがなかった
・原罪はあったかもしれないが、これらのペテンにより、贖罪されたと、嘘を吹き込んだ
・原罪はあったかもしれないが、理由はわからいなが、とにかく許されることとなった


 最後まで、お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
  > でも ペテロにしたところで けっこうふざけていませんか? 自分の言葉を裏切ってしまうわけですから。


 自分の言葉を裏切る、確かにそのように考えられます。では「自分を裏切らない」という困難性は、おそらく誰もが実感しているものとも思えるのですが、いかがでしょうか。
 ~~~~~~~
 ☆ こうなりますと 見方がふたつに分かれるのかも知れません。
 ○ 片や 「自分を裏切らない」という困難性を捉えるばあい。そして片や 誠心誠意のことばを発したはずが 覚えずみづからがみづからを裏切ってしまったことにおいて 言わばお手上げとなってむしろ おふざけとも呼ぶべき振る舞いであったと見るばあい。

 ☆ わたしには 後者のばあいも キリスト・イエスにつながっていると見えます。ふところに抱かれているとさえ見えます。その情況といったことを問うてみたかったです。


 ★ ~~~~
 ただ、一つだけ、気になるところがございます。それは、贖罪の問題でございます。以下に考えられうるものを列記してございます。

 ・そもそも原罪というものがなかった
 ・原罪はあったかもしれないが、これらのペテンにより、贖罪されたと、嘘を吹き込んだ
 ・原罪はあったかもしれないが、理由はわからいなが、とにかく許されることとなった

 ~~~~~~~~
 ☆ けっきょくこの主題についても イエスの出現するまでの旧約の時代に 大いなる虚構をあてはめて 原罪とそのあがないを捉えることにならないでしょうか?
 そのばあい イエスよりあとの世界史は 存在論にとってのひとつの基礎として 依然としてわが心のへそを曲げ得てあやまち得るところの自由意志を持ちつつ その自由意志に対する養育係としての倫理規範である律法が その枠組みとしては取り払われた(つまり 原罪があがなわれたゆえ)というあたらしい舞台の上に繰り広げられることとなった。こう見ます。

 原罪がちゃらになったということの周知徹底が たとえばこのニ千年のあいだおこなわれた。という見方にみちびかれると考えます。民主制のグローバル化が すすめられたという内容とほぼ同じですが。

 ちょっと飛躍しているかも分かりません。

 * 原罪がことさら持たれず意識されなかった時代ないし地域においては おそらく倫理規範の有無・その有効性いかんが 問題となって来たのだと見ます。言いかえると 自由意志の可謬性のもんだい つまりは 意志の自由選択においてみづからが答責性をおびるという現実が問われているものと考えます。
 原罪は要らないと言えば要らないということでしょうが それに代えるに 自由意志とその答責性については――人間の社会的交通の理論および現実にとって 先ほどの民主制のグローバル化と同じように―― 普遍的な人間性(自然本性)にそなわるものとして自覚される必要があったのだと見られます。

 質問者から 反応のままに書き込んでしまう結果となりました。割り引いて捉えておいてくださればさいわいです。

お礼日時:2011/09/27 23:14

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> そうですね。この質問の趣旨は たとえ歴史的イエスが実在しなかったとしても つまりは従ってまったくの虚構であったとしても その哲学的な内容がわれわれにうったえるものがある。こう見ようとしています。

 了解致しました。

> 実在についての論議としては おそらく次のようなひとつの結論が得られているのだとは思われます。

 まず、下記の内容に示しております、3つの共通事項の確認が得られましたこと、幸甚に存じます。

・イエスという名の人物はいた(しかし、福音書の記載内容が史実を伝えているかどうかは不透明)
・パウロは実在した
・イエスなる人物に弟子たちがおり、その中で、ペテロ、ヨハネは実在した
 
> それでも 話は成り立つ。ということを問うています。
 どうでしょう?

 了解致しました。

 ただ、聖書を読みますと、そのリアル感には圧倒されます。たとえ、でっちあげ、であったとしてもです。そこでまず、記載内容から、引用したいと思います。
 (実在した)ペテロは、弟子の中心的人物でございましたが、実を申しますと、決して有能な弟子とは見受けられません。確かにでたらめかもしれません。具体例を以下に述べさせていただきます。

 ペトロが、「たとえ、みんながあなた[イエス]につまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った、にもかかわらず(マタイ26:33)、
 そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言ったとき、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言い、また、ほかの女中が彼に目を留め、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言ったときにも、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消しました。 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めました。するとすぐ、鶏が鳴いた訳でございます。(マタイ26:69-74)

 もし、本来ですと、ペテロは「いや、わたしがそのナザレのものだ!」と言い放ち、自らがその盾となるべきかだったかと思われます。
 しかし、この一連の場面は、少なくとも愚生には、次の言葉により、背筋を凍らせ、金縛りへと導きます。「だったら、ひどっち君、君ならそうできるんだよね」。
 ただただ、自己の非力さに絶望させられる次第でございます。かような愚生にも生きる資格があるとするならば、それは・・・と考えてしまいます。 

 以上その一例を見てきましたが、聖書の記述は極めてリアル感に満ちております。もし、これらの場面がたとえ捏ち上げであったとしましても、人々を引きつける何かを持っているものと考えております。もし捏造でしたら、聖書記述家は非常に想像力豊かであったかと推察できるものと考えれます。

 そこで、「それでも 話は成り立つか?」の問いかけにつきましては、成り立ってしまう、というのが愚見でございます。

 最後まで、お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 いわば思考実験でしょうか この質問は。

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 この質問は 根はまじめですが どこかふざけています。
 聖書をふざけて捉えることしかしない人びとも大勢いますから そのような場合に合わせた問い求めの仕方になります。

 でも ペテロにしたところで けっこうふざけていませんか? 自分の言葉を裏切ってしまうわけですから。
 しかもこのように見る見方は イエスが十字架上に去って行ってしまうまでは 弟子たちにさえも あたかも目隠しの魔法がかけられていて イエスがキリスト(神の子であり神)であるとは分からないようにされていたといった冗談話をもみちびくかと思います。

 ▲ (出エジプト記33章) ~~~
 21: 更に、主は言われた。
   「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。
   あなたはその岩のそばに立ちなさい。
 22: わが栄光が通り過ぎるとき、
   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、
   わたしが通り過ぎるまで、
   わたしの手であなたを覆う。
 23: わたしが手を離すとき、
   あなたはわたしの後ろを見るが、
   わたしの顔は見えない。」
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ 去らなければ パラクレートでしたかその聖霊は この世につまり弟子たちを初めとする人びとという人びとに送られて来ないのだと。
 
 ですから イエスは 自分が神であるとウソをつかなければならなかった。その虚構が 虚構こそが じんるいのための聖霊のたまものをよみがえらせた。ウソこそが 現実に人びとの心の燈心に火をともすことになった。
 このウソを本当だとは決して見ることが出来ず信じることができなかった(あるいは 信じることができないように魔法がかけられていた)人間の非力さが 十字架上の特異点につうじて聖霊のちからをあたえられることになるという方程式。
 恩恵は ただですから。ただ(無料)という言葉が 恩恵・めぐみということですから。

 このように考えます。いかがでしょう?

お礼日時:2011/09/26 23:31

母さんが夜鍋をして編んでくれたのは手袋ですが、


クリスチャンがおしゃれをして編んでるのは、
史上稀にみるペテン師の物語だったのですね。
今晩は。麦酒の季節が去ってやや感傷的なtaco8chです。

ところでその織物はそろそろほころびも酷いようだし、
第一デザインが陳腐で着れないんじゃないのかい?
なんたって肝心のクリスチャンが、
モエモエのレディメイド志向なんですものご主人様。
作者はとうの昔に死んだけど読者も死んだら、
このまま着られることも朽ちることもなく
百貨店の洋服売り場に埃と一緒にお蔵入りだねきっと。

昨今はカジュアル服でもメイドインチャイナだから、
安上がりでしかもそこそこ流行に即応してるし、
リサイクルで編み直しもするんだよ。試しに発注してみたら?
あ、そうそう、ところでわが国にも数十年前まで、
朕は神であるとのたもうた人がいたらしいよ。
もっとも彼の場合はカミングアウトしちゃったけど。あは。
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この回答へのお礼

 taco8ch さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 史上稀にみるペテン師の物語だったのですね。
 ☆ ですから 《稀にみる》かどうか その《稀》の度合いが問題だということでしょう。

 ☆☆ (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。
 ☆ というように《最大》というと まだ 語弊がありましたが
 ☆☆ (ι)・・・世界史上ただひとつの特異点・・・
 ☆ というように《ただひとつ》と言えばよいし 言うべきでした。


 ★ ~~~~~
 あ、そうそう、ところでわが国にも数十年前まで、
 朕は神であるとのたもうた人がいたらしいよ。
 もっとも彼の場合はカミングアウトしちゃったけど。あは。
 ~~~~~~~
 ☆ 同じ類型であるのですが――《現人神》は 《わたしは神である》と言うことですから 同じ類型であるのですが―― その類型を誰が支持したかで またその大ウソのあり方が違って来ます。カミングアウトの問題ではありません。
 
 ひとつにイエスの場合は 生前にはいくら神の子であり神であると言っても 弟子たちを初めとして人間は分からなかった。うたがったというよりも そんなことは分からなかった。十字架上に去ったあと やっと分かった。
 つまりは 顔と顔を合わせて神を見ることは出来ない相談だから イエスを見ていても分からなかった。去ったあと わづかにイエスの背面を 神の子であり神であるキリストとして見ることが出来た。

 ひとつに 現人神の場合には 人びとは それを信じたふりをしていただけ。うたがうというよりも そんなことはあり得ないと初めから思っていた。だから 人間宣言と言われているけれど そのような内容は ほんとうには表わされていない。もともと 表現のあやが大々的におこなわれ それとして推移したのみ。
  【Q:昭和天皇による《人間宣言》は何を語っているのか?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5915762.html



 ★ ~~~~
 ところでその織物はそろそろほころびも酷いようだし、
 第一デザインが陳腐で着れないんじゃないのかい?
 ~~~~~~
 ☆ たとえば どの箇所で《ほころびが酷いよう》ですか?
 《陳腐なデザイン》とはどういうところを言うのでしょう?

 《着る・着れる》というよりは 《わが心の闇を照らし出した》だけではなく 《わが心の燈心に火をともした》という表現で伝えています。
 なかなか 捨てきれまいということではなかろうか。


 ★ ~~~~
 昨今はカジュアル服でもメイドインチャイナだから、
 安上がりでしかもそこそこ流行に即応してるし、
 リサイクルで編み直しもするんだよ。試しに発注してみたら?
 ~~~~~~
 ☆ これを言う意味が分からない。聖書の普及版がいくらでも欲しいと言いたい?
 そもそもその発想が ちゃちである。
 心の燈心に火がともされたなら それは 一生に一度なのだから リサイクルなどという発想が おかしい。

 麦酒の飲み過ぎぢゃないの? 

お礼日時:2011/09/24 00:15

 こんばんは、ひどっち でございます。



 突然の参入の非礼、深くお詫び申し上げます。

 仰られますように、主イエス実在の一次試料はないと、されております。
 ですが、以下に二次試料と思われるものを挙げさせていただきました。

ヨセフスのキリスト証言
http://www.sevenz.com/sevenZ/religion/josephe.html 

 また、今日におきまして、考古学・聖書学上その実在が確実視されているものも列記させてもらっております。

新約聖書に登場する実在人物
・パウロ(ロマ書は西暦50年代後半とされています。ガテラヤ書もほぼ同時期とされています。なお、福音書の成立よりも古いとされています)。殉教したといわれています。
・12弟子ペテロ(パウロの書簡にその記述が認められるとされています)。殉教したといわれています。
・12弟子ヨハネ(パウロの書簡にその記述が認められます)。処刑を免れたといわれています。

 また、一方では

皇帝ネロ(西暦37-68)
西暦64年 イエスの死後約30年後には、キリスト教徒の大迫害が実施されたことから、既にこの当時に相当数の教徒がいたことが推察されます。

 では、何故多くの信者が、殉教までしたのか? この問いにつきましては、おそらく、イエスのような人物(とりあえずそう呼ばせていただきます)がいたことを示唆しているものと考えられます。

 今回は、確実視されている知見のみを列記させていただきました。つまり、(6)に対します回答のみとなっております。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。この質問の趣旨は たとえ歴史的イエスが実在しなかったとしても つまりは従ってまったくの虚構であったとしても その哲学的な内容がわれわれにうったえるものがある。こう見ようとしています。

 実在についての論議としては おそらく次のようなひとつの結論が得られているのだとは思われます。

 ▲ (ヨセフスのキリスト証言) ~~~
 では本当にイエスは実在したのだろうか。 
 たとえヨセフスのキリスト証言の殆どが書き換えられているとしても、最初からそのテキストが存在しなかったとは考えづらい。
 つまりなんらかのイエスについての記述があったのは間違いないだろう。
 とすればイエスは実在したのだろう。
 しかしキリスト教会側の証言のようではなかった可能性はある。
 なにしろそれ以外は、このヨセフスの(真偽の疑わしい)証言しか残っていないのだから。
 ~~~~~~~~~

 そうして 次のようです。
 つまり パウロやペテロやそのほかの弟子たち あるいは その後ローマなどにおいて迫害に遭った《クリストに就く人たち》 これらに人びとが実際にいたし 歴史的事実でもあるといったことは それでも最大限に譲歩しようと思えば けっきょくパウロらが イエスという人物をでっち上げてその物語をつくったというところまで行くかと思います。

 つまりは ヨセフスの証言を合わせて捉えるなら ともかくイエスという名の人物はいた。ただしその歴史的な生涯の内容は 聖書に伝えられているところと同じかどうかは分からない。
 つまりは 最大限に譲歩しようと思えば 多少ともいわゆる宗教家として活躍したイエスなる人物がいて その人にかこつけて いまの聖書に記述される発言や行動をおこなったという物語をパウロらが編んだのだ。とここまで 縮約されるものと考えられます。

 それでも 話は成り立つ。ということを問うています。
 どうでしょう?

お礼日時:2011/09/23 00:10

ブースターです。


重大な誤解を発見しました。

★ それは信じてもいいんじゃないですか
 ☆ たずねていません。
 ちなみに そういう主題としてでしたら 信じるかどうかを人が調べてからその人間としての判断にもとづいて信じると決める そういうものではないというのが 質問者の見解です。信じることは 神からあたえられるという意味です。
 

主語が無いので文脈が誤解されていますが。
>それは信じてもいいんじゃないですか
これは、そんなイエスさんを私は信じるよ。
こんな意味です。
そこからあなたも信じ抜いていいのではないですかと言う様な文脈です。

ああ、簡潔に述べるなら同じことか。
今回は駄文となりましたが、何かの役に立つかもしれないので投稿しておきます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 お応えしやすいこちらのほうから お応えします。

 主語を 人間・わたしとしていましたよ。

 そしてそこで 厳密に言えば わたしが信じるということは その信仰があたえられることだという意味です。
 その意味では 信じていいんぢゃないかという主題としては まづそのようには問うてもいませんし こちらつまり人間のわたしが 信じていいかどうかを 先に考えたり判断したりすることではない。このように質問者としては 思っていますという意味です。

 ★ そこからあなたも信じ抜いていいのではないですかと言う様な文脈です。
 ☆ という命題を掲げるということでしたら それは《わたしが 信じるにあたいする神だと判断する》ことが先に来ていますね。
 質問者としては そうは考えていませんが どうでしょう? というお応えです。

お礼日時:2011/09/22 23:31

ブースターです。


逃げ出したくなるほどの難題なのですね。
聖書のあらすじは神が待望された社会にイエスと言う救世主が現れてそして死んだと言う事なんですか。

イエスの死をみとった人々は弱い人間であり彼を死に追いやった人々だ。
イエスは確かに神であった、彼らのその神を信じる行いが彼を死に追いやった。

そんな事を考えました。
それから神からすらも奪うしかない風土で、そこに忽然と神ですと名乗りを上げたなら偉い人だなーとは思います。
イエスさんはうそをつく必要があったと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 今回は 表現だけだとしても 受け取り方によって微妙な内容が違って表わされるようなご回答だと思います。

 ★ 聖書のあらすじは神が待望された社会にイエスと言う救世主が現れてそして死んだと言う事なんですか。
 ☆ 旧約聖書の時代から待望されていたのは メシアと呼ばれる救世主と言えば救世主だと思います。
 それは・つまりメシアは もともと国王としてであったでしょうから 政治的なカリスマ これが待望されたということかも知れません。つまり 一般におそらく 神がではなかったのでしょう。

 ただし イエスがそのメシアとして現われたとき・もしくはその死後には それは神の子であり神であったと受け取られて行った。

 ★ イエスは確かに神であった、彼らのその神を信じる行いが彼を死に追いやった。
 ☆ これは イエスの死後にそう解釈されたと見れば 考える余地があるかも知れませんが 生前においては けっきょく誰ひとりとしてほんとうに神の子であり神であったと――弟子たちを含めて――思っていなかったはずです。
 すなわち メシアであっても 政治的な解放者 あるいは いわゆる偉い宗教家として受けとめられたようです。

 事情もしくは情況は このようだったと捉えます。

お礼日時:2011/09/22 23:48

ブースターです。


イエスさんは神の子と言われる位なのでそれくらい強く信じて、そしてきずなでつながっていたのだろうと考えていました。
おっしゃる通り神そのものなら、自らが神であるイエスさんの言葉をよく聞く事はいいことでしょう。
それは信じてもいいんじゃないですか
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 いえ まちがえて捉えておられます。

 ★ おっしゃる通り神そのものなら、自らが神であるイエスさんの言葉をよく聞く事はいいことでしょう。
 ☆ まづこのように《イエスという人は――伝えられているところによるとですが―― 特にそれまでのユダヤの歴史において伝承されてきたメシアつまりキリストであるという言葉において 自分は神の子であり神であると言った》 このコトから話を始める必要があると考えます。
 (このコトを重要視しないし どうでもよいことだというのであれば 話はかみあわないことになります。その場合には かすかに話し合いの道が残るとすれば そのような見解において聖書の物語を 全部解釈し直してみせ 人びとにほんとうはこういうコトだったのだよと説明し得たというときでしょう)。

 つまり あらたな解釈にもとづく仮説が現われて来るまでは
 ★ 自らが神である〔* と言った〕イエスさん
 ☆ このコトが 話の出発点です。

 その出発点に立つばあい しかもこの質問では 質問者の解釈において問うています。大ウソをついたその虚構が もっとも重要な役割を果たしているのではないか? こういう問いです。言いかえると
 ★ イエスさんの言葉をよく聞く事はいいことでしょう。
 ☆ こういう見方は ここでは問うていません。かかわっていません。
 もしかかわっているということでしたら その理由を添えて説明してください。

 ここまで説明して来ましたように 次の観点や見解も ここではまったく話がかみあっていません。
 ★ イエスさんは神の子と言われる位なのでそれくらい強く信じて、そしてきずなでつながっていたのだろうと考えていました。
 ☆ 《神の子と言われる》ことは 二の次です。《と言われる》という部分は 二の次です。自分で言ったというそのコトから入ってくださいませんか?

 ★ そのくらい強く信じて
 ☆ われわれ(人間)が信じるということかと受け取りますが これもここでは ニの次の話です。人が信じる以前に イエス・キリストという物語つまり一大虚構が編まれたというコト これをどのように捉えるかを問うています。

 ★ そしてきずなでつながっていたのだろうと考えていました。
 ☆ きづなでつながる以前の段階において この虚構が哲学の主題であるということを問うています。


 ★ それは信じてもいいんじゃないですか
 ☆ たずねていません。
 ちなみに そういう主題としてでしたら 信じるかどうかを人が調べてからその人間としての判断にもとづいて信じると決める そういうものではないというのが 質問者の見解です。信じることは 神からあたえられるという意味です。
 

お礼日時:2011/09/22 13:39

A4です。


いやー聖書は真理を表していると言うのなら書いてある事は単純なのだろうと思っていましたがムヅカシイんですね。
失敗もしでかすかもしれませんが、挑戦してみます。
お騒がせするだけに終わるかもしれません。

A1、信じる事が心そのものだったのではないか。
少なくても私はそのような心です。

B1、信じる事が全てであり、信じ抜いたと公言するならば、その愛なり他者への思いやりなりは神のそれである。
錯覚だと言われるかもしれないが、私はそれでも正直で居られる。

C1,私の良くやるお釈迦様の検証が、史実をこねくり回すことであるのと同様に、イエスさんの検証も、他者を想定していて良く判らない。
一つだけ、恐らく私と共通するのは、、神を想定するか、他者を想定するかはともかく、彼は愛されている実感が有ったのでしょう。
そしてその感謝を、はるかかなたに手向けた。
そこに神を想定した。

ところで十字架を私にかざすのはおやめください。
私はもしかすると悪魔かもしれませんから。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ところで十字架を私にかざすのはおやめください。
 ☆ これは よく読みとれません。どのように言ったり振る舞ったりすることが 《十字架をかざす》ことになるのか。ちょっと見当がつきません。

 たぶん 寄せていただいた回答の内容について 質問者としての考えを述べること そのとき もしそうなら批判をもおこなうということ このことが 十字架をかざすというふうに受け取られるのでしょうか?

 ☆☆ (No.4お礼欄) ~~~
 ( a-1 ) 《愛》をめぐって 《心情》という言葉が出て来ています。《心情を打ち明ける》ということは ふつう一般には 人間の経験行為でしょう。そのことと《愛 もしくは 神の愛》とがどのようにかかわっているのか? これが知りたいところです。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ★ A1、信じる事が心そのものだったのではないか。

 ☆ キリストは 神の子であり神であったとしるされています。次の《ことば》そして《ひかり》のことです。
 ▲ (No.3お礼欄) ~~~
 (ヨハネによる福音1:1~5) ~~~~
 はじめに ことばがあった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。
 このことばは、はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。
 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうしますと キリスト・イエスは 人びとが心に受け容れて信じるその対象であるわけです。つまり 神です。

 神みづからが 神を《信じる》ということがあり得るとお考えでしょうか?
 ★ A1、信じる事が心そのものだったのではないか。
 ☆ 神に 時間的な行為がありましょうか? 時間的に考えたり信じたり 考えを変えたり信じなくなったり そういう行為がありえましょうか?
 そういう表現をとるときがあるかも知れませんが それはあくまで擬人法で表現しているからであるはずです。
 そういったところについて神の問題があると思います。神とは何か? です。

お礼日時:2011/09/21 23:01

こんにちは。



ようやく飲み込めました。ニーチェへのオマージュだったのですね。

なるほど。虚構なればこそ、歴史上の特異点として価値の逆転が起こり得た、と。

事実は小説より奇なり。
しかしまれに小説は事実さえも描き直してしまう。


すみません一歩も進めませんでした
m(_ _)m
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この回答へのお礼

 いまんたるくすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 特異点で言おうとしたことは すべての因果関係から イエス・キリストの――そうですねぇ――意志は 自由である。といったところでしょうか。

 そのキリスト・イエスに――十字架上のその存在に――われわれもあやかろう。そうすれば 知恵と知識 知性と感性 すべての人間能力が活かされるであろうと。

 その点は
 ★ 価値の逆転が起こり得る
 ☆ ことに通じるのではないでしょうか?





 すみません。ニーチェは 好きではありません。
 たとえば 永劫回帰 こんな屁のような思惟や事態はあり得ません。ではないでしょうか?





 たしかに われわれで世界を
 ★ 描き直してしま
 ☆ いましょう。

お礼日時:2011/09/21 22:20

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