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文化の対義語が文明というのは、どのように解釈したらいいのでしょうか?
私見で構いませんので、もしわかる方がいましたら、教えてください。

A 回答 (17件中1~10件)

ボクの回答の意味を100パーセント汲み取ってくださり


ましたね。仰るとおりです。
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ちょっとだけ おじゃまします



文化と文明を 一対として見る それは

ひとつの世界に於ける 対流として捉えているのでは・・・

たとえば お味噌汁が お椀の中で対流してます

よく見ると 味噌汁の具が踊ってます

文化は踊ることで 文明は踊らされること

でも いつのまにか文明を取り込んで

文化はまた みずから踊り始める

そしてまた 新たな文明が・・・

文字が文明 行間が文化

おじゃましました (。・ω・)

この回答への補足

回答、ありがとうございます。
行間が文章を展開させているように、文化が文明を展開させているように思えます。

対流の喩えがよくわからなかったのですが、
踊っているもの(具)が文化、躍らせているもの(汁)が文明ということでしょうか?

補足日時:2011/10/08 09:42
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 “Civil”の問題が提示されましたのでそれに付随して考えてみました。

アメリカの「南北戦争」を英語ではなぜ“The Civil War”と表記するのかとの素朴な疑問です。日本語に直訳するなら「文明間の戦争」または「文明と非文明の間の戦争」とでもなってしまいかねません。“Civil”と“Citizen”の相関を念頭に置くならば、Cityに居住する者がCivilizeされた結果Citizenとして一つの階層を構成したと解釈され、であるならばその恩恵に預からなかった者達をどう呼ぶか、が問題になると考えられます。一つの潮流でCivilizeされた者からみれば相手は自分達と異なる潮流に与する者でありCivilizeされなかった存在と位置付けられた可能性もあります。
 ドイツ語の“Burg(城、城壁に囲まれた街)”が語源でありフランス語の“Bourgeoisie”は城壁で囲まれた中の街に住む者、に通ずる点もあります。本来なら壁一つ隔てた向こうとこちらは生物的に異なる種族の世界が広がっているわけでもなく、ただ「王権」が及ぶ支配の地域とそうでない地域の違い以外の変わりはありません。共通する要件として中世から近代のヨーロッパとアメリカに見られる共通要素は「キリスト教」に裏付けられた社会といえましょう。
 こうした点を踏まえるなら「一つの領域(空間的な範囲ではなく一つの法秩序および経済活動を共有する社会構造およびそれを支える諸要素)」そのものを文明と定義できる可能性もあると考えられその最大のメルクマールは「独自性」他にはないモノの存在と考えることも可能でしょう。これに対し「文化」には空間的・時間的および社会的階層の違い等による多岐な「括り」が存在することも確かです。ヨーロッパを見ても「フランス文化」「ゲルマン文化」などがある一方「六朝文化」「グプタ朝文化」「飛鳥文化」そして「町人文化」「原宿文化」などもあります。これらの括りも文明ほどはキツくない。時として「新しいモノが来た!」として簡単にそちらへ乗り換えてしまうことなど別に不自然でもありません。寧ろ積極的に新しいモノを受容しようとする「新しいモノ好き」「唐好み」の特質が常に新陳代謝を求め続ける特殊性もあると考えられます。
 どなたかが仰っていましたが、日本の幕末維新に見られた「文明開化」との「表記としての歴史用語」の存在があります。この時期を境に日本が西洋から受容したのは個別の文化であり、それは議会制度に基づく近代的政治体系の構築をはじめ新聞・雑誌などの発刊による市民社会構築への啓蒙などの「政治文化」である一方、それ以前とは異なる照明や被服などの「生活文化」として示されてもいます。こうした現象を「文明」と呼びうるものかと逡巡してしまいます。新しいモノに乗り換えたならば「文化開花」ともなるでしょう。
 もし西洋から移入したのが「文明」であるならば、それまでにあったモノを果たして「日本文明」と呼びうるものか?。寧ろ「近代化」との意味で「(西洋の近代)文明が閉鎖的特質を有する日本社会を開(明)化」と説明されるならば納得ができます。
 「文字」を例にとれば明らかです。日本独特の「かな文字」も源流は甲骨文字に端を発する漢字でありこれらの存在なくしても「かな文字」が形成されたかと問うならあるとは言えないまでもその可能性は大きくはないでしょう。ただ単に「西洋文明」を「日本文明」を対比させることでは余り説得力がない様に感じられましたが。
 以上、企業勤務と大学で歴史教育に携わり二股草鞋を履いている者からの雑感でした。 
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
「Cityに居住する者がCivilizeされた結果Citizenとして一つの階層を構成した」というのは、
やはり文明が都市(ここではシステム)と深く関係しているのかなと考えました。
環境と人間は深く関わり合っていて、環境が変われば人間は変わります。
もちろん、逆のこともあるでしょう。例えば、一人の発明が世界を変えることもあります。
明治維新では環境の変化が大きかったが故に、人間も変化せざるをえなかったのだと思います。
当然、変化を歓迎する者、抵抗する者がいたことでしょう。
もしも抵抗する勢力が強ければ、環境の変化を食い止めることもできたかもしれません。
文明の特徴が独自性にあるとしたら、独自性に誇りを持つ人間が必要になると思います。
そんな人間を育てるのが文化であり、文化のない文明は機械と同じで、発展はありません。
おっしゃるように空間を限定することなく、文明は成り立たないように思えます。
分権化、ローカリズムは空間を限定することを進め、文化を復活させる兆しになるのではないでしょうか?

お礼日時:2011/10/08 09:30

卓越したご指摘ですね。


(No.12のお礼)
>「豊かなのに不幸せというのは、文化が成り立っていないからではないでしょうか?
>そのとき、文化をいかに守るかという問題設定は間違っているかもしれません。
>民度を上げなければ、文明をコントロールすることができないからです。」

そう考えられる文化人は少ないでしょうね。文明人じゃない知識人(文化人)が大半なのです。明治の福沢諭吉のような、いわゆる啓蒙思想が日本社会に欠けています。表面的な学問のすすめや無目的な高学歴社会が実現し、たとえば、そんなのは科学的ではないなんて論説する人は多くなったと思いますが、その合理的な教養人が、資本主義や市場経済に反対するんですね。そういう人は本質的に文明人じゃないのです。銀行もなく市場もなく武器もないまま、活字とエコで暮らして行こうというのですから。科学に精通している平和宗教団体です。

なんとしても対立させたくなるでしょう。資本主義も市場経済も核兵器も文明ですから。

現在の文化は過去とは違っているのですから、現代文明抜きに実現可能な文化ということになると、相当、非文明的な時代まで遡らなくてはなりません。

文明を批判して、無農薬の農業を始めたいと思っても、明治の頃は農薬なんてないでしょうから、明治時代ぐらいの生活が出来るかと思ったら間違いで、明治の時の社会資本や社会構造は完全に現存しないのですから、とんでもなく無力になって、原始的になるのがオチです。こういうのが社会主義の自滅的破壊活動なのです。共産思想文化vs資本主義文明のような無意味な観念的対立のすえに、それを実行すると、ポルポトや初期の中国共産党やタリバンになってしまいます。実際しないのなら愚民化リスクのあるお遊びです。

不幸感については仰るとおりです。とりわけその原因が、不満足にあるのならば、不幸感は、社会制度ではなく、文化の問題です。文明の不備ではなく、個人の精神性の低さ(低い文化の社会主義思想)に原因があるのです。もし江戸や平安の文化人に今の資本主義文明を与えたら大喜びで機会を取捨選択し活用すると思います。時代ごとの文明に溺れるかどうかの適応力問題です。

政治的知識人が好む偏った見方の典型が文明文化の対立構造です。仮に、何か惜しまれる文化があったにせよ、その対立させた図式で説明しなくてもいいでしょう。文明否定が目的でないのならばその必要性はありません。個々の文化は個々の文化で取り組む問題なのです。
仮に都市文明が後進地域の文化を否定するものだったとすれば、それは文明の弊害ではなく、文明都市に暮らす人の文化程度の問題なのです。そしての文化が消えたとすればその責任は選択権を持つの人にあります。
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この回答へのお礼

観念的対立だけではなく、文明が先か、文化が先かという因果的対立も止めるべきだと思います。
そういった問題設定をしている限り、文明の退廃を文化のせいに、文化の荒廃を文明のせいにすることになってしまいます。
堕落した人間がその原因を環境のせいにしたら、ますます環境の悪化は加速されることでしょう。

現代社会は、文化を担い手の自己責任と考えられないほど複雑になりました。
その結果、個人の力ではどうしようもないという無力感が強くなります。
子供なんか特にそう感じているのではないでしょうか?
自由に選択する余地はありません。選択肢は始めから大人に用意されているからです。

卓越主義では、一部のエリートだけが全体を把握して、システムのメンテナンスをすればいいと考えます。
システムを許容するなら、それは必然にも思えます。パンピーに全体を見渡す能力はないからです。
しかし、それと平行して、地方主義、地域主義を勧めて、生活世界(文化)を充実させる必要があると思います。
自治の精神がなければ、民度も上がることもなく、システムに依存することになってしまいます。
その意味で、No.15の回答にある「独自性」というのも、重要な概念だと思いました。
独自性があればこそ、自治に参加しようという意志が芽生えるものと考えます。

では、どうすれば地方自治を進めればいいのか?
これは難しい問題なので、これからじっくり考えて、行動に移したいと思います。

thegenusのご指摘は、いろいろ考えさせられ、勉強になりました。
この質問もほとんど解決したのですが、みんなで考えるべき問題と思いますので、
解決済みにすることなく、このままにしておきますね。
また何か思うことがありましたら、ご回答ください。よろしくお願いします。

お礼日時:2011/10/08 10:42

補足欄拝見しました。


"civilisation" というフランス語は、すでに16世紀にはできていた "civiliser" という動詞からの造語です。そうして "civiliser" は「道徳、知性、芸術、技術などの面において、ある集団あるいはその構成員を、より進んだ、あるいはより進んだと考えられる社会的状態に引き上げる」という意味で、日常的に使用されている語でした。

語源的に見ると、ラテン語 civis(市民)の形容詞 civilis (市民の)から来ていて、直訳すると「市民にする」ぐらいになるでしょうか。
ラテン語の「市民」とは「(都市国家を形成する)市民」ということですから、「都市国家の一員である市民になっていく」という言葉が「より進んだ社会的状態になっていくこと」と変化したとしても、それは充分に納得できるもののように思えます。

最期に訂正です。前回引用した『文明の文法』のページナンバーの最初の箇所がまちがっていて、正しくはp.52ではなく、p.32です。お詫びして訂正いたします。
『文明の文法』はサブタイトルの「世界史講義」を見ても明らかなように、ブローデルが16歳から18歳の生徒たちを対象として、リセの教科書用に執筆したものですから、大変読みやすくおもしろいものです。手元にあるのはみすず書房版で引用ページもそれに拠っていますが、いまは中公文庫に所収されてずっとアクセスしやすくなっています。興味がおありでしたらご一読をおすすめします。
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この回答へのお礼

語源の紹介と引用の訂正、ありがとうございます。
早速、『文明の文法』を読んでみようと思います。
"civiliser" の意味を知って、文明は都市国家(システム)を支えるためには欠かせないものだとわかりました。
ただ、同時に、文明を活かすかどうかは、民度(文化度?)によるのかなと思いました。

お礼日時:2011/09/26 04:50

人類学などでそういう話になっているのですよね。

私は最初からそのつもりで回答しています。私自身の過去質問でも「科学とサイエンス」について議論させてもらいましたが、語源というのはあまり役に立たないのです。語源を薀蓄というのであって文明論は主題です。
このサイトはカテゴリー数があるわりに文化論に関するカテがありません。要望しましょうよ。私はその手の質問がたくさんあります。苦肉策で哲学カテを代用にすると超越的な世界観に凌駕されてしまいますので、文学カテは妥当だと思います。質問者さんが国語カテを選ばれなかったように、ご質問は、論文における語義になります。

細かいことですが、
>「とはいえ、市民化(civilization)と文明は、違う概念に思えますね。」
一般的訳語は、civilizationが文明(開化)ですよね。

これにヒント得て話を拡張するつもりはありませんが、今回の対比に似ている例を挙げられると思います。

「臣民の対義語が市民か」

臣民は主権者ではありませんが、市民は主権者です。朕は国家なりではありませんが、市民は都市国家なりなのです。
ですので、英語と日本語ではだいぶ語感が違うことになります。西洋では文明の正当性が高いはずです。
日本帝国は、その文明を輸入(購入)して始まりました。日本人的には文化と対立するどころか文明は商品のような出自です。文系の学者とマスコミが西洋の理屈を買っては国内で売りさばいています。文明vs文化もその一つです。

質問者さんもそう思っているかもしれませんが、この対立関係はフィクションです。西洋文明が現在の文明を論じる時の物語なのです。プロレタリア的な(原始に帰れ的な)文明批判をするための舞台設定なのです。学者・知識人・語り部らが金儲けするためのお話です。

質問文を読めば明らかに、そのお話での解釈を質問されているのですから、文明論を展開する回答が正論になります。

(No.6お礼)
>「その結果、(古い)文化と(新しい)文明が対立しているように感じるのですね。」
そこがポイントです。(古い)文化では語弊があります。日本の文明開化の場合、それまでの日本文明にかわる、新しい文明が入ってきて、文化は外面的にしか入ってこなかったので、それまでの文化が残ったのです。文化と文明のミスマッチが起こっています。未だにそうだと思います。日本人は政治文化を考えた場合、民度が低い、などと言えます。

そう考えると文明の方が無機的なだけに、傷つくのは文化の方ばかりと言えるでしょう。あるいは逆に、文明は取り入れたが、機能していないとも言えます。文化は摩滅されながらも文明と両立しています。その摩滅を退化とも進歩とも呼べます。

ですから最初から申し上げているように、文化と文明をそれぞれ具体的に指定しないと議論できないのです。漠然と文化と文明を対立させているインテリの論説はナンセンスということになると思います。
冷蔵庫が文明なら、文化は何なのかを指定しなければ、関係を作れないでしょう。対立しないのものの方が多いのだから。

ごく潰しの知識人が、物質的な支配者層を倒すためにその宗教活動に必要な世界観を創作したのですね。愚かな信者たちは患者よろしく、毒と薬のように対立しているものと信じるのです。どちらも毒性が作用している物質であっても対義語になってしまいます。それは個別の場合でそう説明できるでしょうという関係性です。

文化と文明を対比させる(学術的な・趣味的な)議論をしたい時に、概念の中に対照表を作ったということだと思います。源平合戦のように、赤白東西右左と二項対立させて、戦わせる物語を語りたい先生方が対義語になるように仕立て上げたのです。つまり対立先にありなのです。その目的はたいてい資本主義批判なのです。どう戦わせるか創作活動ですので小説ごとに違います。ご質問に対する答えは戦わせたかったからです。
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この回答へのお礼

度々の回答、ありがとうございます。
「文明の方が無機的」というのは、なるほどと思いました。
テクノロジーや制度は、自明なものとして、容赦なく生活に影響しますものね。

私は、文明をシステムを支えるためのプログラムと理解しています。
一方、文化を生活世界で必要な知識になるのではないかと考えています。
ここでは、システムは人為的な環境、生活世界は天為的(自然発生的)な環境と簡単に定義します。
本来、生活世界を維持するためにシステムは利用されるべきなのですが、
日本社会は急速な近代化によって吟味することなく、外部から文明を取り入れたために、
文化と文明のミスマッチが生じたものと考えられます。
豊かなのに不幸せというのは、文化が成り立っていないからではないでしょうか?
そのとき、文化をいかに守るかという問題設定は間違っているかもしれません。
民度を上げなければ、文明をコントロールすることができないからです。
だから、遠回りかもしれないけれど、文明を理解するしかないのかなと考える今日この頃です。

お礼日時:2011/09/26 07:03

ANo.10です。


質問者殿の補足が早速つき始め、話が見えてきました。
補足に併せ皆さんの見識あるご回答を拝読していますが、
勉強になります、感謝です。
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みなさんこの場を借りて、文化文明についての薀蓄を傾けているように見えますね。


"対義語が文明"にというからには、対義語がキーワードです。
質問者の質問の真意はどこにあるのでしょうか。気にせずに使った語でしょうか。
本音は聞いてみないとわからないのですが、これだけの回答に対して補足も礼もありません。
ご多忙なのかもしれませんが、"困ってます"というにしては、3日間も経っていますね。どうなっているのでしょうか。

回答を一通り拝読してみると、
ANo.5氏とANo.9氏の回答(as of 20:09 2011/09/24)が、文化文明論に没せず、この質問への回答としては正鵠を射ているような感じがします。
なぜならば、文化と文明を対義語として単純に受け入れず、対義語とする場合の観点に、客観的ないしは意図的に触れているからです。
外野ばかりが持論を展開しても無駄なので、質問者の反応があるまで放置したらいかがでしょうか。

*見ていて歯がゆさを抑えられずに横から割り込みでした、
             気に障られたらご恕しください。
因みに、この質問の課題については、私は誰のどのような"意図"の設問に答えるかで、回答は異なります。そうでないと真意が伝わらないからです。
学校の試験ならば先生の言うとおりに答えます。持論を述べよであれば、思うところを述べます。
これはかように正解のない課題です。質問の仕方から教えるのが本当の回答であり親切と考えます。

この回答への補足

返答が遅くなって、申し訳ありません。
質問の意図は、「文化」と「文明」の対立軸がどこにあるのかを知りたいということです。
質問のきっかけは、人類学で二つが対立概念として扱われていることを知ったことにあるのですが、
もう少し広い意見をお聞きしたくて、あえて抽象的な質問をしました。
NO.1、NO.2、No.9の回答を読んで、未開社会の視点に立てば、文明と文化が対立することがわかりました。
でも、個人的にはもう少しこの問題を深めたいと考えています。
No.6の回答にある相互関係の中で対立軸があるとしたら何か?
個人的には、「静的=結果=文明⇔文化=原因=動的」と大雑把に解釈していますが、
新しい意見がありましたら教えてください。

補足日時:2011/09/24 23:03
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ブローデルの『文明の文法』という本の第一章には「語彙の変遷」と題して「文明」という言葉の定義が「文化」と対比しながら試みられています。



「文明(civilisation)と文化(cluture)。civilisation という語は、フランスから発してあっという間にヨーロッパをかけめぐった。それに同道したのが culture という語だった」(p.52 フェルナン・ブローデル『文明の文法 I 世界史講義』 松本雅弘訳 みすず書房)

日本語で「文明」と訳されている "civilisation" というフランス語が登場したのは比較的遅く18世紀のことで、印刷物に公式に登場したのは1756年、経済学者ヴィクトール・ミラボーの『人口論』です。

それに対して「文化」に当たる "culture" という語はギリシャ時代からあり、キケロの『トゥムスクルム叢談』には「哲学は魂の涵養(cultura)である」という使い方をされています。それが意味を変え、"civilisation"とほぼ同様の意味を持つものとなっていきました。

ところが時代が下るとともに、二つの語を区別する必要が生じてきます。というのも "civilisation" という語は「精神的価値」と「物質的価値」という両方の概念を含んだ用語だからです。

マルクスのいう「上部構造」と「下部構造」、人間が作りだしたものの中でも、学問や芸術と、道路や港を区別したい、と、さまざまな人が考えるようになります。そこで"civilisation" と "culture" がふたつに分かれてきたのです。

「つまり、一方が精神的なるものの尊厳を担い、他方が物質的なるものの俗悪を担うというように区別したいという欲求は、そこから生まれてくる。不幸だったのは、どのように区別すればよいのかということについて一致を見なかったことである。そうした区別は国によって違うだろうし、それどころか、同じ国であっても、時代によって、著者によって、違うだろう」(p.33-34)

たとえばドイツでは「文明」は技術的知識とその実践を指すのに対し、「文化」は「精神」の役割を担い、はっきりとした区別をつける傾向にあります。一方、フランスやイギリス・アメリカではもう少し「文明」という語の意味合いは強く(そのためにそのちがいはあいまいで)、とくにフランスにあっては「文化」が「精神の生の個人的な全形式」であるのに対し、「文明」とは「集団的な諸価値をさす」ものであると考えられています。

一方、英語圏では、人類学者が未開社会を研究対象とするときに、「文明」とは異なる語が必要になってきた、という経緯があります。

「英語では、文明という語はふつう近代社会に関して用いられるからである。そこで彼らは、先進社会の「文明」と対立させて、原始「文化」というようになった。」(引用同)

以上のことをまとめると、
1.「文明」と「文化」という言葉は、「文明」という語が登場してきて以降しばらくは、ほぼ同じ意味であったが、その後、さまざまな局面で対義語として用いられるようになった。
2.その対義関係は、国、時代、人によって異なる。

さらに日本では「文化」も「文明」もともに明治時代に「訳語」として日本語になった新しい言葉ですが、このふたつが受け持つ領域のちがいは、ドイツの影響を強く受けていると言えるかもしれません。

ですから「科学文明」というときの「文明」が「物質的所産」をさし、「平安文化」というときの「文化」が「精神的所産」をさしている、というふうに考えるなら、「文明」と「文化」は対義関係にあると言えるでしょう。

この回答への補足

回答、ありがとうございます。
言葉の歴史的な文脈がよくわかりました。
個人的には「文化」と「文明」の言葉はうまく漢字を当てはめているなと感心するのですが、
言葉に囚われて、本質を見逃してしまう危険もありますね。
そんなとき、言葉の起源を辿ることの重要性は大いにあると思います。
二つの言葉は、civilize、cultivateから派生しているとすると、やはりニュアンスが違うように思えます。
civilizeは、教育という全体的なものの作用。
cultivateは、教養という個人的なものの作用と考えられるのではないでしょうか?
NO.6の回答にある
「文化と文明を対比させる文脈においては、
思想、芸術、習慣、情操などを文化、
道具、技術、制度、演算などを文明にしていると思います。」
というのも、そういった対立軸で説明できるのではないでしょうか?
とはいえ、市民化(civilization)と文明は、違う概念に思えますね。

参考
civilize
1〈民族などを〉文明化する,教化する.
2〈人などを〉洗練する; 礼儀正しくさせる.
cultivate
1
a〈土地を〉耕す,耕作する.
b〈栽培中の作物を〉中耕する.
2
a〈作物を〉栽培する.
b〈魚・カキなどを〉養殖する.
c〈細菌を〉培養する.
3
a〈才能・品性・習慣などを〉養う,磨く,洗練する.
b〈文学・技芸を〉修める,錬磨する.
c〈人を〉教化する,啓発する; 〈人に〉教養をつける.
d〈芸術・学術などを〉奨励する,〈…の〉発達に努める.
4
a〈知己・交際を〉求める,深める.
b〈人と〉親しくなろうとする,交際を求める.

補足日時:2011/09/24 23:37
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No.7さんご紹介の辞書の定義で大筋はいいと思うのですが、



民主主義という思想は文化であっても、選挙制度は文明になるでしょう。選挙システムは文明でしょう。


明治の文明開化には、憲法や国軍などの国の制度や、義務教育などの社会制度が含まれます。
それらも文明なのです。軍が文化ではおかしいでしょう。
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