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私たちが計算をするのにはアラビア数字を使って計算するのを小学校で学びましたね。しかし、ふと疑問に思ったのですが、江戸時代にはアラビア数字は一般的には使われていなかったと思います。それでも 江戸時代だって 足し算、引き算、掛け算、割り算の基本的な演算はおろか、乗とか根、更には歩合とか確率の計算も、方程式にあたる演算とか、円周率を求める計算とかされていたと思います。確かに その時代には算盤が主に使われていましたよね。
そこで 質問なんですが、江戸時代の人はどのように
して筆算していたのでしょうか?乗とか根は算盤で
計算できたのでしょうか?あと、今だったら簡単な
方程式で解けるものも そのころは鶴亀算を用いたと
思いますが、鶴亀算とはどうのようなものだったでしょうか?

A 回答 (5件)

cherry77さん、こんにちは。


江戸時代の筆算についてのご質問ですね。

参考URLには、江戸時代の日本の数学者、関孝和について書かれています。
最初はそろばんで解決していたそうですが、そろばんでは解決できないような
難しい問題に出会い、どうしたらいいかと考えていたところ、
中国で考えられた天元術という数学の方法を知りました。
それは算木を並べて方程式を解くというものでしたが
その代わりに筆算を考え出したとのことで、これが日本の数学を
大きく発展させることになったそうです。

http://www.joho-gakushu.or.jp/kids/sansu/data/te …


また、「江戸時代の数学」というページがありました。
江戸初期から発達した和算という数学は、幕末時代には
西洋数学のレベルに達していたそうです。
しかも、一般庶民にも数学は親しまれていたそうで、
算額というものによって、そのレベルの高さがうかがわれるとのことです。

http://www.jubako.com/bn/index.php?248


「数学は誰が考えたの?」という質問も面白いです。

http://www.minaminippon.co.jp/nie/030316.htm


また、つるかめ算について、説明します。
つるは、足が2本、かめは4本です。
さて、問題
「つるとかめとあわせて22匹います。足の数の合計は64本です。
つるとかめは、それぞれ何匹でしょう?」
というような問題のことです。

これを方程式で解くには、

つるx匹、かめy匹、とおいて

x+y=22・・・・(1)
2x+4y=64・・・(2)
これを解いて、(1)×2-(2)より-2y=-20
y=10,x=12
となるので、つりが12匹、かめが10匹と分かります。

さて、これをxやyといった文字を使わないとすると、どうするのか、がつるかめ算です。

すべて、つるだった、と仮定します。
そうすると、あわせて22匹ですから、足の合計は
22×2=44本でなければならない。
しかし、実際の足の合計は64本で、64-44=20本多いのです。
これは「すべてつるである」と仮定したから、この差が生まれました。
この差をうめるには、足の数の差4-2=2でこの20を割って
20÷2=10・・・・これだけ、かめがいた、ということになります。
つるは、22-10=12匹、となります。

http://opinion.nucba.ac.jp/~20200196/presen/turu …

ご参考になればうれしいです。私も勉強になりました。

参考URL:http://www.joho-gakushu.or.jp/kids/sansu/data/te …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

日本は世界的にも数学のレベルが高かったんですね。
ひとつ言えるのは数字の数え方だと思います。
英語のeleven,twelve,thirteenというのは 日本語よりも不合理ですよね。

お礼日時:2003/11/17 22:11

十露盤は「そろばん」と呼びます。

現在では上に珠が一つ、下に珠が四つあるものが多いですが、昔のものには上に珠が二つあったり、下に珠が五つあったりするのもあります。余分についているだけで使い方は現在のものと同じです。
算盤(さんばん?)をどのような意味で使われているのかわかりませんが、おそらく十露盤の意味であろうと推測しました。
計算能力だけで言えば、当時は日本が最も優れていたといえます。(電卓が登場するまでは十露盤が最もすぐれた計算道具でした。)

和算の弱点は証明というものが伴っていなかったことで、問題を解くことはできても結果を人に納得させるのが困難でした。
算術の入門書の円周率をみてみると3.14が使われていたのが3.16になり、また3.14に戻っています。そのころ和算家によって円周率は40桁くらいまで求められていました。しかし、高名な儒者が主張した「円周率は基本的な数である。10も基本的な数である。よって円周率は√10=3.16である」という無茶な主張を論破できなかったために3.16にされたわけです。
これも証明というものを考えなかった和算の弱点があらわれたものです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

電卓が登場する前は 計算尺も使われていましたよね。
四則演算は算盤が強かったですが、算盤の苦手な計算には便利だったと聞きます。

お礼日時:2003/11/18 23:19

数学を研究しておりますが、和算を専門にしているわけではないので、一般人としておきます。


さて、江戸時代の人が数の計算をするのに筆算を使っていたかというとそういうことはありませんでした。十露盤は数の計算では練習を積めば筆算よりずっと早く計算できて便利なので筆算をする必要はありません。
平方根や立方根も十露盤で計算できます。
江戸時代に寺小屋などで最も多く使われていた算術書は塵劫記でしたが、内容は十露盤の使い方と実用的な応用問題です。この中にも平方根、立方根を十露盤で計算する方法が載っています。
数値計算においては十露盤は万能に近く、手計算できるようなものは全てできます。
方程式などは十露盤で表現できませんから、別の表し方がありました。しかし、一般の人向きの本には全く書かれていませんし、一部の人だけが使っていたのは確かでしょう。もっとも実際の計算は算木などを使い、計算結果を書き残す為に式を文字で書き残していたのではないでしょうか。
鶴亀算は入門者向けのパズル的な問題です。和算家は方程式を解くことにも長けていて、複雑な方程式でも解いています。たしか最高で1000次を越える方程式を扱っています。虚数の概念はなかったものと思いますが、実数解の近似値を求める方法(ホーナー法)は西洋より早く見つけていたようです。
興味がおありでしたら図書館等で調べられてはいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

十露盤って確か珠が一つの桁軸に10個ある算盤のことですよね。

お礼日時:2003/11/18 16:27

#2です。

複利の計算は当時から最難問であったのは事実です。対数という考え方は存在しなかったのでしょうね、多分(推測)。

http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive …

http://www.vill.kinasa.nagano.jp/info/history/hi … (寺島数右衛門宗伴の項)

特に寺島数右衛門宗伴の話で、難しい複利計算の問題と解法を額にして奉納しているということは、「私はこんな難しい問題も解くことができるのです」という自己顕示の意味もあります。これは、対数を必要とするような複利計算の問題は一般人の手に負えるものではなかった、ということを表しているのだと思います(私の仮説に都合の良い解釈ですけれど…)。
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この回答へのお礼

そうですよね。現代でも数学の苦手な人にとっては
対数となると もうお手上げですからね。

お礼日時:2003/11/17 23:54

私は明治初期に書かれた算術の書の原本を読んだことがあります。

私の曽々祖父が勉強したという全五巻の書です。そのうちの二巻が和算にあてられていました。その書では、連立一次方程式に相当する問題までしか扱っておらず、解法も方程式を立てて筆算で解くようなものではなく、#1さんの回答にあるようなもの、つまり、ユークリッド幾何学の発見的な解法でした。あわよくば、微分法の記載がないかと期待していた私はずいぶんとがっかりしたものです。

関孝和が微分法を発明したのは、ニュートンやライプニッツより前のことですので、明治初期に書かれた和算の書に何の記載がないことがどうにも納得いきません。私なりに仮説を立て、のんびりと検証を進めています。

・私の読んだ書は初学者のための入門書だったため、高度な算術には触れていない
・私の読んだ書は実学の書であり、学問的に高度な算術には触れていない
  図形の面積に関する問題が多かったので、測量・区画整理のための実用算術書で
  あったかもしれません。
・江戸時代の算術は剣術と同じく一門の秘伝であり、学問として広く普及するものではなかった。

上の二つはともかく三番目の仮説は、ごく一部の御用学者(知的特権階級)を除いて、筆算をたしなむものはなかったという事です。つまり、私が読んだ和算の書が当時普及していた算術で、筆算や微分法などは学者のおもちゃだったということです。私の曽々祖父は武家でもなく、大商人でも豪農でもありませんでしたゆえ。

江戸末期になるとヨーロッパから医学・化学・物理学が入ってきており(必然的に数学も入ってきます)、あまり身分の高くないものも勉強を始めています。佐賀藩でアームストロング砲を作った技師も高い身分のものではありませんでした。このため、従来の日本の数学は日の目をみることなく、ヨーロッパの数学に駆逐されたのではないだろうか、と私は考えております。

私個人の仮説で何一つ確かなところがなく、誠に恐縮ですが、ご参考になれば幸いです。私はこの方面を専門にする学者ではございませんことを、お断りしておきます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

昔の江戸時代の高利貸しは当然複利で金を貸していましたよね。今だと logとか使うんですが、昔は昔なりの計算方法があったんでしょうね。

お礼日時:2003/11/17 23:22

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