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 なんでこうなるんでしょう。こまごまとしたことのすべてが納得してしまいます。50年前と言いながら、映画技法のすべてを見る思いで緊張します。シナリオの凄さ、3Dを彷彿とさせる映像の展開。今の日本映画にはこれ以上のものはないと感じさせるものばかり。リアルタイムで感じていたら私はどんなことを思っていたかと悔やまれます。「現実のこと・真実のこと」の凄さを映像で残していたのは、まさに黒沢映画でした。
 どんな時代も逼迫感を失うと大衆から思想や理想は遊離する。民衆は堕落する。生きることの苦しさだけが露呈して社会は混乱する。今の中国の現状でしょう。
 あの黒沢の時代は、すでに過ぎ去っているのですね。今は?と思いながら時代の息遣いを感じようとしいますが、手応えは違う。すべては時の移ろいが優先していくのですね。時代が年代を超えて、その時その時が真実になるのですね。このことを無常感というのでしょうか?
 「無常感」には、日本的な価値観が必定ですか?本居宣長や小林秀雄とは違う庶民の遣る瀬無さを共鳴してください。

A 回答 (3件)

「7人の侍」でしょうか。


あの最後のシーン、農民達が盗賊を滅ぼしたさむらいの生き残り達と対比して生き生きと愉しそうに、希望に満ちて未来を見据えて安定した主役のように描かれているのに、題名の本来の主役達がなぜか寂しそうに「勝ったのは彼らだ、われわれではない」とか言って去っていく。このあたりの無常感、確かにやるせない、なんんともいえずむなしさがこみあげてくるのはなぜか?ということですね。
この映画が最初に公開された頃、そういった引いた見方が可能だったのか、なんともいえませんが、少なくとも3/11 以後の日本人にとっては一億総敗北者という状況が蔓延しておりますから、現代に方丈記が庶民の読みものとして現実に蘇ったとして間違いないと思います。勝利者はもうどこにもいません。

>「無常感」には、日本的な価値観が必定ですか?

いまの世界から見た悲劇のさなかにある日本のひとつの価値観としての「無常感」にそういった環境が強く影響していることは確かだと、私も思います。
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この回答へのお礼

 回答者様のご年齢は、さして私と違わないだろうと推察いたしました。共鳴する文章をいただき恐縮します。このごろ、時間のある限り、昔の白黒映画を見るようにしていますが、そこに描かれている日常風景の中に現代にないものを見つけることが多々あります。懐古趣味とは言い切れないもどかしさを私は覚えます。無常感を認めざるを得ないことは、日本文化の神髄に触れているというべきでしょうか。時代は変化して当然でしょうが、その意識感覚に取り残されぬようにしている自分を感じると、一瞬、滑稽にも思ってしまいます。

お礼日時:2011/10/04 11:45

早速のお礼をいただきました。

ありがとうございました。
多少のお互いのずれを感じつつ、行き掛かり上私なりの補足をさせていただきます。
7人… のさいごの農民とさむらいたちとの齟齬は、世界標準としてはちょっとしたレトリックの面白さ(単なる犬儒趣味?)として受け取られた面はあったとおもいますが、日本人としては間違いなく無常感として深い余韻を持ったエンドとして味わわれるべき計算が製作者にはあったものと思います。それは当然ながら時代を経ても変わらないのではないでしょうか。
>「無常感」には、日本的な価値観が必定ですか?
それはその通りだと思います。ただ私など若い頃に見たものとしてそんな見方が出来ていたかどうか疑問だと思ったわけで、今の特殊な世相を別にして、懐古趣味などと謙遜して思われる根拠はないのではないかと思います。

蛇足ながら。
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黒沢映画ってお金と時間を充分かけて独特の臨場感、スケールを出していてその点が海外で人気になったのでしょう まあでも日本人の庶民には何てこと無い映画にみえましたけどね。

日本的感動はそれほど無かったと思いますよ 映画のレベルが上のアメリカ人がうけたので その気になっただけです

日本人の無常感は逃げ場の無い、あきらめであって そこから再スタートを冷静に切るのでしょう
今は当然助けてもらえる部分がありますので 無情ってほどではありませんね
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