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1958~61年の中国
大躍進政策とよばれる破滅的な計画を推進した毛沢東を批判して、後に粛清や弾圧された当時の中国の最高幹部たち・・・彭徳懐・劉少奇・鄧小平・・・は何故彼を失脚においこむことが出来なかったのでしょうか。
中国革命に志し、いくつかの困難を生き抜いて度胸も知恵も政治的センスも人後に落ちるはずのない彼らが毛沢東に対して「単なるお人よし」だった筈もないとおもうのです。

中国近現代史のなかの不思議な部分なのです。

A 回答 (3件)

質問者さんは不思議に思っているようですが、私は全く不思議とは思っていません。

その認識の相違は中国に対する理解度の差に起因するのです。

現代の日本と大躍進政策の頃の中国の違いを説明しましょう。

菅元総理は埋蔵電力の発掘を官僚に指示しました。菅元総理は埋蔵電力を発掘すれば電力不足の危機を乗り越えることができると信じていたのです。ところが埋蔵電力は無かった。官僚は懸命に探し回ったけど微々たるものしか見つからなかった。菅元総理は怒った。お前ら怠慢だ。もっと真剣に見つけろ。しかし無いものは無い。菅元総理は他の電力政策を検討するほかなかった。

これが日本です。ところが大躍進政策の頃の中国は違う。

毛沢東は埋蔵電力の発掘を官僚に指示しました。毛沢東は埋蔵電力を発掘すれば電力不足の危機を乗り越えることができると信じていたのです。官僚は地方官僚に埋蔵電力リストの作成を命じました。その地方官僚は、さらにその下の官僚に埋蔵電力リストの作成を命じました。人民から絶大な支持を受ける毛沢東の機嫌を損ねたら、反革命腐敗分子として処刑されてしまいます。ところが埋蔵電力は無かった。それなら有ったことにしましょう。一番下の官僚は埋蔵電力リストを捏造しました。こうして最終的に中国全土から埋蔵電力リストが取りまとめられ毛沢東に報告されました。毛沢東は喜んだ。やっぱり有ったか。お前らでかしたぞ。

埋蔵電力発掘の話に例えたけど、それは実際の大躍進政策とは違います。それでも同じようなものでした。中国の官僚は毛沢東の指示に従って、手柄を争うように到底実現不可能な大増産計画を立てたのです。処刑が怖かっただけではない。毛沢東に認められれば出世のチャンスだと考えたからでもあるのです。人民は無理な辻褄あわせに追われました。それは処刑が怖かったからだけでもない。誰もが偉大な毛沢東同志の指示に従っておけば間違いないと信じていたからなのです。

中国の最高幹部たちは何故毛沢東を失脚に追い込めなかったか。そんなことはできません。毛沢東が人民に支持されている限りは毛沢東に手出しできません。逆に自分の方が失脚させられます。最高幹部とて、その地位は安泰ではないのです。些細な失言問題でぽんぽんと首が挿げ替えられる日本の大臣と同じです。あれほどの大躍進政策の失敗にもかかわらず毛沢東は人民の支持を失ったわけではないのです。それぐらい磐石な支持基盤を毛沢東は得ているのです。その人民を怒らせてしまえば、人民大会で地位を奪われてしまう。最高幹部といっても毛沢東に対抗できる支持基盤が無いのです。

共産主義では権力闘争は決して密室では行われない。それは人民の支持を勝ち取る競争であり、どうやって人民を動かすかという争いなのです。毛沢東は確かにみそをつけた。しかしだからといって他の最高幹部が手柄を立てたわけではない。毛沢東に代わる支持を集めたわけでもないのです。後は俺らで何とかするから、毛沢東さんはしばらく休んでいてください。そういうだけで精一杯でありました。毛沢東は動かそうと思えば、いつでも人民を動かすことができる。役職など何もなくても人民を動かす力は失っていないのです。

ただし中途半端に人民を動かしてしまえば、今度こそ毛沢東は人民の支持を失ってしまうかも知れない。だから毛沢東は慎重に機を窺い、より磐石な支持基盤構築を図っていました。

何にせよ、中国では人民の支持が絶対要件です。支持を失えば失脚するし、支持を得られれば台頭できる。
劉少奇も鄧小平も何の失政があったわけでもない。立派な実績を挙げたのです。にもかかわらず走資派と目され文化大革命で失脚した。実績を挙げたから人民に支持されているはずだと思い込んでいたら、それはお人よしと呼ぶしかない。実際は違うのです。あのやり方は共産主義のやり方として正しいのだろうか。そういう疑念を人民は持っていた。特に社会経験の無い学生は理論が価値判断の基準です。学生に実績を訴えたところで通用しない。そこを毛沢東は見逃さなかった。我に復活のチャンスあり。人民の微妙な感情を読み取る能力は毛沢東の方が上手だったのです。

もしかすると日本の大学紛争、全学連運動が毛沢東にヒントを与えてしまったのかも知れません。

まだ不思議といわれるでしょうか。中国人民には日本人と違う論理があるのだと分かっていただけたでしょうか。
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 一つには「言論統制」「メディア規制」の問題があると思われます。


毛沢東の時代を別の表現でいうならば「毛沢東教」の時代にあたるでしょう。78年以後ならば「鄧小平教」であり、現在ではややマシになってきたもののそれでも国父としての毛沢東であることには一般大衆の認識レベルではまだまだ根強い人気があります。鄧小平は毛沢東の持つカリスマ性を利用し自らを「毛沢東化」しようとしたとも考えられます。
 むしろ中国という「国家」を国際社会の中にどう位置付け、欧米の先進国にどの様に印象づけるかはその後の周恩来であり趙紫陽や胡耀邦、、朱鎔基などの功績が大きいことも確かです。こうした「国際派」と李鵬および江沢民といった毛沢東直系の「守旧派」のせめぎ合いにより天安門のような惨事も引き起こされてきました。天安門を戦車で蹂躙したバックには鄧小平がいたことはほぼ間違いないでしょう。鄧小平は経済的改革・解放を推し進めましたが、東欧のベルベット革命に連なる政治的自由の獲得には否定的でした。守旧派の依拠する「党と国家の融合の発想(一党独裁体制)」が続く限り、中国では粛清が繰り返される可能性は低くないと考えられます。
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大躍進運動の失敗の責任を採らされた毛沢東は


国家主席に地位を失いました。
持っているのは、党書記長の地位だけとなりました。

政治闘争は所詮は力関係です。
反対派の力では、国家主席の椅子を奪うだけで
精一杯だったのでしょう。

中国史上最大の英雄「劉邦」が、部下の韓信に
こう尋ねられました。
「王よ。あなたは戦争をやれば私より下手だし
 政治をやっても、張良より劣る。
 それなのに、今はこうして王として
 私たちに君臨している。これはどういう訳でしょうか?」

すると劉邦はカラカラと笑って次のように説明しました。

「お前の言うとおりだ。私には戦争の才も無いし、政治の才
 もない。しかし、そういう才を持っている者を手足のごとく
 使える才がある。その違いだ」

つまり、毛沢東には大勢の人間を動かせるカリスマ性が
あったためだと思っています。
だから、あの文化大革命を起こすことが出来たのでしょう。
他の人なら、あれほどの若者を動かすことは出来ないと
思われます。

最後は人間性、といいますか、度胸智恵才覚勇気政治能力
そういうモノを超えた力が人を動かす
のではないでしょうか。
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