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(前からの歴史の流れやいろいろな事柄にも関連させて)
日中戦争がはじまるまでに国際情勢(海外事情や国際事情、外交など)や政治はどんな感じでかわっていったのか
わかりやすく、詳しく教えてください。

A 回答 (3件)

 産業革命により、欧州諸国はさらに大量の原料と、それによる人口増のため食料増産の必要が生まれた。

(知っていると思うが、ドイツなどは高緯度に位置する関係で、食料の増産に苦労する。そのため作物の増産の足を引っ張っていそうな要素を取り除こうとして、農薬が作られる。それが毒ガスのはじまり。)
 それでたくさんの船を派遣しいろいろな原材料の探索と、食料確保を始める。最初はただの交易だったが、見るもの聞くもの自分たちとまったく違う。肌の色、言葉、習慣などをみて、ヨーロッパの白人はこれを遅れと見なした。なぜなら欧州のキリスト教が目指す神の国の人達が腰蓑だけで生活しているのは文明度の低さの現れだと考えた。そこであの連中は、現地の人間を「指導してやろう!」と考え、教会を中心とした布教がはじまり、同時に現地人を管理する植民地化が進行する。
 それを見た日本も、中国が列強と戦って負け続けるのもやはり遅れているから。だから日本が指導してやろう。ということで日本の周囲に植民していった。だから日本の当時の政策で際立っているのは、各地に学校を作り現地人を教えたこと。
 このことを見て、それまでの欧米による間接的ないわば妨害となったのが、共産主義。それが現地のナショナリズムと連結し、大きなうねりとなり、現在の中華人民共和国につながっていく。
 さらにアメリカは中国大陸の石油資源に目を付け、欧州は主に植民地経営継続を目指して、日本のライバルになった。当時の植民地の位置関係や資源分布をみれば欧州本国の生命線となっている状況も分かると思う。
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1552年ロシアはテュルク系イスラム王朝のカザン・ハン国を滅ぼし併合します。

ついでロシアは1556年アストラハン・ハン国を滅ぼし併合します。これがロシア帝国の拡張政策、バルカン半島方面への南下政策の始まりでした。これがロシア帝国とオスマン帝国の激突の端緒であり、16世紀から19世紀にかけて9度の露土戦争につながるのです。1853年~1856年のロシア帝国とオスマン帝国の戦争にはイギリス・フランスもオスマン帝国側に介入してクリミア戦争と呼ばれます。クリミア戦争後、ロシア帝国はバルカン半島方面への南下政策を自重し英仏との激突を回避するようになります。産業革命を経て近代化を果たした英仏軍には勝てないと悟ったのです。その一方でロシア帝国は樺太に進出し幕末の日本と交渉を進め、1855年日露和親条約の締結に成功します。列強の砲艦外交に屈した幕府は末期状態を露呈し、日本は明治維新を経て近代化を目指すことになります。一方、清帝国は1840年~1842年のアヘン戦争を端緒として戦争にことごとく敗れ、その退潮を露呈してしまいます。1857年~1860年のアロー戦争、1884年~1885年の清仏戦争、1894年~1895年の日清戦争。そこに眼をつけたのがロシア帝国です。ロシア帝国は清帝国と1689年にネルチンスク条約を結び、国境を画定させていましたが、清の退潮によって極東方面への南下政策のチャンスが到来したことに気づくのです。ロシア帝国は清帝国と英仏のトラブルに便乗して1858年アイグン条約を強要します。それは外満州をロシア・清の共同管理地とするというものでした。わずか2年後の1860年にロシアは北京条約を強要し外満州を完全にロシア領に組み入れてしまいます。それが外満州改め沿海州の軍港ウラジオストクの建設につながるのです。一方、西欧情勢は1870年~1871年の普仏戦争にプロイセン王国が勝利したことが決め手となって長年小国に分裂していたドイツ諸邦が統一されます。これ以降、ドイツ帝国は大日本帝国同様に近代化を急速に推進し帝国主義の時代に参入していくことになるのです。ドイツ帝国はフランス封じ込めを目的として1882年オーストリア=ハンガリー帝国とイタリアの三国同盟を締結します。イギリス、三国同盟に対抗して露仏は1894年露仏同盟を締結します。露仏同盟はフランスの技術と資本によってモスクワとウラジオストクを直結させるシベリア鉄道建設につながりました。そうなればロシアは極東方面への大規模な軍事動員が可能になり、極東方面への南下政策が本格化することになります。それに危機感を覚え、大陸進出を焦った日本は外交を誤ります。日本の性急な朝鮮政策は、李氏朝鮮に対日警戒感を呼び起こし、反ってロシアの朝鮮進出を手助けしてしまったのです。宗主国の清帝国の退潮、ロシアの南下政策、日本の朝鮮政策は、李氏朝鮮の政局を大混乱に陥ります。日本は日清戦争に勝利したものの、露館播遷によってロシアは漁夫の利を得てしまったのです。無邪気な日本国民は勝利に浮かれて、何のための戦争だったか見失ってしまいましたが、それは結果的にロシアの朝鮮進出を助けてしまったのです。また下関条約で清から遼東半島を割譲させたのも大変な外交上の失敗でした。それはロシア、フランス、ドイツに中国進出のチャンスを与えてしまったのです。露仏独は三国干渉で日本に遼東半島を清に返還させました。それは日本の大陸進出を妨害すると共に、清帝国に恩を売った形にして見返りに利権を得ようという巧妙な外交でありました。しかし無邪気な日本国民は外交の失敗を悟ることなく、臥薪嘗胆を合言葉に露仏独に恨みをいだきました。巧妙なロシアは三国干渉の見返りに内満州に鉄道敷設権を獲得し、ウラジオストクを結ぶ短絡線(東清鉄道)の敷設に乗り出し、さらに遼東半島の旅順・大連を租借地として獲得し、シベリア鉄道と旅順・大連が結ばれることになったのです。ここに至ってさすがの日本も外交の大失敗に気づきます。日清戦争はロシアの極東方面への南下政策を助けてしまったのです。日本の焦りはますます深まります。
一方、中国では清帝国の連戦連破と半植民地化に危機感を覚えた漢民族は排外テロで列強進出を食い止め清帝国を助けようと「扶清滅洋」を唱える義和団と、清帝国を打倒し近代化を目指す革命諸団体の、方向が逆の2つの流れが生まれます。それが1900年の義和団事件と1911~1912年の辛亥革命の流れです。
ロシア帝国は義和団事件に便乗して内満州を軍事占領し植民地化をさらに推進します。ここに至って三国同盟、露仏同盟後も孤立を保っていたイギリスは台頭しつつある日本との同盟に乗り出します。日清戦争・下関条約の失敗による失点を取り戻し、ロシアの極東方面への南下政策をくじきたい日本は、イギリスと利害が一致したのです。それが1902年の日英同盟でした。日英は共同でロシアの内満州からの撤退を要求しましたが日本を侮っていたロシアは無視しました。それが日露戦争の原因です。日英同盟は露仏同盟のフランスがロシア側で参戦するならイギリスも日本側で参戦することを約束するもので、すなわち日露戦争へのフランス参戦を牽制する為の条約だったのです。フランスはナポレオン戦争の後、イギリスとの激突を避ける外交方針を一貫して採用していたので、そうなれば日露戦争には参戦できなかったのです。またその一方で英仏は1904年に英仏協商を締結します。果たして日露戦争はイギリスの支援とアメリカのセオドア・ルーズベルトの仲介によって日本の勝利で決着できました。日本は過大な戦費負担で継戦不能となり、ロシアも革命騒動で同様でした。日本はポーツマス条約で南満州鉄道と旅順・大連の租借地を獲得しました。それは日清戦争と下関条約の失敗を取り戻すことでもありました。敗れたロシアは極東方面の南下政策を断念し再びバルカン半島方面への南下政策を推進することになります。極東での英露の緊張が解けたことは1907年の英露協商の締結につながります。ここに三国協商が成立し、三国同盟との対決の構図が鮮明になります。日英同盟は対露の目的を対独に切り替えます。こうした国際情勢が第一次世界大戦につながる流れです。ところが無邪気な日本国民は日露戦争の勝利に浮かれ、複雑怪奇な国際情勢を見失ってしまうのです。第一の失敗が桂・ハリマン協定破棄です。小村寿太郎はアメリカのハリマンによる南満州鉄道の共同経営提案を拒否してしまったのです。それがアメリカの対日警戒感を呼び起こし、アメリカを対日敵視政策に走らせる端緒となってしまいました。またそれはやっかいな対中問題を日本一国で背負うことにもなってしまったのです。しかし露西亜との緊張が解けて大正デモクラシーに浮かれていた無邪気な日本国民は国際情勢の変化に全く気づきませんでした。日本は中国の近代化を望み、孫文の中国同盟会結成を支援しました。果たして辛亥革命で清帝国は倒れ中華民国が成立し、モンゴルとチベットも清帝国から独立しました。ところが孫文は臨時大総統の地位をあっけなく清帝国の実力者だった袁世凱に譲ってしまうのです。袁世凱は清朝の総理大臣に任じられていたにもかかわらず清朝を裏切り、孫文と取引を結ぶのです。それは清朝の宣統帝を退位の見返りに臨時大総統の地位を譲るというものでした。ところが袁世凱は臨時大総統に成るや否や孫文を裏切って議会を解散し帝政を推進します。袁世凱は北洋軍閥の軍事力を背景に北京政府を樹立しますが、地方では軍閥が独自政権を樹立し中華民国は迷走を始めるのです。国際的には北京政府が中華民国の代表と認められていたのですが、実際は非常に複雑な内情であり日本を含めた列強はそうした中華民国に振り回されるようになるのです。
さて一方、欧州ではロシアがバルカン半島方面への南下政策を推進したことによって1912年バルカン戦争が勃発します。それはバルカン諸国とオスマン帝国の戦争でしたが、「汎スラヴ主義」を唱えるロシアがバルカン諸国を支援し、「汎スラヴ主義」に反対するオーストリア=ハンガリー帝国がオスマン帝国を支援するといった代理戦争の構図もあったのです。それは一旦決着したものの第一次世界大戦という形で再燃してしまったのです。発端はオーストリアとセルビアの対立なのですが、ドイツがオーストリア側で参戦し、オスマン帝国とブルガリアも加わり、ロシアがセルビア側で参戦し、英仏も三国協商を理由に加わり、日本も日英同盟の関係で参戦するといったものでした。第一次世界大戦は中央同盟国側の敗戦で決着し、オーストリア帝国は瓦解し、ハンガリー、チェコスロバキアが独立し、領土を1/4にしてしまいます。オスマン帝国も青年トルコ革命で瓦解し、サウジアラビアやイラクなど多くの領土を失います。ドイツ帝国もドイツ革命で倒れ、ポーランドを失います。ロシアは戦勝国になったにもかかわらずロシア革命が起きたことで帝政が倒れ、フィンランド、バルト三国、ポーランドがロシア領から独立していきます。一挙に4つの帝国が倒れ、大日本帝国だけが無傷で残った帝国になってしまったのです。
日本は第一次世界大戦でも戦勝国となりました。しかし連戦連勝で浮かれに浮かれきった無邪気な日本国民はまたしても国際情勢の変化を見失ってしまいました。日英連合軍で中国の山東半島のドイツ租借地を攻め落とし、山東利権の継承をパリ講和会議でも認められましたが、結局はそれが中国人民のナショナリズムと反日感情を高揚させただけで中国に返還せざるを得なくなってしまったのです。

途中ですが、文字数制限で書けません。もし、この後も希望されるなら別途質問を立てて欲しい。
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アヘン戦争で清が簡単に敗北し、日本はショックを


受けました。今までも、列強の軍事力に脅威を感じて
富国強兵を国策としていた日本でしたが、
それ以後、更に列強の侵略を怖れ、軍備を拡張してきました。

中国が列強に支配されるのを眼にした日本政府は、次は日本の番だ、と
心配になり、その対策として日中戦争が勃発しました。

日本が特に心配したのがロシアです。
ロシアは伝統的に南下政策を採り、満州を支配下に
置こうと画策していました。

中国がロシアの支配下に置かれたらそこにロシアの
軍事基地ができます。
そうなると日本の安全保障上、非常にまずいことになります。
何といっても、中国は隣国ですから、そんな国に
ロシアの軍隊が常設されたら、危なくて夜も寝られなくなります。

韓国との日韓併合もロシア対策でした。

こういう軍事状況は、平和惚けした今の日本人には解らない
ものです。だから教科書には書いていないでしょうが
良く読めば、読みとれるはずです。

日清戦争は、朝鮮の独立を狙った日本と、そうはさせじとする
中国との戦争でした。
その原因は、朝鮮に中国の軍隊が常駐されたら
日本の安全上、非常に困ることになるからです。
逆に、中国にとっては、都合がよいことになります。

キューバにソ連のミサイル基地を造ろうとしたとき、
米国は第三次世界大戦覚悟で、海上封鎖にでました。
あんなところに、ミサイル基地ができたのでは
米国の防衛上、非常に困ることになるからです。

そういう訳で、日本はロシアや列強に取られる前に取ってしまえ
とばかりに中国に出かけたのです。
欧米のように、利権目的で地球の裏側まで
出かけた訳ではありません。

当然、列強の利益と衝突しました。
後は御存知の通りです。
負けたので、日本は悪者にされてしまいました。
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